まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

苦手な集団行動を前提とされる子供時代は人生の地獄

いきなりですが、集団行動が苦手です。でも、今そのことで特に悩んだり不便を被ったりすることはほとんどありません。なぜなら大人になってからは一切の集団行動と関わることを避けているからです(ただの社会不適合者じゃねーか)。

否が応でも苦手な集団行動を前提として強制される子供時代はそうは行かないし、今思い出しても本当につらかった・・・。集団行動が苦手で悩んでいる子供や学生さんには、夜明け前が一番暗いということを伝えたい。そう願ってこのたびペンを取った次第です(取ってない)。

 

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!

いまさらですが『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(通称ワタモテ)というどう考えてもタイトルがラノベ原作のアニメを見ました。

今までタイトルだけで敬遠してしまっていたことが悔やまれるほど、本当に面白くて素晴らしいアニメだったのですが、喪女でぼっちのヒロインが学生生活を悪戦苦闘するというストーリー的に、気がついたら自分自身の子供の頃の黒歴史的なものが走馬灯のように頭を駆け巡って白目を剥いて意識が飛びかけていたり、かなり命がけでのアニメ視聴となりました。

ワタモテを見ていて思ったのは、借金で破滅目前の無職アラサーという底辺にまで堕ちた僕ですが、それでもなんだかんだで子供の頃と比べればよっぽど生きるの楽になったしましになったよなーってことです。

もちろんいまだに自殺念慮に悶えることもありますが、深刻なのは3日に1回くらいにまで頻度が落ちてきています。ほとんど絶え間ない息苦しさと希死念慮に髪の毛の半分くらいが白髪になってしまっていたあの地獄のような子供の頃と比べれば、大人になってからの人生は果てしなく永く続く夏休みみたいに感じます(それはそれで問題だよ!)。

まあ子供の頃も大人になってからもなぜか一向にモテないことには変わりないんですけどね。なぜなんでしょう?一体誰のせいなのか?一発でいいから責任者をぶん殴りたい(バールのようなもので)。


私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い
 そうだ、どう考えてもお前らが悪い!


どう考えても私は悪くない
 そうだ、どう考えても僕は悪くな……俺がモテないのはどう考えても俺が悪い!(現実を認めて無事死亡)

集団行動が苦手な時点でイレギュラーとして弾かれる学校という場所

子供のハードルその1は幼稚園とか小学校、そしてそれ以降の中学とか高校とか大学などの学校という場所ですよね。

みんなで机を並べて同じペースで横並びに授業を受けたり、何かにつけてはペアを組まされたり(う、うわああああ!!!!)、お弁当をどこで食べればいいかわからなかったり(僕には便所飯する人の気持ちがわかります…)、文化祭とかいう地獄のフェスティバルをどう乗り切るかに憔悴したり、はじめから足手まといであることを前提に迷惑そうにされる体育の時間どうやって気配を断って姿を消すか悩んだり、同級生を崖から崖へと渡すのに命懸けの命の懸け橋を作ったり・・・

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画像は男塾の血と汗の伝統、命の懸け橋の図

とにかく学生生活というのは一にも二にも集団行動が前提とされ、学生の本分は勉強だスポーツだ恋愛だといったところで、全部当たり前の前提としてコミュニケーション能力が求められているわけで、むしろコミュ力のない奴は死ね!と言わんばかりの制度が学校という場所だと思います。

学校のお勉強の成績だけでその人間の価値を量られてしまうのも嫌ですが、コミュ力の有無だけで自分の存在価値さえも含むすべてを決められてしまうというのもつらいものです。

勉強なんてできなくてもめちゃくちゃやさしくていい奴なんだよって人もいれば、協調性やコミュニケーション能力には欠けるけど絵や音楽のすごい才能があるんだって人もいるわけじゃないですか。

でも学校生活ではまず大前提として協調性やコミュ力が必要とされているため、その程度に達していない人間は問答無用でイレギュラーとして弾かれてしまうことになります。偉い人であることが「そ~んなの~常識~♪タッタタラリラ♪」とまでヒット曲に歌われたエジソンのエピソードなんかはあまりにも有名ですよね。

