まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

感情表現という暴力

感情表現という暴力について。

感情表現という暴力

感情表現という暴力について。ってなにをまた大げさな、という話で、たしかにこれは少々ドラマチックな演出を狙った表現であり、感情表現自体が、常に無条件に暴力であるわけではない。が、感情表現が暴力として利用されることは実はしばしばあることだと思うのだ。

 

多分、わかる人には「感情表現という暴力」というタイトルだけで、「あ!小林製薬!」とピンときていると思うのだけど、一応がんばって説明してみます。

感情表現を利用して人を操作・支配しようとする暴力

喜怒哀楽の感情表現。人間らしさの源みたいに言われることもある。でも、今回の話に喜怒哀楽の喜と楽、喜び、楽しみというのは関係ない。基本的にそういうポジティブな感情表現が暴力になることはないと思うからだ。

もちろん誰かが喜んだり楽しそうにしているのが許せないとか、大嫌いなアイツがしあわせそうにしているのが許せない、みたいな嫉妬感情を抱く人はいるのだけど、はっきり言ってそれは単にその人自身の問題であって、うれしそうな人や楽しそうにしている人がうれしそうにしたり楽しそうにしていることで誰かに暴力を振るっているわけではない。むしろ「今つらい人だっているのに、しあわせそうにして不謹慎です!」みたいなことを言う人にこそモンスターペアレント的な歪んだ暴力を感じる。いろんな意味でめんどくさいので割愛する。

というわけで、感情表現という暴力ということで取り上げるのは喜怒哀楽の怒哀、怒りとか哀しみについてだ。

もちろん怒りや哀しみといったありふれた感情が常に暴力になるわけではない。どうにもムカついてしょうがないということは誰にでもあると思うし、怒ってもいいときとか、むしろ怒らなくちゃいけないときというのだってあるかもしれない。哀しみにしても、生きていれば「悲しんだってしょうがない」と頭ではわかっていても、それでも悲しまずにはいられないということなんていくらでもあるだろう。

僕が感情表現が暴力になると思うのは、もちろんそういう感情が自然に発露するときのことを言っているのではなく、なんというか、もっとその感情を表現することで、人に対して支配力を及ぼそうとするような、そういう支配的・操作的な意図に基づく感情表現のことだ。

そしてそうした暴力的な感情表現というのは、実はそれほど特殊なことではなくて、むしろそれが当たり前のようになってしまっているのでかえってピンと来ない人がいるかもしれない。

一応下手くそな具体例を挙げてみるけど、ちょっとこれから気をつけてもらえれば、こんな下手くそな例なんかよりよっぽど格好の具体例が毎日あちらこちらで散見されることに気づいてもらえると思う。

暴力的な感情表現の具体例1.怒りを暴力的に利用している例

これは多分小さい子供なんかの親子関係においてもっとも典型的に見られるんじゃないかと思う。実は大人の側では大して怒ってなかったり、まったく怒ってなかったりするのに、怒っているというていで叱りつける。もちろん暴力的な利用ではなく、きちんと教えないといけないことを教えるために怒っている感じを出すというのは必要な場面もあると思うのだけど、それとまた別に、「お父さん(お母さん)は気分を害しています」とか、「あなたは悪い子です」というメッセージの伝達に怒りの感情表現を利用してしまう大人ってけっこういると思うのだ。

子供って大人(特に両親)の感情にものすごく敏感だから、そういうメッセージを出せばものすごく忠実従順に言うことを聞いてくれる。だから大人の中にはそれが教育ということなんだと思ってそうやって怒りを表現することで、子供になんでもかんでもいうことを聞かせようとする人もいるように思う。

でもはっきり言うけどそんなのは教育じゃなくてただの飼い慣らしだ。そんなふうにしてしつけられた子供はかわいそうだと思う。一見大人の言うことをよく聞くいい子みたいに言われたりもするけど、本当はその内面はめちゃくちゃに傷ついている。そしてその歪みというのは必ずどこかで出てくるし、生涯にわたって苦しみ続けるようなことにもなりかねない。

そもそもそうした簡単で気楽な手抜きの教育は教育ではなく、暴力なのだということを大人がきちんと認識していてくれたらいいのになあと思う。そうすれば少しはそういう子供も減るだろうに。ともあれこれが怒りという感情表現を暴力として利用している一例です。

暴力的な感情表現の具体例2.悲しみを暴力的に利用している例

これもまあ「お母さん(お父さん)はあんたをそんな子に育てた覚えはないよ」と言ってさめざめ泣いてみせる、みたいな親子間でしばしば見られるんだけど、まあそれくらい家族とか親子の中では特に感情表現が暴力的に利用されやすいということだと思う。っていうのもそれは親子とか家族っていうのはよくも悪くもプライベートで個人的な結び付きが強いから、職場とかオフィシャルな場以上に感情表現が暴力的に利用されてしまいやすいのだろう。

