まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

二人の雲水の話

僕の好きな禅のエピソードを紹介します。

二人の雲水(旅の修行僧)の話です。

たまにはこういう記事も書くんだよ???

二人の雲水の話

二人の雲水(禅の修行僧)が修行のため諸方を行脚していました。とある川に差し掛かったときのことです。普段は浅い川なのですが、その日は前日の雨のために流れも速く、増水していました。橋もないので向こう岸へ渡るには当然歩いて渡るしかありません。

ところが二人がその川を渡ろうとしていると、川の麓で一人の若い女性が困った様子で川を見つめています。

一人の雲水が女性に近づくとやさしく声をかけました。「どうされたのですか?」

若い女性が答えました。「今日中に川を渡らないといけない用事があるのですが、着物が濡れてしまうし流されてしまいそうで怖くて渡れないのです」

すると雲水は身をかがめて言いました。「そういうことなら私が背負ってあげましょう。どうせ私たちもちょうどこの川を渡るところでしたから」

そう言って女性を背負ってあげると女性が濡れないように気をつけながら無事川を渡りました。

向こう岸へ着いて女性を下ろすと、感激して何度もお礼の言葉を言っている女性に「それでは私たちは先を急ぐので」と言ってそのまま歩み去って旅を続けました。

面白くないのはもう一人の雲水です。そもそも二人の旅の目的は禅の修行、悟りを求めての厳しい修行の旅なのです。昔というのは特に女性への接し方にも非常に厳しく、女性と話をすることすら厳しく戒められていました。

しかしあろうことか共に旅をしているもう一人の雲水は女性に話しかけたどころか女性の体に触れて背負いさえしたのです。これはほとんど破戒(戒律を破ること。修行者失格の烙印にも等しい)です。あるいは心のどこかには女性と話したり女性の体に触れた雲水への僻みや嫉妬もあったかもしれません。

そんなことばかり考えていたものですからとうとう黙っていられなくなって立ち止まって言いました。「おい、お前は女人に話しかけるどころか女人を背負うとは何事か!そんなことで煩悩を克服して悟りを開けると思うのか!」

すると女性を背負った雲水は「なんだ、お前はまだ背負っていたのか。俺は川原で下ろしてきたぞ」と答えてさっさと先に歩いて行ってしまいましたとさ。

その場その時すべきことをして事が過ぎればそこで下ろす

もちろんどういう解釈をするかは人それぞれですが、僕はこの話がすごく好きです。

仮に女性との接触を禁じられているような修行僧であったとしても、困っている人を見かけたら助けてあげるのがやさしさだと思います。「自分の修行の妨げになるから女性とは関わらないようにしよう」というような自分の都合しか考えていない判断こそエゴではないでしょうか。

女性を背負って川を渡ったことが修行僧の態度としてよいのか悪いのか、ひとまずそこはおいておくとしても、この雲水はそうせずにはいられなかったのだと思います。

生きていればいろいろな状況に直面しますから、最初から掟や戒律で決められている通りになど生きていけるわけがありません。あるいはそれを指針にしながらも川を渡れずに困っている女性がいたというような不慮の事態に対しては臨機応変に対処しなくてはなりません。ときには決められた掟や戒めを破るような形になってしまうかもしれません。

しかしそれはその場そのとき必要であるからそれをしたまでのことで、過ぎてしまえばもうこの雲水にはなんの執着もありません。なぜならそれはもう過去であり、終わったことだからです。終わった時点でそれはそこに置いて、またその場その時の自分の人生を生きていくだけです。

怒りや妄念は過ぎたことを自分の中で反芻することによって膨らむ

これがもう一人の雲水にはわかっていません。戒めを破って女性と接触した雲水への怒り、責める気持ち、許せないという思い、あるいは嫉妬や僻みなど、そうした思いを捨てることも断ち切ることもできずに抱えたまま、女性と別れて先へ進んでいる間にもそれらの妄念を自分の中で何度も反芻し、膨らませていきます。

そしてついに我慢できなくなって自分の中で膨らませた怒りを爆発させるわけですが、これらはすべてこの雲水の心の中でこの雲水自身が勝手にやったことです。事実はといえば旅の相方が困っていた女性を背負って川を渡ったというだけのことです。

