まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

THE MANZAI 2013の感想

THE MANZAI 2013を見たのでその感想を書いてみます。

THE MANZAI 2013の感想

僕はお笑いとか嫌いとかではないと思うんだけど、あんまり詳しくないです。正直今回の12組の人たちもテレビで見たことがあって知ってたのは千鳥とNON STYLEとレイザーラモンと東京ダイナマイトくらいでした。

 

でも全体的に面白くて「いいなー、漫才って面白そうだなー、僕もやってみたいなー、相方がいなくてできないから悲しいなー、死にたいなー」と思いながら見てました。

特にウーマンラッシュアワーの1回めのネタは圧倒的に面白くて、すごい笑いながら見てました。ウーマンラッシュアワーのネタが終わった時点で鍵アカに「優勝はウーマンラッシュアワーでした」ってツイートしてしまったくらい僕の中では圧倒的に面白かったです。

なので結果的にウーマンラッシュアワーが優勝してもちろん文句ないんですけど、決勝の決勝の舞台に立てなかった人たちでかわいそうだなーと思った人たちはいます。

Aグループなんですけど、千鳥のお寿司屋さんのネタ、面白かったですかね?面白かったって人がいたら申し訳ないんですけど、僕は全然面白くなかったです。

千鳥が面白いかどうかとかいかに実力のあるコンビかとか、そういう話じゃないと思うんですよね。THE MANZAI 2013の舞台でネタをやりました、そのネタは面白かったですか?って話だと思うんです。千鳥に入れた審査員っていうのは本当にそういう観点で純粋に千鳥のあのネタがAグループで一番面白いと思ったんですかね?

いや、なにを面白いと思うかなんて人それぞれだし、本当に千鳥のあのネタが一番面白かったっていうならいいんですけど、ほんとにそうなのかなー、ただ千鳥というコンビを推したいだけのひいきとかあったんじゃないかなーと正直僕は思ってしまいました(個人的にはチーモンチョーチュウって人たちが面白かったです、その次がオジンオズボーンって人たちが面白かったです)。

Bグループは全体的に好きな感じで面白かったです。学天即って人たちがすごく正統派の腕で勝負してる漫才って感じがして好きでした。ほかの人たちも面白かったのでかわいそうな気もしつつ、ウーマンラッシュアワーが圧倒的に面白すぎたからしょうがないなーって思いました。

Cグループはたしか天竺鼠って人たちにだけ点が入らないで残り3グループで割れたのかな?天竺鼠って人たちも面白かったけどなー。東京ダイナマイトはもともとああいうのが好きな人たちなのかな?みのいじりはたけしを意識したサービスだったんでしょうか?僕はCグループは敗者復活から復活してきた流れ星って人たちが一番面白かったです。

結果的に勝ち上がったのはNON STYLEだったんですけど、NON STYLE面白かったかなー?はるかぜちゃんがツイッターでNON STYLE面白かったって言ってたからまあ当然そう思う人もいるんだろうけど、僕は「うーん」って思いました。

ボケの人が「ネタの質より量で勝負してます」みたいなことを言ってたけど、それにしても…と思ってしまった。昔M-1とかで見たときはもっと面白かったと思うんだけど、ボケの量を詰め込むにしても、もっと質を上げるっていうのは難しいものなんでしょうか。まあ簡単にできるようなことならもちろんやってると思うので難しいということなんでしょう。


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視聴者の1票は2回戦ともNON STYLEが99点の最高点を取ってましたね。まあそれはわかる。とにかくネタの間視聴者がボタンを押したら押しただけ反映される仕組らしいので、終始ボケっぱなしのNON STYLEがそこで点を稼ぐのはまあわかる。そういう狙いでやってるんだろうから当たり前ですよね。

