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まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

人をバカにしないこと

人をバカにしないこと。バカって言ったら自分がバカなんだからっ!

人をバカにしないこと

人をバカにしないこと。人をバカにしたらダメだなあ。。。と最近しみじみと思うようになったので、それについて書いてみます。

 

僕はこれまで人をバカにしていました。もちろん誰彼となくバカにしていたわけではないのですが、バカのことが大嫌いでバカのことをめちゃくちゃバカにしていました

もちろん僕にしてもバカなのですが、僕が嫌いなバカというのは、バカのくせにバカゆえに自分がバカなことにも気づかず、バカゆえに自分は賢いと勘違いし、人をバカにして調子こいてるバカのことです。そういう人たちからすると僕のようなバカはまさに格好のターゲットであり、僕は僕でそういうバカのことが大嫌いだったので、バカにしてくるバカに対してはその日の気分にもよりますが基本的にはむごいくらいにけちょんけちょんにバカにしていました。

でも今僕は今までのそんな自分のあり方、バカさ加減をとても反省しています。この記事はいわばさんざん人をバカにしてきた自分自身の反省文です。

一応メンタルに強いとか弱いとかないということを前提に、悪口を言われているのはあなたではないとか評価されることが目的になると人生はつまらないと合わせてお読みいただけるシリーズのひとまず最後の記事になります。興味のある方がいらっしゃれば上記の記事も合わせて読んでいただければよりいっそうの暇つぶし効果を感じていただけるかと思います。

バカだからバカにバカにされるとバカにし返してしまっていたことの言い訳

一応言い訳からさせてください。いや、人をバカにしてきたことの非は言い逃れできないものであることはわかっているので言い訳というと違うのですが、そもそもなぜ僕はバカをバカにしていたのかという理由の部分から説明します。

すでに申し上げた通り、僕はバカゆえに人をバカにするバカのことが大嫌いだったのですが、なぜそういうバカの人のことが嫌いだったかというと、その人たちの人を一方的にバカにして調子こいて笑ってやがる感じが心の底から気に食わなかったからです。

そいつらは汚い卑怯者のクズだと思っていました。実際、そういう人たちのことを、僕がちょっとバカにし返すと、面白いくらい顔を真赤にして発狂するので、正直僕はそれを趣味みたいに思っていました。最悪ライフワークくらいに思っていたかもしれません(※性格が悪すぎる)。

要するに、そいつらの人につばを吐きかけ、人を殴っておいて、てめえが殴り返されることなんて考えもしてないような、そういう低脳さがバカで卑怯で許せなかったのです。

多分そうした背景には、そういう奴らが今までバカにしてきた人たちというのは、つまり一般的な人たちの反応というのは、笑われたりバカにされて嫌な思いをしなかったはずがないと思うのですが、きっと曖昧に笑ってごまかしたり、あるいは言い返したりせずに黙って我慢していたのだと思います。

そうした我慢するという態度の是非はともかく、やり返されることもないものだから、それでまたバカが勘違いしてつけあがり、バカにし放題人をバカにして調子こいていたのだと思います。

で、ある時点でそういうバカがなにかの縁で僕を見つけ、当然僕がバカなのでバカにしてくるのですが、あいにく僕はただのバカではなく、バカの上に正真正銘の気違いなので、そういう調子こいたバカ共のことをいい気になって笑わせておいてやったりは自分の命にかけてもしないのでした。

当然そういう僕のあり方は直接バカにした相手以外の人からも否定されたり批判されたりしました。よく言われたのは「スルースキルがない」という言葉で、僕はこの言葉が昔から大嫌いでした。そして今でも嫌いです。

たとえば「死ね」と言われたとして、それで嫌な思いをしても我慢して泣き寝入りすることを「スルー」と言い、「そんなこと言うのはおかしい」とか「間違ってる」と言うと、「スルースキルがない」と言って「死ね」と言われたほうが叩かれる。そういう社会のあり方には完全に頭がおかしいとしか思えない狂気を感じていました。

もちろんそれはただの僕の考えでしかないので他の人は他の人で好きにすればいいと思うのですが、そういうことを言ってくる人たちというのはさもそういう対処の仕方だけが唯一の正解であるかのように他人にまで押し付けてくるので非常に不快でした。

