まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

他人の価値観を認められない人たち

他人の価値観を認められない人たちについて書いてみました。

自分の価値観を認めてほしさに他人の価値観を認められない人たち

哀れな生き物についての話をします。自分の価値観を認めてほしさに他人の価値観を認められない人たちの話です。

 

当たり前ですが世の中にはたくさんの人がいます。人の数ほど人がいます(ほんとに当たり前)。そして価値観も人それぞれに違いますから価値観も本当に多様です。

そうなれば自分と他人の価値観が異なるのも当然のことです。相容れないことだってあるでしょう。それは同じ人間同士とは言っても違う人間同士、あって当たり前のことです。

わかりやすいようにものすごく乱暴な話をします。Aさんは◯◯が大好きです。Bさんは◯◯が嫌いです。◯◯を好きだと思うのも嫌いだと思うのも人それぞれの価値観ですからここまではなにも問題ありません。

しかし、なぜか世の中では、◯◯が好きだというAさんを見てBさんが「◯◯が好きだと思うのはこいつがどうしようもないバカだからだ。俺が認めない◯◯を好きだというなら俺はこいつのことも嫌いだし絶対に認めない」というような判断をすることが非常に多く見受けられます。

もちろんこう言うと「◯◯が好きな奴のことも含めて俺は嫌いだし認めない」というのもBさんなりの価値観ではないか、お前こそそういう人の価値観を認めようとしない独善主義者ではないか、などと鬼の首でも獲ったかのように得意になって言ってくる人がいるであろうことは今から目に浮かぶようなのですが(やれやれ…)、まあ確かにどうしたってブーメランにならずにはいられない話であることをお断りしておきます。

その上で、僕はこういうBさんみたいな人は嫌いだなー、という僕自身の価値観の話です。

支持されているものに噛み付くしか能のない人たち

こういう哀れな生き物たちの滑稽さと悲哀が特に浮き彫りになる場面が、大衆的なもの、支持されているものや、それを評価している人たちへの否定的かつきわめて攻撃的な態度です。

支持されているものに噛み付くしか能のない人たちを見かけます。「支持されているものの価値を認められない人たち」、これはまったく問題ありません。たとえばあるドラマだったりあるアーティストだったり、それを面白いとか素敵だと言って支持しようと、つまらないとか下らないと言って認めまいと、そんなのはその人ごとの価値観でしかありません。

しかし誰かがそのドラマなりアーティストなりに対して、自分と異なる評価をしている、自分と相容れない価値判断をしている、ということに対して、いちいちイチャモンをつける人ってどうなんだろう?って僕は思うのです。

というか、少なくとも自分がその人と価値観が違う、なにかに対する感じ方、評価のしかたが違うという理由で、いちいち「お前はバカだ」とか「クズだ」とか絡んでこられたら気持ち悪いしうるせーし目障りだなーと思ってしまいます。

世の中には世間の人々を多数派・マジョリティと、少数派・マイノリティの2つに分けて考えるという大変わかりやすい分類法があります。言い換えれば大衆的かどうかということですね。

たとえば音楽だったらJ-POPは多数派でポストロックはより少数派かもしれません。マンガだったらワンピースはメジャーだけどヨコハマ買い出し紀行はよりマイナー寄りでしょう。


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で、メジャーだろうとマイナーだろうと、誰がなにを好きだと思おうと、なには合わないと思おうと、そんなもん人の勝手だろうと思うわけです。

しかし、現実はというと、なぜかそういう人それぞれに勝手なはずの相手の趣味、価値観にまでケチをつけないと気がすまないらしい人というのがたまにいるのです。そして僕の感じ方だと、多数派の人が少数派の人を抑圧したり弾圧したりということより、逆に少数派側の人間が多数派側の人間に噛み付いている光景のほうをより多く見かける気がします。

たとえばそれこそJ-POPでもワンピースでもなんでもいいんですけど、そういう大衆的なものが嫌いだという人が、嫌うのはその人の勝手なんだから別に嫌いなら嫌いでそれで終わりでいいだけの話なのに、J-POPやワンピースが好きだという人たちのことまで「あいつらはバカだ、ゴミだ、人間としてのまともな知能がないからああいう低俗な音楽を聴いたりつまらないマンガを読んで喜んでいるのだ」みたいなことを言ってバカにしたり貶したりしている光景を非常によく見かけます。