でもまさか審査員たちもNON STYLEに入れるとは思わなかった。視聴者にしてもネタの間中あのボケで爆笑しながらボタンを連打してたんだろうか。視聴者なんて「あ、なんかボケてるから笑っとこう、ボタン押しとこう」くらいの感じなんじゃないかなあ、と個人的には思いました(バカにし過ぎだろうか?)。

決勝はウーマンラッシュアワーもNON STYLEも1回戦と同じ流れの漫才で正直飽きもあったし、1回戦目のこともあったし高須光聖さんって人なんかは2回とも千鳥にいれてたし、千鳥がやたらに推されて優勝しちゃうんじゃないか?ってちょっと不安だったけど結果的にウーマンラッシュアワーが優勝したのでよかったです。

僕は難しいことはなにもわからない素人だけど、そもそも漫才を見て楽しむのに難しいことはなにもわからない素人には面白さがわからない、というんじゃだめなんじゃないかなあと思うし、玄人好みだか通気取りだか知らないけど、「これだから素人は」みたいなことを言われても「はあ?」と思ってしまうので、3グループの中で一番自分の笑えたウーマンラッシュアワーが優勝したのでよかったです。

ウーマンラッシュアワーさんおめでとうございます。いいなあ、たしか優勝賞品はフジテレビの番組レギュラーと日清のいろんなラーメンとか30年分???いいなあ。30年間食いっぱぐれないのかあ。。。最近じゃチキンラーメンも高くて買えません。。。数年前の小麦価格の高騰以来もう何年も食べてない。。。卵入れてチキンラーメン食べたいなあ。。。(´;ω;`)

まあいいや、全然関係ない話だからやめよう。とにかくウーマンラッシュアワーが面白かったですというお話でした。

ネルーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!

彼が彼女と過ごした日々は、彼女が彼と過ごした日々と同じではない

彼にとって彼女と暮らした数年間は間違いなく人生で一番しあわせな日々だった。もちろんその当時にはその当時なりの軋轢や苦悩もありはしただろうが、そんなものは彼女との暮らしの中に常にあった甘いやすらぎや同じふとんの中で共に眠る人のいるよろこびを思えばもののうちには入らなかった。

 

だが彼女はそんな風にその数年間を思い出すことはあるのだろうか?そんなことを彼はよく思う。彼女は彼との日々を苦い後悔とともに思い出してはいないだろうか?思い出すことさえ苦痛ではないだろうか?それともあるいは、思い出すことすらまるでないのだろうか?

昔から彼に言い寄る女はたくさんいた。およそさえない男を絵に描いたような人並み以下の容姿に、底知れず暗い、歪みきった性格をしていたが、ある種の女にはかえってそれが母性をくすぐるのか、およそ彼には釣り合わないような美人たちが不思議と彼に夢中になってしまうのだった。

しかし、彼はまったく人を信じるということのできない質だった。また、歪んだ嗜虐心の異常に強かった彼は、自分に言い寄ってくる女を責め、なじり、嬲り、さんざんに傷つけて泣かせることに偏執的なまでの執着があった。

それゆえにどんな女との関係も数ヶ月どころか一月とまともに続かなかったが彼は別に困らなかった。替わりならいくらでもいると思っていたし、実際次から次に泣いてすがる女を容赦なく捨てることは彼に暗い興奮と満足をもたらした。

彼女の存在はむしろ誤算だった。およそそれまでの彼に惹きつけられたような女たちとは違う、平凡な容姿、そして人の心の機微を解さない愚鈍さ。最も己に相応しくないと思う相手と、結局最も長く続き、暮らしたのだから人生とは皮肉なものだ。

責めてもなじっても、嬲っても傷つけても、彼女はバカみたいにぽろぽろぽろぽろと泣きながら、ごめんなさいと謝るのだった。それがまた彼の気まぐれな逆鱗に触れても、どんな酷い言葉で侮辱され、早く出ていけと罵られても、一向に彼女は別れようとはしないのだった。

