まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだと思う

「自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだと思う」というタイトルからはまさか想像もつかないと思いますが、自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだと思うという話をします。

この記事の結論を一言でまとめるのは非常に難しいのですが、強いて言うなら「自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだと思う」ということになります。

今からそれだけの話をくどくどねちねちと数千字分書いてみますね!

巨匠からのメッセージ(だと思って読んでください)

プロにしろアマチュアにしろ、なにかしらの創作活動や表現活動をされている方、してみたいと思っている方に向けて、そういう人にとってもしかしたらとっても役に立つかもしれないし、もしかしなくてもクソの役にも立たないかもしれない心構えを、大上段からおおきく振りかぶって書いてみます。ひぐちアサです(関係ない)。

そもそもそんなご大層な心構えとやらを、なんらかの創作活動や表現活動をされている人たちに対して説かんとするお前は何者なのだ?そう疑問に思った方がいらっしゃるかしれません。

いい質問ですが、僕のことは巨匠だと思ってください。今まで黙っていましたが本当はとある文学賞を受賞したこともあるし、学生時代に卒業制作として撮影した映画が現役の有名な映画監督でもある教授に激賞されたり、誰もが知っているあの人気アイドルグループに何曲もの楽曲を提供したこともある偉大なハイパーメディアニート。それくらいのつもりで読んでほしいと思います。まあそんな事実はないんですけど。

しょうもない批判に自分の創造性を殺させるなという話

はい、じゃあ準備はできましたか?僕のことは巨匠だと思ってください。マエストロだと思ってください。耳が聴こえなくてもヴァイオリンに手を当てて振動を感じ取るだけで音の良し悪しを察知してしまうほどのその道の偉大なグランドマスターだと思ってください。

そう思って読むことであなた自身がこの記事から学び得るものが大きく変わってきますからね。・・・どうです、もうなんとなく巨匠っぽいアドバイスに聞こえてきたでしょう?

はい、タイトルは「自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだと思う」でしたね。ちゃんと覚えてましたか?僕は完全に忘れてました。

さて、では自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだということ、それがどういうことだかわかりますでしょうか。ざっくばらんに言ってしまえば、自分の創造性を殺したらダメだよ、自分にも、他の誰にも、自分の創造性を殺させてしまったりしたらダメだよ、ということです。

もっと有り体に言ってしまえば、創造性の死因の第1位はぶっちぎりの断トツで「批判」です。

まあそもそもなにをして批判というのか、とか言い出したらまた話がめんどくさくなってしまうんですけど、自分が「あ、批判された」と思ったらもう批判である、くらいのめちゃくちゃ乱暴な理解で結構です。それでだいたい間違いはないという統計データが出ています(※当社調べ)。

で、こういうと、それはもう確実に、8000%くらいの確率で「批判には謙虚に耳を傾けなきゃだめだろ!」って言ってめっちゃ激怒して絡んでくる人がいるんですけど、要するにそういう人のことだと思ってもらっても大丈夫です、とにかく、なにかしらぎゃーぎゃーうるさく言ってくるのはだいたい全部批判です。

ここがもうこの話の核心なんですけど、わからない人、とにかく批判したくてしょうがない人には、いくら言葉を尽くして説明してもバカだからわからない(わかろうとしない)ところだと思うので、そういう方は見解の相違ということでひとつここは穏便にお引き取り願えればと思います。

 「批判には謙虚に耳を傾けろ」なんてもっともらしいだけのただの嘘

でもまあさすがに今の説明だとあまりにも断絶的に過ぎる気もするので、がんばってもうちょっとだけちゃんと説明を試みて誠実な僕アピールをしてみますね。

「批判には謙虚に耳を傾けろ!」って、バカはバカだからバカの一つ覚えですぐ言うんですよ。

でも僕ははっきり言ってこれって嘘だと思ってます。だってそんなこと言ってる人って、ほぼみんな例外なく自分はなにも生み出さないくせに、どんな出来であれ産みの苦しみを味わってなにかを創りだした人たちを偉そうに安全な高みから批判していい気になってるアホばっかだからです。

少なくとも本当に自分自身が産みの苦しみを知ってる人なら、こんな偉そうな言い方はしないとか、こんな心ないことは言わないとか、そう思うようなマヌケが大半です。

自分は痛みを知らない奴が、偉そうに人には「痛みに耐えろ!」って言うんですよ。しかも自分が相手のことを痛めつけながら。さもお前のためを思ってやってるんだみたいな面して「この痛みに耐えなきゃだめだろうが!」って言いながら。はっきり言って完全に頭おかしいと思います。