人をバカにしたように偉そうに「スルースキルがない」だのなんだの抜かすなら、どうしてそもそもどこの誰かも知らないお前は頼みもしないのに人に意見を押し付けてくるんだろう?うっとうしいカスだなあ。。。と思っていました。

そんなどうしようもなく嫌な奴な僕としては、人に唾を吐いたり殴ったりする奴は、唾を吐きかけられて殴り返されて当たり前だし、その覚悟もないくせに人に唾吐き、人を殴るような奴は、他人事であれば不快ではあっても自分がよけいな口出しをすることではないと思って黙っていますが、僕を相手にしたからには必ずや唾を吐きかけ、殴り返してやることに決めていました(※あくまで比喩的な表現ですので警察やデートDVの相談所等、各種関係機関への通報はご遠慮ください)。

もちろん唾を吐かれたからと唾を吐き返し、殴られたからと殴り返し、バカにされたからとバカにし返してしまうのは、僕自身大バカだからだということはわかってはいましたが、それでも必ず、かの邪智暴虐のバカを除かなければならぬと決意していたのでした。

まつたけは激怒した。必ず、かの邪智暴虐のバカを除かなければならぬと決意した。まつたけには政治がわからぬ。まつたけは、森のキノコである。ホラを吹き、自分と遊んで暮して来た。けれどもバカにされることに対しては、人一倍に敏感であった。

そうなのです。なぜバカにバカにされてバカにし返してしまうかというと、要はバカにバカにされるのが悔しかったからです。ご覧のとおりのずる剥けキノコである僕の先端部は人一倍に敏感であった

そもそもバカが人をバカにしていい気になるのも、相手をバカにすることで自分が相手よりも優位に立ったと思うからです。もちろんそんなことで本当に人間の優劣が決まるはずがなく、むしろ人をバカにすることでしか自らの優位性を他に対して示せない、感じられない人間など、人間として下の下なのですが、とにかくバカというのはそれがバカゆえの勘違いでしかなくても、人をバカにすることで自分が相手より優位に立ったと気持ちよくなってしまう生き物なのです。

そして僕には、バカに事実だろうと勘違いだろうと優位に立ったと思われるだけでも我慢がならず、それで得意になったり気持ちよくさせてやるということが絶対にできなかったのでした。

また僕自身、バカにバカにされてそのまま泣き寝入りでは、本当に自分が内心バカにしているバカ以下の存在ということになってしまい、あんなに軽蔑し、厭悪しているバカ以下の存在と成り下がってまでおめおめと生きていたくはない、くらいの大げさな考えに取り憑かれていたのでした。

そしてまた、バカをバカにし返してそれで相手が発情期の猿のケツみたいに顔を真赤にして怒れば、僕の苛立ちも嗜虐心を満たされて愉快な気持ちに変わり、やはり自分はこの猿のケツよりはましであるということを確認して安心できる、という自分がバカにしているバカの思考とまったく同じ構造でバカをバカにし返してきたのでした。

人をバカにしたらいけないという心境の変化

しかし、今となってはわたくしそうした過去のすべてに対して慙愧の念に絶えません。。。食事も喉を通らず、このままでは餓死してしまいそうです。寿司。。。寿司が食べたい。。。寿司以外のものが喉を通らない。。。寿司。。。誰か寿司食わせろ!!!!!!・・・とうわ言のように日夜つぶやき出す始末、やはりどんな理由であれ人をバカにするような人間は必ずその報いを受けるということなのでしょうか?

一体そこにはいかなる思考の転換があったのか?いや、いわゆる思考とか思想の転換というのとは違うのです。自分の中でよくよく考えて、「これこれこういう理由で、たとえそれが自分のことをバカゆえに賢いと勘違いして調子こいて人のことをバカにしてくる正真正銘のバカのことだったとしても、人をバカにするのはよくない」という結論に辿り着いたとかではないのです。

それは思考の転換というよりは、心境の変化のようなものでした。で、その理由は多分このブログを始めたことくらいしか心当たりがありません。そのことについてはまつたけのブログを始めて2ヶ月記念日にでもまた別に1記事書くかもしれません(追記:書きませんでした)。

とにかく、そんなつもりで始めたんじゃないのに、このブログを始めてからというもの、さながらギザギザハートを絵に描いたような形の石がナイアガラの滝の真下にさらされて滝行よろしく水流に削られて丸くなる川底の石の何億倍ものスピードで人格の陶冶が行われてしまった的な感じなのではないかと思われます。