当時には彼にはわからないことだったが、彼は本当は不安でしょうがなかったのだ。捨てられることが、おそろしくてしょうがなかったのだ。だから彼は自分が捨てられる前に次から次へと相手を捨てて、つかの間の安心を絶えず求め続けていたのだ。

そしてまたある意味で彼は試していたのだ。己の非道な仕打ちにも耐え、それを許すほどに自分を受け入れ、愛してくれる存在が果たして本当にいるのだろうかと。

彼のその幼稚で身勝手なテストの是非はともかく、どうやら彼女はそれに耐え抜いた。それでも彼は最後まで完全に心を許すということはできなかったが、かなりの部分心を許すことができた。それは少なくとも彼の記憶にある限り生まれて初めてのことだった。彼の心はずっと求め続けていた甘くあたたかいものに包まれ、子宮にくるまれた胎児のように安らかに癒されていた。

「結婚」だとか「子供」だとか、およそ彼がそれまで考えたこともないような不思議な言葉を彼女は遣った。彼も最初はそれを笑ったが、いつしかふとまじめに考えている自分に気づいたときは、思わずひとり苦笑したものだった。

そんな彼の油断と慢心の日々のまっただ中で、彼女は二度と戻ることもなく姿を消した。

彼は彼女を責める気になどならなかった。見事だとすら思った。初めて彼女に対して心から素直な気持ちになって賞賛し、誇りにさえ思うことができた。彼女は、本当に見事な女だったのだ。

彼は彼女との暮らしの間中、「惚れているのは俺じゃない、この女だ」という内心の傲慢や思い上がりを、彼女に対して隠そうともしなかった。またそれを特に悔しそうにするでもなく、むしろうれしいことのように笑顔を見せる彼女の愚かしさ(と当時の彼には見えていた)に満足し、さらに増長していった。

しかし今にして思えばそれもどこまで本当だったのだろう、と彼は思う。彼女がたしかに彼を愛していたことを彼は疑わない。疑えない。だが自分は彼女を本気で愛していたわけではない、ということがどうもいまいちわからなくなっている、というよりそんな風に考えてしまっていること自体が、彼は彼で彼女に惚れていたのではないか、などと延々自分の頭の中でごちゃごちゃと考えてしまうのだった。

だが彼自身ひとつ確かに言えると思っていることは、彼は自分が誰か一人の人間に本気になることが、本気で思いを寄せるということが、本気で愛するということが、とてつもなくこわいのだった。おそろしいのだった。

人を愛することをなにより求めながら、その理想に傷がつくことをおそれていつまでも現実を知ることのない幼稚な理想化のゆえに、彼は同時に人を愛することをなによりおそれていたのだった。

自分は人の気持ちと、そして誰より自分自身の本当の気持ちと、本気で向き合うことに臆病なだけの腰抜けなのだ、と彼は自嘲して自分を笑ってみせた。しかしいくら笑ったところで彼の心の寒々とした空漠に、灰色の吹雪は吹きやむ様子も見せないのだった。

彼はいまだに彼女との日々を思い出す。彼にとっては意味のあった日々を、彼にとっては全体に幸福だった日々を。そして思い出すたび思わずにはいられない。その日々は彼女にとっても意味があったのかを、彼女にとっても幸福な日々だったのかを。そんな風に彼女も彼と過ごした同じ日々を思い出すことがあるのだろうかと。

同じ日々?いや、きっと同じ日々なんかではありえないのだ。彼が彼女と過ごした日々と、彼女が彼と過ごした日々は、決して同じなんかではありえないのだ。

そのことが寂しいだとか悲しいだとか、おそろしいとか不安だとか、特にそんな風に感傷的になるわけではない。彼にとって彼女との日々がそうであったように、彼女にとっても彼との日々が幸福なものであったならいい、などと今更思い上がったことも思わない。

