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まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

世の中は少しずつ狂っている

世の中は少しずつ狂っている。そして僕たちは少しずつ狂っている。

きっとみんな多かれ少なかれそれを感じている。だけどそんなこと言ってもしょうがないとか、あるいはそもそもそんな違和感には蓋をして、自分の心を麻痺させて見ないふり、感じないふりをしている。

そしてあえてその違和感に触れようとする人間のことを、バカだとか青くさいとか、空気が読めないとかヒステリーだと言って笑うのだ。

 

狂った村で狂えなかった男の話

かつて100人の村があった。ある日、井戸の水に毒が混じった。それを飲んだ99人の村人はたちまち発狂した。1人だけ、井戸の水を飲まなかった男がいた。男は狂って変わり果てたようになってしまった村人たちのために必死になって懇願した。

「お前たちは狂っている。もうその井戸の水を飲んではいけない」。しかし村人たちは彼を笑った。「狂っているのはお前のほうだ」と。実際、彼だけが他の村人たちとは違っていた。

いくら村人たちのために手を尽くし、言葉を尽くしても無駄だった。それどころか「おかしいのはお前のほうだ」と言われ続けているうちに、孤独と絶望に疲れ果てた男も少しずつそう考えるようになった。「もしかしたら本当に狂っているのは私の方なのかもしれない」と。

最後には男は自らその井戸の水を飲んだ。「正常になる」ために。そして男は晴れて村人たちに迎え入れてもらうことができたとさ。めでたしめでたし。

狂った日常の、ごく当たり前に狂った風景

今日買い物に行くと、子供が泣いていた。

なにをしたのかしらないが(多分その辺を走り回りでもしたのだろう)、母親に腕を捻り上げられて「腕が折れちゃう!」と言って喚いていた。もちろん母親だってまさか本当に腕を折ったりはしないだろう。

ただ「腕を折られてもしかたのないようなことをしたんだろうが、お前は」と愛情の一欠片も感じさせない冷たい眼差しで言い放つ母親の言葉と顔に、僕はなんだかすごくおそろしいものを感じた。

怒っている母親がおそろしいと言うより、もっとこの社会全体の底に横たわっている狂気を垣間見た気がしてこわくなったのだ。

こんなことを言えば、なにをいちいち大げさに騒いでいるのだ、馬鹿じゃないのかと言われるのはわかっている。「こんなのはどこにでもある親が子供を叱っているだけのごく当たり前の日常の風景で、いちいち目くじらを立てたり取り立てて話題や問題にするようなことではない、大体それぞれの家庭の問題に他人ごときが偉そうに口出しするなどお前は何様のつもりなのだ?むしろそんなことにいちいち違和感を感じるお前が異常なのだ」と言ってゆとりだのヒステリーだの言われて馬鹿にされるだけなのであろうことも。

いや、僕にしたってその母親の暴力行為を世の中に訴えたいとか「虐待だ!」と言って騒ぎたいわけではない。そういう話ではまったくない。

実際、僕自身その光景を「どこにでもある当たり前の日常の風景」として処理して、その場で母親を注意するでもなく、傍観というほどの注意を注ぐでもなく、まるでそんな場面には居合わせなかったかのように買い物を続けた。そして、買い物客で混雑する店内のすべての人間が僕と同じようにしていた。さもそれが自然で、当たり前のことだというように。

そして僕はそれこそが狂気ではないかという話をしている。それは社会や僕たちの底に背景のように当たり前に横たわっている狂気だ。あまりに当たり前すぎて、そのことの狂気や異常性に気づかれることもない。それこそが狂気なのだという話をしている。たまたま気の狂った精神異常の母親が子供を虐待していると言って特定の人間の異常性・狂気について騒ぎ立てたいわけではない。

狂気や違和感に麻痺して鈍感になることが本当に「正気」なのか?