その結果驚くほどの短時間で僕の心は美しい球形の、まさに珠と呼ぶにこそふさわしい形状に磨き上げられ、外見的にも毛髪が抜け落ち、頭も丸めた格好に相成ったという次第。かつては打ち上げられた魚の腐乱死体の目のようにどろりと濁った目も今では美しく澄み渡り、天下の大瀑布ナイアガラの滝に洗われ、生まれ変わった僕の心と瞳には、かつては決して映らなかったであろう世界と生きとし生ける一切衆生の実相が、さながら凛と澄んだ静かな湖面に冴え渡る満月が映るがごとくはっきりと映じられてきたのであります。

そう、もはや僕は1ヶ月前の自分と今の自分とが同じ人間だとは思えません。文章のくどさ以外はなにもかもまるで別の人間に生まれ変わってしまったのです。

そんな今の僕の成層圏の大気よりも果てしなく透明に澄んだ美しい心には、たとえ相手がどのような人間であろうと、決してけなしてはならない、バカにしてはならないということは、自らの手足を確認すること以上に、まったくの自明の理として映るのでありました。

目覚めてはいけないいろいろなものに目覚めてしまった

先ほど、かつての僕は誰もやり返してこないと思って調子こいてるアホが許せず、せめて自分だけでも殴られたら殴り返して目にものを見せてくれてやろうと思っていたとある種のヒロイズムでもあるかのように申し上げましたが、もちろんこんなものはヒロイズムでも猪木イズムでもなんでもありません。ただの思い上がった自己満足でしかありません。

僕が「こういうアホにはちょっと痛い目見せてやる」とか、「けちょんけちょんにしてやる」とか、そう思って実際にそうしたとして、それで相手の人は「うぅっ、バカだと思ってなめてたら気違いに痛い目に遭わされた・・・これに懲りて今度からは人をうかつにバカにするような真似はやめよう、とほほ・・・」と思うでしょうか?

おそらく思わないでしょう。そんな素直に思うような人なら、そもそも自尊心を満たすために人をバカにしてやろうなどという気は起こさないはずです。

むしろ僕によってバカにされ、コケにされ、発情期の猿のケツよりお顔を真っ赤にして怒り狂ってしまった人は、その怒りを僕にではなく、またやり返してこないような別の人に対して向けてしまうのではないでしょうか?

これはまったく悲劇としか言えない悲しみの連鎖です。どこかで誰かがこの不幸な連鎖を断たなくてはなりません。じゃあ誰が断つのか?僕でしょ!・・・あ、2014年の流行語を2匹目のドジョウで狙えるかと思ったんですけど自分でも「これはないな」と思ったので今のはなしでお願いします・・・。

でも僕の大好きなアニソン歌手、影山ヒロノブさんが歌っていました、俺がやらなきゃ誰がやる!ってね!素晴らしい名曲なのでこの記事を読んでいる方はぜひ聴いてください。そしてその際には必ずこちらの記事を読みながらお願いします。森雪之丞とかいう作詞家のアニソンが素晴らしすぎる件。もちろん『俺がやらなきゃ誰がやる』の作詞も森雪之丞様でございます。ありがたやありがたや。。。

完全に話を見失いかけた感もありますが、話を戻します。そう、俺がやらなきゃ誰がやる!それこそがサイヤ人としての誇りであると同時に、超サイヤ人に目覚めてしまった唯一の地球人である僕のノブレスオブリージュでもあると思うのです。

であるからしまして、僕をバカにしてきた人が僕をバカにしてそれで気が済むなら、あるいは「死ね」でも「消えろ」でも「サイヤ人の下級戦士ごときが」でもなんでもいいのですが、そうやって口汚く僕を罵ることで気が済むなら、それは素晴らしいことではないかと思うようになりました。

今まではやり返してしまうことで相手を傷つけ、そして傷つけられた相手はその怒りの矛先をまた別の誰かに向けてしまっていたところを、僕が受けることで相手の気が済み他の人を傷つけずに済むのなら、僕はよろこんで刺し貫かれながら「んほおおおぉぉぉぉお!!!!!!ぎもぢぃいぃぃ!!!!!!」と豚みたいな声を上げてだらしなくよだれを垂らしながらよがり狂える自分に気づいたのです。

