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まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

毒親だった僕の親は今は悪い親ではないかもしれない

人生 自分 考えごと

毒親だった僕の親は今は悪い親ではないかもしれないという話をがんばってしてみようと思う。

毒親について書くことの大変さや懸念されること

まあてめえで書きたくて書きはじめておいて、がんばって書くというのもおかしな話なのだけど、やはりどうしても感情的なブロックや問題を抱えている話題というのはそのほかの他愛ない話題について書くのとは多少なりとわけが違う。

 

また、がんばって書いた挙句、その記事に関して頂戴するリアクションも感情的なものが多くなり、それが悪い方向に発揮されると人格否定みたいなものを平気でしてくる人たちというのが世の中にはたくさんいるのでなかなかに踏んだり蹴ったりである。

実際問題、この記事を書こうと思ったきっかけというのが、以前書いた人生の9割が親で決まるんだったら僕は今すぐ自殺するという記事に対してつけられた、

尊敬できない親に育てられた子供はクズに育つ、ならだいたいあってると思わざるを得ないサンプル

というブコメをを読んだとき、なぜだか少し親に申し訳なく感じてしまったからだったりする。

そんなわけでこの記事に関しても懸念がないわけではない。上記のような心ないブコメをする人に関しては僕はそもそも同じ人間だとは思っていないので別に気にもしていないのだけど、今回僕が少し気にしてしまうのは僕と同じようないわゆる毒親を持った人たち、また機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンみたいな人たちのリアクションである。

まあ基本的に、というか絶対的に、僕は自分が思ったことや感じたことを書くのに誰に憚ることもないと思ってこのブログを書いているのだけど、それにしても感情的な話題を取り上げたときに、的外れな受け取り方をしてほしくないというのはある。

それが別に読んだ人が勝手に激怒したり嫌な気持ちになったり感情的になってブコメで僕に罵詈雑言を残して去っていく程度の人ならどうでもいいのだけど、なんか変に感傷的に受け取って落ち込んだり悲しくなってしまうというのは、まあ人の勝手といえば勝手なのだけど僕の本意ではない。

毒親持ちやアダルトチルドレンが毒親や家族のことで自分を責めるのは間違い

なんで僕が「僕の親はそんなに悪い親ではないかもしれない」ということを書くのにそんな懸念をしてしまうかというと、いわゆる毒親持ちとかアダルトチルドレンの人たちにとって、一般には親は悪くなければならないとされているからだ。もちろん乱暴な言いかたには違いないのだが、でもはっきり言って概ねそういうことである。

もちろんそれというのも大いに意味のあることで、もう少し順に沿って言うなら、毒親持ちやアダルトチルドレンには、親を愛せなかったり許せなかったり憎んでしまう自分のことを、過剰に自己嫌悪してしまったり、自己非難や自責感に苦しんでいる人がたくさんいる。

だがしかしそういう人たちに対して社会がかける圧力というのは「親の悪口を言う奴はクズ」とか、「親に感謝できない奴はクズ」とか、そういう風潮である。またそういう土壌があるからこそ毒親持ちの人やアダルトチルドレンが親を許せない自分を責めてしまったりする一因となっている側面ももちろんある。

そういう自己非難や自責感、罪悪感に苦しんでいる人たちに対しては、「悪いのは親だ、あなたが自分を責めるのはおかしい」ということをきちんと言ってあげることには、僕自身も重要な意味があると思っている。というかもしそんな人がいたら一応念のためここで言っておきます、あなたが毒親を持ったことや、そんな毒親のことを許せない自分のことを過剰に責めてしまうのは間違いです。そんなことしても誰もなにも報われないしつらいだけなのでもうやめましょう。

そこらへんのことに関して根深い自責感があり、苦しんでいるという人がいたら、その手の本では世界的にバイブルみたいに言われている毒になる親という本があるので興味があれば読んでみればもしかしたらそれまでの自責感から解放され、自分のことを許してあげるための参考になるかもしれない。


毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社プラスアルファ文庫)

