まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

僕は人生を愛している

「僕は人生を愛している」というタイトルで雑然とした文章を書いていたら案の定長くなりすぎてしまったので記事を分けることにした。

ここではしょうもない僕のしょうもない両親についての話にしぼって書く、というか両親の話は基本どうでもよく、結局しょうもない僕自身の話。はじめからどうしたって僕には他に書くことなんてなにもない。

いまだにどうしようもなく過去に苦しめられている

人生公平に言って悪いことばかりではない代わりに、いいことばかりのはずもなく、どうしようもない厄介事ってやつもあるわけで、僕にとってそれはいい歳していまだに両親の存在だったりする。

僕の両親がどういう人間だったか、その両親のもとでどんなふうにして僕が育ったかという話は、自分にとってすらどうでもいい上になかなか一口に言えるようなことでもなく(というか思い出すのもめんどくさい)、それについては物好きな人にはブログを始めた最初期に書いた人生の9割が親で決まるんだったら僕は今すぐ自殺するという記事を読んでもらうとして、まあ要するに控えめに言っても多分そんなによく出来た親とか、世間一般の普通の価値観に照らし合わせて両親に恵まれた、ということは言えないのではないかと思う。

実際いまだに毎日とは言わないが毎週のように夢にうなされて汗やら涙やらで顔中濡らして飛び起きる、というこの上なく死にたくなるような朝や夜を何度も迎えている(こればかりは本当にいつまでたってもなれない)。 

今更親子ごっこでもないけど、親孝行ごっこくらいはしてみたい

しかし、実はこの数年来そんなパパとママとも少なくとも表面上は比較的、というかこれまでの人生ではかつてなかったレベルで良好な関係を維持していて、数年前まではどうやって許せばいいのかさんざん苦しんで気が狂いそうだったのが嘘みたいに、僕に出来る範囲の本当にちっぽけなレベルでだけど、親孝行の真似事もできればいいなーということは思っている。

もちろん完全に許せたなんてことは絶対に言えないし、これから先そんなふうに言える日が来るのかどうかもわからないけど、とりあえず意識の上ではこれまで苦しめられてきた過去に対するわだかまりはだいぶ解消されてきたように思う。

いや、夢でうなされたりしている以上、全然解消なんてされていないのだけど、先述の(※)「常に注意深く今にあること、今にとどまり続けること」という僕の人生の唯一の心構えとも合わせて、わざわざ自分から過去の苦しみを再生し続けてしまうことの苦しみからは完全ではないなりに概ね解放されたと思う(※長くなったので別の機会に記事を分けることにした)。

というか実際確実に楽になったし、なんとか人並みの親子ごっこができる程度には接することもできるようになったのだから、それは素直に格段の進歩だと思いたいし、なんなら自分のことを誉め散らかしてあげたい。よくがんばった、偉いぞ、僕!

そんでもって、そのパパとママもそろそろ誕生日だったり、大台を迎えたりとするわけで、普段まともな子供らしい親孝行などは一切していないものだから、さすがにそういうときくらいはいろいろおいしいお店に連れて行ってあげようなどと僕なりに考えたりもしているのだけど、基本出不精な人たちなので多分嫌がられて結局近所の居酒屋とかになるような気がする。

張り合いのないことだが悲しいかな僕がやっぱり基本出不精なのはもしかしたらあの両親の子供だからなのかもしれない、あらゆる面で両親とはまったく似ていないし全然違う人間だけれども(僕にはあの両親ほどのスペックすらもない)。

あなたが人生を愛する時、人生もまたあなたを愛していたことを知る

それでも、そんな両親に対して僕が所詮親孝行ごっこでしかないとしてもしたい、しようと思えるようになったのは、やっぱりこれもひとえに僕が僕自身の人生を愛しているからだと思う。

僕は自己否定感が強く、自分自身を愛しているとはなかなか言えないし、ましてや両親のことを完全に許したとか愛しているなんてことは少なくともまだ死んでも言えないけど、僕は僕自身の人生をこよなく愛しているがゆえに、文字通りその生みの親たるあの人たちのことも全否定してしまうことは今はもうしてしまいたくない。

はっきり言えば親のことはどうでもいいし問題ではないのだ。許すことはただ僕自身の問題だ。

あの両親であったにもかかわらず、いや、あの両親だったからこそ今の自分、今のこの人生にたどり着けたのだとしたら(そしてそれは実際そうなのだ)、僕はあの人たちのことを全否定してしまいたくはない。両親や他の誰のためでもない、自分と自分自身の人生のために。

f:id:denpanohikari:20141116005100j:plain

今はまだ未熟者だから自己否定感や虚無感も強く、なかなか拭い切れないけど、いつか(ここで「いつか」と言ってしまうのが結局自分の弱さなのだけど、願わくばそう遠くない「いつか」)胸を張って自分自身を肯定できるようになりたい。そして自分自身の人生をもっと100%の信頼を持って愛したい。

そのときこそ僕は僕をそこまで導いたすべての過去やすべての出会い、すべての苦悩や不幸をも肯定できるようになるはずだ(というか単純に論理的な帰結として肯定せざるを得なくなる)。

そのときには僕はこれまで僕自身をどうしようもなく苦しめてきた両親をはじめとする様々な問題や苦悩の数々が、まさにそれこそが僕の人生最大の祝福だったのだということに気づくことができるだろう。

そのとき、もはや人生に抱きしめられないものはない。それまでのあらゆる苦しみ、あらゆる孤独、あらゆる寂しさ、あらゆる悲しみ、あらゆる虚無感、あらゆる敵意、あらゆる憎しみ、あらゆる絶望、あらゆる死を思い詰めて泣いた夜、それらあらゆる不幸のすべてを、どうにかなりそうなくらいの泣き笑いの中で、心から愛して抱きしめることができるだろう。

今はまだ笑うことより泣くことの方が多い人生だけど、僕は僕の人生を信じている。生きている間は、生きることをあきらめはしない。

本当にろくでもないクソったれた人生だけど、僕はこのクソったれた人生を愛している。


V.E.フランクル それでも人生にイエスと言う
 『夜と霧』のアウシュヴィッツを乗り越えたヴィクトール・フランクルの実存分析哲学の集大成。


人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法
 この地球にかわいい猫がいるだけで、人生は無条件に素晴らしい!人生ラブ!おしまい。

超はるかぜちゃん論 少女と傷とあっためミルクの感想

はるかぜちゃんこと春名風花さんの新刊、少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~をやっと読むことができたので、遅くなってしまいましたが感想を書きます。

この本は摩訶不思議アドベンチャーなことになぜか僕があとがきを書かせてもらったので、そのあたりのことも含めて半分おっかなびっくりで読んだのですが、お世辞とかでなしに面白くて素晴らしい本でした!

