まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

拝啓 イエス・キリスト様

拝啓 イエス・キリスト様

あなたへのほとばしり出る限りない敬愛の思いを告白せんとしてこの文章を捧げます。

多分読んだ人にはガチでドン引きされるタイプの文章になると思いますが、そのためにドン引きされたとてかまいません。なぜなら、どうせ私は普段からガチでドン引きされているからです。

ナザレのイエスをイエス・キリストと呼ぶのは信仰告白じゃないの?

イエス・キリスト様、いや、あえてナザレのイエスと呼ばせて頂きます、ナザレのイエス様。

私はかつて、決してあなたのことをイエス・キリストとは呼びませんでした。

なぜなら、イエスとは単にあなたの名前ですが、キリストとはヘブライ語でメシア、油注がれたる者の意であり、すなわちそれは救世主を意味する言葉であり、あなたをイエス・キリストと呼ぶことは、それ自体すでに「イエスこそは救世主である」という信仰告白にも等しいと思っていたからです。

いや、今でもその考えは変わりません。あなたをイエス・キリストと呼ぶことは、それ自体信仰告白に等しいと私は思っています(ちなみに同様の問題は釈迦、歴史上の仏教の開祖とされるゴータマ・シッダールタのことを「悟りを開いた者(覚者)」の意味で「ブッダ」と呼ぶことにも感じないではありませんが、ここでは割愛します)。

しかし、キリスト教徒やキリスト教国の人間があなたをイエス・キリストと呼ぶならともかく、キリスト教徒でもなければ宗教というもの自体にさしたる理解もなく、むしろ自分自身の無知の投影でしかない誤解や偏見にまみれたイメージしか持たない日本人までもが、それがあたかも単にあなたのフルネームであるかのように「イエス・キリスト」と呼ぶことを、私は常々かえってあなたへの不敬であると考えていました(マジメか!)。

無宗教だけど宗教が大好きな奴

今のうちにはっきり申し上げておきます。私自身は今も昔もキリスト教徒ではありません。いや、未来永劫にわたって私が「キリスト教徒」の輪に加わることはなかろうと思います。

といって、別にすでになにか別の宗教に入っているというわけでもありません。私は仏教における唐代の禅、ヒンドゥー教におけるアドヴァイタ・ヴェーダンタ、あるいはバクティ・ヨーガの教え、イスラム教におけるスーフィズム、それらの教えをこよなく愛しておりますが、しかし特定の宗教・宗派の信仰とは無縁の、そういう意味では「無宗教」の人間です。

そんな信仰とは無縁の、無宗教である私が、あなたのことをイエス・キリストと呼び、あなたのことを人類の救世主、私自身の救い手、主その人であらせられると曲がりなりにも認めるなどということは、私のような今の日本においてかえって宗教というものをよほど真面目に考えている人間にとって、できることではありませんでした(だからマジメか!)。

釈迦もイエスも境界性人格障害(※個人の感想です)

それゆえに、私はかつてあなたのことをナザレのイエスと呼び捨てにし、あるいは気さくにイエス先輩と呼ばせていただいていました(気さくすぎだよ!)。

と申しますのも、あなたのお気を悪くさせてしまわなければよいのですが(あなたがそのようなことで気を悪くなされる人だとは思っておりませんが)、私はずいぶん昔から、それも小学校に入るか入らないかくらいの頃から、お釈迦様に対して抱いているものと同程度の親しみをイエス様にも感じていたからです。

別に親から変な宗教教育を施されたとかではなく、そういう意味ではおそらく普通の、うちに一応聖書の一冊くらいは置いてある程度の一般家庭でしたが、子供の頃から病弱で学校を休みがちだった私は退屈しのぎに聖書や大乗仏典はその頃から読んでいました。

ただ、今にして少し申し訳ないのが、私があなたやお釈迦様に対して抱いていた親しみというのは、決してあなた方がその信者たちから持たれているような、その偉大な教えに対する崇敬の感情ではなく、歴史上存在されたとされる一人の人間としてのあなたたちの、あまりにも人間らしい…というのではとうてい足りないくらい、むしろ平均的な人間にも増してクズじゃねえかってところに失笑と親しみを感じざるを得なかったからです。