ただ胸が痛まないといえば嘘になる。自分を愛してくれた彼女への感謝みたいなものと、そして、それを押しつぶし、かき消してしまうには十分すぎるほどの後悔と懺悔と。

そしてその罪悪感から逃れたい一心で願わずにはいられない、どうか彼女がしあわせでありますようにと。もちろんそんな風に願うことすらまるで愚かしくバカバカしいことで、彼女は今頃それを知れば悲しくなるくらい彼のことなど思い出すこともなくしあわせいっぱいの日々を過ごしているのではないか、なんてことも考えずにはいられないのだけど、もしそうだったなら、それは本当になによりだ、と彼は思わずにはいられない。

あおい、君は今も元気にしているかい?今もしあわせにしているかい?それならいいんだ、返事が聞きたかったわけじゃない。ただ僕は安心したいだけなんだ。君に許されたかっただけなんだ。僕は相変わらずひとりよがりな自己満足を探している。結局あの頃となにも変わらないね。

許さなくていい。きれいに忘れてくれていい。ありがとう。もう行くよ。さよなら、あおい。


姫野あおい

人間は能力より人柄だと思う

結局人間って能力より人柄だと思う。

人間は能力より人柄

人間は能力より人柄だと思う。もちろん能力は能力で大事なことなんだけど、能力の優劣って人柄の良し悪しと比べたら相対的に大した問題じゃない気がする。

 

実際に能力があったり才気走ってても、人柄が最悪で誰も人がついてこないような人って結局大したことはできないし、逆に本人に特に優れた能力があるわけじゃなくても、魅力的な人柄に引きつけられてたくさんの優れた能力ある人たちが集まって、勝手にすごいことを成し遂げてしまったということは、それこそ歴史に残っているようなことのレベルでたくさん聞いたことがある。

能力より人柄が大事

個の力も大事とはいえ、ある意味ではたかがしれてる。人に好かれるとか、集団をまとめるリーダーシップとか、そういう人柄の部分のほうが人間の強みとして大きいと思う。例えば組織において、どんなに素晴らしい能力があっても、みんなから嫌われていてチームの足並みを乱すような人がリーダーだとかえって組織全体の生産性が落ちてしまうということもあると思う。

逆に必ずしもリーダーではなくても、実はその人がいることによってチームの和が保たれていたり円滑になっていたりする組織の要みたいな人もいる。ただもし上司だったりに見る目がないとそういう人はあまり評価されなかったり、重要性に気づかれないかもしれない。でも組織全体としてみたら、いくら能力があっても誰もついてこなかったり足並みを乱すような人よりも、その人がいるとみんなが気持ちよく働ける、みたいな人柄のいい人のほうが圧倒的に貢献度が高いと思う。

前にグーグルがほしい人材は優秀な人材ではなく、グッドネイチャードパーソン、チームの足並みを見出さない人だったり一緒に働いていて気持ちのいい人間だ、みたいな話を岡田斗司夫さんが聞いたという話をされていた。これはグーグルさすがだなと思った(ちなみに岡田さんの「いいひと戦略」も読んでないけど勝手に大筋そういう話なんじゃないかと思ってる)。


岡田斗司夫「いいひと」戦略

突出した才能とか、よく切れる知性とか、もちろん大事なんだけどそういう人ほど人柄の面で弱点や問題を抱えていることが多い気がする。もっと正確に言えば、そういう人柄にならざるを得なかったような過酷な生い立ちや環境が才能や知性を養ったのかもしれないけど。

なんにしても、才能や知性においてどんなに傑出していても、それだけで世の中に通用するほどの人ってそうはいないと思う。仮にある時点では通用しても、それだけで生き残れるほど甘くはない気がする。

とがっていたお笑い芸人はなぜ丸くなるのか

たとえばお笑い芸人の世界についてよく思うんだけど、お笑い芸人には「若い頃はとがっていた(けど今は丸くなった)」みたいな人が多い。よく言われるのは千原ジュニアさんとか土田晃之さん、あと今のキャラからすると意外な感じもしてしまうけど有田さんザキヤマさんなんかもそうだったって聞いたことがある。

