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まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

正論は役に立たない

正論は役に立たないという話。

いきなり私事で恐縮ではございますが、先程10000字超書いた下書きの記事を8つ破棄しました。正確に言えば3000字の記事を3つ破棄しただけなのですが、多少脚色を交えて表現してみました

 

なんというか、まわりからの反応に飲み込まれて自分が書きたくもないことを書く→それに対する反応がある→それに対して自分が書きたくもないことを書く、の循環が僕には悪夢のような円環の理に思えたのだ。輪廻の輪、サンサーラである。

ある意味ではそれって永久機関みたいなもので、事実そういうやり方でずっとブログを書き続けている人もいるんだろうなーって思うけど、それって修羅道だなって思う。

世の中には自他のものであるなしを問わず争いの大好きな人っているし、そういう人や「まことのことばはここになく、修羅のなみだはつちにふる。おれはひとりの修羅なのだ」みたいな人はそれでいいのかもしれないけど、僕は自分のでも他人のでも争い事が苦手なタイプなので、変に周囲の声に巻き込まれたりせず、できるだけマイペースに自分の書きたいことだけを淡々と書いていけたらいいなと思った次第。

さて、ここまでの話は本題とほとんど関係ございません(ほんとはまったく関係ないわけではないけど)。ただの時候の挨拶みたいなものである。というわけでここからが本題でござい。「正論は役に立たない」というお話でございます。

正論は役に立たない

正論は役に立たない。こんなことはもちろんいまさら僕などに言われるまでもなく、知っている人はみなさん知っていることでしょう(当たり前)。ですが世の中知っている人ばかりでできているわけではなく、知らなかったという人も中にはいるに違いないので、正論は役に立たないという話をがんばってしてみようと思いましゅ。

ちなみに「正論は役に立たない」という言い方は言い切ることで主張を明確にしようという意図によるものであり、厳密には「正論は役に立たない(こともある)」くらいのニュアンスであることをご理解ください。「はぁ~?正論が役に立つこともあるんですけど~?」みたいなうざい感じに言葉尻につっかかってこられても今後の方針として一切返答致しかねますのでご了承ください。

さて、正論は役に立たないとは一体いかなることでありましょうか。そもそも正論とはなんでありましょうか?

正論は「正しい論」ではなく「正当に筋が通っている論」の略

わたくしが思いますに、正論というのは「理屈として正当に筋が通っている論」略して正論ではないかと思うのです。一見もっとわかりやすい「正しい論」の略だとすると、少し乱暴な気がする。

どういう考えを「正しい」とするかなんて人それぞれの多分に独断と偏見に基づく主観でしかないと思うのだ。

たとえば戦争か平和かっていう話で言うと、人によって「正しい論」は「断固戦争だ!」か、「絶対戦争はしたらダメ」か、あるいは「他国に攻め入られるようなことがあれば戦争もやむを得ない」とか、いずれにせよどれか一つ、自分の考えだったり立場みたいな主観に基づいて「正しい」とするものを選ぶことになる。

でも僕の考える正論、つまり「理屈として正当に筋が通っている論」っていうのは、「断固戦争だ!」も「絶対戦争はしたらダメ」も「他国に攻め入られるようなことがあれば戦争もやむを得ない」も、場合によってはそれぞれすべてが正論ということもありえる。

なんでかというと僕の考える正論というのはひとまず自分の考えとか立場みたいなものとは無関係に、単にきちんと筋の通っている理屈のことでしかないからです。

それぞれのタカ派とか平和主義とか中立派とか、そういう主義や思想とは無関係に、単に理屈としてきちんと筋が通っているかということ。僕はそれって本当は人が話をしたりなにかを議論するにしても、みんながきちんと持っていないといけない共通言語みたいなものだと思うのです。だって共通言語がなかったらそもそも文字通り話にならないではないですか。

それぞれがきちんと筋の通った理屈を駆使して自分の考えを話せて、はじめて「断固戦争だ!」でも「絶対戦争はしたらダメ」でも「他国に攻め入られるようなことがあれば戦争もやむを得ない」でも、それぞれの立場の人間がお互いの考えを主張しあって議論したり相手を説得しようとすることもできると思うのだ。