もう一人の雲水はもうとっくに川を渡りきった時点でその女性と一緒にそのことにまつわるすべてを降ろしてきたのに、この雲水は過ぎたことへの執着を持ち続けたまま、あろうことか自分の中でそれを激しい怒りや責める気持ちにまで膨らませ、ついには仲間の雲水を糾弾してしまいました。

でも相手の雲水の「なんだ、お前はまだ背負っていたのか。俺は川原で下ろしてきたぞ」の一言でこの雲水もハッとしてこれらのことに一瞬で気づいたのではないかと思います。

行雲流水。行く雲、流れる水のように生きていきたい

人生においては様々なことが起こります。仏道に励むお坊さんだからといって、いつもいつも戒律通りに綺麗に生きられるとはかぎりません。ときには困っている女性を助けてあげるというようなより本質的な目的のために、「女性と触れてはいけない」といったより表面的で細かい戒律を破るようなことがあるかもしれません。

しかしそれはあくまでその場その時のこと。過ぎてしまえばそこで下ろし、また淡々と歩き続けるまでのことです。

ちなみに雲水とはもともと行雲流水、何物にもとどまることなく行く雲、流れる水のように執着なく生きていく禅的な生活態度そのもののことを意味します。

僕もこの女性を背負って川を渡ってあげた雲水のように、その場その時の状況に即応し、困っている人がいたら助けてあげたりもしながら、嫌なことがあってもそのことに執着せず、さらさらと流れ続ける清流のように、今、今、今を生きていけたらいいなあと思います。僕の大好きな禅のお話でした。おしまい。


禅マインド ビギナーズ・マインド

嫌われる覚悟のある人間は強い

嫌われる覚悟のある人間は強いというお話。

嫌われる覚悟のある人は強い

以前人間は能力より人柄だと思うとか嫌な奴は損だと思うという記事を書いたことがあります。タイトルそのまんまの内容なんですけど、もちろん今でも同じ考えです。当たり前ですけど僕だっていい人のほうが好きだし、嫌な奴のことは嫌いですから。

 

嫌われてる人と好かれている人、どっちがより有利か、というものすごく乱暴な話をすれば、一般に好かれている人のほうがはるかに有利だと思います。誰からも嫌われていて好かれないみたいな人はかなり人生のハードモードをプレイしていると思います。

嫌われる覚悟のある人のほうが好かれる人には好かれる

でも嫌われていることや好かれていることと、その人に嫌われる覚悟があるかないかということはまったく別の話です。嫌われないように人の顔色をうかがおうとか善人ぶろうという話をしているわけではありません。

むしろ人から嫌われることをおそれてまわりの人たちの顔色ばかりうかがっているような人のことは好きになれなかったり、実際かえって鬱陶しがられているような人に心当たりのある人も多いのではないでしょうか。

自分から嫌われようとする必要はもちろんありませんが(そもそもそんなことをする意味もメリットもわからない)、それと人から嫌われることをおそれないというのはまた別の話です。

別の話だし、どうしても譲れないところは人から嫌われることもおそれないというのはすごく大切な心構えだと思います。嫌われる覚悟があるかないかということです。

嫌われたいわけでも嫌われようとしているわけでもない。でも正直な自分自身でいてその結果ある人から嫌われることがあったとしてもそれはやむを得ない。それくらい割り切って生きてる人のほうが、誰からも嫌われないように人の顔色ばかり気にしている人より気楽だし、結果的にかえって好かれる人には好かれるんじゃないでしょうか。

どんな風に生きたって誰からも嫌われない人なんていない

そもそも嫌われるってどういうことでしょうか。もちろん嫌われ方にもいろいろ種類があります。単純に嫌な奴だから嫌われる。自分には中身もなにもないくせに人の悪口を言ったり根も葉もない誹謗中傷ばっかり繰り返しているような人。

こういった人は普通に考えて嫌われますし、その嫌われ方にもなんの意味も意義もないと思うのです。一目置かれるでもなんでもない、ただ嫌な奴なだけ。嫌な奴は損だと思うで書いたような嫌な奴とはこういう人たちのことを指しています。