まあエジソンくらい才能と母親に恵まれた人は例外としても、学業成績なんて一時的なものは本当に学生の間のことだけで、もちろん学歴はそれなり以上に重視されるものの、その後の人生で学業成績自体が特に役立ったり問題視されたりすることは基本的にあまりないのに対し、集団行動とかコミュ力というのは一般に生涯にわたってつきまとってくる問題だったりします。

まあまだそんなこと考えたくもない将来の話はともかく、人とのコミュニケーションや集団行動が苦手な人にとっては、何をするにもそれを当たり前の前提として半強制される学校という場所は本当に恐ろしいところだったと思います。嫌な話だしもちろんそれを肯定する気なんてありませんが、集団生活の中ではいじめみたいな問題もほとんど構造的に発生してしまわざるを得ないものなのかもしれません。

崩壊家庭だと家にも居場所がないから完全に詰んでる

集団行動が苦手だし友達もろくにできなくて学校生活がつらいと言っても、ワタモテのもこっち(喪女でぼっちのヒロイン)のように家に帰りさえすれば大好きなゲームに没頭してくつろいで過ごせるとか、話を聞いてくれるやさしい弟がいるとかでもなく、むしろ親が気違いだったり虐待されてたりでひとりぼっちの学校が憩いの場に思えるほど凄まじい地獄のような崩壊家庭だったりすると、もうはっきり言ってどこにも自分の居場所なんてありません。

絶え間なくヒステリックな金切り声で罵倒されたり、怒号とともに叩きのめされたり日常的にしていれば、どうして生まれてきてしまったのか自分の存在を呪いながら「I am GOD'S CHILD(私は神の子供)この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field? (こんな場所でどうやって生きろと言うの?)こんなもののために生まれたんじゃない」と鬼束ちひろの月光をブツブツ念仏のように口ずさんで死んだ目で早く人生がを終わることを祈るのみです。

子供の悲しさは何と言っても自由がないこと、力がないことです。生きていくためには基本的に親なりの保護者の経済力に依存するしかないわけで、こんな家嫌だからと寒空の下飛び出してもどうにかなるとは思えません。

それがわかっているからこそ子供が気に食わないとタコ殴りにした後「出て行け!」と言って子供を追い出す親もいるわけで、自活力のない子供にしたら自分が何をしたでなくても泣きながら謝って許しを乞うしかないのがわかっているからそうしているのでしょう。

家庭とか家族とはいえ一つの(多分最小単位の)集団である以上、それもルールを決めるのは自分ではない以上、どんな理不尽や暴力によって支配されないとも限りません。というか現実にそういう子供たちもいるのです。

「子供の頃はよかった」と言って子供時代をやたら懐古する人たちもいますが、単に思い出補正で美化しているというのでなければ、それは家庭などに恵まれていたのではないかと思います。そうでない人間にとっては一人で生きていく力と自由のない子供時代は、ひたすら理不尽に踏みにじられて身も心もぼろぼろにすり減らし我が身と運命を呪うだけの地獄のような時代ともなりかねません。

同じクソみたいな人生でも自分の境遇を選べない子供時代が一番つらい

あの頃は毎日のようにマンションの高層階に登って踊り場から地面を覗きこんだり、駅に行けば電車に飛び込むタイミングを計ってみたり、でもいざ自殺を決行することを考えるとこわくて悲しくて脚がガクガク震えて泣き出してしまったり、自分でも控え目に言ってもかなりお情緒が不安定でいろんな意味でかなり危機的でアブない人だったと思います。

それを思えば、学校をドロップアウトして家を飛び出した後の自分が生きているのがつらいとか苦しいなんて言うのは、ほとんど単に「めんどくさい」くらいの意味でしかなくて、はっきり言って怠けてるだけだよなーと思います(別に他の誰に甘えてるわけでもないし勝手に自分で苦労してるだけなのに「甘えている」なんて他人に言われると大きなお世話だ豚野郎と思いますが)。

結果的に子供の頃に自殺できなかったことが、果たしてよかったのか悪かったのか僕には正直いまだによくわかりません。いつまでも代わり映えしない自分や人生に、無責任に過去の自分に責任を押し付けて「あのとき死んでおけばよかった」と思ってしまうことはありますが、それでも学校と自分の産まれ落ちた家庭という2つの地獄にしか自分の存在する場所がなかった子供の頃と比べれば、今の苦しみなんてあまりにも生ぬるいということだけは言えるわけで、その意味では今更になって死んでしまうのはもったいないような気がしてしまい、それでずるずるおめおめと徒に長生きしてしまっている感はあります。