正論と正論で議論はなされるべき、という理想論にも意味がない

でも、もちろん今言ったようなことはみんなただの僕の理想論でしかなく、現実には全然そんなことにはなっていない。ほとんどの人が筋の通った理屈なんてなにもなしに自分の考えや立場を唯一「正しい」として主張しているだけ。そしてそれをして「正論」ということにしているだけ。

これでは「断固戦争だ!」でも「絶対戦争はしたらダメ」でも「他国に攻め入られるようなことがあれば戦争もやむを得ない」でも、議論になんてなるはずがない。最初から三者三様に自分たちが正しくて相手は間違っているという前提で、理屈に筋もなにもなく、それぞれの主義や主張だけを大声で言い合っても本当は意味なんてなにもない。あるはずがない。

彼らはいわば共通言語を持っていない。本来であれば、それぞれがそれぞれの主義や主張を、「理屈」という共通言語を使って話せれば、お互いに建設的な議論をすることもできるのだろう。でも実際には多くの人が「理屈」という共通言語を持たずに自分の主義や立場を叫ぶことしかできないから、現実にはそれぞれに「断固戦争語」、「絶対平和語」、「場合によっては戦争語」というような、お互いに違う言語を使って叫びあい、相手を「お前がなに言ってんのかわかんねえんだよ!」とか、せいぜいが「ファッキンジャップくらいわかるよバカ野郎!」とか言って罵り合うのが関の山なのだ。要は文字通りまるで話にもなっていないのである。

(※画像は幼年向けのコミックで幼心に正論を洗脳教育しようとするドラえもん氏)

感情論の前にあまりに無力すぎる正論

こういう残念な現状を踏まえてなにが言えるかというと、それが「正論は役に立たない」ということである。

仮に先程の例で、「断固戦争だ!」の考えの人がきちんとその考えを筋の通った理屈で説明できたとする。が、残りの2人がそもそも理屈という言語を解し得ない生物だった場合、つまり人語を解し得ない猿とかチンパンジーだった場合、結局「キー!キー!」とか「ウキャッ!ウキャッ!」というサル山と同レベルの様相を呈するほかないのである。

誤解しないでほしいのは、僕は別に理屈を絶対視して感情論を蔑ろにしているわけではないということだ。むしろきちんと理解してくれていれば、理屈や正論といったものはなんら究極的なものではなく、人が話し合う上でのただの前提でしかないということを言っていることはわかってもらえるはずだ。

言うまでもなく本当に大事なのは感情で、「俺は怒った」とか「私は悲しい」といった感情ありきで、だからこそ「だからこういうのはおかしいんじゃないか」とか、「本当はこうなんじゃないか」みたいな意見も出てくるし、そういった意見や感情をきちんと表明し、伝達するための手段が理屈なのだ。

その意味で理屈はただの道具でしかないんだけど、困ったことに中にはその道具でしかない理屈に自己を同一化してしまう人もたくさんいる。こういう人は逆に感情的な人を下に見ている人に多く見られる傾向がある。こういう人は自分では自分のことを冷静で知的な論理マシーン()のように思っているらしいのだが、議論大好きといったていで議論をふっかけてきた挙句、単純にそれに対して理屈で返事しただけのつもりが、それに対しての返答に窮すると突然発狂してもはや理屈も何もない感情論を喚き始めたり陰湿な悪口を流布するなどの行為に走ることが多々あるので注意が必要である。仮にも理屈が好きな人間であることを自認するのであれば理屈というのは本来なんら人間の優劣や勝ち負けみたいなものとは関係ないということくらいきちんとわきまえていてほしいものだ。単に道理でしかない理屈と、それぞれの人間の人格とは本来なんの関係もないのである。

正論だからといって正しい訳ではない。正しいかどうかということはそれぞれの個人の主観にしかないので、理想的に誰もが成熟していれば、「あなたの言っていることは理屈としてはきちんと筋が通っている正論だと思う。でもその考えには私はこういう理由で賛成できない」ということも十分ありえるし、そしてそのときは「私は本当に正しいのはこうだと思う」というようなその人なりの主観に基づく考えを、正論を使って主張すればいいだけの話なのだ。

だがそれが成り立つのも「理屈」というものをみんながきちんと理解して使えていればという話だ。いわば理屈とか正論というのは個人の主観とは別次元に存在している。たとえば僕たち日本人の場合、日本語を使って自分の主観に基づいてなにを言うのもそれぞれの勝手だけど、それぞれが日本語を使っている、という点では同じだから違う考え、違う主観を持った人間同士でも話をしたり意思を疎通することができる。