でも急に極端な話になりますが、究極、どんな風に生きたって誰からも嫌われない人なんて絶対にいないと思うのです。いたとすればそれは物心ついたら無人島にいた人とか、ある朝目覚めたら人類が滅んでいて地球に人類は自分一人になっていたとかそういう人だけだと思います。

そこまで極端な話をしなくても、「誰からも嫌われないように顔色をうかがって生きている人」や、「誰からも嫌われないように八方美人にうまいこと立ちまわっている人」とか、そういう人やそういう生き方がもう嫌いって言う人は現実にたくさんいると思うのです。

いや、顔色をうかがうとか八方美人っていうともう悪いイメージですけど、仮にそんな風にも感じさせない本当に魅力的な人がいたとして、それでもやっぱり「人から好かれる人気者がもう好きじゃない、嫌いだ」って人だっているわけです。


坂上忍 偽悪のすすめ 嫌われることが怖くなくなる生き方

なにか言えば嫌われるリスクがあるのは当たり前

メッセージを発信するということは、それ自体どうしたって嫌われるリスク、勝手に敵対視されるリスクをはらんでいるということです。メッセージ性や影響力が強くなれば強くなるほどそのリスクもまた強くなります。

たとえば僕がこうして自分のブログで自分の考えを書いていることに対してすら「偉そうな口叩きやがって」と言って嫌う人もいれば勝手に敵対視して嫌がらせをしてくる人もいます。でもそんな連中のことを気にしていたらもちろんブログなんて書けないどころか生涯口をつぐんでおとなしく山にでも一人でこもって生きていくしかなくなります。僕はそんなのは嫌です。

心にもないことを言って人の気を引こうという話をしているのではありません。むしろ個人的にはそういうやりかたは好きじゃないですし、炎上商法だのは非難する気も怒らないくらい単純に下らないと思います(それでもこうして思っていることを書いているだけで炎上商法だみたいなことを言ってくる人はいるのでそういうケチのつけ方は昨今の流行りのようですが)。

でもあえて物議を醸すようなことを言って注目を集めたいとかではなく、本当に自分が普段から思っていることだったり言いたいと思っていることだったり、心からの自分の信念だったり自分なりに一生懸命考えてこう思ったとかいうことであれば、言いたいことは言えばいいんじゃないかなーと思います(そう思うから現に今もこうしてこんなブログを書いているわけです)。

どうせ嫌われるならありのままの自分で嫌われる方が気楽

もちろん言っていいこといけないことというのはあるわけで、言いたいことを全部言えるわけではないと思いますが、それが人から嫌われそうでこわいからとかって理由だとほんとになにも言えなくなってしまって結局自分が息苦しくなってしまうんじゃないでしょうか。

そもそも自分が本当に思っていることを話したら嫌われてしまうというような人と、自分の本心を隠したり偽ったりしてまで表面的に仲よくしてつきあう意味ってあるんでしょうか?

いや、もちろん一人でいるときの周りからの視線に耐える苦痛と比べればそういう人とでも一緒にいるほうがまだましとか、そこらへんは人それぞれにいろいろな判断があるんだろうとは思いますが、「どうして自分は自分を偽ったり隠すようなめんどくさい思いをしてまで人から嫌われないようにしているのだろう?」ということへの問いかけもされないまま、盲目的に人から嫌われまいとして息苦しい思いをした挙句、かえって結果的に自分が本当に好かれたい人たちから好かれなかったり嫌われたりというのはかなりバカバカしい気がします。

誰からも嫌われない人なんていないということはさっき書いたしよく言われることですが、逆に誰からも好かれないという人もそうそういるものではありません(もちろん人に嫌がらせばかりしているような人は別ですが)。結局どんなふうに生きてみたって好かれる人には好かれるし嫌われる人には嫌われるってだけのことだし、それは避けようがないことだと思うのです。

だったら変に偽った自分を好かれたり嫌われたりするより、どうせ好かれもすれば嫌われもするなら、ありのままの自分でいて好かれたり嫌われたりするほうが、好かれたらうれしいし嫌われるにしても気が楽なんじゃないかっていうものすごく単純な話です。

好かれようと嫌われようと自分は自分

誰からも好かれよう、誰からも嫌われないように生きようなんて無茶なことを考えて絶望的な努力をして自分をすり減らすよりも、好きになるのも嫌いになるのも相手の勝手、自分の問題ではないし、自分は自分が納得するような自分自身でいられればそれでいい、くらいに割り切って生きている人のほうが気楽で強いと思うのです。

