まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

明日、ママがいないしスポンサーもいない

明日、ママがいないしスポンサーもいない問題について。

明日、スポンサーがいない

芦田愛菜がいない。スポンサーもいない。

明日、ママがいない。ママどころかスポンサーもいない

日テレのドラマ「明日、ママがいない」が、児童養護施設の団体などから放送中止や内容の改善を求める抗議などを受けて話題になっていましたが、キューピーやエネオスといったスポンサーが2話目からCMから撤退、それに続く形で花王や日清食品もCMの放送を見合わせることを決め、ついに番組スポンサー8社すべてがCMを放送しないという異例の事態になりました。

番組自体は「最後まで見ていただければ制作の意図は分かっていただける」として日本テレビ大久保好男社長は放送継続の意向を示しているとのこと。

気になるスポンサーの広告料金の支払いについてですが、一度はスポンサーについておきながら番組が始まってから世間のリアクションを見て勝手にびびって自分らから降りたわけですから、当然支払いは発生するものと思われます。

「明日、ママがいない」のスポンサーはセンスがない

22日放送の第2話でエバラ食品工業、JX日鉱日石エネルギー(エネオス)、キユーピーの3社がCM放送を見合わせ、24日には富士重工業(スバル)、日清食品が新たに第3話(29日放送)のCM見合わせを決定。同日、花王、小林製薬、三菱地所の3社もCM放送の見合わせを決定し、結局すべてのCMがACジャパンのものに差し替えられることになったってことなんですが、これってどうなんですかね?

ネットには「企業としての信念はないのか!」みたいな怒り方をしている人もたくさんいるみたいなんですけど(どこまで本気で怒っているのかは別にして)、僕はわりと「企業としての信念」なんて聞くとそれだけで笑ってしまいそうになりますし、もしそんなものがあるとしても世間から叩かれてる番組のスポンサーを続ける信念ってなんだよって感じがします。

そりゃ世間様の敵にはなりたくないだろ、遊びでやってんじゃなくてそれこそ企業としてやってるんだから、と、そういう意味ではわりとスポンサーの企業にも同情的だったりしつつ、その上で、「明日、ママがいない」のスポンサーには企業としての信念云々以前に企業としてのセンスが足りないんじゃないかと思いました。

初回の放送とそれに続く慈恵病院からの抗議や世間様のお怒りの反応を見ていち早くCMの中止を決めたエバラ、エネオス、キューピーはその鼠のような小心ぶり、風見鶏ぶりで評価に値すると思うのですが、その後いくらでも後出しジャンケンできる状態にあった残りのスポンサーまで各社足並みを揃えてスポンサーを降りますというのはかなりクソダサいのではないかと思いました。

それこそ世間には「企業としての信念はないのか!」みたいなことを言う人もいるわけですから、そこはあえて一社くらい「うちは降りません!」ってことに逆張りするスポンサーがいてもよかったんじゃないかと思うんですよね。

もちろんそのことで叩くような奴らはいるでしょうけど、どうせそういう奴らはなにをどうしたって叩くんです。こういう形で話題になってしまった番組のスポンサーなんかについてしまった時点でどうせ叩かれることは決まってるんです。

だったら「お前らスポンサーについておきながらちょっと番組が世間から非難を浴びたら逃げやがって、企業としての信念はないのかよ」なんて不名誉な叩かれ方をするより、「他のスポンサーは降りたのにお前のとこは降りないのかよ」っていう叩かれ方をしたほうが、それこそむしろ本当にそんなものがあるかどうかは別として、企業としての信念やら矜持やらを示すチャンスになって絶対逆においしかったと思うんですよね。

結果的に擁護してくれる人たちもたくさん出てきて文字通り株を上げていたんじゃないかと思うんですけど、実際はあえなく各社足並みを揃えてCM放送を中止ということで、なんだかなーという感じです。