「自分には価値を認められない」というだけの話なのに、それに価値を見出している人の価値観にまで噛み付き、それを悪く言ったり貶すようなことを言う人たちというのは、見ているだけでも感じが悪いし、それになんだか自分のことを認めてほしくてしょうがない猿が、自分の認められないものばかり認められたり評価されることが悔しくてそういうものに必死に噛み付いて自分のことも見てもらおう、認めてもらおう、相手してもらおうとしている感じが見え見えで、あまりに浅ましくて滑稽で哀れさすら感じてしまうのです。

他人の価値観までバカだと断じるのはそういう人がバカなだけ

もちろんそういう人たちは自分こそは優れた見識の持ち主であり、世間の奴らは見る目のない馬鹿だから俺の見識についてこれないし、低劣なものを素晴らしいと評価して喜んでいやがる、どいつもこいつもクソだ!くらいのつもりでいるのかもしれません。

しかし、お猿さんには認めたくないことでしょうが、はっきり言って僕は世間的に評価されたり支持されているものやそれを生み出している人というのは、自分が認められない悔しさから噛みつくしか能がないような猿よりはるかに頭がいい人たちだと思います。

だからそんな猿でも気づくようなことは最初から百も承知の上で、その人なりの立場や考え方に従ってより大衆に受けるものだったりヒット作だったりを生み出していると思うのです。

もちろんそういう姿勢に対しての好き嫌いというのはまた別の問題としてありますが、まずは大衆に支持されるものを創れる、ヒット作を生み出せるという事実に対しての評価や認識はあってしかるべきだと思うのですが、自分が人から認められないルサンチマンで頭がいっぱいのお猿さんにはそれがわかりません。

あいかわらず自分のことを賢いと勘違いしていて、そういう世間的に評価されたり支持されている人のことや、それを評価する人たちのことをバカにしたり貶したりしています(本当は単に自分がバカなだけなのに)。

自分認められたさの裏返しに他者を認めないことで得意になってるアホ

いくら圧倒的多数派に支持されていようと、世界的ななんとか賞を総ナメにしようと、自分にはそのよさがわからなかった、というのはそれはそれでなにも悪いことではありません。

しかしそれにはそれだけの支持をされたり評価をされるだけの理由があること、少なくとも理由があるんだろうということにすら思い至らず、ただ「どいつもこいつもバカだから俺様からすれば下らないものや下らない奴らのことばかり評価しやがる!」と言ってそういう人や物に噛み付きながら、内心自分がちやほやされないことが悔しくてしょうがないだけの猿を見ていると、あまりにその浅ましさや愚かしさが哀れすぎて滑稽すぎて本当にかわいそうになってきてしまいます。

しかしはっきり言いますがいくらそんなふうにお山の大将の猿が檻の中でギャーギャー喚いても、耳障りに思う人こそいても、ちゃんと耳を傾けてくれる人なんていないんじゃないでしょうか。

そんなに自分も認められたくてちやほやされたくてしかたがないなら、認められている人たちに噛みついたりしてないで、自分も人から認めてもらえるだけのものを作れるものなら作ってみればいいんじゃないでしょうか。そうすれば見てくれる人もいるかも知れません。

少なくとも自分には世間から支持されたり評価されるだけのものを生み出す才能も能力もないくせに、一丁前にそういうものに噛み付きだけはするという姿勢は、本人はもしかしたらかっこいいとか勘違いしちゃってるのかもしれませんが、まわりからしたらかなり痛いしダサいです。

まあ別にそういう人が支持されたり評価されている人や物に、「どうしてこんなのが認められて俺は認められないんだ!」みたいな恥ずかしい不満やフラストレーションをぶつけて「うわあ、こいつ痛い奴だなあ…」っていろんな人から思われることに実は満足しているなら他人ごときが言えることってなにもないんですけど、そんなに痛々しい醜態晒してまで人を貶さずにいられないほど自分も認められたいとか評価されたいと思っているなら、もうちょっと謙虚に他人の価値観も「世間っていうのはこういうのを評価するものなのかー」くらいには認めたほうがいいんじゃないかなーと思いますというお話でした。おしまい。


承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?