さらにもっと原理的なレベルからこの問題について掘り下げたい、深く理解したいという人がいれば、虐待という問題がいかに個人のみの問題にとどまらず、人類の歴史や社会のレベルで暴力的な形で影響しているかということをテーマに研究している、アリス・ミラーの一連の著作もおすすめしておく(ただしこちらの方は処方箋というより本当にこのテーマに興味があって深く知りたいという方向け)。


魂の殺人―親は子どもに何をしたか
 

人生の9割が親で決まったとしても人生の10割は僕だけのもの

さて、そんなわけで普通のブログならもうここまでの内容で文章量も十分、内容的にもこれでおしまいになっていいところなのだが、残念ながらこのブログは普通のブログではないのだった。

たしかにそういった自責感や罪悪感に苦しんでいる人たちにとって、「そうか、自分の親は毒親だったのか、自分が悪いのではないか、おかしいのではないかと思って苦しんできたけど、悪いのもおかしいのも親だったのだ、その親のために自分が自分を責めて苦しむ必要はない、親を許せない自分を責める必要はない」という理解は重要であり、ひとつの大きな福音や効果的な処方箋になり得る。そのこと自体はもちろん素晴らしいことだ。

ただ、僕自身はもともとそんな親を立てようというような殊勝な心がけなど毛頭なく、物心ついたときから両親を激しく憎悪し続けてきた

もちろんそのような激しい憎悪自体、本来であれば愛し愛されたいからの裏返しでしかないわけで、それが肉親の愛憎というものだろう。

しかしだからと言って僕が素直に親を憎んでいたから苦しくなかったか、楽だったかというと、もちろんそんなことはまったくない。正直もうそのあたりのことについてはここで改めて書きたくもない。そういうのってけっこう体力や精神力を消耗するものなのだ。

僕は自分が一番つらい人間だなんて少しも思わないし、実際僕なんかよりずっと過酷な環境で苦しんできた人もたくさんいると思う。でもだからと言って、自分が一番つらい人間面をしたいがために、そんなもの本来比べようもないことなのに、人様に「結局お前は恵まれている」みたいな口出しをしてくる輩についてははっきり言って僕は激しく嫌悪している。

だがまあそのあたりの無理解だったり、またそもそもまったく境遇の違う人(自分は素晴らしい親に恵まれたような人)からの無理解だったりについても含め、僕自身がどんなふうに、どんな思いをして育ってきたかみたいな話はごくおおまかには人生の9割が親で決まるんだったら僕は今すぐ自殺するの記事の中で書けたんじゃないかと思う。なのでそれをもう一度ここで繰り返すことはしない。

まあとにかくそういうわけでありまして、実はここまでの部分というのはただの前書き、お断りでしかないのだった。でもってここからがこの記事の本題である。

多分ここから先は毒親持ちの方やアダルトチルドレンの方にはいろいろな意味でキツい話かもしれないので、もしあえて続きを読むのであればくれぐれも覚悟の上でお願いしますね。

クズささえもが僕のもの。誰にもあげないし、誰のせいにもしない

そんなわけで僕自身が毒親のもとに生まれ、とんでもない機能不全家庭に育ったことは否定しようのない事実なわけだけど、だからと言って僕自身はそのことをいくらきちんと認めようと、それで自分自身の苦しみから救われるわけではないのだった。

そしてまた、どこの誰とも知らぬ他人ごときに、

尊敬できない親に育てられた子供はクズに育つ、ならだいたいあってると思わざるを得ないサンプル

などと吐き捨てられてしまうことに、一抹の悔しさのようなものを感じつつも、だからと言って、僕がクズであるという点に関しては否定のしようもなく、そんなことは他の誰に興味半分にバカにされるまでもなく、自分自身がそのことで一番苦しんできたし苦しんでいるのである。

そしてそのことはいくら僕が「僕がこんなふうな人間になってしまったのは僕の親が毒親だったからだ」みたいなことを主張したとしても、それでただの1ミリだって僕自身のクズ性が減じることなんてないのである。