はるかぜちゃんと本を贈ってくれた扶桑社さんにありがとー!

少女と傷とあっためミルクから導かれし超はるかぜちゃん論

はるかぜちゃんについては以前にもはるかぜちゃん論 はるかぜちゃんのしっぽの感想という大仰なタイトルで、その実少しもはるかぜちゃんのしっぽ(ω)の感想を書いていない無駄に長大な文章を書いたことがありましたが、それがきっかけで今回少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~にあとがきを書かせてもらうことになったのですから、人生なにがきっかけになってどうなるかわかりません。

が、それはともかく今回はもうちょっとまじめに、はるかぜちゃんをダシにして自分が言いたい放題言い散らすだけではなく、ちゃんと少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~の感想の体裁を取りつつ、はるかぜちゃんをダシにして自分が言いたい放題言い散らしていこうと思います(結局人をダシにして自分が言いたい放題言い散らすスタンスはブレない)。

「超はるかぜちゃん論」というやっぱり大仰なタイトルですが、これも「続はるかぜちゃん論」とか「真はるかぜちゃん論」にしなかったことには実はきちんと意味があって、あくまで「超はるかぜちゃん論」であることの必然性が最後まで読んでもらえればわかってもらえると思います。

・・・まあ書いてる僕にもなに言ってんのか全然わかんないんですけど、でもまあそこら辺は最初に適当なこと言っといても最後にはなんとかギリギリで帳尻を合わせてくるやればできる子だって信じてます、っていうか信じたい・・・。そんなはるかぜちゃんとはまったく関係ない僕の切ない願いとともに、はるかぜちゃんの新刊少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~の感想です。

少女と傷とあっためミルクはドラクエの新作タイトルではない(重要)

まず、少女と傷とあっためミルクというタイトルですが、一番重要なのはこれはドラクエⅪのタイトルではないということです。これは勘違いしている人が非常に多い点だと思いますので最初にはっきり言っておきたいと思います。少女と傷とあっためミルクと聞いたら100人いたら99人までが「え?ドラクエの新作のタイトル?」って思うはずです、まさかそんなふうに思ったバカは僕だけなんてことがあるはずないと思います。

冒頭の文章から少しずつ読んでいくとわかるのは、これははるかぜちゃんという一人の少女が、わずかⅨ歳で、いや、9歳でツイッターを始めてからの、ネットで受けてきたたくさんの誹謗中傷や嫌がらせを通して傷ついてきたこと、悩んだこと、思ったこと、考えたこと、感じたことを通じて、いじめや悪口、仲間はずれといった問題について読者にも考えてほしい、そして生きていく中で様々なことに傷つき、あるいは自分も人を傷つけずにはいられなかった人たち(つまりすべての人たち)にも、一杯のホットミルクを飲むような気持ちでこの本を読んでやさしい気持ちを取り戻してほしい・・・。

そんな聖母マリアを思わせるような気高く美しく尊いはるかぜちゃんの祈りと願いが込められているタイトルなのであって、決してドラクエⅪのタイトルなんかじゃないわけです。っていうかそんなの当たり前だし!最初からわかってたし!べ、別に勘違いとかしてねえし!

まあ明らかに勘違いしてたアホはともかく、実際学校やお仕事を終えて疲れた気持ちでうちに帰ってきてから、あったかいミルクやミルクティー、ココアやカルーアミルクをいれて、いや、この際牛乳が嫌いならポタージュスープでも芋焼酎のお湯割りでもなんでもいいですから、ぜひあったかい飲み物を今日も一日がんばった自分のためにいれてあげて、ほっとくつろいだ気持ちで読んでほしい、そんな一冊です。

※平安歌人だった前世の記憶が唐突に甦っただけで少女と傷とあっためミルクの内容とは無関係です。

二日酔いで大盛りのカツ丼と親子丼どデザートにうな重食べるくらい重い

さて、すでにドラクエだの芋焼酎のお湯割りだの、さんざん関係ない話で無駄に冗長になってる感はひしひし感じつつ、気づいてないふりで内容に入っていきたいと思います。

まず、「はるかぜちゃんをナイフで滅多刺しにしてドラム缶にセメント詰めて殺したい(原文ママ)」というツイートを見つけた後、散々悩んだ末に警察に通報しようとしたところ、先に警察の方から連絡があったという話。すでに重い・・・。

でももっとひどいのは、むしろその後ツイッターで寄せられまくった「通報なんてやり過ぎ」「通報された相手が可哀想」「自作自演の売名行為じゃないか」といった声に深く傷ついたという話です。重いよ、重すぎるよ・・・。二日酔いの朝に大盛りのカツ丼と親子丼食べてその後デザートにうな重食べるくらい重いよ・・・。

あ、さっきは「ホットミルクでも飲みながらくつろいだ気持ちで読んでほしい」なんて言いましたけど、少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~は決して読んでて安らいだ気持ちになれるようなやさしい言葉が羅列してある本ではありません。

むしろはるかぜちゃん自身がネットやツイッターを使っていく中でどんな心ない言葉(それこそさっきのみたいな卑劣な殺害予告まで)を浴びせられてきたかというような話もてんこ盛りなので、もしかしたらかえってやさくれた気持ちになってしまう人がいるかもしれません。

でもそこで読むのをやめてしまっては元も子もないので、お手元のホットミルクなり芋焼酎のお湯割りなりをがぶ飲みしながら努めて冷静に、心を落ち着けて読みましょう。これも人生の修行です。ちなみに僕はこの本を読み終わるまでに3回急性アルコール中毒を起こしかけました。酒は飲んでも飲まれるな。肝に銘じておきましょう。

傷ついた人の気持ちは無視して善人面で加害者に加担する人たち

話を戻します。ここではるかぜちゃんが言いたいのは、殺害予告をするような奴の卑劣さ、最低さは言うまでもないとしても、こういうことがあったとき、本来被害者であるはずの側をまるでなにか悪いことをしたかのように叩いたり悪く言う人たちのおかしさ、異常さについてです。

これは僕も本当に腹が立ちます。はっきり言って「通報なんてやり過ぎ」とか「通報された相手が可哀想」とか「自作自演の売名行為じゃないか」とか言う人たちは全員頭がおかしいんじゃないでしょうか?