僕は昔、そういう「若い頃はとがっていた(けど今は丸くなった)」みたいな人のことをダサいと思っていた。若い頃はなんとか世間に刺さっていこうととがっていたのに、ちょっと売れたら丸くなってしまうなんてダサいと思っていた。

でも最近思うのは、もちろん年齢を重ねたり売れたりしてそんなに昔みたいにとがっている必要もなくなって丸くなったということもあるにしろ、実はそれ以上に戦略的に考えて選択した結果なんじゃないかと思うようになった。

僕はお笑いとか全然詳しくないのだけど、それにしてもそれこそ流行り廃りの激しい世界だから生き残っていくことは大変なんだろうなってことくらいはわかる。そんな生き馬の目を抜くような世界で、長く続けていくということを考えたとき、どうしたってセンスや才能だけじゃどうにもならない部分っていうのはあるんじゃないだろうか。

そのときだけのことであれば才能頼み、センス頼みでとがっていてもそこそこ通用することはあると思うけど、長く生き残っていくということを考えたとき、そんなやり方じゃいつまでも生き残ることはできないんじゃないだろうか。

お笑い芸人さんは頭がいい人が多いので、「若い頃はとがっていた(けど今は丸くなった)」という人たちも、そういう先のことまで見据えて自分たちが今後どうあるべきかということをよく考えて、生き残るために選択的に丸くなったんじゃないだろうか。売れて丸くなったという要素以上に、生き残るために丸くなることを選んだ人が結果的に生き残って売れている世界なんじゃないかって気がすごくする(もちろん名前も知られていない最初のうちはとがったキャラというのも世間に刺さっていくために大事なことだと思うけど)。

松下幸之助の採用面接での質問

有名な話だけど経営の神様と言われた松下幸之助は新入社員の採用面接で「あなたは運がいいか?それとも運が悪いか?」と必ず聞いていたそうで、その答えが「私は運がいい」なら合格、「自分は運が悪い」だったら不合格にしたという話を聞いたことがある。

もちろんこれは本当に風水的ないわゆる運の良し悪しで人を選別していたということではなく、結局この質問で新入社員の人柄を見ていたということだろう。つまり「自分は運がいい」と答える人間は、自分のこれまでの成功や生い立ちを自分一人の手柄にするのではなく、周りの人たちの支えに「おかげ様」と感謝できる人であり、逆に「自分は運が悪い」と答える人は、自分のこれまでの失敗や生い立ちをまわりの人の無理解や無能のせいにしている人かもしれない。そういう判断をしていたのではないだろうか。

もちろんこうした判定法に異を唱える人もいるだろうし、僕もそれだけで決めつけられたものではないと思うものの、どうせ短い面接の場で相手の人柄を完璧に把握することなんて不可能なことを考えれば、十分機能するよくできた判別法なんじゃないかと思う。

実際いわゆる社会的に成功者とされている人たちほど、自分のこれまでの成功や業績を運がよかったからだと感じている、みたいな統計データを見たことがあった気がする(※毎度のことながらすべて僕の怪しげな記憶の中でのことですので、人に得意げにひけらかす場合は必ずご自分で確認をされてからにすることを強くお薦めいたします)。

本当に風水的な意味での運とか不運とかいうことがあるのかないのか僕にはもちろんわかるはずもないけれど、僕はもし運不運ということがあるとしても、やっぱりそれはその人自身の人柄と無関係なものではないと思う。

運だとか不運だとかそういうことがあろうとなかろうと、今ある自分はまわりの人たちのおかげだと感謝している人のことはやっぱりまわりは支えてあげたくなるし、逆に事実どんなに本人が頑張っていたり能力がある人だったとしても、その努力や才に溺れて、「自分はこんなに才能があるのに、世間は無理解だから誰もわかってくれない」とか「無能な奴ばっかりだから認められない」と言って毒づいてばかりいたら、やはり人の気持ちとして支えてあげたくなる人なんて少ないんじゃないだろうか。