まあそんな有様(有様が無様)なので、胸を張って「俺はつらかった過去を克服した」とか、「一番力もなく自由もない子供時代を乗り切って大人にさえなってしまえば、人生はどうにでもなるし楽勝だ」なんてことまでは言えませんが、人から見たらどんな底辺を這いつくばって泥を啜るような毎日でも、その境遇さえ自分で選べないまま馴染めない環境に押し込められたり、様々な理不尽に文字通り身も心も打ちのめされたりしていた子供の頃と比べれば、僕は喜んで社会の底辺に寝そべります(^q^)(開き直ってないでお前はもうちょっとなんとかしろ)。

それにまあ何しろ貧乏性なもんで、なんだかんだでまだ生きていられるうちはとりあえず生きておかないともったいないような、苦労してここまで生きてきたのに今更こんなぬるい環境の中で自殺するなんて、その日その日を死なずに生き延びることに必死だった子供の頃の自分に申し訳が立たないような、そんな思いもなきにしもあらずであります。

無力で自由のない子供時代をやり過ごすためのいくつかのアイディア

まあ集団行動が苦手だとか学校がつらいと言ったところで学校がなくなるとか学校に行かなくてもよくなるなんてことは基本的にないと思いますし、家庭がつらいとか親が虐待親だから取り替えたいと願ったところでそれもなかなか難しい話だと思います。

要するに、集団行動が苦手だったり崩壊家庭に産まれ落ちてしまった人というのは子供のうちは為す術なし。どうしようもない。ひたすら過酷な運命に耐えるのみ。という血も涙もない無慈悲な結論にたどり着かざるを得ないわけですが、まあ精々少しでも協調性やコミュ力を身に付けるべく努力するとか、将来に備えてできるところから脱出の準備を開始するとか、ひたすらニーチェを読んで運命愛に目覚めるなどの無駄な努力をしてみるしかありません。

まあその結果として子供時代を子供らしく送ることができない不幸な子供、そしてそのまま成長して不幸な大人(アダルトチルドレン)にしかなれないことはほぼ確定してるわけですが・・・。

でもまあどうせ人生なんて生まれ落ちた時点で9割方決まってしまってるわけですから、諦めて精々十分に生きた場合のみ死後の安楽が約束される、みたいな新興宗教的な境地を開くことにでも望みを賭けましょう(身も蓋もなさすぎだし投げやり過ぎだよ)。

いや、悲観的(というか現実的)なことを言ってしまいましたが、そうはいってもこれまで書いてきたような子供時代の無力さによる自由のなさとか理不尽に耐える苦しみというのは精々十代後半くらいまでです。

十代も後半以降になってしまえば、僕のように本当に集団行動や特に好きでもない人とのコミュニケーションがどうしようもなく苦手だとか嫌で嫌でしかたがないということであれば、極力人と関わらないように生きていくこともできないわけではありません。

どっちにしても生まれた家庭に恵まれなかったとかコミュ力がないとかコミュ障という時点で人生ハードモードなことは決まっていて変えられませんが、それでも子供の頃よりはよほどましです。

それまではひたすら中島みゆきさん渾身のライブ版『ファイト!』筋肉少女帯の『戦え!何を!?人生を!』での大槻ケンヂの絶唱を聴くなどしてひたすら耐え抜いてやり過ごしましょう。

人生ハードモードの人間にとって選択肢のない子供時代はネクロゴンドの洞窟

平成生まれの人たちにはちょっと何言ってるのかわからない見出しになってしまった気もしますが、要は生まれつき人生ハードモードが約束されていた選ばれし勇者のみなさんにとって、様々な選択肢がそもそも存在しない子供時代こそ数多の昭和生まれの子供たちを葬ってきた最難関のラストダンジョンにも匹敵する迷宮である、ということです(結局説明するなら最初からそう言え)。

社会人になって仕事をするようになれば、責任もあるからいつまでも学生の頃のような浮かれ気分ではいられないなんて言う人もいますが、もともと学生時代に浮かれ気分だったことなんて1秒もない人間から言わせれば、仕事はどんな仕事をするのも(しないことすら)本人の選択の自由があるわけで、その意味で義務教育の小中学校を乗り切るほうがよほど困難だった、という人も(少数派ではあっても)世の中にはいるのです。