それでもしほんとにその人が殺されちゃったり(考えたくもないけど)なにかあったらなんていうつもりなんでしょう。なにかあってからじゃ文字通り致命的に遅いのに、「まさかほんとにやるとは思ってなかった」とか間抜け面で抜かして2,3日もすれば何事もなかったかのように忘れてしまうんでしょうか?

多分そうなんだろうと思います。所詮その人たちにとっては他人ごとなんてその程度のことでしかないのでしょう。そういう人たちにとっては悪意のつもりなんてないのです。むしろ自分こそはバランスよく配慮の行き届いた善人のつもりで「通報された相手が可哀想」とかほざいているのでしょう。

でも、僕に言わせればそういう頭が悪くて心ない発言をする人たちも、すでにどうしようもなく打ちのめされている被害者の傷に塩を塗るという意味で加害者と一緒だと思います。

なにがスルースキルだよマヌケ

挙句の果て、例えばはるかぜちゃんのような人が「それっておかしくないですか?」と声を上げようものなら、かえってはるかぜちゃんがボコボコに叩かれる。

いわく、「子供がネットなんて使うのが悪い」、「有名人が影響力ある立場を利用して一般人を晒し者にしてる」、「スルースキルがない」云々。・・・こうして書いていても腹が立って思わず4回めの急性アルコール中毒を起こしそうなくらいやけ酒が進みます。クソっ!がぶがぶ!っぷは~、芋焼酎お湯割りうめえ!!!!(真似しちゃダメなやつ)

他人事とは言ったけど、僕自身はるかぜちゃんほどではないなりに同じようなことで散々苦汁をなめさせられてきたので、はるかぜちゃんの悔しい気持ちは勝手にすごくわかる気がします。

もうそういう人たちのなにがどうムカつくかなんてことは説明するだけムカつくのでしませんが、ひとつだけ言うならとにかく卑怯!「自分は影響力も名もない一人の弱者で…」みたいな立場を都合よく装って、そうやって自分は安全な場所から一方的に人を殴ったり石を投げたりできると本気で思い込んでいる。そんでちょっと言い返されようものならすぐ「親父にもぶたれたことないのに!!」、ってアホか!てめえから人に唾吐いといて被害者面して甘えるのも大概にしろこのボケ!アムロ!奈美恵!(???)

勝手に諦めてろ。そして人に諦めることを押し付けることを諦めろ

そんな青汁のように青くさいことにかけては人後に落ちない僕ですから、「なんで『あきらめろ』を押し付けるんですか?」と声を上げて抗い続けるはるかぜちゃんには共感してしまわないはずがありません。まずい、もう一杯!

具体的にどうすればいいかはまだわからないけど、でも、「スルー」とか、「見て見ぬふり」が、違うのだけはわかります。

あきらめてる人は、勝手にあきらめてればいいじゃないですか。

勝手にあきらめて、世の中こんなもんだよ、仕方ないよって思ってたらいいじゃないですか。

(中略)ぼくはまだあきらめたくないです。

なんで「あきらめろ」を押し付けるんですか?

ここはもう心臓を握りつぶされそうなくらいはるかぜちゃんの気持ちに共感して涙が出そうになりました。っていうかむしろ口から血が出てるから本当に心臓握りつぶされた可能性もあります。それくらい共感しました。本当に素晴らしい・・・ごふっ。

そもそも、はるかぜちゃんがいなければアンチも存在しないのだから、はるかぜちゃんがいなくなればいい」というツイートを見かけたという話には思わず「はははははは…」と死んだ目で力なく笑うことしかできませんでした。面白いけどさ。ネタなの?本気なの?

もし本気でこんな面白いことを言ってるんだとしたら、この人にはぜひこの素晴らしい哲学をさらに推し進めて、「そもそも私がいなければはるかぜちゃんアンチもはるかぜちゃんも存在しないのだから、私がいなくなればいい」という究極の悟りにまで到達してほしい。そして勝手に輪廻の輪から永遠に解脱して二度と人に心ない言葉を吐くのを終わりにしてほしい、そう願っています。 

はるかぜちゃんは愛されている

まあはるかぜちゃんがどんなひどい言葉を常日頃から浴びせられているかはざっとこんな感じでありまして、はるかぜちゃん自身少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~の中でも普段のツイートの中でもいろいろめちゃくちゃな人たちのめちゃくちゃな言動に傷ついてきた話をしているわけですが、忘れちゃいけない大事なことは、こんなアンチとかそれに類するようなしょうもない人たちというのはごく一部で、基本的にはるかぜちゃんはたくさんの人に愛されているということです。

そしてそれは多分心ない人たちの悪意に苦しんでいる人たちも同じです。安心してください!