第一嫌われることをおそれて生き方からなにまで萎縮しているような人よりも、「好かれようと嫌われようと自分は自分」くらいのつもりでのびのび生きている人のほうが勢いがあって魅力的だと思います。

誰からも嫌われたくない、みんなから好かれたいと思ってそんなふうに生きられるならともかく、どうせ誰からも嫌われないように生きるなんてできるはずないんだから、だったら変に嫌われたくないからという理由で自分を隠したり偽ったり無駄な努力をするのはやめて、嫌われることなんて当たり前に覚悟して自分の好きなように生きたほうが楽しいんじゃないでしょうか。

人から好かれるとか嫌われると言ったって、それは好きになる人もいる、嫌いになる人もいるという当たり前のこと以上のことではありません。どんな風に生きたって嫌う人は嫌います。あきらめましょう。逆に、どんな風に生きたってわかってくれる人はわかってくれます。安心して下さい。というわけで嫌われる覚悟のある人は強いというお話でした。おしまい。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

失恋ショコラティエ4話の感想

失恋ショコラティエ4話の感想。

失恋ショコラティエの1話めっちゃ面白かった

失恋ショコラティエ2話の感想

失恋ショコラティエ3話の感想の続きです。

石原さとみがかわいい失恋ショコラティエ4話の感想

失恋ショコラティエ4話はリクドーの関谷さん(加藤シゲアキ)が薫子さん(水川あさみ)を誘うシーンから。そこからどういうわけか話がねじくれて六道(佐藤隆太)が爽太にアプローチをかけたり自分のチョコレート哲学を語ったり。

六道さんの自分をまっすぐ貫く信念、すごくかっこいいんだけど、この真っ直ぐさで爽太のことも貫いたりするのかな、ベッドでは急に男になってタチだったりするのかなとか考えたら若干お尻が痛くなってきたからこれ以上六道さんのことを考えるのはやめにします。

回のかぎられてるドラマだから誰にどこまで焦点を当てるかって難しいと思う。もちろん爽太とサエコさんの話なんだけど、それにしても爽太に片想いしてる薫子さんのことはちゃんとやらなきゃだめにしても、まつり(有村架純)とオリヴィエ(溝端淳平)の行方は正直さっくりでいいんじゃないかなーって気がしてるし、六道さんとか関谷さんのことまでは適当でいいんじゃないでしょうか。あんまり話があっちこっち行き過ぎてもついていくの大変で疲れちゃうし。

ショコ潤は結局パン・オ・ショコラを作ることにしたらしい。曜日ごとの限定販売ってことらしいんだけど、それにしたって大変だよね。原作だとチョコレートペーストだったから、あれかな?パン・オ・ショコラを商品化して売り出すとかそういう大人の事情なのかなって思った。


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石原さとみのサエコさんがかわいすぎてやばい

ここから原作の記憶も思い出しつつショコ潤と石原さとみサエコのデートのストーキング日誌を書いてみる。なんか原作よりだいぶさらっと描かれてた気がする。原作だともっと心理描写あったような気がする。それにしても石原さとみのサエコさんクソかわいい!かわいこぶりっ子の演技をするかわいこぶりっ子の石原さとみとか鬼が筋肉増強剤でドーピングするようなもんだろうよ!

って思ってたらまさかのキスシーン来た。これは不意討ち過ぎて死んじゃう!って思ったら例によって爽太の妄想だった。正直これは病気レベルなんじゃないかと思った。まあドラマとしての視聴者サービス的な演出なんだろうけどこういうのはちょっと・・・大興奮なのでどんどんやってください!!!!!

原作だとデートどうするかで悩む爽太が「もう考えすぎて疲れちゃったよ……デートとかめんどくさいこともういいからサクッとやることやれたらいいのに……」って思わず本音を漏らして薫子さんに「爽太くんサイテーすぎ」、オリヴィエにすら「ソータ正直すぎ」って突っ込まれるシーンが好きで笑っちゃったんだけど、これってどうなのかなー?男の人ってこういう感覚が一般的なんだろうか?