それはたとえばお釈迦様においては自らの出家したさに(ただでさえ当時出家とは家族を捨て完全に世俗を離れることであったわけですが)、釈迦族の王であり次期後継者であるあなたの出家に当然反対する父スッドーダナ王やヤショーダラー妃の声を無視したのみならず、てめえでセックスしてつくった子供の懐妊をよろこばなかったばかりか、その子供に自らの出家の障害であるという意味で羅睺羅(ラーフラ)という、さながら現代であれば自分の子供に「悪魔」とかつけちゃうような身勝手なクソ野郎であった点。

そしてナザレのイエス様、あなたにおかれましてはご自分のお腹が空いていたタイミングでたまたま通りかかった道端のイチジクの木が季節外れだったため実が生っていなかったという本職のヤクザ屋さんも顔負けのおそるべき因縁理由で、「未来永劫にわたって実が生らないように!」と呪って哀れなイチジクの木を枯らせておしまいになられました。

私はそれらのエピソードを読むために、「こいつらwwwwwwパンピーにも増してクソ野郎じゃねえかwwwwwwwwwていうか釈迦が感じていた慢性的な虚無感とか自分の思い通りにならないからってイチジクを呪っちゃうイエスの激怒ぶりとか、こいつら境界性人格障害なんじゃねえのwwwwwwwwww」って思って大爆笑しておりました。

と言うか、今でもお二人のことは境界性人格障害だったのではないかと大まじめに思っております。そう言えばお二人とも、釈迦をお産みになってすぐ亡くなられてしまった摩耶夫人といい、「処女懐胎」などというちゃんちゃらおかしいたわ言をほざいて実の父親を隠している節のある聖母マリアといい、その母子関係においてなんらかの問題があったであろうことも容易に推測できます。

(哀れな大工のヨセフがイエスのただの養父でしかないということであれば、当然イエスはダビデの血筋でも末裔でもなんでもないことになるわけですが、都合のいいときだけ救世主はダビデの子孫から現れるという預言を使って「ダビデの子イエス」とか言うのはヨセフさんがあまりに可哀想だと思います)

しかしここではお二人の精神鑑定がしたいわけではありませんのでこれ以上はその点に関しては触れません。

っていうか、言っても私もメンヘラです。別にお二人のことを自分より劣ったボダとかメンヘラという異常人種だと差別して笑ったわけではなく、ボダゆえの苦悩や問題と逃げずに向き合うことでその生涯を全うした人たちなのではないかということに、勝手な親しみと愛しさを感じさせていただいておりました。

キリスト教のテキスト(聖書)のお粗末さ加減

とはいうものの、はっきり言ってその程度でした。

お釈迦様に関しては、スッタニパータやダンマパダ(法句経)、サンユッタ二カーヤ、アナパーナサティ・スートラといった原始経典、かつては小乗仏教などと蔑まれたいわゆる上座部仏教においてことさら重視される経典にもひと通り目を通しましたが、そうしたパーリ語で書かれた原始仏典からしてマガダ語で話したとされる釈迦の言葉の翻訳、それも釈迦入滅後数百年も経ってからの成立であり、その間何度も結集での編纂があったことを考えれば、どこまで釈迦自身の教えに忠実かなど誰にも言えません。

それはナザレのイエス様、あなたにおかれましても似たようなもので、おそらくあなたはアラム語を話したと思われますが、いわゆる正典とされる福音書もギリシャ語で書かれ、どんなに早くに成立していたとしてもあなたの処刑後数十年経ってからの成立であり、新約聖書の中で語られるあなたの言行がどこまで史実に忠実であったかなどということは、誰にも言えることではありません。