だいたいがアンチとかっていうのは、要するにわざわざ誰かのアンチ活動なんてしないと自分の存在も自他に対して証明できないような可哀想な人たちなので、それゆえに声がでかい、目立つというだけのことなのです。

裏を返せば、そういうアンチというのが湧くくらいたくさんの人から愛されているということの証明でもあり、アンチの人たちはそのことの困った副作用のようなものなのですね。

もちろん厳密に言えば「信者」とか「アンチ」とか一括りにされる人たちの中にも、まともなことを言っている「アンチ(と呼ばれてしまう人)」もいれば、どう考えてもおかしなことを言っている「信者(と呼ばれてしまう人)」の人もいます。

でもやっぱり基本的にははるかぜちゃんのまわりにいるのはみんなはるかぜちゃんのことが好きだから一緒にいる人たちだし、わざわざ粘着して傷つけてやろう、嫌がらせしてやろう、なんてみっともないことを考えている卑しくも哀れな人たちは本当に例外中の例外です。普通、みんなそんなにヒマじゃないですから。

もちろんみんながみんなはるかぜちゃんを愛すべきだ、応援するべきだなんて僕は1ミクロンも思っていませんが、興味がなかったらそれこそスルーすればいいだけの話です。実際、普通はみんなそうします。それを「興味ないけど」とか言いながらいつまでもしつこく粘着したり悪口を言ったり嫌がらせをしているような人たちはどう考えても異常です。興味ないどころか異常な執着です。

そういう一部の例外の異常な執着に悩まされることや傷付けられること、苦しめられることは正直これからも多々あるとは思いますが、事実としてはるかぜちゃんがたくさんの人に応援されたり愛されていることは言うまでもありません。そのことは悲しみや苦しみの渦中にあってもいつも忘れずにいてほしいなと思っています。

はるかぜちゃんの家族がみんな素敵すぎてうらやましい

もちろんフレンドリーで気さくなファンとの交流も見ていて微笑ましいですし、それになにより素晴らしいのははるかぜちゃんの家族です。

IQクソ高そうな弟さんかわいいわ、飼ってる猫(フナ!)やインコまでかわいいわ、そしてなによりご両親が素敵すぎ、うらやましすぎです。ご家族のなにがどう素敵なのか、素晴らしいのかは書くのがめんどくさいので少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~を読んで確かめてほしいのですが(さりげない宣伝)、特に「まじめな父とふまじめな母でできている」は、僕のようなおそらく生涯人の親になどならないであろうことを心に固く誓っているような人間が読んでも思わずじ~んとして目頭が熱くなるような名文です。

僕は基本誰がなにをどう思おうとその人の勝手だと思ってるんですけど、はるかぜちゃんのご家族に関しては、はるかぜちゃんを悪く言いたさにこんな素敵な家族の悪口まで言わずにはいられない人たちの人としての品性の下劣さ、心根の腐り具合というのは正直もう終わってんなーとさえ思ってしまいます(大体誰かの悪口言いたさにその人の周りの人を悪く言って相手を傷つけるなんていうのは人間として最も下等な行為です)。

そんなわけで、僕ははるかぜちゃんは心ない人たちにいろいろひどいことをされたり言われたり大変だなーとは思うけど、はるかぜちゃんがかわいそうだとか同情したりだとか、そんなふうには思いません。

むしろつらいことや苦しいことがあっても、真正面からそれと戦う自分を見守ってくれている家族がいるっていいなー、安心できるし心強いだろうなーってうらやましく思います。

ファンの人たちやご家族、こんなに素晴らしいたくさんの愛に守られているのに、わざわざしょうもない人たちのしょうもない悪意に傷つけられたり嫌な気持ちにさせられてしまうなんてもったいないですよね。

もちろん実際は言うほど簡単なことじゃないのは僕もわかってるつもりですが、はるかぜちゃんにはできるだけいつもそういうあたたかいものに目を向けてもらって、いつもあたたかい気持ちでいてくれたらいいなーと思いました。

ぼくは、愛されているし、とても信頼されています。

逃げるのも、やめるのも、いつでもできる。

だから、あきらめるのはまだ早い!

ぼくだからこそできる何かを、見つけて行きたいと思います。

そんなはるかぜちゃんのことをご家族はもちろんファンの人たちも応援しているはず!しょうもない人たちのしょうもない悪意なんかに負けないで、楽しい人生を送ってもらえたらいいなーと思います。

いつまでも子供のままではいられない悲しさと寂しさ

はるかぜちゃんは、「子供のくせに云々」って言い方をされるのをとても嫌っていた印象があります。なぜ過去形かというと、最近ではもう小学生の頃ほど子供扱いされていないように思うからです。自分からすると中学生もまだ子供ではないか?と思うのですが、最近ではもうそうでもないんでしょうか?

それはともかく、子供扱いされたり「子供のくせに云々」などというバカな大人の頭の悪さにムカついてしまう気持ちはとてもよくわかる反面、どうせ子供が子供でいられる時間なんて有限だし短いんだから、子供でいられるうちは子供というポジションにもっと甘えてたっていいのにな、と思って見ていた部分もあります。

だから、「ネットを離れて見えたこと」という文章の中で、いろいろあったけど「わかりあえない人の存在を認める」ことを覚えてツイッターを気持ちよく使えるようになった、という告白には正直一抹の寂しさと切なさを感じてしまいました。

9歳の頃のぼくは、すべての人とわかり合おうとしていました。

どんな人とでも、真剣に話せばわかり合えると信じていました。

と過去形で語る言葉は僕にはなんだかすごく悲しく聞こえました。

「わかりあえない人の存在を認める」ことを覚えたというのは、言い換えるならある意味では「あきらめた」ということだからです。もちろんはるかぜちゃんが悪いわけじゃないし、そうする他ない結論にたどり着いただけのことだとは思うのですが、まだ中学生のはるかぜちゃんがこういう結論にたどり着かざるをえないほど寒い世の中というものに対して、なんだか寂しくなってしまいました。

価値観が違う人といくら対話を望んでも、お互い不幸にしかならないということ。

もちろんこんなのは死ぬほど当たり前の真実でしかないんですけど、こんな何の色気も素っ気もないような真実に、まだ抗ってたって許されるのが子供のはずなのに、本当はそんなふうにはまだ心の深い部分で納得できていないはずなのに、自分に言い聞かせるようにして書いているはるかぜちゃんと、子供が子供でいられることの余地がほとんど残っていない社会に、なんだかとても切ない気持ちになりました。

これはもう120%僕の勝手な意見でしかないのですが、個人的にはまだはるかぜちゃんにはもうちょっとわからず屋の(ふりをした)子供でいてほしいなーと思ってたりします。

ほんとにわからず屋じゃなくてもいいのです。っていうかどうしたって賢い子は賢いから本当はわかっているのです。でもそれが全部わかっていて、それでもなおかつ子供でいられる間は子供の立場を利用してわからず屋の振りをする、それくらいクレバー(老獪とも言うw)であってほしい。めちゃくちゃ勝手ですがそんなふうに思いました。

「連鎖を断つ」なんて子供に言わせてどうする!