偉そうに「謙虚になれ」とか「素直さが大事だろうが」とか、いちいちもっともらしいことのように聞こえますけど、でも要するに「俺の言うことに逆らうな、従え、俺を気持ちよくしろ、逆らわれたりしたら俺は不快になる」って言ってるだけの、ただのとんだマヌケ野郎だと思います。

そんな偉そうなこと言ってるだけの中身は死ぬほど幼稚なアホの顔色伺って、自分が壊れたり自分の大切な創造性を台無しにしちゃったりする価値が本当にあると思いますか?そのアホに。

創造性とは弱くやわらかいものである

そもそも創作や表現に携わってるような人って、人一倍感受性豊かな人が多いと思います。それって繊細さとか、もっと言っちゃえば心の弱さみたいなものと裏腹でもあるんじゃないでしょうか。

「そんな弱っちいことじゃだめだろ!いっぱしに人様に創作だ表現だって言うなら、人一倍タフじゃなきゃだめだろ、メンタル弱い奴は向いてねえからやめちまえ!」なんて一見マッチョに聞こえるようなことを言う人って、ほぼすべてそういうお前は何様なんだよとしか言えないような、自分は何者でもなくて矛先を向けられない立場から一方的に人を刺してるだけの卑怯者だと思います。

別に弱いからただちにだめだってことじゃなくて、その弱さなり繊細すぎる感受性なりを、なんとかその人なりに必死に昇華しようとした結果が創作だったり表現だったりすると思うのです。別にそうでなきゃいけないとか、それがすべてだとは思いませんけど。

でもそういう人間の一番やわらかい部分、言い換えるなら人間の一番弱い部分、そこに対して理解のない人って、そもそもが自分は創作とか表現をしていないか向いてない人だと思います。

リスペクトパトローナム!

さて、さっきからそんな生意気なことを抜かしている僕自身はその道の巨匠である、というあまりにも無理のある設定で読んでもらっているわけですけど、まあ正直僕の場合は昔からマンガ描きたいとか音楽をつくってみたいとかぼんやりと思うばっかりで、悲しいことになんの才能もないからそういう苦しみって味わったことがありません(まあそうやって才能のなさを言い訳にしてなにもやろうとしないとこがお前のダメなとこだけどな!ひえええええええ!泣)。

でもだからこそよけいに、マンガ家さんとか小説家の人とか、音楽をつくっている人とか、マジで全員神のごとく崇拝して崇め奉っております。リスペクトパトローナムです。

もちろん好き嫌いはあるし、自分には好きになれない作風とかってありますけど、でもそれは単に自分の趣味との相性の問題であって、なにかを自分で創ったり表現したりする人ってすごいなー!っていうバカ丸出しなくらいに無邪気な敬意は常に持っています。リスペクトパトローナムです。

だからよけいに、自分は特に好きじゃないような人でも、自分自身は何者でもないようなただの一消費者が、あんまり調子こいて偉そうに人様の作品なんかをボロクソにけなしていると、なんだか歯がゆいような悔しいような気持ちになってしまうのかもしれません。リスペクトパトロー南無

まあそれは単に僕自身の問題なんで\(・_\)その話はおいといて(/_・)/

人がどう言おうと、自分の創造性は自分で守らなきゃ殺されておしまい

創造性の死因第1位であるということで批判についての話が長くなりましたが、この記事の主眼は別に「批判しかできないくせに勘違いして偉そうにしてる奴らうぜえ」ってことではありません(うざいけど)。

そういう連中のうざさや気持ち悪さはともかく、それでも自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだよ、自分の創造性をそんな奴らに殺させてしまったらだめだよ、ということです。

そりゃ何の能力も才能もないくせに、まあだからこそなんだろうけど僻み半分、腐った性根半分で他人様にやたらめったら冷水ぶっかけて回ってるような人がいなければそれに越したことはないと思います。

でもそんなことは言ったってしょうがないですよね。だって、どんなに嫌でもそういう人は現にいるし、悲しいことだけど多分これからもいなくなったりはしないだろうから。

だったら自分の創造性は自分で守らなきゃダメだよね、っていう死ぬほど当たり前の話です。

通り魔とか最低だし、いなくなればいいのに、って思いますけど、そんなこと言ってたって自分や子供が通り魔に刺されて死んじゃったら意味ないじゃないですか、本当に嫌な話ですけど。

そんなオーバーな、って思われるかもしれませんけど、でも多分自分で実際なにかを創ったり表現しているような人だったらなんとなくわかるって人もいるんじゃないでしょうか。

自分の創造性だったり、苦労してつくったものって、出来がどうあれ自分の子供とか分身みたいなものだと思ったりしませんか?

