まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

宗教というビジネス

宗教というビジネスについて。

宗教というビジネス

宗教というビジネスについてなんか書いてみようと思います。きっかけは「あー暇だー」なんつって悶々としながら僕の唯一の趣味であるヤフーのホームページの更新ボタンを連打して暇をつぶす遊びをしていたところ、ふと「祈祷料1.8億円、腕時計に 愛知の寺に源泉漏れ指摘」というニュースが目に入ったことです。

 

坊主丸儲け

そのニュース自体は別にどうでもいいのです。ありふれたニュースです。源泉徴収漏れだのなんだのと書かれていますが、要するに坊主が脱税しようとしたということでしょう。いまどき893屋さんみたいな坊主なんて珍しくもないですよね。ベンツを乗り回して純金のチェーンのネックレスを大きく開けた胸元に見せびらかし、高級腕時計をつけて大威張りで歩いているスキンヘッドのいかつい男。。。「絶対あの人本職だ・・・」と思ってたらどっかのお寺の住職でしたって話も実際に聞いたことがあります。

で、そのニュースに関して読んだ人たちのリアクションを見てみると、まあ予想通りというか、「聖職者なのに嘆かわしい!」と言ったことが言われていました。

僕はというと、「聖職者なのに嘆かわしい!」とは実はまったく思いません。いや、脱税って言ったら悪いことですから、嘆かわしいは嘆かわしいんですけど、その嘆かわしさって医者だろうと八百屋さんだろうと坊主だろうと変わらないと思うんですよね。

むしろ偏見で申し訳ないのですが、僕の中で坊主ってまったくいいイメージがないので、お医者さんや八百屋さんが脱税しましたっていうよりもよっぽど坊主が脱税したって方が「ああ、いかにもクソ坊主らしいなあ」と思ってしまいます。

宗教を飯の種にしているというだけの人間を聖職者って呼ぶのやめようず

っていうかですね、そもそも神父だとか牧師だとか坊主だとか、宗教を飯の種にしているというだけの人間をもって聖職者だとすることに無理があると思うんですよね。こう言っちゃなんですけど、神父だろうと牧師だろうと坊主だろうと、昔からさんざん悪いことをやってきてるわけじゃないですか。もういい加減そうした職業だったりビジネスだったりを以って聖職者って言い方もやめたほうがいいんじゃないかなあと思ってたりします。

もちろん中には立派な人だっているんでしょうけど、その人がなんで立派かというと、別に聖職者だから立派だと言うんじゃなくて、人間的に立派な人がそういう仕事をしているだけだと思うのです。「職業に貴賎なし」などと言いながら、坊主丸儲けなんて言われている仕事を選んだだけの人間を、聖職者だのなんだのってそんな持ち上げてちやほやしてやる必要なんてないと思うのです。正直だから奴らがつけあがってやがる部分って絶対あると思うんですよね。

だから僕がその脱税坊主のニュースを読んだときの感想というのも、もう今さら坊主が悪いことしたからって特になんとも思わず、むしろ流用した分だけで1億8千万円も、坊主ってのはほんとクソ儲けてやがるんだなあ、ってことと、実は僕が嫌悪感を感じてしまう矛先はそんなにお布施だ祈祷料だと払っちゃう信徒たちだったりします。

あ、一応言っとくと僕は嫌儲とかではないです。むしろ嫌儲とか言って叩いてる人嫌いです。霞食って生きてやがるわけでもあるまいに、なにが嫌儲だよって思います。なんで、別に坊主がすごい稼いでるから許せないとかそういう話では全然ないです。

人が死ぬたび坊主どもを肥え太らせる日本のシステム

実は僕があんまり坊主をよく思ってないのは、僕自身以前かなり本気で出家を考えていたことがあるからだったりします。子供の頃から厭世観が強く、また虚無感や自殺念慮も強い人間だったので、十代になる頃には自分は高い確率で自殺するか、さもなくば残りの可能性はヤク中になって死ぬか、さらに残りのわずかながら生きる可能性があるとしたら、それは出家しかないと思っていました。

で、それくらい本気で考えていたもんで、後にいろいろ調べてみて坊主どもの腐敗ぶり、堕落ぶりを聞き知るにつけ絶望してしまったわけです。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃありませんが、そういうわけで坊主のことは基本的にあんまり信用してないし好きじゃなかったりします。

しかし、それでもそもそもそんなに堕落してたり腐敗してるようなビジネスが、そんなに脱税を企むほど儲かっているわけですから、ある意味では堕落するには堕落する下地、腐敗するには腐敗する下地が整ってるわけですよね。それがつまり信徒たちのお布施であり、もっと言えばそんなに特別なことでもなく、むしろ現状誰もが当たり前みたいにお世話になってる葬式だの法事だのです。