とかなんとか勝手なことをほざきつつも、僕も一応大人の端くれとして無関係だとは思えない、ある種の不甲斐なさ、情けなさ、申し訳無さみたいなものも感じてしまった部分もあります。

毎日のように「死ね」と心ない罵声を浴びせられても、自分は歯を食いしばってでも言い返さない、そんなはるかぜちゃんの心意気がヘヴィー級ボクサーの渾身の右ストレートのごとく僕の脳髄を揺さぶった「連鎖を断ち切る」という文章の中から引用します。

ぼくは思う。

今、当たり前のようにインターネットで他人を傷つけている人たちも、いつかどこかで心ない言葉に傷つけられたのかもしれないな、と。

人間は弱い。

差別をする人、いじめをする人、子どもを虐待する親、ホームレスに石を投げる人。

本当はみんな他者を傷つけること自体が目的ではなく、自分を守りたいだけなのではないだろうか。

この残酷な世界で、弱い自分、傷つきやすい自分を隠すため、より弱い者を血眼になって探し求め、自分がされて嫌なことをターゲットに対して行い、本当はちっぽけな自分を抱きしめ、布団をかぶって震えているのではないだろうか。

・・・ああ!!!!(涙)めちゃくちゃいいこと言ってるんだけど、こんなことをまだ中学生の女の子に言わせてしまう世の中はなんか違う!!!!(と思ってしまう)

「連鎖を断ち切る」なんていうのは、そもそもが本来大人の仕事のはずです。そしてそれを子供や次の世代に渡さないようにするのが連鎖を断つってことです。なのに、まだ中学生のはるかぜちゃんがこれまでにいい歳こいた大人を含む連中から散々受けてきた悪意を連鎖させないってことを言っているすごさと、裏を返せばその悲しさと糸井重里・・・。

はるかぜちゃんがこんなにがんばっているのだから、せめて僕も自分で止める、自分まででいろいろな負の連鎖を断つということを、もっと意識していけたらいいなと思いました。

「はるかぜちゃん」という役割を演じることのしんどさと自覚

はるかぜちゃんはいわゆる人気者です。なかなか過激なアンチも存在しますが、要するに過激なアンチも存在するほどの人気者ということです。

でも、そこにネット上のキャラクターとしての「はるかぜちゃん」と、ある意味では「中の人」たる生身の春名風花の間に乖離がないはずがありません。はるかぜちゃんは「強化版春名風花」というより、春名風花の「そうありたい自分」の理想を多分に含んでいるものなんじゃないかという気がします。

僕はたまにはるかぜちゃんのツイートを見ていて、「おいおい…」と思ってしんどくなって見ていられなくなることがあるのですが、それはどういうときかというと、アンチみたいな人にひどいことを言われて凹んでいるときとかではなく、むしろ熱心なファンなのであろう人たちに過剰なくらいに期待されたり応援されて、それになりふり構わず応えて見せようとしているときだったりします。

「おいおい、人間なんだから限界だってあるに決まってるのに、マンガかアニメの中の無敵超人かスーパーヒロインみたいに期待に応えようとしすぎだろ…」ってめちゃくちゃ大きなお世話でしかない心配を勝手にしてしまうことがあるのです。

でも、やっぱりはるかぜちゃんは一筋縄じゃないなーと思ったのは、はるかぜちゃんはちゃんとそのことについても実は自覚してたり悩んだりしているのでした。

ツイッターが楽しくて、思ったことをハッキリ書きすぎたせいで、今度は、「いつでも明るく強く、なんでも本音で話すはるかぜちゃん」っていうふうに見られることが増えて、その期待に応えようと、必要以上に頑張ってしまうようになりました。

ありのままの自分になれたと思っていたけれど、過剰に演じてしまうところは、もしかしたら昔からなんにも変わってないのかなぁ? と思うと、なんだか焦ります。

なんつー的確な自己認識・・・。

まだ若いんだから(っていうのもおかしいくらい若いんだから)焦ったりしなくてもいいと思いますが、なんでもかんでも期待する人の声に応えようとする必要なんてないんじゃないかと思います。そもそもそんなこと無理なわけだし。

無理なのに、無理に決まってるのに、「応援してくれるファンの人の気持ちだから」なんて理由でなんでもかんでもはるかぜちゃんには常に無敵のスーパーヒロインであってほしいみたいな無茶な期待に応えて自分以外の誰かになろうとしてたら「ありのままの自分」もへったくれもありません。もっと言えば「ありのままの自分」なんて今すでにそこにいる自分しかいないのであって、「ありのままの自分になる」とか言ってる時点でどうしったって的外れだし「演技」になってしまいます。

いろいろ大変なんだなあ・・・とは思いつつ、あんまり無理や無茶はしないで、つまりあんまり無茶で勝手な期待には「そんなの無理に決まってんだろ!勝手に無茶な役割ばっか押し付けてくんじゃねえよ、息苦しいんじゃボケ!」ってはっきり言うのもありなんじゃないかと少し思いました(※もちろんはるかぜちゃんはそんな言い方はしません)。

ぼく「春名風花」と、ぼくが作り上げたけど、ぼくじゃないような気がしてきた「はるかぜちゃん」……。

いつか”何も怖くない,,って言える日が、来るといいな。

「はるかぜちゃん」は当然春名風花さんの仮想人格ではあっても、中の春名風花さんそのものではないですよね、「気がしてきた」もへったくれもなく。もちろんぜんぜん違う別人格というわけではなくて、自分の内面を反映させたものではあるにしても、「自分自身」ではありえないと思います。