追記:この記事を投稿した後、高須クリニックの高須克弥院長がCM枠を全部買ってスポンサーになると名乗りを上げました。高須院長、さすがすぎです!高須院長のツイッターによると「僕はがんばる人たちを応援したいだけ。今のスポンサーは僕が新しいスポンサーになることを歓迎しないようだ。もめてるらしい」と先述の既存スポンサー8社との兼ね合いで交渉が難航している様子をツイートしていましたが、こういうのすごくかっこいいし面白いと思うので頑張ってほしいです。

「明日、ママがいない」は単純にドラマとしてつまらない

さて、というわけで「明日、ママがいない」のCM放送中止を決めたスポンサーはダサいしセンスがないという話をしたわけですが、そんじゃお前は「明日、ママがいない」の放送姿勢について共感的なのかとか同情的なのかというとそれはまたまったく別の話です。

「明日、ママがいない」の初回の放送が問題になった後、そんなに問題になるようなら面白いのかと思って1話を見てみたんですが、その際の感想は明日、ママがいない1話の感想という記事に書きました。要はクソつまらなかったという話です。

熊本の慈恵病院が放送中止を求める抗議をしたとか、それはドラマへの無理解だとか、そりゃいろんな立場の人からのいろんなリアクションがあるのは当然のことだと思うんですけど、はっきり言ってそんなことはどうでもよくて、面白いドラマを見せてくれりゃそれでいいんだよってことしか思ってないただの視聴者の一人として、「明日、ママがいない」は単純にドラマとしてつまらないと思いました。

もちろん「私は面白かった」とか「俺は感動した」っていうのは人の勝手だし素晴らしいことだと思います。でも僕がまったく面白いとは思わなくて、それどころかテレビの放送倫理みたいな議論に参加する気も起こらなければこんなに騒がれてる意味もわからないくらい興味のないドラマだと思ったことも事実です。

f:id:denpanohikari:20140128130853j:plain

「明日、ママがいない」が問題になるのは当然

しかし、そもそも僕が「明日、ママがいない」の1話を見るきっかけになったはるかぜちゃんなどは、その後もほとんど発狂したように「明日、ママがいない」を叩いている人を完全にバカにして挑発していましたし、ナインティナインの岡村隆史さん、さらにはダウンタウンの松本人志さんなんかもこの状況、視聴者からの抗議や圧力で番組が放送中止になったり作れなくなってしまうことを大変危惧されているようです。

はるかぜちゃんや岡村さん、松本さんにかぎらず、テレビ業界に身を置いてる業界人にしたら当然そうだよなーって気持ちはよくわかる気がします。また業界人ではなくてもいかにも頭のおよろしい文化人のみなさんなどもこうした風潮には反対しているようです。

でも、僕は「明日、ママがいない」が問題になるのは当たり前じゃねえの?って思います。っていうか作ってる側だってこんなドラマ、最初から問題になることで話題になることを狙って作ってるに決まってるじゃないですか。

児童養護施設の施設長が「泣け。お前たちはペットショップの犬と同じだ」って施設の子供に言うんですよ?こんな文字通り問題発言が問題にならないとでも思っていたのならむしろ制作サイドは倫理がどうこう言う前にもう二度とものを作ったりしたらいけないレベルのただのクソバカです。

もちろんそんなことはないと思いますし、そこまであざとく「問題作」になることを狙って作った以上、自分たちの狙い以上に問題になってしまった、自分たちの思惑からすると不本意な形で叩かれている、と泣き言を言うのは完全に作り手側の甘えでしかないと思います。

「最後まで見ればわかる」は甘え

その意味で今回の日テレの大久保好男社長の「抗議を受け止めることとストーリーを変えるのは必ずしもイコールではないと思う」という考えは実に正しいと思います。制作局長さんも「大きなストーリーや脚本、演出は変更なく最後までいけると確信して」いるそうなので、そこまでの自信があるなら当初のストーリーをねじ曲げたりしないでそのまま最後まで放送してほしいと思います。