で、本当にそんな大切なものだったら、人がどうあろうと、誰が何と言おうと、自分で大事に守らなきゃダメだと思うのです。

いいとか悪いとか、いろいろ人は好き勝手なことを言うだろうし、自分でももっともだと思うことがあるなら、それまで頭ごなしに否定しろとか、なにがなんでも聞く耳を持つななんて言ってるんじゃないですよ(すぐそうやって勝手に極論にして難癖をつけてくるのも頭の悪い批判したがり屋の特徴です)。

ただなにかを叩いていい気になりたいだけの奴らに傷つけられて、それでもう嫌になってしまった、バカバカしくなってしまった、もうこんなことやってられるか!っていうのは、それこそ本当にクソくだらないしバカバカしいんじゃないかなーって話です。

独占スクープ!負け犬どもがなれの果て!ゾンビ犬の恐怖!

勝ち負けじゃないって言っても、やっぱりクソみたいな人間に負けたらだめなんじゃないかと個人的には思ったりもします。自分の大切なものに、クソ塗りたくられて泣き寝入り、って、それじゃあまりにも自分の創造性とか苦労して創ったものが不憫な気がします。

そんで、決まってそういう奴らはこう言うのです。「その程度の批判で、それで嫌になってしまうくらいならどうせお前には才能がないんだよ」とかなんとか。さももっともらしい面しやがって。

でもてめえは何者でもないくせに偉そうなこと抜かしていい気になりたいだけのアホの言葉を真に受けて挫けたりしてしまったら、それはやっぱりアホだと思うのです。

で、そういうアホが、「そうだ、自分には所詮才能がないんだ」って思い込んであきらめたり、不貞腐れたり、そうしてその挫折による屈折を、かつての自分のように無邪気に創作活動や表現活動を楽しんでいる人たちに向かって、「何だお前ら、こんなクソみたいなものつくってはしゃぎやがって!」とか言ってボロクソに叩いて憂さを晴らすような、本当にどうしようもないアホと化してしまうんじゃないでしょうか。しょーもない負け犬どもの負の連鎖ですね。

それって本当に悲しいし、でも同情の余地もないくらい本当に愚かだと思います。所詮他人様の人生ではありますが、そんなふうに生きてなにが楽しいの、ってなことまで正直思ってしまいます。まあそういう人たちはそれが楽しいんだって言うんだろうから何も言わないですけど。

でも僕はやっぱりそんなしょーもない人たちに負けたり、挙句の果て自分もそういう腐った死体みたいなゾンビになってしまったり、それじゃあんまり悲惨過ぎると思うのです。

創造性は多かれ少なかれみんな無意識に使ってる

最初にこの記事はプロ・アマ問わず、何らかの創作活動や表現活動をしている人、志している人に向けて書いた記事だと言いましたが、でもある意味ではそれに携わってない人なんていないと思います。

少なくとも今こうしてネット越しにこの記事を読んでいるような人というのは、実はそれと意識していなくても、何らかの形で創造性を発揮したり表現をしているのではないでしょうか。

いや、創作とか表現活動というと、なにかすごい小説を書いたり、裸の男の石像の一体か二体彫り上げたことのある人だと考えてしまうかもしれませんが、別に創作とか表現ってそんな大層なことばかりではないし、創造性って実はただ当たり前に生活しているだけでも発揮しているものだと思うのです(だいたい裸の男の石像を彫ったりしている人なんてほんの一握りの変態だけです)。

たとえばその日の家族の夕ご飯を考えたり、実際に料理をすることだって創造性なしにはできないし、家族や友達にメールするのだって表現といえば表現ですよね(もちろんその内容やレベルにはピンからキリまでありますが)。

この夏のツッコミのトレンドは「お前は海原雄山かよ!」で決まり!