これは別にテレビや芸能界で活躍してる人だけでなく、ネット上でなにか発信してるだけの人でもみんなそうだと思います。そこは明確に自覚しておかないと無駄に苦しんだりあるいは自我肥大に陥ってアホなことをしでかしてしまったりということにもなりかねません(僕たちみんなに言えることです)。

でもだからといって「はるかぜちゃん」というネット上の仮想人格が魅力的で素敵なキャラクターであることには僕自身少しも疑いがないですし、はるかぜちゃん、というか中の(?)春名風花さんにもそのことは決して疑ったりしないでほしいと思います(ややこしいな・・・)。

「はるかぜちゃん」のことは自分の作った最高傑作、というか、ある意味で自分が手塩にかけて育てた子供くらいに思ってこれからも愛着を持って育てていけばよいのではないでしょうか。親が自分の子供の素晴らしさを疑ったらダメじゃないですか。だからはるかぜちゃんははるかぜちゃんというキャラクターの素晴らしさを信じて胸を張って育てていけばいいんじゃないでしょうか、ってがんばっていいこと言おうとしてるのにはるかぜちゃんがゲシュタルト崩壊してわかりづらいなこの文章!

唐突だけどはるかぜちゃんは面白いしかわいいし本当にいい子だし(略)

唐突ですが、はるかぜちゃんはめっちゃいい子です。・・・なんで急にはるかぜちゃんのことを誉め始めたのかというと、「ツイッターを控えることを控えることにした」という文章の中で、

ある日、めちゃくちゃおもしろい「まつたけのブログ」というブログに出会い、すみからすみまで読んだ結果、ぼくはツイッターを控えることを控えることにしました。

人を楽しませることにどれだけ長けている人でも、ブログをやめてしまおうと思う出来事があったんだと知り、そして、そこからの起死回生っぷりや、見事な考え方の転換を見て、なんだかよくわからないけど、ぼくもこんなところで立ち止まって、何も言われないように言葉を選んで、他愛ないお天気の話をしながら、ビクついて隠れていちゃダメなんだ! と思ったのです。

って書いてくれていたからです(誉められると弱いタイプ)。誉めてくれている中にも「なんだかよくわからないけど」って言うのが正直なはるかぜちゃんらしくてすごくいいと思います。

こんなふうに言ってもらう前から僕はもともとツイッターではるかぜちゃんのことを知っていて面白い子だなーと思っていたので、そのはるかぜちゃんからそんなふうに言ってもらえてすごくうれしかったのを覚えています。なので、その文章の中で、

ツイッターはいつか自然にやめるときが来るかもしれないし、いつか自然に変わっていくときが来るかもしれないけど、今はまだ、やりたいことをやっても、いいよね。(中略)

嫌なことを言った人よりも

しあわせになる。

それっきゃないよね!

ちょっと前までは、こういうこと書いたら叩かれるなーとか、アンチのエサになるなーとかいろいろ考えてから書いてたけど、良いことも悪いことも思いつくままに素直になんでもしゃべっちゃうほうが、なんだか僕らしいと思う。

と書いていてくれたことがマジでめちゃくちゃうれしかったです。本当に、変にいい子とかヒーローみたいな役割を演じてくれたりしなくていいから、子供のうちは変な役割なんてぶん投げて、はるかぜちゃんにはのびのびと気ままにしていてくれたらなんとなく僕もうれしいなーと思いました。

「教祖様」やリーダーの資質ある人の危うさと可能性

なんて言った舌の根も乾かぬうちから、勝手な役割、というか将来的な方向性の一つとして勝手な話をします。

なかなかつらかったりしんどかったりするエピソードも満載の少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~の中で、はるかぜちゃんには申し訳ないけどかなり興味深かった事例が、はるかぜちゃんがはじめての「ファンサイト」の中で、まるで一夜漬けの一夜干しの一夜城のごときハリボテの教祖様に祭り上げられてしまったときの話です。

この話は非常にSFチックで面白い(僕の好きなフィリップ・K・ディックの匂いがぷんぷんします。映画の『マトリックス』や傑作『トゥルーマン・ショー』が好きな人にもおすすめです)ので、興味のある人はぜひ少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~を読んでください(宣伝)。

はるかぜちゃんにとってはいまだに心に澱のように苦いものを残しているこの一件の詳細については本を読んでもらうとして、はるかぜちゃんが「教祖様」にされてしまうのはある意味で実はしかたのないことだ、という身も蓋もない話を少しします。

一言で言えば、こういうのってはっきり言って本人の側の問題じゃなくて祭りあげる側の問題だからです。少なくとも、祭り上げる側の問題として始まるのが常です。そして祭り上げられた結果間抜けな「教祖様」もその気になってエスカレートしていくのがだいたい世にある新興宗教の図式です。

もちろんはるかぜちゃんには宗教をやろうなんてつもりはこれっぽっちもないでしょうが、はるかぜちゃんみたいなタイプ、つまり自分の主義や主張、信念を明確に打ち出していくタイプの人というのは、どうしても勝手に英雄視されやすい、祭り上げられやすい傾向にあると思います。その上で言ってることもはるかぜちゃんくらい実際に素敵だったり魅力的だったりすると、否が応でも勝手にカリスマ性を帯びてきてしまうのですね。

はるかぜちゃんはファンの人を無差別に「信者」呼ばわりされることを嫌いますし(当たり前です)、僕自身前にすぐ信者とか言い出す奴らって何の宗教に入ってるの?という記事を書いたこともありますが、実はそうは言っても残念ながら実際一部には狂信的・妄信的な「信者」としか言えないような人たちがいることも百も承知だったりします。

で、結論から言うと、これについてはもうあきらめるしかないです。自分はそういうタイプの人間なんだなーって思って受け入れるしかないです。だって事実としてそうなのに「どうすれば…」とか悩んでも無駄に苦しむだけですから。

もちろんそれは新興宗教の教祖様になれなんて話ではありません(なりたきゃなればいいけど多分はるかぜちゃんはならないと思います)。勝手に「信者」がついてしまうことについては諦めた上で、取りうる方向性は他にもあって、実はこっちが個人的にはおすすめだったりするのですが、新興宗教の教祖様とは言わず、普通に自分を慕う人たちのリーダーという役割を受け入れるという方法です。

もちろん自分を慕う人というのが、誰でもいいから祀り上げて依存したいというようなアホばかりではしょうがないのですが、なるべく自分の頭で考えることを放棄して盲目的に依存しようとするバカは寄り付かないような形でリーダーになれば、はるかぜちゃんにはよりよい社会の導き手として稀有な存在になれる可能性が大いにあると思いま・・・えっ!?急に何の話始めてるの?

