嫌いなものより好きなものについて話したい
嫌いな人やものについて話すより、好きな人やものについて話していたいなーって話です。
なにしろ嫌いな人たちって向こうの方から湧いてくるので、完全に視界に入れないようにするとか気にしないようにするというのも難しいのですが、むしろそういう嫌な人間に嫌な気持ちにさせられるほど、自分はこんなふうにはならないようにしようとか、そうじゃない好きな人や素敵な人の素晴らしさに改めて目を向けて感謝しようとか、そういう精いっぱいの悪あがきの話です。
ラブアンドピース!
僕は自分ではわりと平和主義者のつもりでいて、休日はどこにも出かけないで部屋でゴロゴロしていますし、平日はというと、やっぱりどこにも出かけないで部屋でゴロゴロしています。
だってほら、男は敷居を跨げば七人の敵ありって言うじゃないですか。だから恐いのでもう何年も敷居を跨がないで暮らしています。平和主義者です。ラブアンドピースです(お父さんお母さん、生まれてきて本当にごめんなさい)。
そんな解禁と同時にマリファナを葉っぱのままむしゃむしゃ食べてしまうことうけ合いの平和主義者の僕ですから当然争い事は好みません。
どうしてもっとみんな誰とも目を合わせないように俯きがちに生きていないのか不思議です。どうしてそんなにバチバチ眼を付け合って一触即発の威嚇をし合っているのだろう?もうそういう雰囲気だけで思わずマリファナに手を伸ばしてしまいたくなるほどの平和主義者が僕です。
まあ人のことは言ってもしょうがないのでともかくとして、僕自身は常に誰とも目が合ったりしないように心して俯きながら生きています(たまに100円を拾います)。
そしてその人たちとであれば安心してくつろいでいられるごく少数のやさしい人やかわいくてふわふわした森ガールや妖精さんたちとアップルティーにはちみつたっぷりのホットケーキで森のお茶会を楽しむことだけを唯一の生きがいにしているような人畜無害のキノコが僕です。
「平和のために戦う」なんて矛盾と欺瞞を抜け出さなくてはならない
しかし、そんな平和な森にも密猟者の魔の手は情け容赦なく迫ってくるのでした。
嫌なやつらのことなんて相手しているひまもないくらい好きな人たちのことだけ考えていたい。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 3月 24
これって僕は常々そう思っているのですが、やっぱりどうしても嫌な人のことを完全に視界に入らないようにするというのは難しい(なにしろ嫌な人というのはこっちのほうで関わりたくなくてもしつこく嫌がらせしてきたり粘着してくるから)ので、そういう人間が視界に入ってしまうと、なんでこんなことをするんだろう?とか、どうしてこういう人間がいるんだろう?とか、ついそういうことを考えずにはいられなくなってしまいます。
まつたけのブログに関しても、気づけばかなりそういう記事が多くなってしまっていました。で、それがすごく嫌だなーって反省したので、今鉄板の上で土下座しながらこの記事を書いています。
「嫌い」に対する嫌悪感を中和してくれるのは「好き」の気持ちだけ
というのも、このブログはもともとそんなこと(嫌な人たちのずるさや最低さ)が書きたくてはじめたブログではないからです。
そもそももともとそんなことが自分の中にテーマとしてあったわけではないのですが、皮肉なことにこのブログを始めたことで、人に嫌がらせをしたりデマを言いふらして貶めようとするような、自分が大嫌いなタイプの人間に絡まれるようになり、いろいろ嫌な気持ちにさせられたり悔しい思いをさせられたりするうちに、いつの間にか自分の中でそういう人たちに対してどう対処すればいいのかということがけっこう大きなテーマになってしまっていました。
でも嫌いな人たちのことを「こんなことをする人たちは最低だと思う」っていくら言っても、別にそれで相手が理解してくれるとか反省してくれるわけじゃないし、むしろもっと醜悪でひどくなるだけです。