個人的にはむしろそうした態度は自らのクズ性を加速させるものでしかないと思っている。いくらそれが誰にも否定のできない事実だろうと、それを言い訳にしてしまったら、本当にこの先自分が生きていくことの意味も価値も見出せなくなってしまう。

そう思うからこそ僕は人生の9割が親で決まるんだったら僕は今すぐ自殺するという記事を書いたのであり、むしろ今の自分やこれからの自分に絶望しきってしまいたくないからこそ、僕は僕のクズさも含めて、自分がどういう人間であるかということを親だろうと他の誰だろうと誰のせいにもしたくないと思っているのだ。

そうと覚悟しているからには、少なくとも僕にとってはいつまでも親を憎んだり怨んだりしているのはよけいな負担でしかないのだった。

というか実はもうここ数年、僕の中には親を激しく憎んだり怨んだりする気持ちはないのだった。気持ちの上ではもうほとんど許している、というか、もう過ぎてしまったことなので今更憎み続けたところでどうにもならないし、むしろそのことで苦しみ続けるのは親ではなく自分なのだから、バカバカしくなってあきらめた、という方が感覚としては近い。

もちろん幼い頃からあれだけ激しく憎悪してきた存在であるし、いまだに折にふれては頻繁に心身に刻みつけられた恐怖がフラッシュバックして苦しんでしまったりするので、潜在的な意識まで含めてきれいに許せたとは言えないだろうし、むしろそんな日がこの先も来るのかどうか正直かなり疑問だと思っている。

それでも、「自分の気持ちの上では許した、許せた」というだけのことが、僕にとっては本当に大きな意味のあることなのだ(そういう意味で言うと、実はさっき挙げた毒になる親アリス・ミラーの本というのはある種諸刃の剣というか、人によっては自分の傷口に指を突っ込んでほじくり返すようなことにもなってしまいかねないと思っている。実は僕自身にとっては、多分にそういうふうに作用してしまった。よくも悪くも「毒は毒をもって制す」みたいな本なので読むときはある程度覚悟しておいてほしい)。

親を許すのは親のためではなく他の誰でもない自分自身のため

くれぐれも勘違いしないでほしいのは、これはだから先に触れたような親を許せずに苦しんでいる人たちに、「あなたたちも親を許さなくてはだめだ」と言っているのではない。そんな勘違いはくれぐれもされたくないからこそあれだけ長い前書きを書き、参考図書まで挙げたのであって、単に僕が僕の生きかたを表明したからといってそれを以て他の誰かの生きかたを否定したなどとは思わないでほしい。

人はみなそれぞれに異なった親を持ち、異なった環境で、異なった育ち方をし、異なった考え方をする異なった人間になるのだから、少なくとも僕は他の誰の生きかたを否定する気もないし、同じように僕自身の生きかたを他の誰に否定される気もない

いや、実際さっきのブコメの奴みたいに、否定するのはそいつの勝手なのだけど、だからと言ってそれで僕自身まで僕の生きかたを否定しなきゃいけないなんて決まりはないし、もちろん僕はそんなことするはずもなく、誰に否定されようと僕は僕自身の信じる生きかたを絶対に否定しないし、僕自身の信じる通りに生きていくだけだ。

まあそんなわけでございまして、僕自身としては、親には感謝しなくてはいけないだとか、あるいは親にかぎらず人を許さなくてはならないだとか、そんな通俗的な道徳観念とかいう、ただのクソくだらねえバカ共のたわ言なんかではなく、僕自身の考えに基づいて親を許しているのだった。