「正しさ」を考え続けていくこと、悩み続けること

はるかぜちゃん本人がそれを望むかどうかは知りません。というか、多分少なくとも今はそんなめんどくさそうな上に死ぬほど怪しい役割を引き受けるなんてまっぴらごめんでしょう。自分のやりたいことだってあるわけですし。

もちろんやりたいことはどんどんやるべきだし、応援している人がたくさんいるわけですが、今後どうなるとしても、はるかぜちゃんが何もかもに嫌気がして人間活動に専念したくなったとしても、はるかぜちゃんにとっての人間活動はやっぱりおかしいと思うことには「おかしい!」って声を上げ続けることなんじゃないかと思います。

もちろん普通に好きなことして楽しく生きてほしいんですけど、そのはるかぜちゃんにとっての「楽しく」とか「普通」ってことをやろうとしたら、自分の納得がいかないことに蓋をして見て見ぬ振りをする、スルーするってことはどうしたってできない気がするのです(そんなことしたらストレスでハゲる)。

だったらもうそういう自分を受け入れて、つまりそういう生き方をする以上は必然的に伴ってしまうすべての面倒事や不都合をも覚悟して引き受けてしまったほうがいっそ楽になることもあると思うのです。

少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~の帯書きの「正しいって何なんだろう」というのはちょっとおおげさに言えばはるかぜちゃんにとっての人生の一大テーマな気がします。また、同じような問題意識を持っているからこそはるかぜちゃんに共感したり応援しているという人も多いはずです。

はるかぜちゃんにはご苦労なことではありますが、これからもそういう「正しいって何なんだろう」みたいなめんどくさいことを考え続けて、「ああなんじゃないか?こうなんじゃないか?」ってことをどういう形であれ発信し続けてほしい。

もちろんそのとき「これが正しさだ!」って形で何かを断定して他をすべて否定しまったら、それこそ危ない新興宗教になってしまいますが、「ああなんじゃないか?こうなんじゃないか?」って悩み続けてくれるリーダーがいたっていいと思うのです。

むしろ僕はそういう人こそ魅力的だと思います。「ガンガン引っ張っていくから付いて来い!」っていうのとも少し違う、一緒に悩んだり迷ったりしながらそれでも自分たちの考える正しさを暗中模索しながら少しずつ前に進んでいく。はるかぜちゃんにはそういうタイプのリーダーとしての可能性があるんじゃないかなーと思います。

もしかしたら「これが正しさだ!」なんて断定するところにはもう正しさなんてなくて、悩んだり迷ったりしながらも一生懸命考え続けていくところにしか正しさなんてないのかもしれません。 

それは本当に苦しいことだけど、だからこそ同じような気持ちで生きている人たちと支えあって生きていくこともできるのではないでしょうか。一人では心細い道でも、そういう仲間がいてくれれば心強く歩いていけます。

はるかぜちゃんがそういう一人ぼっちで暗い夜道を心細い気持ちで泣きながら歩いている人に、「おーい!こっちだよー!」ってことを示すサーチライトみたいな存在になれたらすごく素敵だな、って思ったんですけどいい加減それは人に勝手な役割を押し付け過ぎな気もしてきたのでそろそろやめます。

でも「正しさのありかを示す」のではなくて、「正しさを一緒に探す」タイプのリーダーという考え方は勝手に自分で気に入ったのでここに書き残しておきます。

「いい子」であることをやめた時、はるかぜちゃんは超はるかぜちゃんに進化する

はるかぜちゃんという極上のとりにくをダシにして言いたい放題自分の言いたいことを言っていたら案の定アホみたいに長くなりました。そろそろ終わりにしてまとめます。なぜこの記事のタイトルが「超はるかぜちゃん論」なのか。「いい子」であることをやめたときはるかぜちゃんは超はるかぜちゃんに進化する、という一番勝手な話です。

まず、前提として僕ははるかぜちゃんは「いい子」だと思います。世間には「いい子」を悪く言ったりバカにしたりする風潮がありますが、僕はそういうのは嫌いです、いい子で何が悪いんだと思います。

でも、正直はるかぜちゃんみたいな「いい子」のことを、「うとましい」と思う人がいるのはわからない話ではありません。「ねたましい」というのとは違います。あくまでうとましく感じるのです。

「いい子」であることの問題は正しさについての問題とも切り離せませんが、誰かが「正しさ」とか「正義」を規定すれば、必然的にそこには「正しくない」とか「悪」もが規定されてしまいます。右をつくれば同時に左もできてしまうようなものですね。同じように「いい子」の存在は必然的に「悪い子」もつくりだしてしまいます。

だから直接自分がなにかを言われたり指摘されたわけではなくても、なにか自分の中に心当たりがあったり後ろ暗さがあるような人にとっては、はるかぜちゃんのような「いい子」の言動というのは、居心地が悪くなったり罪悪感を刺激されたり、自分を脅かすもののように感じてしまうこともあるのです。

そうして「はるかぜちゃんの正しさを認めること=自分の間違いを認めること」みたいなおかしな図式を勝手に自分の中で思い描いてしまい、敵対したり否定しようとして攻撃したりする人も出てくるのだと思います。

自分のアイデンティティの根幹に関わる問題だと思い込んでしまっているとすれば、彼らがあそこまで執拗にはるかぜちゃんに粘着して嫌がらせやなりふり構わない攻撃をしているのも納得がいきます(もっともそんなことしてたらそれこそ誰から見ても「正しさ」なんてものからは遠く離れていくばかりだということに気づかないのが残念なところですが)。