別に宗教の堕落とか腐敗って今に始まったことじゃなくて、仏教でもキリスト教でも昔から腐ってたと思うんですけど、それでも続いてる、むしろ(儲けにおいて)隆盛を極めているってことが僕はある意味すごいなというか、正直お金を払う側に気持ち悪さみたいなものを感じてしまうのです。

いや、もちろんいくら僕がバカでも「しょうがないんだ」って言い分くらいはわかります。「別に俺らが熱心な仏教徒だったり何々宗の信者じゃなくても、親が亡くなったら葬式は出さないといけない」とか、それくらいのことはわかります。「好きでやってんじゃねえよ」って人のほうがむしろ多いだろうなってこともわかります。

ただ、「好きでやってんじゃねえよ」って人のほうが多いだろうにも関わらず、人が亡くなりました、坊主呼んで金払いましょう、ってそれが当たり前になっちゃってるこの国の文化というか、システム自体が気持ち悪いなあと思うのです。

僕自身もしかしたら将来的に親が死んだりしたら葬式のために坊主に金を払っていろいろお願いしないといけない日が来るのかもしれません。それを考えると本当に憂鬱です。逆に僕が先に死んだとして、葬式なんてあげてもらわなくて結構だし、坊主に供養なんてしてもらう必要もないのですが、そうはいっても世の中には体面とか世間体というものがあるので、かわいそうに僕の親だか親戚だかは形だけでも葬式をあげて坊主に金を払わないといけないのでしょう。

僕には納得ができません。「お前が納得するしないは関係なくて、世の中そういう仕組みになってんだよ!」ってことはわかるのですが、だから僕が納得できないと言っているのはそんなわけのわからん気持ち悪い仕組みが当たり前の世の中に納得がいかないのです。

そりゃ坊主が調子こく訳だよなあ。。。人間生きてりゃみんな死ぬんだもん、人が死ぬたび濡れ手に粟で懐に金が入ってくる坊主なんておいしいビジネスやめられるはずがないし、人が死ぬたび大喜びで稼ぎまくって、完全に人生の勝ち組だよなあ。。。


「ぼうず丸もうけ」のカラクリ

坊主なんかにうまい汁を吸わせない世の中になればいいのになあ

別に偉そうに人様に提言だのする気ないし、ていうか僕なんかが提言したところで何の意味もないことは知ってるからここからはただの僕の妄想なんですけど、いい加減21世紀にもなって葬式だなんだって坊主なんかに金払わなきゃいいのに

故人を偲ぶ人たちで集まって故人に別れを告げたり火葬だの供養だのすればいいだけで、故人と縁もゆかりもない坊主なんかに頼むことはなにもないと思うんですよね。あんな眠くなるだけの読経だなんだと聞かされたって、亡くなった人にはなんの関係もないし、生きて参加してる人たちが内心「あーめんどくせー」とか「早く帰りてー」って思うだけでほんといいことなんてなにもないと思うのです。

まあ信仰は自由なんで、なんとか教の熱心な信者のみなさんは勝手にそこの決まりで(他の人たちに迷惑をかけない範囲で)好きにすればいいと思うけど、別に普段「無宗教でござい」って人たちまで誰か亡くなったってそのたびにわざわざ坊主なんかに金をくれてやることなんてないのになあ。。。

実は僕自身は無宗教だけど宗教が本来であれば扱うべきようなテーマには興味があって、特に仏教は唐代の禅が大好きだったりするんですが、それって当たり前だけど本来生きている人間が生きている間に(興味があるのだとしたら)考えるべき話なのに、そこはまるで無関心にスルーして、人が死んでから坊主を呼んで適当に読経してもらえば無事供養した気になっている、あるいは供養なんてどうでもいいけどそれでようやく世間体に対する責任を果たしたことになる、って日本のしきたり、う~ん、なんだかなあ。。。って気がしてしまいます。

でもまあ僕なんかがなにを言ったところで、やっぱり宗教っていうのは強いんだなあ。。。2000年以上前からあって、そんでいまだにそれが滅びずに続いていて、お互いにいがみ合ったり殺しあったりしてるんだから、すごいよなあ。。。今の日本だと感覚的にキリスト教だのイスラム教だのみたいに殺し合いまでする感覚はないなりに、それでも人が死ぬたび当たり前みたいに坊主を必要として金を払ってるんだから、宗教ビジネスは強いよなあ。。。そりゃいつまでもクソ坊主どもがいなくならないわけだ。。。

まあ信者が金を払うのはファンがアイドルに金を払うようなもんだし好きにすりゃいいんですけど、人が死ぬたび当たり前みたいに葬式をあげて坊主を呼んで金払ってっていう世の中のしきたりだの、「信仰は自由」と言いつつも人が死んだら葬式あげて坊主に金払って下手くそな読経をあげてもらわないことにはバチ当たりだの不謹慎だの言われるのであろう世間の常識。言ってもしかたのないこととは百も千も承知ながら、つくづくそんな世の中嫌だな~というお話でした。おわり。

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