でもその本来前提であるはずの日本語の部分が(※もちろんここでいう日本語というのは「理屈」ということの喩えです)、あまりにも多くの人たちに蔑ろにされているため、どんな考えを表明するにしてもそもそも意思の疎通すらまともに成立していないのが現状だと思う。

実際にはもちろんみんな日本語でしゃべっているため、たとえば僕がこういう話をしていても「お前はなにを言ってるんだ?」とか会話が成立しているように見えてしまうのだけど、本当はそれとは違うレベルで全然意思の疎通すらできていないのだ。

そういう意味で理屈の無力さみたいなものを感じる。たとえば明日突然あなた以外の人が日本語を理解しなくなったとしたら、多分あなたは日本語の価値のなさに絶望してしまうことだろう。そして日本語を理解しなくなった人たちが怒声や表情などによる喜怒哀楽の感情表現だけで意思の疎通を図っているのであれば、その人たちと意思を疎通させようと思ったらあなたもまた日本語を使うことはあきらめて身振り手振りや表情で意思の疎通を図るしかない。そんな世の中になったとしたら、そのとき日本語が役に立つなんて言えるだろうか?

もちろん今のは極論だけど、「正論は役に立たない」ということの意味はおおまかに言うとそういうことだ。もちろん実際には筋の通った理屈というものをきちんとわきまえている人が世界で一人だけになってしまうなんてことはないだろうけど、どの程度の割合かはわからないけど相当に少数派であることは間違いない気がする。

正論は役に立たない。嘘も方便が菩薩の道

だが、だからといってそのときそういう少数民族同士でしかわかりあえないのでは、まるで消え行く少数部族の言語を遺そうとする会、みたいな虚しいことになってしまう。ものの役にも立たないようでは理屈だ正論だといったところでなんの意味もない。そんなものにしがみついて「ううっ、僕はきちんと筋の通ったことを言っただけなのに、ジャイアンの奴いきなり僕のことを殴りやがったんだ…」と言っても現実には泣きつくドラえもんはいないのである。

だから、いわゆる「正論居士」が嫌われるのも故のないことではない。もちろん正論を言うことがなにも悪いことのはずがないのだけど、そこで終わってしまい、「自分は正しいことを言っている、なのに理解しないまわりの奴らがバカなだけだ」という態度になってしまうと、本人にとっても周囲にとっても建設的なことなどなにもなく、お互いにとって悲劇であろう。

なにをかくそう、僕はこの記事を主に正論居士の人たちを対象に書いている。そもそも理屈の通用しない人たちに「あなたたちはまずきちんと理屈を理解できるようになってください」というのは、お猿さんに「お前もニホンザルというからには日本語がちゃんとわかるようになろうな!」と語りかけるくらいに無意味なことであろう。

なのでもうそこはあきらめているとして、理屈を解する人たちのほうでさらに成熟するしかないんではないだろうかという話。具体的に言えば、「正論は役に立たない」、「ほとんどの人は理屈というものを解さない」ということをきちんと踏まえた上で、理屈ではなく上手に相手の感情に沿うように人を動かそうとすることだ。


人を動かす 新装版
 

デール・カーネギーの歴史的名著『人を動かす』もそういう話だったような。「すべての人は自分が正しいと思っている。だから人を変えようとするのは無駄なこと。上手に感情に働きかけよう」みたいな感じだった気がする(※完全にうろ覚え)。

まあとにかく自分の中にはきちんと筋の通った理屈がある上で、それを理屈のまま人にもわからせようとするのでなく(それでは暴力と変わらない)、結果としてお互いにとっていいように行動するようにできれば成功と考えるのだ。いわば嘘も方便である。

たしか法華経かなんかの一節に、火宅から幼児を出させる話があった気がする。幼児は家が燃えていることに気づかない。このままだと焼け死んでしまうことに気づかず、おもちゃかなんかで遊んでいる。そんな幼児にこんこんと火事の恐ろしさや幼児が死ぬと悲しむ人がたくさんいて…みたいな話を説いて聞かせてもしかたがない。そういうときは外に出ればもっと面白いおもちゃがあるよと言って外まで出させてやることだ、みたいな説話があった気がする(※すべてにおいてうろ覚えの記憶であり、この件に関しての一切のお問い合わせ、クレーム等にはお答えすることができません。ご了承ください)。