それに、はるかぜちゃんは今までに「いい子」であることで悪く言われたりして悔しい思いをたくさんしてきたからだと思うのですが、少し「いい子」であることにこだわりすぎ、強調し過ぎな気がしないでもありません。

そんなことしなくても十分すぎるくらいもとからいい子なんだから、もっと自然体でいいのに、必要以上に「正しくあること」や「いい子でいること」を自他に対して証明しようとしすぎに見えるときがあって、だからそういうのが気に食わないという人からしたら「いい子ぶっている」と言われてしまう気もするのです。

はっきり言ってしまえば、いい子なんだからいい子ぶらなくてもいいじゃん、ってことです。

(嫌な奴には)嫌われる勇気

それと、これははるかぜちゃんの本当にいい子なところだと思うのですが、やさしすぎるあまりなんでもかんでも拾おうとして無理なことを高望みしすぎなところがあると思います。ある意味では欲張りすぎなんだと思います。

逆恨みされないように相手にわかってもらうには、どうしたらいんだろうか?

嫌なことを嫌、違うことを違うと言うとき、どのようなことに気をつければいいだろう?(中略)

わけもなく他人を傷つけたがる人に、どうすればやめてもらえる?

どうすれば、優しの灯をともせるのだろう。

答えのないことを、あれから、もう何年も考えている。

すごく素敵で大好きな文章だし、前のはるかぜちゃん論でも書いた通り、僕は明らかに悪意あるひどいことを言う人間に対しても汚い言葉で応酬しないはるかぜちゃんの態度はめちゃくちゃ尊敬しているのですが、でも悲しいけどどうしたって無理なことはありますよね。

悲しいけど世の中には現実に人を傷つけたり嫌な気持ちにすることを楽しみにしている人、憂さ晴らしをしている人というのもいるのです。

そういう人たちに「わかってもらう」なんて無理です、なぜならわかっていてやっているからです。そういう人たちに「嫌なことは嫌」と言ってもしかたありません、嫌がられることは百も承知でそれを目的としてやっているからです。そういう人たちに注意はしたいけど「逆恨みされないように」なんて無理です、都合がよすぎます。

もちろんはるかぜちゃん自身答えなんてないことは百も承知でそういうことで悩んでしまう、という気持ちはすごくよくわかる気がします。でも意味はありません。少しの間おセンチな気持ちに浸ったら、その後は実際的にどう対処すべきかを考えるのでなければ意味がありません。

「人を嫌な気持ちにさせたり傷つけること自体をよろこびにして楽しんでいる人間に、どうすれば相手の気持ちを損ねずにきちんとわかってもらえるように注意することができるか?」こんなのは設問が狂っています。存在もしない解決策を考えることに意味はありません。

解決策なんて存在しないのだから、「どうすればいいのか?」はありません。そういう意味では「どうしようもない」んだけど、それでも「どうするのか?」という自分自身の態度を決めるための設問には意味があります。解決策がないのは明らかなのだからある意味では正解なんてありません。あくまで自分はどうするのかという自分の態度を決めるだけです。百人百様の態度があっていいし、そうあってしかるべきだと思います。

個人的な考えを言わせてもらえば、僕は人を嫌な気持ちにさせたり傷つけること自体をよろこびにしているような人間のことは大嫌いだし、そんな散々人の気持ちを損なっている人間の気持ちを損なわないことを考える必要を感じません。それよりそういう人間に誰かが傷つけられている現実のほうが苦痛です。

だからそういうクソマヌケにはやめろクソマヌケと言ってしまうし、その結果恨みを買うことは避けられないものだとあきらめています。いや、もちろんクソマヌケという言い方は極端ですが、別に言い方の問題とか誠実に向きあえばわかってくれるとか、そんなぬるい綺麗事が通用しない人もいることは多分誰だって知っていることだと思います。

悪人にとっていい子だったら、それはいい子じゃなくて悪い子だということです。そんな奴らにまでいい顔しようなんて思わないことです。「だせえ真似はやめろよこのクソマヌケ!」でいいのではないでしょうか。もちろんはるかぜちゃんはそんな汚い言葉は使わないでしょうが、もう少しシンプルに考えてもいいかなってことは少し思います。

めんどくさい正しさのめんどくささから逃げたりあきらめたりしないこと

他にも「一人しかいない友達にリスカ誘われてぼっちになりたくないから断れない」って言われて何も答えられなくなってしまった話とか、思わず「だったら一人になれよバカ!」「そんな友達ならいない方がいいし、そんな友達とは縁切れば新しい友達もできるかもしれないだろ!」って思ってしまうような話もあったけど、もちろん実際は人の気持ちは様々でそんな単純な話じゃないことは僕にもわかります。

実際「正しさ」なんてのは本当にこの世で一番めんどくさくて難しい話だと思います。だからだいたいの大人は昔はそういうことを考えていてもどこかで考えることをあきらめたり放棄してしまったりするのですね。

で、自分が勝手にあきらめたり放棄する分には人の勝手なのでかまわないのですが、どういうわけか(それは本当は心に忸怩たるものがあるからなのですが)そういう人間というのは、いまだあきらめたり放棄したりせずに「正しさ」ということを考え続ける人のことをバカにして笑ったり悪く言ったりするのです。

それでも、そんな「正しさ」なんてわけのわからないめんどくさいものについて考えたり悩んだり迷ったり間違ったり謝ったり悪く言われたり傷ついたり泣いたり笑ったりして生きていく戦乙女はるかぜちゃんのことを、これからも勝手に応援しています。

なぜか僕のあとがきがショッキングピンクのページに白い字で書かれていて目がチカチカしてまさにショッキングピンクでしたが、こんな素敵なはるかぜちゃんの本にショッキングなあとがきを添えさせてもらえたことは、僕にとっては一生の思い出です。はるかぜちゃん、本当にありがとー!

というわけで散々好き放題言いまくった超はるかぜちゃん論少女と傷とあっためミルクの感想、おしまい!少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~、本当に素敵な本だから興味のある人は読んでみてね~!


少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ
~ ちゃんかぜことはるかぜちゃんこと春名風花