いや、そんなことは土台無理なのだから本当は最初からどうでもいいのです。

ただ、はっきり申し上げさせていただきますと、原始仏典に説かれた釈迦の教えの深み、あるいはその後数百年以上にわたって大乗仏教として発展していく非常に高度な仏教哲学(特にナーガルジュナ(龍樹)の中観派の哲学)、さらには中国は唐代において禅の隆盛としてこれまでの人類史上最高度にすぐれた教えが説かれ、花開いたのに対し、キリスト教はテキスト(聖書)があまりにもお粗末に過ぎるのではないかと常々思っておりました(※個人の感想です)。

信仰の宗教の難しさとストレスで聖痕現れまくりなイエス様

少しだけ具体的に申し上げますと、福音書の中のイエスの言葉のものすごいそっけなさ、味気なさ、いちいち下手くそな喩えとか使ってかえってわかりずらいわ!って突っ込まずにはいられないわかりずらさ、その後のパウロの信徒たちへの手紙や公同書簡のただ信者たちが一方的にイエス・キリストマンセーしているだけとも見えてしまう外部の人間からしたら非常に寒々しい感じなどです。

ここらへん、釈迦自らが「自燈明(自らを灯明とし、自らを依処として、他人を依処とすることなかれ)」を遺言とされ、本来的にはあくまで自ら真実を明らめていく「智慧」の宗教である仏教に対し、「信仰」をその最大のテーマとしたキリスト教の難しさ(そしてこの信仰の問題こそがはっきり言っていわゆる宗教への一般人の多くが感じている気持ち悪さやこわさ、嫌悪感といった感情にも深く関わっている)を感じます(もっとも仏教も大乗仏教になると浄土教系の教えをはじめとして信仰が最大の問題になるのですが、このあたりは実はバガヴァッド・ギーターの影響が…ってまた話が無駄にマニアックになってしまうので割愛します)。

誰も直接見たこともない以上、いるかいないかもわからない、誰にも証明できない神だの、しまいには後々の信者たちによって勝手に崇め奉られて明らかに過剰に神格化された(としか思えない)イエス像、そのくせやっていることといったら福音書の中のイエスの言葉からはとても想像もできない醜い侵略や略奪、横暴、戦争、殺戮、そして教会の腐敗の歴史・・・。

宗教が正しく生きていくための手段としてではなく、自らを正当化するための手段として利用されるとき、それはこの上なく醜くおそろしいものとなってしまいます。

その惨状たるや今更イエス様に申し上げるまでもなく、むしろ今もなお天国だかどこかにあなたがいるのでしたら、他の誰よりそのことを嘆かわしく思われ血の涙を流されていることと思います。もうストレスで毛根が抜けるどころか聖痕が現れまくりなことでしょう。

なにしろあなたは当時から教会でブチ切れて「私の父の家で商売をするな!」と激怒してちゃぶ台(ではないけど)をひっくり返すような気違いロックな人だったからです。

私が思うに、あなたは神と人との内なる直接的な結びつきを何より重んじた人だったのだと思います。権威は神のみにあるのであって教会にあるわけではない。人がその信じる神に祈り、愛するのに他に何の権威が必要でしょう?

しかし皮肉なことに今日においても人と神との間に仲介者のごとく大威張りで君臨しているそれは、あなたの名前を利用して仲介手数料をふんだくってボロ儲けしているのでしょう。うらやましい嘆かわしいことです。

聖書は出来損ないのファンタジー

そういうわけで、要するに私はキリスト教というやつが基本的に大嫌いだったわけです。いや、この期に及んで遠慮とかしてもしょうがないのではっきり言いますが、聖書からして新約旧約問わず、まともに読む価値のない出来損ないのファンタジーみたいなクソみたいな本だと思っていました。

いや、ユダヤ教はユダヤ教で別にいいのです、あれは本当にユダヤの民の宗教であり、別に私ごときがどんなにそのヤハウェだかエホバだかいう名の神のことごと蛇蝎の如く忌み嫌っているとしても、そんなことはユダヤ教徒たちにしてみれば知ったことではありません。最初からユダヤ人でもなんでもない私とは無関係な話だからです。