結局世の中は人。人に好かれる人が強い

結局世の中は人なのだ。世の中金だとか権力だとか言ったところで、結局それが人に対して力を持つからだ。世界に自分一人しかいなくなったとしたら、どんな守銭奴でも金の無意味さに気づくし、どんな傲慢な奴も威張ることの虚しさに気づく

自分の才能や能力に溺れて、いくら周囲の人間や世間のことを無能だ無理解だと悪しざまに罵ったところで、結局そいつ自身認められたいと望んでいるのはそうしたまわりの人間からであり、世間からなのだから、実はそういう人というのは他者や世間を否定することで自分自身を否定してしまっているようなものだ。

それならば、結局人から好かれる人のほうが強い世間から愛される人柄のほうが強い

結局どんなに能力があっても人から応援されない人には大したことなんてできない。なぜなら人を評価するのはやはり人だからだ。逆に能力の面で劣っていても、まわりの人たちが応援したくなるような人柄の人というのは、まわりの人たちに支えられ、またその人たちに感謝しながら、なんだかんだひとかどのことを成し遂げることができると思う。

能力は能力で大事だしあるに越したことはないのだけど、それ以上に重要な人柄の部分を蔑ろにして能力や才能に溺れていると、いつかどこかで通用しなくなる。いわゆるエリート的な能力の高さや優秀さより、それ以前に人としてどうか、といった人柄の部分のほうが、「人間的に望ましい」といった綺麗事でなしに、成果を上げる上でもはるかに重要なのではないかと思う。

もしかしたら孤高や一匹狼を気取っている人は、能力的に他を圧倒しているがゆえに誰もついてこれないのではなく、単に人柄が最悪で嫌われていて、誰もついて行きたいと思っていないだけかもしれない。仮に本当に能力の高い孤高の人だったり一匹狼だったりしたとしても、その背中に憧れて追いかける人もいないようでは、結局大したことってできないんじゃないだろうか。

リーダーだろうとリーダーじゃなかろうと、そもそもチームや仲間を持たない一匹狼だったとしても、魅力的な人柄がなければ人に影響を与えるなんてできるはずもなく、人に影響を与えられなければ結果的に大したこともできないと思う。

そういう意味ではもちろん人柄も能力だと言うこともできるし、人柄こそが最大の能力だとも言えると思う。

人を大切にしない人は人から大切にされない

レバレッジ、なんていうとあまりにビジネスライクすぎるけど、自分を最大化することを考える上でも、能力を磨くことの価値を否定するものではないにせよ、そればかりにかまけて人柄を蔑ろにしていては効率が悪く、大きな成果は望めない。

仮に人柄なんてクソ食らえ、所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬなどと全身に包帯を巻いてキセルを吹かしながら傍らに美女をはべらせて抜かしながら、他人を蹴落とすことで自分がてっぺんにのし上がり、社会的に「成功」したとしても、僕にはそういう生きかたがしあわせだとは思えない。もちろん僕なんかにはそんな真似をする能力もそもそもないのだけど、負け犬の遠吠えと言われようとそんな風に生きたいとは思わない。

自分に能力がないことの言い訳を人柄に求めるような人間の人柄などたかが知れているし、別にそんなつもりもないのだけど、能力がないなら能力がないなりに、せめて人柄だけでも少しでもましにしていけたらいいなと思う。社会的に成功できるかどうかなんてことじゃなくても、少なくとも絶対にそのほうがまわりの人はもちろん自分自身もしあわせに生きていけると思うから。

人を大切にしない人は人から大切にされない。まわりの人、なんて言うほどの人も僕にはいないけど、まずはささやかにでも自分に好意的に接してくれる人のことをこれまで以上に大切にしていきたいと思いましゅ!!!!(ノ)`ω'(ヾ)おしまい。