つまりそれは事実として僕を苦しめた親のために許すのではなく、苦しめられた僕自身をこれ以上苦しめないために、他の誰でもない僕自身のために、親を許したのだった。

それができてからはだいぶ楽になったのを感じる。もちろん今でもなにかっちゃあいろいろ思い出されてきて悲しくなったり、あるいはもっと選択の余地もなくフラッシュバックしてきたり夢にうなされたりという苦しみはあるにしても、それにプラスして親を怨み、激しく憎悪するという無駄な苦しみの上乗せ分に関してはなくなったのだから、それだけでも本当に大きな収穫だと思う(大きなお世話かも知れないがもし誰か一人でもなにかの参考やヒントになればと思って言えば、いくら誰かを憎んだり怨んだりしても、そのことで苦しむのは他でもない自分自身なのであって、共倒れでも憎む相手を苦しめられるならまだしも、怨んでも憎んでも相手は痛くも痒くもないのだ)。

僕の親はそんなに悪い親ではないかもしれないと思った話

さて、案の定タイトルの内容にたどり着くまでにやたら長くなってしまったが、そんな次第で憎しみから解放されてみると、現時点での僕の親という存在を考えてみるに、そんなに悪い親ではないのかもしれないと最近ふと思った。

もちろん許したからといって、過去彼らが毒親だったことは1ミリも揺るがない。また、これから先どうなるかということもわからない。また毒親になることだって十分に考えられる。

ただ過去どうだったとか、未来はどうなるかもしれないとか、そんなことは現在にはまったく関係ないのである。そういう目で見てみると、今現在の僕の親はそんなに悪い親ではない、というか、むしろいい親なんじゃないかとさえ思ったのだった。

実は先日、お腹を痛めてこんな私をこの腐敗した世界に産み落としてくれた存在であるところの、いわゆるひとつの母親という人と会ってきた。なんのことはない、誕生日だったのである。

僕が母親の誕生日を毎年祝う理由

母親の誕生日を祝ったなんて言うと、またよくわからない人たちからマザコンだとか言われるのだろうか?だがまあ否定もしない。たしかに僕は家族の誰とも家族らしい関係を築けなかったという意味で、マザコンであり、ファザコンであり、ブラコンであり、一言で言うなら生粋のファミコン(ファミリーコンプレックス)野郎である。

母親の誕生日を祝っているのは毎年のことで、まだ全然許せてなんかいなかった頃からのことだ。恥ずかしいので一応言い訳させてもらうと、僕がまだ子供だった頃、うちが貧乏でろくな食い物がなかった。

だもんで、しばらく毎日雑炊ばっかり食べていた。で、たまたまそんな時期に母親の誕生日があって、まあ僕の父親との夫婦仲もめちゃくちゃ悪かったし、母親自身の父親との親子関係にも問題があったし、さらに僕らガキ共にろくなもんを食わせてやれないこととか、母親は母親で苦しかったのであろう。よりにもよってあの女、一緒に飯食ってる最中に泣きやがったのだ。

おわかりいただけるだろうか?母親の誕生日に、ケーキもなしに雑炊をすすりながら、当の母親がいろいろ身につまされて泣いていやがるのである。一言だけ言わせてくれ、泣きたいのはこっちだよ!・゚・(つД`)・゚・ 

子供心にもあれはなかなか印象深く、いまだに忘れられない家族の食卓の風景の一つである(まあ僕の家族の食卓の風景なんてどれもろくでもない思い出しかないんだけど)。

まあそんなわけで、それが勝手に僕の中でちょっとしたトラウマになってしまっていて、家を出た後も、父親の帰りが遅いこともあり、誕生日に一人で飯を食うのは寂しいもんかな?とか考えると、誕生日くらいは連絡して毎年一緒に飯を食うことにしているのだった。

かつて一番憎んだ人を、いい親だと思えたことがうれしかった

とは言うもののですね、もちろんこれは孝行息子の美談でもなんでもなく、悲しいことに僕はどうしようもないクズであるからして、一応親には普通にバイトかなんかしていると偽って騙しているのだけど、実際には僕はただの借金暮らしの無職ッティだったりするもんで、まあ早い話が金がないのである。だもんで、誕生日を祝うとはいっても、どうせろくなもんじゃねえのである。

半分くらいそれがわかっているからなのか、一応誕生日くらいと思ってこっちからいろいろリクエストなど聞いてみるんだけど、結局大して高くない店で、仕事の愚痴かなんかを相槌打ちつつ聞きながら、いい歳して数千円の形ばかりの誕生日プレゼントかなんかを渡すだけである。