また、当時のユダヤの民たちの環境の中で生きていくための決まり事、規範としては、豚を食べない食習慣や割礼などの伝統にも実はそれなりの合理性がありますし、そうした時代背景や土地柄といったことを単に歴史的・学問的に研究する上ではもちろん資料として十分重要な価値があります。

しかしそれを当時とはあらゆる面で環境が違う人間が、自分がいかに生きるかという宗教の問題として、そのまま当時のルールを墨守しようとしても単なるナンセンスというものです。それでも「それが俺たちの生き様なのだ!」と言われればそれまでだし無関係な人間が口出しすることではないのでなにも問題ありませんが。

聖書のどこを読んでそんなにありがたがればいいのか

ただ、仮にもナザレのイエス、あなたを主でありキリストであるとするキリスト教およびキリスト教徒たちのあり方は、私にはとうてい理解できるものではありません。むしろイエスの名の権威において横暴を振るいたいだけなら、新約聖書からイエスの言葉をもっと都合よく改竄してしまえばいいのに、そのわりには「あなたの敵を愛せ」だの「7の70倍まで許しなさい」だのと素晴らしい教えが説かれていた記述は残っている。

このあたり正直理解に苦しむというより、はっきり言ってキリスト教において権力を握っていた教会の人たちというのは、いろんな意味でかなりバカだったんじゃないかと思ってしまいます。

そんなわけで、私は聖書というのは詩篇のごく一部(23篇など)とイエス様のごく少ない断片的な教えの記述を除いては基本ゴミみたいな本だと思っていました(その意味ではグノーシス主義の色が強すぎて正統派教会からは疎んじられるイエス語録集的なトマスによる福音書のほうがよほど面白いのですが、もちろん正典として聖書に収められてはいません)。


トマスによる福音書 (講談社学術文庫)

そんな聖書のような大した内容もない本をいつまでも終生ありがたがって読んでる(わりにはひどい行いをしている)人たちも哀れなら、キリスト教国でもないのにいちいちホテルの部屋には当たり前みたいに置いてある感じとか、正直きめえなーと思っていました。

いや、ちょっと書いてるうちに調子こきすぎて言い過ぎちゃった感もありますが、とにかく最高にありがたい本の代名詞としてバイブルと言ったりするような大した本では全然ないし、キリスト教の伝統の中から出た人で「この人はすごい」と思える教えを遺した人なんてマイスター・エックハルトくらいで、あとはすごい神秘体験をしたとか奇跡を起こしたとか、多分に修道的・神秘主義的な話になってしまって、それこそ信じるか信じないかはあなた次第ですみたいな話になってしまうと思います。

個人的には正教会におけるヘシュカスム(静寂主義)とかガイオン夫人みたいな奥義派の人とか、祈りを通して東洋的なヨーガや瞑想と同一の境地にいたろうとする神秘主義的な側面にはめちゃくちゃ興味津々なのですが、いまだに謎や秘密が多すぎたり、下手したら異端として処刑されたり、少なくとも外部の人間にとってはほとんど取り付く島もありません。

聖書中のイエスの「誰もいない静かな場所で祈れ」といった教えは少し深読みすればそういったかぎりなく瞑想的な祈りのことを言っていたと思うのですが・・・(グルジエフみたいに聖書を秘教的に読み解くのは面白いと思いますが、額面通りに読んでいる信者が大半な気がします)。

ユダヤ教・イスラム教の神と、イエスの信仰する神とは別の神である

まあいいや、ちょっとどうでもいい愚痴を言い過ぎました。ああ、イエス様。どうかキリスト教徒の名のもとに私のことをボロクソに攻撃してぶっ殺してやろうみたいな人たちから私をお守りください!あなたの弟子を以って自認するはずのキリスト教徒のみなさまがそんな野蛮な人ではないと私は信じています!(ずるい)

