まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

しあわせになる方法

最近しあわせすぎてやばい。

天才すぎてついに絶賛大好評の宇宙一簡単にしゃっくりを止める方法に続いてしあわせになる方法にまでたどり着いてしまったかもしれない。

 

しあわせになる方法

最近しあわせすぎてやばい。と言っても宝くじがあたったとか友達ができたとか彼女ができたとか人生初風俗キメてきたとかそういった要因は何もない。手を出しちゃいけない悪いお薬やいけない葉っぱに手を出したとかでもない。外的な環境はなにも変わってない。自分が変わった。

あ、もちろん自分が変わったって言っても変な自己啓発セミナーに参加したとかではないです。

しあわせになる方法=好きな人やものの方を向く。以上

前は嫌いな奴らの方を向いていた。嫌な奴のことばかり考えてたら嫌な気持ちになるに決まってる。そんなんでしあわせになれるはずがなかった。

嫌いな奴らのことを相手にするのを完全にやめた。完全に背中を向けた。するとそこには最初からちゃんとわかってくれる人や好意的な人、やさしい人がたくさんいてくれた。ネット上にしか人間関係がない人間の思考という記事で、ネット上の人間関係はリアルの人間関係の絶対的な不足の、100%完全な穴埋めにはならないということを書いたし、その気持ちは今も変わっていないけど、もとよりそれは不満や恨み言でも何でもないし、むしろそれがあるだけでも自分には過分なくらいありがたいことだと思っていたのだけど、それがしみじみ嬉しく思われて一日に何度もしあわせな気持ちを感じるようになった。

無理解や誹謗中傷に貸す耳はない。有限で短い人生、そんな奴らに1秒でも関わるのは時間のムダだ。そんなものには背中を向けて、あたたかい理解ややさしさ、面白いこと、好きな人たちの方を向きさえすればしあわせはそこにある。

変な話もしかしたら自己否定感すらプラスに働いているのかもしれない。普通の人なら大して評価しないことかもしれないけど、いいことか悪いことか僕にとっては「こんな自分に」みたいな自己卑下の感覚があるから、本当にありがたいなあとか、世の中は捨てたもんじゃないなあみたいな、そんなことをしみじみ感じるようになった(※年取っただけとかじゃねえから!・・・多分)。

しあわせを変に特別なことだと思わない方がいい

多分しあわせになれないのは、変に「しあわせであるためにはこうじゃなきゃいけない」みたいな固定観念が強すぎるからだと思う。お金がないとしあわせじゃいられないとか、愛を誓い合った特定の相手がいないとしあわせじゃいられないとか、車がなきゃとか家がなきゃとか、多分そういうのってキリがない。全部満たす前に墓の中だ。実はしあわせってそういうことじゃない。

変にしあわせをなにか特別なことだと思い込んでしまっているだけなんだと思う。よけいなことを気にしなければ、案外しあわせってありふれたことなんだと気づく。

外的な環境はなにも変わってない以上、人からしたら相変わらず寂しいクソみたいな人生だと思うけど、しあわせなんて他人と比べることでもないし、僕にとっては今すでに十分しあわせだなあってことを最近よく思う。それで十分だと思う。ていうか、しあわせなんて自分でしあわせだと思えるかどうかでしかない

自分はしあわせだと思えること。そう思えることがまたしあわせだなあと思ってさらにしあわせになってしまうので、ちょっと自分でも最近しあわせすぎてやばいなって思うのだった。


一瞬で幸せになる方法
 

バラを見れば世界はバラ色、クソを見れば世界はクソの吹き溜まり

どこでなにをするかってことは急には変えられなくても、意外とどっちの方向を見るかってことは自由になるし、それだけで驚くほど世界が変わって見える。世界が変わって見えるということは、世界が変わるというのと同義だ。

嫌な奴の方を見ていたら嫌な気持ちになってしまうのは当たり前、そんなのは貴重な人生の無駄、誰を相手にして生きていきたいのかを考えれば嫌な奴よりも好きな人のほうを見て生きていきたいことくらい自明のはずだ。

僕には理解に苦しむことだけど、世の中にはわざわざ嫌いな相手の方を向いて、嫌いな相手を嫌な気持ちにすることに執念を燃やしたり自分の人生を使うのが趣味の人もいるみたいだけど、でも僕自身はそういう人のことも含めて完全に意識からシャットアウトして、好きだと思える人たちの方だけ見るようにした。

そしたら世界はバラ色だった。なんのことはない、今まで世界はクソだと思っていたのは僕が単にクソのことばかり気にしてしまっていたからなのだった。それ以上でもそれ以下でもない。これは大発見だ。ひとりでも多くの人に教えてあげたい。クソのことを気にしなくなるだけでしあわせになれるよ。好きな人やもののことで頭をいっぱいにするだけでしあわせになれるよ。

僕にもルサンチマンでいっぱいになって、世の中無理解で愚劣なゴミばかりだと思っていたこともあった気がするけど、今は世の中そんなに悪くないの記事にも書いたとおり、世の中そんなに悪くないと思っている。

「自分には好きなものも大切なものもなにもない」みたいなことを言う人もいるけど、ほんとは誰にだって大切な物もあれば大切な人だっているんだと思う。ただノイズばかり気になってしまってそれに気づけないんだろう。もったいないことだと思う。

どうせ短い人生、生きてる間くらいしあわせでいたい

豊かさっていうのはもちろん何でもかんでも貪って食べ過ぎたり食中りして苦しむことではない。食べられる量にはかぎりがある。それならなんで好きなものを食べないで、わざわざ嫌いなものを食べて苦しくなるまでお腹をいっぱいにしたり気持ち悪くなってしまうのかというごく単純な話。

人生は時間も想いも有限だ。いつか死ぬ。僕も死ぬ。好きな人たちもみんな死んでしまう。それならかぎられた時間、かぎられた命をなにに使うか、どうやって使うかはちゃんと決めておかないともったいない。僕は生きてる間くらいしあわせでいたい。だから好きな人たちのために使いたい。好きなことをして使いたい。好きなように使いたい。それだけのこと。とてもシンプルな話。

もちろんいつもいつでもしあわせでいられるわけじゃない。少なくとも自分の場合、今でも人格の深いところ、多分魂みたいなものにこびりついているような寂寥感や虚無感を感じて苦しくなってしまうことはしょっちゅうある。

でも多分それってどうにかしようと思ってどうにかなるものでもないと思う。誰かと一緒にいればどこかに行くような寂寥感じゃないし、なにかをしていればどうにかなるような虚無感でもない。それはしょうがない。むしろ変に気にしてもこじらせるだけだし、どうにもならないときは寝る。寝ることもできなければ泣く。泣くこともできなければ苦しいままでじっとしている

どうせどんな苦しみもいつまでも続くわけじゃない。やり過ごしながら生きていく。うまく行けばそのうち自然寛解してどうにかなるかもしれない。どうにもならないかもしれない。それはそれでいい。多分人生なんて死ぬまで100点満点になんてならないし、別に100点満点なんて取らなくてもいいんだと思う。

そんなことを気にするよりも、泣かないようにして笑うこともできなくなるよりも、たくさん泣いてもその分たくさん笑えればそれでいい。だから僕は好きなこと好きなもの、好きな人のことだけ考えていたい。「そんなことじゃだめだ」なんて口出ししてくる人にも耳を貸す必要なんてない。自分のしあわせは自分で守る。それだけのこと。超簡単なしあわせになる方法でした。おしまい。

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