右の頬を殴られたら左の頬にキスをしなさい

思えばそういう人をバカにしてしまう人というのも、なにか自分の心に刺があるから人の心を刺さずにはいられないのかもしれません。そう思ったとき、僕の心には今まで蛇蝎の如く忌み嫌っていた人たちに対してかぎりない憐れみの気持ちが湧いてくるのを感じたのでした(※この文章は今後僕が新興宗教を開いた際には勧誘用のパンフレットに転載されますのでご了承ください)。

もしかしたらやさしい人になるための唯一の方法は自分の心に刺さったトゲを一本一本抜いていくことなのかもしれない。

というわけで、ナイアガラの滝に心に刺さりまくったトゲを強制的に洗い流されてしまった結果、今の僕は飢えたトラを見たらその前に身を横たえてしまいそうなくらい、あるいは右の頬を殴られたら左の頬にキスをしてしまいそうなくらい、一説には内分秘腺で言う胸腺に対応するとも言われるアナハタチャクラ(ハートチャクラ)から強烈な愛のオーラが放射され、その愛の闘気は周囲の空間や重力まで捻じ曲げ、北斗神拳の最終奥義である無想転生をも破るほどなんだとかかんだとかマンドラゴラ。

。。。いい加減自分でもしらふなのにワイルドターキーを4バレルくらい飲み干したみたいなふざけた文章しか書けないことに悲しくなってきたので最後くらい精いっぱいまじめにまとめてみたいと思います。

「目には目を」では世界が盲目になるだけ

人が人をバカにするのはなぜか?それは相手より優位に立ったと感じることで自尊心を満たしていい気持ちになるためです。僕はそういう方法でしか自分の自尊心一つまともに満たせない人間をバカにし、軽蔑していました。もっと言えばゴミクズくらいに思っていました。なぜなら人を人とも思わなければ、その人にバカにされても本気で傷ついたり悲しまなくて済むからです。相手を対等な人間として認めてしまえばバカにされると傷ついたり悲しくなったりしてしまいます。

でももちろんそれは思いやりに欠けるやさしくないことです。なぜなら事実はといえば、どんな人も実際にはゴミクズなどではなく、自分と同じ傷つく心と人格を持った人間だからです。自分がバカにされて傷つかないようにと、その部分に眼と心を閉ざして見ないようにしてしまうと、結局自分も相手に対して同じようにいくらでも残酷になれてしまいます。

殴る奴は殴り返されて当然」というのが長らく僕の中の論理でしたし、その覚悟もなく人を殴るような奴はもう一発よけいに殴られてもしかたのないただの卑怯者だと思っていました。しかし殴り返された相手は反省するのではなく、腹いせにさらにまた別の人を殴るでしょう。殴るといえば、助走をつけて殴ることで有名なマハトマ・ガンジーという人がこんなことを言っていました。「『目には目を』では世界が盲目になるだけだ」。なんという至言でしょう。助走をつけて殴る以外にもいいこと言ったりもしてるんですね。

まさしくおっしゃる通りで、「殴られたんだから殴り返して当然」、「バカにされたんだからバカにし返して当然」という論理では世界は永遠に殺伐とし続けますよね。そういう世界に住みたいかという話で、少なくとも僕はできれば殺伐とした地獄みたいな世界より、人を殴ったりバカにしたりする人のいない世界に住みたいので、「やられたらやり返す」式の修羅の国からは亡命することにしました。

バカにされてもなんの実害もないことに気づいた

もちろん現実世界で殴りかかってくるような相手のそばに選べるものならいるべきではないですし、包丁を振り回している人がいたら猛ダッシュで逃げるべきです。

でも例えばネット上でバカにされたり、あるいは「死ね」って言われたり、それくらいでなにか問題があるかというと、別に自分のメンタル以外の部分ではなにも問題ないんですよね。少なくとも自分の場合なにかの企業の代表とかでもなんでもないただの無職なので、自分がバカにされたら会社のイメージが悪くなって社員を食わせられなくなる、とかそういった責任のある立場でもなんでもないので、バカにされてよけいバカになったり、「死ね」と言われてほんとに死んでしまうんだと少し困りますが、別に相手がそこまでの強力な呪力を持ったブードゥー教の司祭とかでなければ特に問題がないことに気づきました。