そう、私が今日あなたに申し上げたかったのは、こうしたこれまでの「キリスト教」なる宗教のあり方やキリスト教徒たちの行いへの愚痴などではありません。ただひとえに、イエス・キリスト、あなたへの愛と感謝を告白したかっただけなのです。

別に回心だの悔い改めだのというものではありませんが、私の今までの福音書理解はまったくの的外れであったことが今にしてよくわかりました(そういえば現在キリスト教で汎く使われている「罪」という言葉は、本来ギリシャ語の聖書において単に「的外れ」を意味するハマルティアという言葉だったと聞いたことがあります。だとすれば「罪」という訳はそれこそ的外れな訳だと思うのですが・・・)。

・・・まあその他の部分の内容は、やっぱり個人的には基本ゴミだと思ってるんですけど、それも私の中ではイエス様とそれほど矛盾はしていません。

というのも、旧約聖書において記述されるユダヤ教の神、そしてイスラム教のクルアーン(コーラン)に説かれるアッラーとはたしかに同一の神ではあっても、ナザレのイエス、あなたの説かれた神とはどう考えても似ても似つかぬ別の神であると私は考えているからです。

嫉妬深く、自らに敵対する者は決して許さず、その怒りは暴虐と呼ぶほかないほどただひたすら恐ろしい荒ぶる神と、イエス様、あなたの説かれた愛に満ちた慈悲深き許しの神は明らかにまったく別の神であると思うからです(自分で造った人間たちの愚かさに後悔する神なんてはっきり言ってただのアホだし、敵のことは女子供に至るまで一人残らず殺せなんて狂神を崇めたいとは思いません)。

そういう意味では、私はこれまでキリスト教に完全に無関心だったためまったく詳しくないのですが、ナザレのイエスはユダヤ教のオーソドックスな教えを受けて育ったのではなく、特殊なコミュニティーの中で育ったのではないか、あるいは福音書で語られるような華々しい活動を始めるまでの空白の期間に、何らかの特殊な教育、修行を受けたのではないかとするあやしい研究に大いに賛同するものです。

(グノーシス主義でも、旧約聖書の神ヤハウェのことをヤルダバオートと呼び、愚劣にして傲慢な偽の神、下級神、第一のアルコーン(偽神)デミウルゴスであるとして蔑視、敵視していたことも非常に興味深いと思います)

そして、あなたが限りなき愛を込めて「父」と表現なされるその神こそは、私自身が無宗教でありながら勝手にその存在を確信し、敬愛しているその神そのものです(もっとも私の場合はイエス様とは違った意味でファザコンなので、神を「父」と呼んで敬愛することはできないので単に「神様」と呼んでいますが)。

イエス様のこと…キリストだって認めてあげてもいいんだから!////

そう考えたとき、かつて人の身でありながら私の信じる神様の御心に一番かなう生き方をしえた人間は誰だろうと思ったときに、「あ、やっぱりナザレのイエスじゃん!」と思ったのでした。

そしてその瞬間、今まで適当にナザレのイエスと呼び捨てにしていたけどやっぱりあの人は偉大なイエス先輩だ、いや、イエス先輩と呼ぶのも不遜ならイエス様だ、とこれまでの自分の非礼を改めた次第です。

挙句の果てにはキリストという言葉の定義にもよりますが、いつかキリストと呼ばれる神の子が現れて人類を全員アセンションさせて天国に連れて行ってくれる、みたいな脳みそお花畑なファンタジーを描かなければ、十分キリストと認めてもよいのではないか、必ずしも望ましい形ばかりではないなりに、一粒の麦として死に、二千年後の現在に至るまで見事に多くの実を結び続けたことを思えば、イエス・キリストと呼んでもいいのではないかとさえ思い始めました。

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自らのハート(フリダヤム)を指し示して二本の指で祝福するイエス・キリスト。チィーッス!イエスパイセンチィーッス!