抗議や圧力に屈して変に話がぬるくなったりしたらそれこそ最初からなにもやらないほうがはるかにましだったレベルで最低最悪ですから。

でもやっぱり「明日、ママがいない」が問題になった当初から日テレ側が繰り返している「最後まで見ていただければ私たちの意図が理解していただけるだろう」って発言にはすごい違和感があって、そんな当たり前みたいにドラマを最後まで全部見てもらえることを前提にしてるって、どんだけ視聴者に甘えてんの?認識甘すぎじゃね?ってことをすごく思います。

いくら作った側に思い入れがあって、「最後まで見ればわかるのに!」って地団駄踏んでも、最後まで見るかどうかは視聴者側の問題です。途中でつまらないと思ったり不快だから見るのが嫌だと思ったら続きを見ないのは当たり前です。そこをはるかぜちゃんのように「最後まで見ないで文句をいうのは~云々」というのは完全に作り手側の甘えだと思います。

誰でも見れるテレビだからこそ配慮が必要なのは当たり前

日テレ大久保社長は「テレビ局の番組が大きな影響力を持っていることは認識しないといけない。『配慮が足りない』という趣旨の抗議を受け、その点は重く受け止めています」と反省の弁も述べ、「関係者の声、視聴者の声、スポンサーの声にしっかり耳を傾け、内容に細心の注意を払いながらより多くの人に支持される番組を作っていくのが基本姿勢です」と会見で語っていますが、まったくこの通りなんじゃないかと。

リモコンのスイッチを押せば誰でも見れる、子供でも見れるテレビです。だからこそ放送倫理なんて大げさな話じゃなくても規制があるのは当たり前です。その制限や枠の中で勝負するのは当たり前だし、日テレにかぎらずどこのテレビ局だってそうやって面白い番組を作ろうとしているんだと思います。

仮に「明日、ママがいない」にどうしても「泣け。お前たちはペットショップの犬と同じだ」といった問題発言が必要な理由、そうでないと訴えられないテーマや表現があるんだということなら、そもそもそんな作品にテレビという媒体を選んだことが間違いだと思いますし、少なくともそこまで強い信念がある作品をあえてテレビという媒体を選んで放送しているなら現在叩かれている程度の逆境やバッシングはあって当然なんだから平然と受け止めてほしいと思います。

そういう意味で現状日テレ側の「このまま放送するつもりです」という態度は個人的に支持しますし(自分は1話がクソつまらなかったので少なくとも今のところ続きを見る気はないけど)、業界人や文化人の人たちの「『明日、ママがいない』がバッシングを受けるのはおかしい」とか「『明日、ママがいない』を叩く奴は文化を殺すバカだ」みたいなものの言い方はなんか少し嫌だなあと思うのでした。僕からは以上です。おしまい。

ブログは熱いうちに書け

ブログは熱いうちに書け。

ちょっと意味わかんないけど。

ニュアンスで伝わって!

伝わるでしょ????

伝われよおおおおおおおお!!!!!!!!

伝われって言ってんの!!!!!!!!!!

ブログは思い立ったらすぐに書け!

時事ネタは鮮度が命。「腐った時事ネタ、犬でも食わぬ」ということわざもある(ない)。

しかし、特に鮮度が問題にもならなそうなブログネタ、たとえば僕の場合ならちょっとしたアイディアや考え事など、別にいつ書いても、いつ投稿しても問題なさそうなブログネタを、つい文章を書くめんどくささや億劫さ、怠け心に負けて「これはいつでもいいな」と判断し、後回しにしてしまうことがある。これは非常によくない。

読む人にとっては情報に鮮度が必要とされないようなネタであったとしても、やはり書き手の情熱やモチベーションにも鮮度があるのだ。そしてそれが一番新鮮で最高にうまい瞬間はいつかといえば、もちろんそのネタを思いついた瞬間である。

善は急げ ブログも急げ 書き急げ(標語)

「あ、このネタについて書こう」と思ったなら万難を排して書くべきである。友達や彼氏彼女との待ち合わせをドタキャンしてでも書くべきである。仕事や学校をサボってでも書くべきである。親の死に目に会えなくても、葬式を欠席してでも書くべきである(※やりすぎ)