なので、集団行動が苦手でまだ学生のうちからこんなに人生がつらいんじゃ、社会に出てからはもっとつらいんじゃないか、なんて不安に思う必要はないと思います。というか、最悪そもそも社会に出て行かないという選択肢を選んで生きてる僕みたいな人間もいるので心配しなくても大丈夫です!(全然大丈夫じゃないしよけい心配になる

義務教育さえ終わらせておけば後はもう酒もタバコも自由高校や大学なんて別に行かなくてもいいし、虐待されてるとかひどい崩壊家庭でもバイトするなりパトロンを作るなりしてお金さえ自分で調達できれば家を出てどこででも自由に生きていけます。

そう考えると大人最高ですね!というか、コミュ力や家庭に恵まれなかった人にとっては子供の頃があまりにもハードモード過ぎなんだと思います。そういう人にはほんとにもう「ご愁傷様」くらいしかかけられる言葉もないのですが、願わくば何とか生きる道が見つかればいいなあと思います。

学歴もコミュ力も二の次三の次。まずは死なないことにステータス全振り

学歴がないと苦労するとか、学生生活をつつがなく送る程度のコミュニケーション能力もないようではどの道社会に出てからどんな会社に入っても通用しないとか、いろいろ言う人はいるでしょうし、実際そういう人たちの言うことにも一理も二理もあったりするわけですが、でもまあそんなのは所詮恵まれた人間の贅沢品です。

初めからコミュ力や家庭に恵まれなかったような人間に、贅沢品のよさをいくら説いたところで無意味じゃないですか。贅沢品のよさとか「あったら便利だよな」ってことくらい貧乏人にだってわかっていても、結局買う金のない貧乏人からすれば贅沢品のことなんて考慮するだけ無駄というものです。

学歴やコミュ力というのは武器みたいなもので、攻撃力の高い優れた武器があればそりゃ人生をどんどん有利に切り開いていくこともできるわけでそれはそれで重要なわけですが、仮に武器があっても敵の攻撃一発食らって即死するようじゃ意味が無いということです。

学歴だコミュ力だといったところで、武器を手に入れるために人生つらすぎて自殺して自分が死んじゃったら元も子もないし、自分は指一本動かしてない王様に「おお、◯◯、死んでしまうとは情けない!」とか言われるのもクソムカつくじゃないですか。

まずはとにかく生き延びるということを再優先に、人の苦労なんて何も知らない無責任な他人ごときに何を言われて馬鹿にされようと恥も外聞もなく逃げまくってでも、とにかく死なないということを再優先に回避力や防御力の底上げに専念したほうがよいと思います。

まあいくらなんでもここまで「とにかく死なないこと」(回避と防御)だけにステータス全振りして特化した、そういう自分みたいなケースは極端過ぎて参考になる人が極めて限られるんじゃないか、ってことにようやく自分でも気づいたんですけど、でもまあどうせ最初から多くの人に参考になるようなことなんて何も言えないし、とにかく学校だったり家庭だったり、少なくともある種の人間にとっては子供の頃ほど自分の自由がなかったりするから、そういう人はもう少しだけがんばって試しに大人になるまで長生きしてみるのもありだということを言いたいです。

もちろん学校にしろ家庭にしろ、クソみたいな環境から抜け出そうともせずただ漫然と成人を迎えただけではどうにかなる見込みはあまりなさそうですが、法律上の成人なんてものとは無関係に、まだ十代でもさっさと脱出するなり、それがまだできないにせよせめてできることから準備を始めるなり、それだけの気力と体力があるなら、それがあるうちは精々精いっぱいあがいておくに越したことはないと思います(それでもどうにもならなければそれから自殺すればいいと思います)。

内心正直自分でも「お前はアニメの話がしたいのかゲームの話がしたいだけなのか、何なんだ!」という声がしてないでもありませんが、書いた僕にもよくわからなくなったこの記事を通して一番伝えたかった真意について、勝手に想像して捏造読み取ってくれたらがんばって書いた僕としてはこんなに楽で助かるうれしいことはありません。よろしくお願いします。おわり。


コミュ力


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)


タイプがわかればうまくいく! コミュニケーションスキル