セックスするだけのセフレならそれもわかるけどあそこまで本命として長年思い入れていたサエコさんに対しても結局ヤれればいい、セックスできればいいみたいな感じは正直理解できない。お茶とかご飯とか含めてデート自体楽しみなものかと思ってた。

それともいい加減待ちすぎて待ちきれなくなっちゃって、とりあえずさっさとヤることヤって、サエコさんとはもうセックスしたから俺の女だみたいな既成事実をつくって安心したいのかな?お茶だのご飯だのはそれからゆっくり楽しめればいいやってことなのかな?

もうこんな爽太みたいな男に報われない片想いなんてするのはやめて、薫子さんもリクドーの関谷さんと付き合っちゃえばいいのに。なんだかんだ付き合っちゃえば爽太のことなんてどうでもよくなるかもしれないのに。

まあなんて言ってもそれができないある意味で不器用な人が薫子さんだからしょうがないんだけど。大体薫子さんが片想いやめて爽太以外の男とうまくいったらいったで薫子さん嫌いになっちゃうんだけど(めんどくさい)。

薫子さんがリクドーの関谷と飲みながらも爽太のことを想って「このままでいい。私は別に爽太くんの彼女になりたいわけじゃない」ってクソめんどくせえたわ言を抜かしながら涙をこぼすシーンだけで悲しくなったほど薫子さん好き。爽太殴りたい(※完全に逆恨み)。

失恋ショコラティエ原作との違い。サエコさんの内面描写

でもそんな爽太みたいな男よりも推定100万倍はこわいのはやっぱり石原さとみさんのサエコですよ。。。爽太とえれなのイチャつき具合からセックスはしてるけど付き合ってはいない程度の関係であることを見抜いた上で、自分はあえてモデル系のえれな(まあえれなはほんとにモデルなんだけど)とは真逆の普通の子系のメイクで勝負しようと作戦を練っているときの顔がこわすぎる。。。いつものふんわり感0!

しかもサエコさんは薫子さんも言ってるようにほんとに見た目は「普通」のタイプの人だから本職のモデルのえれなと同じ土俵で戦っても勝ち目がないことはちゃんとわかってる。だからえれなとは対極的な自分の魅力を強調することで爽太にとっての特別な自分を演出しようとする作戦が的確すぎてサエコさんほんとこわい。アホのふりしてアホじゃない女の子ほんとこわい。。。

「男で馬鹿っぽいのはただの馬鹿だが、女の馬鹿っぽいのはただの馬鹿じゃないから気をつけろ」ってうちのじいちゃんの遺言

一旦いつものようにかかとの低い靴(身長差があったほうが男の自尊心をくすぐれるし自分が見上げたとき上目遣いになってかわいく見えるから)を履きかけて、あえて勝負を賭けてヒールの高いミュール(ドラマだとブーツだったけど)を履き直すシーン、真剣勝負って顔したサエコさんに対する畏怖で背中がゾクッとした。・・・え?少女マンガを真剣に読み過ぎ?・・・うん、否定はできないよね・・・。

ちなみにここらへんのサエコさんの心理描写が大好きなんだけど、ドラマではあえて爽太から見たサエコさん像を崩さないようにってことなのか省かれてた。まあドラマはそれくらいのバランスでちょうどいいのかも。

無邪気な爽太×えれなのセフレ勢とサエコの計算高さの対比

それにしてもまさか前回失恋ショコラティエ3話ではちょっとした面白エピソード程度に挟まれていた「かかとの低い靴を履く」というサエコさんのアドバイスが、まさかこんな形で伏線になってたとか見事すぎるんだけど。

それに対して爽太はえれなにアドバイスをしてもらってもせいぜいが「いつも白いパティシエ服を着てるんだから、あえてトップスは真逆の黒で新鮮さをアピールすればかっこいい!キュン!だよー!」という実にお粗末で低レベル。

結局えれながファッションの面ではプロのモデルであっても女としてのレベル(女子力的な意味での)ということで言えば、やっぱりサエコさんとは比較にもならないほど劣っている、というか、それくらいサエコさんが圧倒的ってことなんだけど、子供っぽく無邪気にはしゃぎ合う爽太とえれなに対して、爽太には普段妖精さんなんて言われているサエコさんこそそういう意味でははるかに大人の計算で生きているっていう明暗がくっきり浮き上がるシーンで、それをこんな風に見事に表現できちゃう水城せとなさんは本当にすごすぎると思う。