ここはひとつ理屈を解するみなさまの方で、それくらいの菩薩の慈悲の心を思い起こし、「最低限の理屈もわきまえぬ人の面をかぶった猿め!」なんておとなげなく腹を立てたり見下したりするのではなく、そんなことをしてもお互いに嫌な思いをするだけで不毛だということをも思い起こし、うまいこと相手の感情に沿いつつ誘導してやることを心がけるのがあるべき菩薩行であろうと思うのだ。

感情論だけで人を煽動する天魔外道、フォースの暗黒面

ちなみに「正論は役に立たない」、「ほとんどの人間は理屈を解しえず感情論でしか動かない」という同じ理解、同じ出発点に基づきながらも、これとはまるで別のアプローチ方法、いわばフォースの暗黒面、あるいは天魔外道の所業ともいうべきやり口がある。

それが人を煽動するという方法である。これははっきり言って「うまいこと相手の感情に沿いつつ誘導してやる」なんていう面倒くさい菩薩行と比べて圧倒的に簡単だ。古来菩薩行を完遂する者は少なく、フォースの暗黒面に陥る者は絶えない所以である。

事実なんてどうでもいい、ほんとかどうかなんてどうでもいい、ただ感情を煽りさえすればいい。その場合苦労して言葉を尽くして、なんて手間は必要なく、むしろ邪魔でしかなく、とにかく断定的な感情論だけで頭の悪い人たちのケツに火をつけるのだ。

そうしてまんまと面白いくらい手のひらの上で意のままに踊り狂うアホ共を笑いながら、アフィリ収入などの何らかの実入りを自らの懐に収める。そういうシスの暗黒卿のような人たちもネットの世界にはうようよと散見される(もちろんアフィリエイターのすべてがそういう人たちなわけじゃないよ。いや、ぶっちゃけぜんぜん知らないけど。多分そうだと思います。適当ですいません)。

そういう人たちにとってはもしかしたら多くの人が理屈を解さないバカであるという事実は悲劇ではなく、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。感情を刺激してやりさえすれば面白いように意のままに操れる愚民のことを、脳にぶっ刺した電極に電流を流してやるだけで思いのままの反応を示す実験動物の猿くらいに思っているのかもしれない。

できればそういうダース・シディアスみたいな邪悪な人にはならないでほしいし、意のままに支配されてしまうアナキン・スカイウォーカーみたいな愚か者にもならないでほしいなーと思います。

正論は役に立たないの追記とまとめ

そんで、これは「これが一番言いたい」と思って書き始めたことなのにすっかり忘れていたことの追記なんだけど、正論居士にありがちな「正論なんだからわからない奴が悪い」とか「わからない奴がバカ」とか、そういう正論なんだからどんな言い方をしても許されるみたいな態度はやっぱりよくないと(99%反省的に)思う。

くれぐれも重要なことは、理屈というのは自分の言い分をきちんと相手に伝えるためのものなのであって、相手を論破したり言い負かしたりするためのものではない。それなのに、あまり傲慢な物言いになってしまうと、「理解されない」のではなく、反感を買ってしまいそもそも「理解したくない」ということにもなってしまいかねない(というか、ほぼ100%そうなってしまう)。

本当に伝えたいとかわかってほしいことであれば、「正論」ということに甘えるのはやめて、正論を言うにしてもきちんと伝え方ということも考えないといけない。きれいごとに聞こえてしまうかもしれないけど、結局一番大事なのはやさしさなのだと思う。まったく同じ意味で賢さと言ってもいいのだけど、賢さというとどうしても「理屈のスマートさ」とか「理屈の切れ味」みたいなものを想像してしまうと思うので、ここでいう賢さというのはそういうことではなく、むしろよく切れる理屈だからこそいかにそれを相手を傷つけないように鞘に収めて渡すか、みたいな話だ。

そういう意味では、理屈の切れる人や正論を言うときほどむしろやさしさみたいな情緒的な要素が大切になってくるのかもしれない。というわけでお互い精進いたしましょう。

May The Force Be With You.(あなたにフォースの加護があらんことを)     おしまい

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