でも2つとも親子間の話というのもつまらないので今度は恋人同士の設定にしたい。いわゆるありがちな愁嘆場というやつですね。

まあ愁嘆場とは言っても、たとえば女の子が泣いていても、実際には悲しみではなくて無言の怒りの表現であることが多い気がするんだけど、中には怒りではなく純粋に悲しみの感情表現を暴力的に使うのがうまい人もいる(男女問わずこの手の手合には要注意やでええええ!!!!)。

それも、相手の同情心だったり、男の「こいつ守ってやりてえ…」願望をくすぐるくらいならまだかわいげもあるんだけど、これが相手の罪悪感を掻き立てて自責感で苦しめる目的に利用されたりする場合、たけし映画も真っ青の暴力といった感じがする。

ちょっとやそっと謝ったくらいでは泣き止まず、もうほとほと困り切った相手が土下座せんばかりに謝ったり、あるいは許しを請うためになんらかの(納得できる)提案をしてくるまで泣き止まない女の人とか、男でも露骨に元気をなくして口数少なく、思わせぶりにため息を連発する奴、こういう人は悲しみの感情表現を暴力的な形で利用して相手を操作・支配しようとしている可能性が高い(※当社調べ)。

「私はあなたのせいでこんなに悲しんでいる、こんなに傷ついている」ということをアピールするために大げさに泣いたり、これ見よがしにため息をつくとき、実は本当に悲しんでいるのではなく、相手に自分の悲しみを思い知らせ、罪悪感を抱かせたり謝らせようとして相手を責めているのだ。

人間関係は感情表現を手札にした勝負事なのか

親子間だったり恋人間だったりの具体例を挙げてみた。こうして言葉にするとめちゃくちゃ胸クソ悪い嫌な話だと思うかもしれないし、そのことを否定はしないけど、こういう駆け引きっていうのは実は親子間でも恋人間でも、ほかのどんな関係同士でも、当たり前みたいに行われていることだと思う。

つまり僕たちは感情表現をゲームの手札みたいにして使っているのだ。おだてる、なだめすかせる。それでもダメなら怒りの手札を使って怒ってみせる。それでもダメならいよいよ切り札として悲しみの手札を使って泣いてみせる、傷ついてみせる、などなど。ある意味で人間関係は感情表現を駆使しての勝負事みたいになってしまっている(場合がある)。

でも個人的には自分の感情表現を駆け引きに使ったり、ましてや相手を支配し操作するために暴力的な形で利用するような、そういう関係になってしまった時点でもうその関係は破綻してしまっている気がする。

これがビジネスだったり交渉事の席での話しならその手の手練手管というのはむしろ評価されるものなんだろうけど、僕はそんなビジネスライクな人間関係を自分の家庭や恋愛にまで持ち込みたいとは思わない。

・・・え?でもお前にはビジネスもないし?自分の家庭もないし?恋人だっていないじゃないかって?・・・いじめっ子かよ!いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるだろ!的外れなことはいくら言われても「的外れなことばっか言いやがって!」とか怒ってるていでブログの記事を書いたりもできる(※怒りの感情表現の暴力的な利用例)からいいけど、図星すぎること言われたらなにも言い返せないしほんとに傷つくだろうが!おーいおいおいおいおい、おーいおいおいおいおい、悲しいよー、めっちゃ悲しいよー、傷つけられてめっちゃ悲しいよー!そんなこと言って人を傷つけるなんて酷いよー!人非人だよー!死刑だよー!(※悲しみの感情表現の暴力的な利用例

暴力的な感情表現は習慣的にありふれている

めっちゃ自然な流れで実践的な応用テクニックまで紹介したところで、なぜか本当に傷ついて泣いている僕がいることに気づいたので、そろそろゆるゆるとまとめに入っていきます。。。

怒りや悲しみといったいわゆるネガティブな感情表現は、それによって相手を操作・支配しようとするための暴力として利用されることがあるという話をした。「怒りや哀しみの感情表現は暴力だから謹んでください!」と言っているのではない。そんな感情の抑圧の強制はどんな間柄だったとしてもそれこそ暴力でしかないだろう。

ただ本当に自然で素直な感情の発露というよりは、特定の相手だったりあるいは不特定多数の第三者だったり、そういう相手に罪悪感や恐怖感を抱かせ、支配するための手段としてネガティブな感情表現が使われることがままあるということだ。そして感情表現がそんなふうに利用されるとき、それはもはや暴力だと思うのだ。