ちなみにイエス様って言うとなんとなく金髪青い目の白人をイメージしちゃうけど、そもそもがユダヤ教ってアジア発祥の宗教だし、史実としてのイエス様はもっとアラブ人顔してたはずですよね、アラブ人もユダヤ人もアブラハムまではご先祖様も同じなわけですし。

キリスト教と聖書の真価とはひとえにイエスの受難にある

つまりなにが言いたいかというと、新約聖書の私にとっての真価(そして私の考える「正しいキリスト教」の真価)は、イエスの遺した非常に数少なく、また断片的でわかりにくい喩え話などではなく(「汝の敵を愛せ」といった非常にシンプルで明快な偉大な教えもありますが)、イエスがどのように生きたか、というより、イエスがどのように死んだか、というあの受難の部分にこそすべてあるのだということです。

正直その後のイエスが復活したとか、それを目で見てもまだ信じられない弟子のトマスに自分の脇腹に空いた穴に手を突っ込ませたとか、そんなびっくり奇人ショーだかデビッド・カッパーフィールドも真っ青の大魔術だか、そんな奇跡的なエピソードにも大した意味はないと思っているほどです(ちなみにグノーシス派ではイエスの物理的な復活を否定しています)。

仮にイエスが復活などせず、神の子ですらなく、そもそもが神なんて非科学的なものはこの世に最初から存在していなかったとしてさえ、私にはどうでもいいことです。

それでも、いるかいないかもわからない神などというあやしげな崇敬の対象をこよなく愛し、そしてそのためにその被造物たる人類をも愛し(イチジクも神の被造物なんだけどそこはご愛嬌ってことでお願いします)、それも自分のことをユダヤの王と持ち上げる人や弟子のみを愛したのではなく、むしろそんな人々や弟子たちにすら裏切られ、唾を吐かれ、石を投げられたイエス。

そのイエスが、地上において誰一人味方する者もなく、罪人の十字架を背負わされ、鞭打たれ、釘打たれ、それでもそうした罪深く心弱き人たちに対し、呪詛の言葉一つ吐くでもなく、神に「彼らを許してください、彼らは自分がなにをしているかわかっていないのです」と人々になり代わって許しまで乞うて粛々と刑を受けて死んでいったということ。

もうそれだけで、私は間違いなくナザレのイエスという人はすごい人だった、それも飛んでもなく素晴らしい人だったと確信しています。ふぇええ、一度会ってみたかった・・・。

「汝の敵を愛せ」の教えを実際に生きて死んだすごさ

霊格だの魂だのというとまた気持ち悪い話になってしまいますが、イエス先輩こそは自分が考える人間としてのこの上ない高みを極めた人だと気付き、今更敬愛の念があふれてきた次第です。

まあだからと言っていわゆるキリスト教徒になるつもりは毛頭ないのですが、今はイエス様のことを、これまでに尊敬していた仏教の唐代の禅師とか、ヒンドゥー教やスーフィズムの聖者たちとか、その誰に勝るとも劣らないレベルで敬愛しています。

教えを説くことは難しくないが、その教えを実際に生きて示すことはこの上なく難しい。しかしそれができなければ最初から教えなんてものに意味はない。そう思うのです。

そしてそれを、「汝の敵を愛せ」などという、かつて語られたありとあらゆる教えの中で最も難しいであろう教えを自ら体現してそのために死んでみせたイエス・キリストという人は、やっぱり私にとってはまさにジーザス・クライスト・スーパースターな人間の理想、ヒーローです。

もちろん私は愛する人たちから裏切られて殺されたりなんてしたくないし、そもそもそんな状況になるようなことも多分ないと思いますが、ゲッセマネの園で血の汗まで流して苦悩したイエス様のような生死の悩みどころか、日常において多々生じ得る些細な出来事の一つ一つにすら思い悩み、なかなか許せない自分といったすべてが、あまりにもイエス様と比べると(比べるのもおこがましいんだけど)ちっぽけでくだらないことに気づきました。

真の信仰の奇跡とは、人を愛し許すこと

福音書の中にはイエス様が病気や盲目の人を治したとか、果ては死人のラザロを蘇らせたとか、自らも復活したとか、普通に考えたらとうてい信じられないような奇跡についての記述が数多くあります。