例えばそういうときに、本当はうれしそうな笑顔で「おいしい!」の一言がほしかったりするわけなんですけど、物も言わずにむっつりと食べられたり、行き届かなさばかりを指摘されたら嫌になったりもするじゃないですか。言いたくなりますよね?お前は海原雄山かよ!って。

もちろんほんとに海原雄山だったらそれなりに偉いのかもしれないですけど、でもたいていそんな大層なもんじゃないんですよ。他の誰でもない自分自身の問題だったりストレスだったり、それを自分で処理できずに適当な相手に難癖つけて発散してるだけのアホだったりするのです。早い話が八つ当たりですよね。ほんとしょうもない話ですけど。

で、そのときに、そんなしょうもない相手のしょうもない批判を真に受けて、自分の創造性だったり才能だったり、あるいは行くとこまで行っちゃうと自分自身の存在価値みたいなものだったりまで否定してしまうようなことはマジでバカバカしいからやめようよって話なわけです。

如是我聞(うろ覚えの仏説を披露するのでありがたく拝聴して下さい)

言われっぱなしはムカつくし悔しいと思いますけど、でも残念ながらそれを言ってくるのは相手次第、そういう意味では相手の勝手であって、こっちではコントロールできない部分なわけです。

でも、それを真に受けてしまうかどうか、自分で自分自身を否定してしまうかどうかって部分は、ほかならぬ自分自身の選択の問題です。

昔なんだったかの仏教経典でこんな喩え話を読んだ記憶があります。

お釈迦様が弟子に言うわけです。「お前ね、家に招かれて出された料理に手を付けたらその料理は誰のもんだ?」

弟子は答えます。「そりゃもちろんワイのもんですワイな」

釈迦「じゃあ出された料理に一口も手を付けなければ?」

弟子「そりゃその家の人間のもんですワイな」

釈迦「そうじゃろ?人にとやかく言われたら毒入りの料理を出されたようなものだと考えんしゃい。それをお前が食べてしまうから、その毒によって苦しむことになる。毒を出されても手をつけるな。お前がそれを食べなければ、その毒はお前にはなんの関係もないシャカよ~」

・・・とまあ、もちろんお釈迦様でもなければ悟りも開いていない身には、なかなかこんなふうに常に完璧にセルフコントロールできるわけがないんですけど、でもまあ理屈としてはそういうことなんじゃないでしょうか。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

素直であろう、謙虚であろうというのは一般には美徳だとされてますけど、それもあんまり過ぎればただのいい子ぶりっ子と変わらないと思います。「うるせーんだよこのタコ!」って言ってはねのけるときははねのける、そういうことも時には必要なんじゃないでしょうか(「うるせーんだよこのタコ!」って言ってこいフラグじゃないんだから!)。

もちろんほんとにそこで料理にケチばっかりつけてくる相手に食卓ひっくり返して「だったらおどれが自分でつくれやこのボケが!」ってブチ切れろって言ってるわけじゃないですし、こんなのはあくまで例えなわけで、各自のご家庭などの問題は各自で適宜解決されてほしいと思いますけど。

ちゃぶ台ひっくり返してブチ切れるなり、右から左へ聴き流すなり、そもそも最初から目に入れないなり、耳に入れないなり、方法はひとつではないわけですから、そこはそれぞれの考えで好きにすればいいと思います。

ただ何にしたって自分の創造性には自分で責任を持たなきゃだめだよね、自分で大切に守らないとだめだよねってことだけを、最初から最後まで言い続けました。有言実行の私です。

で、多分それをもうちょっとキャッチーで印象に残る言い方にするとこうなるんだと思います。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

・・・あ、すごい、今ので言い尽くせてる!こんな7000字も書く必要なかった!☆〜(ゝ。∂)テヘペロ・・・でもまあ自分がなにを読むかどうかくらい、自分で決めろばかものよ、って話だよね。うん、僕は悪くない!人のせいにするお前が悪い!

というわけで自分は何者でもないくせに偉そうに叩いたり批判したりして気持ちよくなりたいだけの勘違いマヌケ野郎の言うことなんて気にしないで、素敵な人たちが素敵なものをもっとたくさんつくりまくってくれたらいいな~ってお話。ここに堂々完結!


永遠の詩 (全8巻)2 茨木のり子


茨木のり子詩集 (岩波文庫)