今言ったことというのはごく一部の特殊な人たち、邪悪な人たちの話ではなく、多かれ少なかれ誰もにそういう傾向があるように思う。「自分は自分の感情表現を他人を操作したり支配するために使ったり、そんなずるいことはしたことがない」という人がいたら、正直僕は疑ってしまう。清廉潔白な立派な人なのではなく、むしろ自分の中のずるさや汚さに気づこうともしない人なのではないかと疑ってしまう。

それくらい、よほど気をつけていないと意識もしないような微妙なレベルで僕たちは感情表現をなんらかの目論見のもとに利用してしまう。考えてみればそんなのはある意味で当たり前の話で、それこそ赤ちゃんなんて言葉がしゃべれないから泣き喚くことでおっぱいをもらったりオムツを変えてもらったりするのだ。そういう意味では感情表現を対人的に利用するというのも自然なことなのかもしれない。

ただ当たり前だが赤ちゃんが泣くのは暴力ではない。具体例で見たような操作的な感情表現はやはりある種の暴力ではないかと思う。少なくとも相手の怒りや悲しみにそういう打算や計算が透けて見えると僕はがっかりしてしまう。

僕自身大切な相手にはそういう切り札の使い方はしたくないなと思う。自分の感情を打算や駆け引きの取引材料にしてしまうような不誠実な関係に、どうしてしあわせなんて見出せるだろう

それって人心操作に有効なようでいて(有効であること自体は否定できないにせよ)、結局自分の首を絞めることにしかならないと思うのだ。

感情は思い通りにならないからこそ価値を持つ

それに感情表現は癖になる。習慣になってしまう。最初はそういう目論見ありきの計算づく、打算づくだったものが、いつか本当に自然なものになってしまう。自分自身がだまされてしまうのだ。

たとえば怒りの感情表現を暴力的に利用していた大人は、いつか本当に子供のことが鬱陶しくなってしまうかもしれない。そうして手が出る、あるいはもっと本格的な虐待に発展するかもしれない。

たとえば涙やため息で恋人を暴力的に操作・支配しようとしていた男女は、いつか本当に悲しくなっている自分に気づくかもしれない。あるいは関係がとっくに破綻していたことに気づくかもしれない。そのときになってからいくら本気で悲しんでも、いくら泣いても、いくらため息をついても、すべては手遅れ、なんてこともあるかもしれない。

結局どんな暴力にしてもそれを振るうものはそれによって報いを受けるんじゃないだろうか。感情表現の暴力的な利用にしても例外ではないと思う。親子間だったり、恋人間だったり、それが身近な関係であればあるほど、暴力的に感情表現を利用してしまいがちだけど、本当はむしろそういう関係でこそ誠実であるべきなのだ。

それはもちろん人倫とか道徳とかそんなことではなくて、自分がしあわせでいるためにだ。自分のほうで相手に対して不実を働いておいて、その関係から誠実な関係の報いを受けようなんて絶対に無理な話だ。

感情こそは人間関係のもたらす果実だ。にも関わらず自分から感情表現を人心操作のための駆け引きに使うようでは、どうしたって本当に価値のある収穫なんて見込めるはずがない。収穫できたとしてもどうしてそれがまがい物でないと言い切れるだろう。

ある意味で、人の心は思い通りにならないから面白い。人の感情は思い通りになんてならないからこそ価値がある。ほしい結果だけを搾り取ろうとしても、そんなものは搾りかすですらない。

暴力的な感情表現で人の心を操作しても、それで出てきた相手の感情が本物だなんてどうして信じられるだろう?人心操作なんてのは結局自分自身の人間不信に拍車をかけることにしかならない。もちろん中には人間なんて最初から誰も信じる気なんてないという人もいるし、あらゆる人間関係を功利的に利用して自分が得をするようにうまく生きられればそれでいいという人もいるのだろう。でも僕はそんなのは嫌だしそういう人たちに自分の気持ちを食い物にされるのも嫌だ。

結局お互いに笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣き、怒りたいときに素直に怒れる、そういう関係に勝るものはないんじゃないかって気がする。そうであるなら、大切な相手であるほど、「自分はこんなに怒っている」とか「自分はあなたのせいでこんなに傷ついた」みたいなポーズで相手を操作しようとか支配しようとしていたら、お互いに自然な感情なんて死んでしまう。

感情は本物だから価値を持つ。イミテーションでは意味がない。それが人の感情であれ自分の感情であれ。人を支配し、操作する意図で自分の感情表現を暴力的な形で利用することは、相手を傷つけるだけでなく結局自分自身の心を汚すことだ。

人の暴力的な感情表現の食い物にされないこともだけど、それ以上に、自分の暴力的な感情表現で大切な人の心を傷つけたり食い物にしてしまうことが極力ないように気をつけたいと思いましゅ!(ノ)`ω'(ヾ)おしまい。