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素直になれない爽太とサエコの駆け引きが迷走しててざまあwwwwww

でもまあなんのかんのとは言っても、結局デートなんて実際にしてみてなんぼなわけで、いざ爽太とサエコさんのデートが始まってしまえば、二人の心の動きが見えている原作読者からすると、所詮はキツネとタヌキの化かし合いを見ているようなもので、こんなつまらない駆け引きで相手の気を引こうとしあっている男と女とはなんと浅ましいものであろう、みたいなことを思ってしまったりもするのだった。

でもまあそういう第三者的な神の視点で覗き見たら滑稽に見えてこっ恥ずかしくなるようなことに僕たちは必死になっているんだよとか、誰がそんな爽太とサエコのことを笑えるのかとか、そういうとこまで全部含んで描かれているから笑うに笑えないしひたすら恥ずかしくなって「もうやめてえええええ!!!!!」って叫びながら頭をかきむしることしかできないのだった。

なんて言いながらも、どうでもいいけど爽太楽しそうだよね。爽太うれしそうだよね。サエコさんのおっぱいがギューギュー当たって(サエコさんの思惑通りに)うれしそうだね。爽太ぶん殴りたい。爽太好きだし怨みはないけど、とりあえずサエコさんのおっぱいがギューギュー当たってしあわせそうにしてる爽太ぶん殴りたい

でも男とか女とか恋だとか愛だとか僕なんてこうしてタイピングしているだけでも発狂してベランダから飛び降りたくなるようなことが一筋縄じゃないなって思うのが、サエコさんがあれだけ圧倒的な女子力のかぎりを尽くしていろいろ計算して動いても、結局全部その目論見通りになんてなるはずがないってこと。

サエコさんは(妻の身でありながらクソ女だから)もう爽太のことを完全に落としにかかった上で、つまり有り体に言えばセックスまで持って行こうとしてこれまでにない露骨なセックスアピール(おっぱいぎゅーぎゅー攻撃)をかけているんだけど、爽太はそれを「サエコさんがこんな風に俺に接するのは俺のことをなんとも思ってないからだ」と判断して無邪気にはしゃいでいた自分に嫌気が差してフッと冷めてしまう。

サエコさんはサエコさんで、そんな爽太の様子を見て自分のセックスアピールは爽太に訴えかけるほどの魅力を持たないのかと自己不信に陥ったりもする。すれ違う男女の機微というのは難しくて(他人のそれを見ている分には)面白いものだなーと思う。

ここらへんドラマの失恋ショコラティエがうまいと思ったのは、あえてそこらへんはきっちりとは描かずに、お互いに駆け引きであくまで常連客とショコラティエの関係だって線引きを強調するあまりに気持ちがすれ違い、さらにわけのわからないめんどくさい駆け引き(旦那以外の男とデートとかいうクソみたいな駆け引き)に発展してしまうところ。このアホくささがたまらない。勝手にやってろバーカ!(キレた)

恋愛のプロが教える復縁マニュアル

片想いでも仕事も充実しててセフレもいる爽太のことぶん殴りたい

その後のレストランでの意味深な会話、結婚について「相思相愛の相手と『一生一緒にいる』と約束して生きていける。どんなときも孤独じゃなくなる。幸せだよね」とあいかわらず無邪気に幻想に彩られた結婚観をそのまま語る爽太に対して、「ハハ」と失笑半分に乾いた声で笑ってみせるのが精一杯のサエコさんと一緒に、一体どれだけの数の人妻が全国のお茶の間で一斉に「ハハ」と死んだ目で笑うんだろうって心配してたらそこもバッサリ月9の失恋ショコラティエではカットされてた。

その後いよいよサエコさんが爽太を自宅に誘うシーン。今旦那さんいないのってお誘いからの流れるようなベッドシーン、旦那帰宅、雑誌にショコラヴィの悪口書かれる、ショコラヴィ閉店、爽太フランスへ再度修行に旅立つ、サエコも爽太についていく~fin~な妄想が今回の視聴者サービスシーンだと思ってたんだけどそこもドラマではばっさりカット。