かと言って精一杯の負け惜しみでそういうことを言っても、別に僕自身それで気が済むとかすっきりするでもないし、本当に気持ち悪いなーって改めて思うだけで楽しくないし、もちろん自分で書いてて楽しくないような文章、読んでくれてる人だってつまらないと思います。本当にそんなのってバカバカしくてつまらないなって思います。
つまらない人間のことを考えたり気にしててもつまらない人間になってしまうだけです。それって超つまらない話です。「元からつまらないだけだろ」とか言ってくるつまらない人間の言葉なんて気にしちゃダメです!僕はもっとやればできる子のはずなんです!(熱弁)
吾輩は天才である。根拠はまだない。
— まつたけ (@denpanohikari) 2012, 11月 30
いつも完璧に好きな人たち、素敵な人たちのことだけ考えていたいというのは現実的には難しいし、嫌いな人に対して嫌だからやめてくれとはっきり言わなくちゃいけないことはこれからもあると思います。
でもできるだけそういう嫌いな人間のことを考えて費やす時間やエネルギーは最小限にとどめて、むしろそんなひまもないくらい、好きな人や好きなこと、素敵だと思う人や楽しいことのことだけ考えたり、書いていけたらいいなーって思います。
目を向ければいつだって好きな人、面白い人、やさしい人、かわいい人はいてくれるのに、わざわざ嫌いな人、つまらない人、やさしくない人、かわいくない人のことなんて考える必要はないね。
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 10月 22
表があるから裏があり、嫌いがあるから好きがある
というわけで、今後の方向性としてはできるだけそうしていけたらいいなーってことで終わりです。ここからは余談です。余談過ぎてなぜかキャラまで変わるんだわさ。・・・誰なの?
本当は好きと嫌いって光と影みたいなもので、陰影を描くことでより明確になること、浮き彫りになること、くっきりすることってあるのだわさよね。
好きを語ることは嫌いを語ること、嫌いを語ることは好きを語ること、正しいを語ることは間違いを語ること、間違いを語ることは正しいを語ること。そういう側面もなきにしもあらずなのだわさよね。
上を作ることは下を作ること、右を作ることは左を作ること、表を作ることは裏を作ること。どっちか片方を作ることは、必然的にもう片方を作ることで、どちらか一方だけをつくるってことは、表しかない紙を作るみたいな不可能事だったりするんだわさよね。
一枚の白紙に、一本の鉛筆で、光を描こう、光を表現しようとしたとき、僕たちが実際に描くのは影だったりする。影を描くことが光を描くこと。影を描くことを通して光を表現すること。光を描こうとしたら、影を描かずにはいられない。多分、神様もそんなふうにしてしかこの世界を創れなかったんだと思う
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 8月 20
でもまあだから、それはそれでしかたがないんだわさよね。要はどちらを自分の表としていくかってことなんだわさ。それが表に現す=表現ってことなんだと思うんだわさ(※こじつけです)。
だから、「こういうのは最低だと思う」って否定的な面をメインにするんじゃなくて、「こういうのは素敵だと思う」って肯定的な面をメインにして、そっちに自分の意識をより強く向けていきたいんだわさビーフうめえ。
「つまらない」があるから「面白い」もある。「嫌い」があるから「好き」もある。だから変な話、「つまらない」をなくしてしまうことは「面白い」をなくしてしまうことだったり、「嫌い」をなくしてしまうことは「好き」をなくしてしまうことだったりするんだわさよね。
好きも嫌いもない世界、つまらないがない代わりに面白いもない世界。そんなのっぺりとした平板な世界を生きたいかと言ったら、多分あちきは無理なんだわさ。退屈しすぎて死んじゃうだわさ。
だから「好き」があるこの世界を、言い換えるなら「嫌い」もあるこの世界を、「嫌い」ごと受け入れ許して愛していくしかないんだと思うのだわさよね。難しいけどね。毎日が修行なんだわさ。がんばるんだわさビーフまじでうめえ。すっぱムーチョも愛してムーチョ。おしまいセニョール。