しかし、私にとってそれが嘘か本当かということはわりとどうでもよく、真の信仰の奇跡とはそんな山をも動かすような話ではなく、誰も彼もに裏切られ、唾を吐かれ、罵られ、十字架を背負わされ、ロンギヌスに脇腹を槍でぶっ刺され、それでも誰をも怨まず、憎まず、人を許し、愛し続けることができたというまさにそのことです。

真にキリスト教徒たらんとするのであれば、聖書をありがたがって拝読するとか、教会でみんなと一緒にお祈りしに行くとか、それだけを以って事足りるようなことではなく、その高みまではなかなか登れないなりに、イエスのごとくあらんとする志は最低限必要なのではないでしょうか…っていうのは嘘です、人様のことなんて関係ないからどうでもいいし、無駄に怒られるのもこわいので今のはなしでお願いしますm(_ _)m

ただ、無宗教なりにイエス様の一ファンとして、私もイエス・キリストを一つの理想として自らも生き、そして自分自身の宗教であるところの新興宗教電波之光の完成のために邁進していきたいと考えております(最後の最後でなに言い出してんだよ!)。

あ、新興宗教って言っても教祖も私一人なら信者も私一人だけで他に募集もしてないんでそこは安心してください。・・・まあヤバいことには1ミリも変わりないんですけど。

新興宗教電波之光は単に私自身の、私一個人の生きる指針であり、私にとっての「自燈明。法燈明」であるに過ぎません(なお、私の電波之光を明らかに名称の上でパクったと思わしき某新興宗教団体がありますが、当方とは教えの内容も一切無関係ですので類似品にはご注意下さい)。

このあたりの私の新興宗教自分教な考え方については下記の記事を参照してみてください。

イエス兄さんのご加護がありますように。アーメン

とにかくそんなわけですので、イエス・キリスト様、私は勝手にあなたのことを同じ神様を愛する、そういう意味では同門の先輩というか、神を父というならあなたはお兄さんというか、そんな感じでめちゃくちゃ敬愛しておりますので、どうかこんなこと言っちゃって誰か気を悪くする人がいたり、そういう人にぶっ殺されたりしないようにお守りください。アーメン。


イエス・キリストは実在したのか?


小型新約聖書 詩篇附 - 文語訳

はっきり言いますがおよそ宗教書を読むのに最も大切なのは格調であり雰囲気です!口語訳の聖書なんてクソです(言い過ぎ)。文語訳で声に出して音読しつつ熟読玩味してこそ聖書の中の言葉は読む人の血となり肉となるのだと確信しています。人はパンのみにて生くるにあらず、聖書は口語のみにて読むにはあらずです(?)。詩篇の馥郁たる格調も文語訳と口語訳では雲泥の差です!


キリストは日本で死んでいる
 な、なんだってー!!

ディヴァインヒーリング(マクドナルド・ベイン)の感想

タイトルの記事はすでにここまでで終わっています。ここからは完全にただの蛇足です。ここまでの話とはまったく無関係の話ですのでその点ご承知おきください。

M.マクドナルド・ベインのディヴァインヒーリングについて書いてみます。

この本はいろんな意味で非常にやばい本です。20世紀を生きた著者にイエス・キリストその人の霊が降りてきて語ったという設定の講話録です。設定だけでもう完全に頭がイカれています。

もっとも最近ようやく日本語訳も出た『奇跡講座』も似たようなもんですが、なぜかあっちのほうは世界的に「スピリチュアル」な人たちの間で隆盛を誇っているのに対し、こっちは完全にただのイロモノ扱いです。

でもまあそれも無理はないかもしれません。ガチガチの心理学者によって記述されたやたら理屈っぽくてしちめんどくさいテキストだけで千ページ近い辞書みたいな分厚さの奇跡講座に対し、ディヴァインヒーリングの著者というかミディアム(媒体、わかりやすく言っちゃえばチャネラー)であるマクドナルド・ベインと来たら、幼い頃から神秘的な経験を数多くし、長じてからもヒマラヤやチベットの奥地に導かれてリンポチェ大師や謎の隠者様から様々な教えを受けたと言い張る100%剥き出しのやばい人です。