その後のサエコさんの「またデートしてくれる?」に一人で勝手にふて腐れて「こんなの別にデートじゃないっしょ」って言っちゃう爽太は大人げなくてやっぱりサエコさんがからむとダメな奴になっちゃうんだなーって思った。普段はけっこうちゃんとした人なのに。

それで寂しい思いを抱えてうちに帰ると旦那の小言が待ってるサエコさんを思うと、幼稚なイライラとムラムラを思い切り身体の上にぶちまけて発散できるえれなみたいな美人のセフレがいる爽太のほうがよっぽどしあわせに思えてやっぱり爽太ぶん殴りたくなってきた。爽太どつく。・・・でもショコ潤はどつけない(なぜなら美しいから)。

サエコさんが爽太のことも自分の結婚生活のことも10代の頃の男たちみたいに思い通りになんていかなくて、泣きながらシャワーを浴びるシーンで慣れないヒールの高いミュールを履いてたから靴ずれができてる原作のシーン、なんかキラキラして華やかなだけの世界なんてどこにもないんだってことを感じて、サエコさんに同情するとまでは言わないけど、サエコさんだって大変なんだよなってことを思ってすごい好きなんだけどなー。

まあさすがにそこまではドラマでは無理かー。石原さとみさんのシャワーシーン見たかったんだけどなー(目的はそっちかい!!!)。

ドラマ失恋ショコラティエがオリジナルになってきたけどすごくいい

しかしセフレというのは相手が本命の彼女(っていうか一応片想いってことになってるし人妻だけど)とデートしてきた帰りにうまくいかなかったうさを晴らすように「ごめん、抱かせて」って言われて気分よく抱かれてやることができるもんなんでしょうか?っていうかえれなの場合はそれができちゃうんでしょうか?ようわからん(なんか段々ムカついてきた)。

でね、原作だとさぞかし激しい鬱憤ぶちまけクソセックスが終わった後で「お互い片想いはつらいよね(苦笑)」顔の負け犬セフレカップル(※イライラのため失礼な表現がありましたことをお詫び申し上げます)は仲よくお風呂に入るわけですよ。

そんで「爽太くんとデートできる女の子は楽しいだろうなー」ってサエコさんの発言は脈あり発言じゃんとか、他人事じゃんとか、女として素直に発言の意図を汲もうとするえれなと、どうもサエコさんのことになるとなにもかもネガティブに考えてねじくれてしまう爽太のやりとりもなかなか面白かったりするんだけど、やっぱりなんかイライラしてしまう。

僕はもっと爽太はじめ失恋ショコラティエの面々にはいつも胸がひりひりするような切ない片想いに身を焦がしていてほしいの!セフレの身体に欲望をぶつけてそれなりスッキリしちゃってる爽太なんて見たくないの!バーカバーカ!

・・・って思いながら原作読んでたから、月9ドラマの失恋ショコラティエは今回4話でだいぶ原作と変わってきてすごくいいと思う。さすが爽太の親父役が大好きな竹中直人さんのことだけはあって、原作では影の薄い親父がいい仕事し過ぎだと思う。

六道さんの信念ある仕事ぶりに対して年齢を言い訳に安心していた爽太に「歳は関係ねえだろ」っていうとこ、さすが親父も爽太より長いこと職人としてやってきただけあるなって感じさせてくれてかっこよかった。

それで目を覚ましたように新作に打ち込むショコ潤という流れは素晴らしいと思った。まああくまでそれもサエコさんを自分に振り向かせるためってところが薫子さんの気持ちを思うと忍びないんだけど、あたいが見たいのはこれだよ!こういう胸がひりつくような切ないすれ違いが見たいんだよおおおおドラマスタッフグッジョブ!ってテレビの前でガッツポーズ取ってたくらい今回の失恋ショコラティエ4話も面白かったと思います。

・・・だいぶ気持ち悪くなってきたのでそろそろ終わりにしたいと思います(だいぶ手遅れ感)。失恋ショコラティエ4話の感想でした。おしまい。

追記:失恋ショコラティエ5話以降の感想も随時更新していきます。失恋ショコラティエ5話の感想

 

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