世の中は、少しずつ狂っている。そして僕たちも少しずつ狂っている。

だけどそれは本当に「少しずつ」で、僕たちが感じる違和感も微妙なものだ。それどころかその微妙さの居心地の悪さから逃れるため、その程度の微差や違和感ははじめからなかったこと、感じなかったことにしようとさえしてしまう。

「いちいち問題にするようなことじゃない」

「他人が口出しすることじゃない」

「スルーできずに気にするほうがおかしい」

・・・まるでこれらの言葉が唯一絶対の正解で、スマートに生きる人間なら当然備えておくべき「良識」でもあるかのように、暗黙のうちに了解が押し付けられている。

でもあえて言う。僕はそれこそが狂気だと思う。

狂気や違和感に摩耗したり麻痺したように鈍感になって、それを見なかったこと、聞かなかったことにして心の奥に押し込めて、感じないふり、気づかないふりをすること、本当にそれが「正気」だと言えるのか?それこそが「正常」だなんて言えるのか?

言えるのだとすれば、僕はそれこそが狂気だと思う。

「正常」と「異常」、「正気」と「狂気」を分ける境目なんてない

わかってほしいのは、僕はそういう人たちのことを「お前たちは気づいていないだけで本当は狂人なんだ!」と言って自分のことは棚に上げて責めたり糾弾しているわけではない。そんなふうに、「正常な人間」と「狂人」、「正気」と「狂気」を明確に分ける境目なんてものはどこにもないという話をしているだけだ。

一般に、正気と狂気とは決定的に違うまったく別のものだと考えられている。そして大体多かれ少なかれ人は「狂気なんてものは正常な人間である自分にはまったく関係ない」ものだと考えている。

精神異常者や狂人と呼ばれるおそろしい「人種」がこの世の中には一定数いて、自分のような「正常者」の安全で平和な生活を脅かしている。・・・無意識にであれそんなふうに考えている。

でも僕はそれは違うと思う。「正常者」と「異常者・狂人」を本質的に分けるようなものはない(先天的・後天的な脳の器質的な異常などの問題はもちろん存在するが、今しているのはそれとは別の話だ)。

一人の同じ人間が時と場合、あるいは見方によって「ノーマル」だったり「アブノーマル」だったり、「正常」だったり「異常」だったりするだけ。誰もが持っている自分の心が、時と場合、あるいは見方によって「正気」だったり「狂気」に陥ったりするだけ。それがより真実に近い見方だと思う。

無意識・無自覚という最大最悪の狂気

だから、言ってしまえば僕たちはみんな少しずつ狂っている。怒りや憎しみ、怨み、嫉妬、そういった感情に飲み込まれているとき、人はすでに多かれ少なかれ狂気に取り込まれている。

そして一番の問題は自分たち自身がそのことに無自覚・無意識であることだ。人は自分の中の狂気を決して認めようとしない。自分が今一時的にであれ狂気に飲み込まれていたことを絶対に認めようとはしない。狂気などというものは自分とはまったく無縁で、無関係なものだと信じ込んでいる。

もし「あなたは今狂気に飲み込まれていましたよ」などと指摘しようものなら、それを侮辱と捉えてそれこそ狂ったようにすごい勢いで罵詈雑言をわめき返してくるだろう。

それくらい人は自分の中にある狂気を認めようとはしない。認めたくない。そのためならどんな手段だって平気で使う。ただの個人的な怒りや憎しみでしかないものを、愛だと言って偽ることすら平気でする。

親が子供をぶつのはなぜか?はっきり言おう。その瞬間、子供のことが憎たらしいからだ。だが親は決してそのことを認めようとしない。「私はあの子のことが心配だからこそ」とか「あの子の将来のことを考えたらしかたなく」と言って自分を正当化しようとする。

いや、必ずしもいつもその親が子供を憎んでいるとは言わない。基本的にはわが子のことを愛しているという親のほうが圧倒的に多いであろうことも知っている。だがそれでも、親が子供のことを片時も揺るがずに愛し続けている、親が子供にすることはすべてその愛を動機にするものである、なんていうのは反吐が出るような欺瞞だ。

親が子供を怒鳴りつけ、手を上げて張り倒すのは、少なくともその瞬間、子供のことが憎たらしかったからだ。そして自分の腹立ちや苛立ちをただ子供にぶつけただけだ。すべてのケースがそうだとは言わない、だがそういったケースがないなどという嘘も誰にも言わせない。