「お前一人の身の処し方はわかった。でもじゃあそもそもお前やお前以外の人をバカにするような人間のことは結局野放しにするのか」と言う問題なんですが、まあそこは残念といえば残念なんですけど、もともと他人様のことをどうにかしようなんてそう簡単なことではないんですよね。少なくとも「人をバカにしたりしたらダメだよ」と言ってわかるような人なら最初から人をバカにしたりしていないと思うのです。

ただひとつ言えるのは、そういう人たちはそういう人たちで常に一方的に人を傷つけたりバカにしている絶対の加害者なのかというとそんなはずもなく、そんなものは見方によってはいくらでも被害者だと言うこともできるんだろうと思います。

もちろん「加害者だって被害者なんだよ」なんてクソの役にも立たないことを言う気はさらさらないのですが、ついつい僕たちは「人を傷つけたりバカにしたりする人間がいるから世の中が殺伐としてしまうんだ」みたいに世の中の問題までをそういう人たちに帰してしまいがちだけど、本当はそれ以上に「世の中がこんな殺伐としているから人を傷つけたりバカにしたりせずにはいられない人間になってしまう」という側面のほうが強いと思うのです。どう考えたって一人の人間が世の中に対して与える影響より、世の中が一人の人間に与える影響のほうが強いと思うのです。

と言ってひとりひとりの人間を離れて「世の中」なんてラスボス的な人格があるわけがなく、結局そういう世の中を結果的につくってしまうのはたとえば「目には目を」、「やられたらやり返す」、「倍返しだ!」、土下座していただく!と言ったテレビドラマの影響ひとりひとりの人間の生きかた以外にはありはしません。

であるなら、これは自分にかぎった話で他の誰にそうしろなんて言う気はこれっぽっちもないのですが、いくらなにを言われたところでなんの実害もない以上、僕はなにを言われても構わない、と思うようになりました。別にこれを偽善者とかいい子ぶっていると言って嫌ってくれるのもまったく構わないのですが、「自己犠牲」だと思うことは単純に勘違いですと申し上げておきます。

人をバカにするような人間より人にバカにされる人間の方がいい

僕は自己犠牲が嫌いです。というか自己犠牲という言葉からして欺瞞以外の何物も感じられないので大嫌いです。僕は他人のために自分を犠牲にする気もなければ殉教者になる気もありません。

ただ、最初から別になにを言われてもなんてことがないとわかっていて、それなら別になにを言われてもいいかと受け止める心づもりでさえいれば、自己犠牲もクソも別に痛くも痒くもないことに気づいただけです。

むしろそれは、「バカにしてくる奴は許さない、徹底的にバカにし返してやる!」なんてハートをギザギザにとがらせてピリピリした雰囲気でいるよりよっぽど自分自身が楽で気持ちよくいられることです。

別にバカにしてくる人に、「どうしたの?悲しいことでもあったの?」なんて好きな人たちに愛情をかける以上に甘やかすような気持ち悪いことをする必要はないにしろ、あえてバカにし返したりボロクソにコケにしてプライドを傷つけたりする必要なんてないし可哀想なのでやめました。可哀想だし、僕にとってもそのときだけスッキリした気になったとしても、そんなのはただ自分自身の醜さを膨らませているだけだし、長い目で見ても人を傷つけたり悲しませたり恨みを買うようなことをしてメリットなんてあるはずがないんですよね。デメリットならたくさんあるだろうけど。

まあとはいえ僕は性根の腐った性格の悪い人間なので、これからも人を傷つけずに生きていくなんて100%不可能ということは断言できてしまうのですが、それにしてもあえて「バカにして傷つけてやろう」というのはもうやめることにしました。というか、そもそもバカにされても傷つかないし痛まないことに気づいたのでやり返してやろうなんて気にもならないからです。

なのでそういうバカにしてきたり罵詈雑言を浴びせかけてくる人たちに対して、結果的に大嫌いなスルーをしてしまうようなこともあるかと思いますが、「バカ」でも「死ね」でも、「サイヤ人の下級戦士ごときが」でも、ちゃんと言われた言葉は読んでいるので安心してください。

以上、原稿用紙20枚以上になってしまいましたが、「僕はこれまで人をバカにしていましたが、これからはもう人をバカにしないようにしようと思います」という反省文でした。おしまい。

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