まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

二人の雲水の話

僕の好きな禅のエピソードを紹介します。

二人の雲水(旅の修行僧)の話です。

たまにはこういう記事も書くんだよ???

二人の雲水の話

二人の雲水(禅の修行僧)が修行のため諸方を行脚していました。とある川に差し掛かったときのことです。普段は浅い川なのですが、その日は前日の雨のために流れも速く、増水していました。橋もないので向こう岸へ渡るには当然歩いて渡るしかありません。

ところが二人がその川を渡ろうとしていると、川の麓で一人の若い女性が困った様子で川を見つめています。

一人の雲水が女性に近づくとやさしく声をかけました。「どうされたのですか?」

若い女性が答えました。「今日中に川を渡らないといけない用事があるのですが、着物が濡れてしまうし流されてしまいそうで怖くて渡れないのです」

すると雲水は身をかがめて言いました。「そういうことなら私が背負ってあげましょう。どうせ私たちもちょうどこの川を渡るところでしたから」

そう言って女性を背負ってあげると女性が濡れないように気をつけながら無事川を渡りました。

向こう岸へ着いて女性を下ろすと、感激して何度もお礼の言葉を言っている女性に「それでは私たちは先を急ぐので」と言ってそのまま歩み去って旅を続けました。

面白くないのはもう一人の雲水です。そもそも二人の旅の目的は禅の修行、悟りを求めての厳しい修行の旅なのです。昔というのは特に女性への接し方にも非常に厳しく、女性と話をすることすら厳しく戒められていました。

しかしあろうことか共に旅をしているもう一人の雲水は女性に話しかけたどころか女性の体に触れて背負いさえしたのです。これはほとんど破戒(戒律を破ること。修行者失格の烙印にも等しい)です。あるいは心のどこかには女性と話したり女性の体に触れた雲水への僻みや嫉妬もあったかもしれません。

そんなことばかり考えていたものですからとうとう黙っていられなくなって立ち止まって言いました。「おい、お前は女人に話しかけるどころか女人を背負うとは何事か!そんなことで煩悩を克服して悟りを開けると思うのか!」

すると女性を背負った雲水は「なんだ、お前はまだ背負っていたのか。俺は川原で下ろしてきたぞ」と答えてさっさと先に歩いて行ってしまいましたとさ。

その場その時すべきことをして事が過ぎればそこで下ろす

もちろんどういう解釈をするかは人それぞれですが、僕はこの話がすごく好きです。

仮に女性との接触を禁じられているような修行僧であったとしても、困っている人を見かけたら助けてあげるのがやさしさだと思います。「自分の修行の妨げになるから女性とは関わらないようにしよう」というような自分の都合しか考えていない判断こそエゴではないでしょうか。

女性を背負って川を渡ったことが修行僧の態度としてよいのか悪いのか、ひとまずそこはおいておくとしても、この雲水はそうせずにはいられなかったのだと思います。

生きていればいろいろな状況に直面しますから、最初から掟や戒律で決められている通りになど生きていけるわけがありません。あるいはそれを指針にしながらも川を渡れずに困っている女性がいたというような不慮の事態に対しては臨機応変に対処しなくてはなりません。ときには決められた掟や戒めを破るような形になってしまうかもしれません。

しかしそれはその場そのとき必要であるからそれをしたまでのことで、過ぎてしまえばもうこの雲水にはなんの執着もありません。なぜならそれはもう過去であり、終わったことだからです。終わった時点でそれはそこに置いて、またその場その時の自分の人生を生きていくだけです。

怒りや妄念は過ぎたことを自分の中で反芻することによって膨らむ

これがもう一人の雲水にはわかっていません。戒めを破って女性と接触した雲水への怒り、責める気持ち、許せないという思い、あるいは嫉妬や僻みなど、そうした思いを捨てることも断ち切ることもできずに抱えたまま、女性と別れて先へ進んでいる間にもそれらの妄念を自分の中で何度も反芻し、膨らませていきます。

そしてついに我慢できなくなって自分の中で膨らませた怒りを爆発させるわけですが、これらはすべてこの雲水の心の中でこの雲水自身が勝手にやったことです。事実はといえば旅の相方が困っていた女性を背負って川を渡ったというだけのことです。

もう一人の雲水はもうとっくに川を渡りきった時点でその女性と一緒にそのことにまつわるすべてを降ろしてきたのに、この雲水は過ぎたことへの執着を持ち続けたまま、あろうことか自分の中でそれを激しい怒りや責める気持ちにまで膨らませ、ついには仲間の雲水を糾弾してしまいました。

でも相手の雲水の「なんだ、お前はまだ背負っていたのか。俺は川原で下ろしてきたぞ」の一言でこの雲水もハッとしてこれらのことに一瞬で気づいたのではないかと思います。

行雲流水。行く雲、流れる水のように生きていきたい

人生においては様々なことが起こります。仏道に励むお坊さんだからといって、いつもいつも戒律通りに綺麗に生きられるとはかぎりません。ときには困っている女性を助けてあげるというようなより本質的な目的のために、「女性と触れてはいけない」といったより表面的で細かい戒律を破るようなことがあるかもしれません。

しかしそれはあくまでその場その時のこと。過ぎてしまえばそこで下ろし、また淡々と歩き続けるまでのことです。

ちなみに雲水とはもともと行雲流水、何物にもとどまることなく行く雲、流れる水のように執着なく生きていく禅的な生活態度そのもののことを意味します。

僕もこの女性を背負って川を渡ってあげた雲水のように、その場その時の状況に即応し、困っている人がいたら助けてあげたりもしながら、嫌なことがあってもそのことに執着せず、さらさらと流れ続ける清流のように、今、今、今を生きていけたらいいなあと思います。僕の大好きな禅のお話でした。おしまい。


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