それにも関わらず、そのことを決して認めようとはせず「お前のためを思って」だとか、「愛しているからこそ」などと言って自分を正当化することは、それこそが子供を怒鳴りつけたり子供に手を上げることより、ある意味でよほど致命的な問題ではないだろうか。

そういった自分の中での自分自身の心の動き、たとえそれがどれほど自分では見たくなかったり認めたくない姿であろうと、どれほど浅ましく醜い残忍な自分自身であろうと、そんなものは自分にはないという顔で生きていくことこそ、僕はもっとも醜悪な欺瞞だと思う。

「正常」と「異常」、「正気」と「狂気」を明確に分ける境目などないということを書いたが、もしそれがあるとすればこの意識や自覚の有無こそがそれではないだろうか。自分の中の狂気を狂気として認めることが正気で、自分の中の狂気を決して認めず、見ようともしないことこそは狂気ではないだろうか。

狂気への鈍感さこそが真の狂気

しかし、そんなことをいくら言ってもわからない人、わかろうとしない人、本当は心の底ではわかっているのにそれを認めようとしない人はいるのだから、そういう人にはいくらこんな話をしても無駄なこともわかっている。そういう人たちにはかえってこうした言説のすべてをそれこそただの気違いのたわ言だと言ってバカにされあざ笑われるだけであろうことも。

そのことはしかたない。いや、それを「しかたない」と言ってあきらめるしかない世の中であること、そういう自分自身であることこそが、世の中が少しずつ狂っていること、そして僕もまた少しずつ狂っていることの証左でしかないのだろう。

わかりやすく、決定的に、完全に、完璧に狂っているというのであれば人は誰でもそれを認めて指摘することができる。でもそういうことは実際はまれで、むしろそういった明確なものだけを「狂気」と見なして自分たちの当たり前の日常からは分離し、隔離しているからこそ、自分たちの中にも巣食い続ける狂気には気づかない。気づこうとしない。気づいていても気づかないふりをしてみせる。それがこの世の中と僕たちの現状だと思う。

いや、世界とか世の中というのは要するに僕たち自身のことだ。僕たち自身の存在を離れてどこか別に「残酷な世界」とか「狂った世の中」なんてものが別にあるわけではない。それでも、そういうどこかちょっとずつおかしい世界や世の中に合わせて、僕たちもちょっとずつずれていく、おかしくなっていく。

そうやって世界と僕たちは足並みをそろえるようにして少しずつ少しずつずれていく、狂っていく。「世の中は少し狂っている」わけではない。「少しずつ狂っている」だけで、もしかしたらすでに致命的に大きく狂っているのかもしれない。

ただそれがあまりにも少しずつだから、僕たちはそれを肌で感じとることができない。そしてその鈍感さこそが僕たちの狂気なのだ。

狂った世の中でそれでも正気であり続けようとする勇気

ある意味ではそういう鈍感な「正常者」から「異常者・狂人」だとみなされている人ほど、それらの事の本質が明確に見えているのかもしれない。だからこそそれらの狂気、脅威、歪みの大きさを繊細すぎるくらい敏感に感じ取ってしまう彼らは、ただ鈍感なだけの「正常者」から「異常者」のレッテルを貼られ、「狂人」と呼ばれて後ろ指を指されているのかもしれない。

いずれにしても、僕たちが正常だろうと異常だろうと、常人だろうと狂人だろうと、僕たちすべての人間の中にあらゆる正常と狂気とが眠っている。僕はそのことに気づかずにいること、そのことを認めようとしないでいること、それこそがより本質的で致命的な狂気だと思う。

たしかに自分自身の内的な狂気に気づいていること、意識的であること、自覚的であること、そんなことを自ら進んでやろうとするような人間は、今の世の中では他の村人が全員狂ってしまった村に一人だけ取り残されてしまった男のようなものなのかもしれない。

彼自身の「正気さ」こそが、他の狂った村人たちの社会の中にあっては不和や軋轢を生んでしまわずにはいられない。一体それはどれほどの孤独と悲しみだろうか?

だがそれでも、僕は最後まで井戸の水は飲まない。


狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)


狂気という隣人―精神科医の現場報告 (新潮文庫)


狂気 Pink Floyd - The Dark Side of the Moon
 至高の一枚。

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