ちなみにそのときの旅行記、修行体験や受けた教えについては『解脱の真理、『キリストのヨーガ』というタイトルだけで死ぬほどヤバい二冊の本の中で語られています。まともな感覚の人からしたらトンデモでしかないでしょうが、私のような人間にとってはトンデモない傑作です。

ちなみにこの2冊を、以前たまたま松雪泰子さんのインタビューを読んだら愛読書に挙げていたことが今でも忘れられません。佐賀出身ってこと以上にはるかにやばいから隠せよ!(もっとも私はそれ以来松雪泰子さんの大ファンになりました)

またこの2冊に関してもミュータント・メッセージリトル・トリーと同じような先住民族や未開の地、秘境を巧妙に利用しただけの出鱈目本と決めつけられることもあります(ミュータント・メッセージも読み物としてはまあまあ面白いし、リトル・トリーなんて著者のフォレスト・カーターが人種差別主義者だったなんてなにも知らずに子供の頃読んで感動して泣いてたんですが・・・)。

しかし詳細は省きますがマクドナルド・ベインに関しては否定派からは実在しないと決めつけられているリンポチェがちゃんと調べれば実在したリンポチェとほぼ特定できたり、内容的にもヒマラヤ聖者の生活探究のような読んで面白いだけのインチキオカルト神智学系のゴミ本とはまったく異なる-むしろ驚くほどクリシュナムルティっぽい-ことは明らかなのですが、まあ所詮傍証でしかないので「信じるか信じないかはあなた次第」って話になってしまいます。

まあなんにしてもトンデモ系の本には違いなく、そんなトンデモな経歴によって「十分に高められた」と主張するマクドナルド・ベインに降りてきたという設定のイエス・キリストの講話録というさらにレベルの高いトンデモ本がディヴァインヒーリングです。

これ以上ないくらいに頭のおかしい設定の本ですが、私などからすればたまらない本です。かつて別の訳者によって心身の神癒―主、再び語り給うというもっと頭のおかしいタイトル(というか原題の直訳)でこれまた格調高い素晴らしい本が出ていたのですが、最近英和対約本として別の出版社から新たに出版されました。

実はかつてそれらのマクドナルド・ベインの著書の内容が全文公開されてしまっている完全に頭のおかしい便利なサイトがあって大変重宝していたのですが、当然の報い何らかの事情により閉鎖してしまったため、やむを得ず新しい訳で手元に置いておこうと恥を忍んでAmazonのウィッシュリストに入れておいたところ、こんな怪しい本をあっさり贈ってくれた方のお陰で無事に読むことができました。

そしてそれがたまたまきっかけとなり福音書で語られるイエスの生涯の偉大さに気づいてしまい、こんないつにも増して頭のおかしい電波な文章を書いてしまったというわけです。

っていうか長っ、これこのトンデモ本の書評だけでまともなブログなら十分過ぎる分量で一記事になってるよ、こわっ

でも「拝啓 イエス・キリスト様」なんてヤバいタイトルの記事と、イエス・キリストの霊が降りてきて講話したなどという設定だけで完全に頭おかしい本の書評を分けて二倍「頭おかしい」って言われるのが嫌なので、一つの記事にまとめてしまいました。

とはいえディヴァインヒーリングの中で講話しているのがイエス・キリストその人の霊であると私が信じているとかそういう話ではまったくないし、イエス先輩の偉大な生涯への敬愛の念とこの本の内容とはまったく無関係であることは念のため申し上げておきます。

しかし内容は本当に素晴らしい本ですので、私のこの文章を読んで「それは素晴らしそうだ!」と感じた頭のおかしい人と松雪泰子さんにはぜひ読んでほしい一冊です。私からは以上です。


M.マクドナルド・ベイン ディヴァインヒーリング