で、そんな形ばかりのお祝いなんだけど、こないだはいろいろ安く済ませようとお店を考えていたのに、聞いたらちょっと一杯ひっかけるだけでいいなぞと抜かしつつ、どこにでもあるような居酒屋を所望すると、薄々予想していた通り一杯どころではなくうれしそうに日本酒を頼みまくり、結局当初考えていたプランよりはるかに高くついてしまった(もう無事に年を越せるかどうかもマジでわからない…)。

挙げ句の果てにはあれだけ何度も終電大丈夫かと聞いたにも関わらず、結局閉店時間まで上機嫌で飲み続けしゃべり続けて終電をなくし、タクシーで帰っていった。悪いが不肖の息子である僕にはタクシー代を払ってやるよゆうもないし、かわいい女の子ならまだしも母親に終電をなくされてもうれしいことなんてなにもない

で、そんな母親の誕生日の帰り道、真夜中ひとりで歩いているときに、僕はふと「そんなに悪い親じゃないかもしれないなあ」と思ったのだった。

いい歳して定職にもつかず(それどころかまさか借金暮らしの無職だとは思ってないだろうが)、みすぼらしい格好をして、誕生日と言っても安い店、安いプレゼントですませることしかできない。自分でも申し訳なくなるほどだが、そのことに文句をつけるわけでもなく、「一杯ひっかけるだけ」などとほざきつつ満更でもなさそうにうれしそうに酒を飲んで楽しそうにしゃべって礼を言って帰っていく母親というのは、そんなに悪いもんでもなく、むしろすごいよくできたありがたい母親なんじゃねえだろうか。そんなことを考えながら帰ってきた。

もちろん僕たちは相変わらず仲のいい親子でも何でもない。年に1,2回しか会うこともないかなり冷えた距離感が、お互いたまに会ったときくらい機嫌よくしてやろうとか、母親にしても言いたいこともあるだろうけど我慢させたりしているのだと思う。

しかしたったそれだけのことと言えばそれだけのことが、かつての自分には想像もできなかったのだから、今はそれだけでも大きな変化だと素直によろこびたい。

僕自身もう若くもないし、それこそ親はこれから老いていき、まともな子供なら様々な面で支えていくことを考えたり実際に支えていないといけないのかもしれない。でも僕にはそこまで考えられない。まだそこまでのことは考えられない。

たとえば胸糞の悪いひどい話かもしれないが、正直僕には最悪両親が病気に倒れたとして、経済的にも精神的にも面倒を見ることができる自信がない。考えたくないし、もっと胸糞の悪いひどい話、どういう形でもいいから面倒をかけないでくれればいいなとか思ってしまう。

そういう意味では許したとはいっても、あくまで所詮自分が楽になることを選んだだけだし、僕は冷酷で最低な人非人なのかもしれないし、少なくとも仲のいいまともな親子関係というのとは程遠い。そしてその距離というのは正直今後も埋まることはないと思う。埋まらない距離こそがかろうじて今の関係を維持させているからだ。

だがそれでも、そんな関係さえ想像できなかった頃から考えれば、今は十分にましになったということは自分に対してきちんと認めてあげたいと思っている。

暴力の激しさ、すさまじさ、という意味では、父親への圧倒的な恐怖というのはいまだに体に染み付いているのだけど、父親とはそんなに毎日顔を合わせるわけでもなかったので、僕の心を一番ズタズタに引き裂き、悔しさという感情を刻み込み、毎日涙をしぼり取り、人を殺してやりたいほど憎むということを教えてくれたのは母親である

ほかでもないその母親のことを、昔はどうあれ、未来はどうなれ、今だけでも、悪い親じゃないんじゃないかとか、むしろいい親なんじゃねえかとか、そんなふうに思えたことが僕にとってはうれしかった。夜風は冷たかったけど、僕はそれを心地いいと思った。おしまい(=^・^=)

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