そのくらいネタの鮮度、それも情報の新鮮さということでなく、そのネタに対する書きたいという自分自身の情熱やモチベーションの鮮度というのは決定的に重要なことであり、そしてそれはまさになま物であり、生き物であり、極力それが生きているうちに一気呵成に仕上げてしまうことが望ましい。思い立ったが吉日である。

腐乱死体でうまい料理は作れない

実はこのように書くのはすべて自身の反省からで、筆不精でものぐさ、怠け者のめんどくさがり、そもそも文章を書くのがめんどくさくて好きじゃないというおよそブロガーとしての適性を根本的に持ち合わせていない僕はついしばしば「◯◯について」のように自分にはわかる形でブログのネタをメモだけするにとどめ、そのまま何日も何週間もそのネタを書こうとすることもなく放置してしまうことが多い。

そしてある日ふと、「あ、そういえば前に◯◯について書こうと思ってたな、暇だし書いてみるか」と重たい腰を上げたときにはもうそのネタ(そのネタへの新鮮な興味や情熱、書きたいというモチベーション)は死んでしまっているし最悪腐っている。死んでいる上に腐乱死体なんて最悪である。

そんな腐乱死体と化したネタを腑分けするように書き起こしていっても、そこからはどうしたってそのネタを書こうと思い立った瞬間のイキイキとした情熱や勢い、鮮度といったものが文字通り致命的に失われており、いくらその記憶の残滓を辿って死体の腑分けを続けても生臭さが垂れこめるだけであり、おぞましい腐敗臭が一面に撒き散らされるだけである。

腐っても鯛などというがそれは嘘である。鯛も腐れば雑魚にも劣る、鯛も腐れば犬でも食わぬ、というのが正しい。どんな料理も新鮮なネタ、新鮮な素材あってのものである。鮮度がないどころか腐敗したようなネタしかなければどんな腕利きの料理人もソースでごまかしたような料理をつくるのが関の山であろう。

第一そんな料理は不味い以前につくっていて楽しくない。それなら料理の腕は未熟でも、新鮮なネタ、新鮮な素材を新鮮なうちに、ふんだんに使って思う存分料理したほうがうまい料理が食えるというものだ。

文章は一気呵成の勢いが命!思い立ったらすぐに書け!

とにかくブログのネタ(そのネタでブログを書くことへのモチベーション)は熱いうちに書けということだ。それは読む側にとっての情報としての鮮度、熱さということ以上に重要なことだ。

もちろん情報としての鮮度も重要なことではあり、それこそ鮮度を失った時事ネタは誰にも見向きもされない以上価値がない。書きたい複数のネタがある場合など、どうしたって優先順位をつける必要がある。その場合当然そもそも書くか書かないかは自分の中で見極めるとして、いずれも書きたいということであればもちろん時事ネタは最優先されるべきであろう。

しかし、その場合でも簡単にメモだけしておいたネタをそのまま数日も数週間も寝かせておくべきではない。それは寝かせているのではなく放置し腐敗させているだけなのだ。できれば時事ネタについて書き終わり次第、すぐにでも次の記事として一気呵成に書き上げてしまうことが望ましい。なんとなれば文章に命を吹き込むのは勢いである。

最悪疲れてしまって続けては書けないという場合でも、「◯◯について」といった簡単なメモのままよりは、だーっと思いつくことや連想すること、これだけは言いたいことなど思い浮かぶことを一緒に書いておいたほうがよい。アウトラインを書き出してしまえればなおベターではあるが、体裁を整えるのなど後でいくらでもやればよい。

まずは書きたいと思った衝動やインスピレーションのままに、その「なにか」というしかないような「なにか」が活きているうちに捕まえて書き出してしまうことである。これは別にブログや文章にかぎらずあらゆる自己表現においても言えることかと思う(逆にそれさえ捉えてしまえばあとは冷蔵庫で保存したっていいのだ)。

この期に及んでなおくどくどと内容を繰り返すことはすまい。とにもかくにも鉄は熱いうちに打て!飯は熱いうちに食え!ブログは熱いうちに書け!という自戒でした。おしまい。


伝わる文章が「速く」「思い通り」に書ける 87の法則