まつたけのブログ

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小池重明 強すぎた真剣師の生涯

どうも、『3月のライオン』は気を遣った島田さんに手を抜かれて「将棋でまで『弱い人間』扱いされたら、もう僕はどこで生きていけばいいんですか」って二階堂くんが大泣きしちゃうシーンで何回読み返しても自分も号泣してしまう私です。

というわけで「新宿の殺し屋」と呼ばれた将棋の真剣師、小池重明の生涯について書いてみます(3月のライオン一切関係なし!)。

 

団鬼六『真剣師 小池重明』破天荒な将棋ギャンブラーの生涯

団鬼六の『真剣師小池重明』を読みました。官能小説家として断筆していた無類の将棋好き(アマ六段)としても知られる団鬼六が、交流のあった実在の将棋の真剣師、小池重明について5年ぶりに書き下ろした伝記小説なのですが、その生き様から指す将棋の棋風から、何から何までがあまりに型破りで最後はそれゆえに破滅の中で死んでいった小池重明という稀代のアウトローの評伝だけに、やたらめったら面白くて夢中になって読んでしまいました。


真剣師 小池重明 団鬼六

破天荒という言葉はまさに小池重明みたいな人のことを言う言葉であって、ただ夜な夜な遊ぶ女を取っ替え引っ替えして派手に遊んでいるだけの芸人などにはまず団鬼六の『真剣師小池重明』を正座して読んで真の破天荒とはどういうことであるのかを心して学んでほしいと切に願う次第です(注:「破天荒」とは本来「かつて誰も成し得なかったことを初めて行うこと」を意味する故事成語であり、現在大多数によって使われているような「野放図で型破りな様」といった使い方は誤用である、と指摘して鬼の首でも獲ったような顔をする人が世の中、特に某ネットサービス上にはたくさんいるのですが、個人的にそういうことを言う人のことはアホだと思っているので本記事ではあえて破天荒という言葉を誤用いたしますのであらかじめご了承ください)。

アウトロー、破滅型の天才、人間のクズ、人格破綻者…小池重明という男

小池重明というのは飲む・打つ・買うは当たり前、酒に溺れ女に溺れ、競輪競馬にチンチロリンといったギャンブルに溺れ、度重なる借金の踏み倒し、恩師を含め職場やお世話になった人の金や車を持ち逃げして3度もの人妻との駆け落ち、寸借詐欺事件や訴訟沙汰の果てに将棋界から追放される、etc,etc…、アウトローといえば聞こえはいいが、やってることは誰にもどうにも弁解のできない人間のクズ、ある意味人格破綻者の鑑みたいな男なのですが、それでいて恩を仇で返された当人たちでさえ憎みきれず、どの面下げてか戻ってきて謝られるたび何度でも許してしまうような不思議な人間的魅力を持ち合わせていたようです。

もちろんそのあまりにいい加減で刹那的、堕落的な生き方からくる罪状の数々はとても「人間的魅力」だの「愛嬌」だので埋め合わせの効くようなものではなく、多くの人から恨みを買い、そのことは小池重明の一生にわたって彼自身の足を引っ張ることにもなったように思われます。

しかしそれでもなおある種の女性からはモテたであろうことはもちろん、同性である男性をも惚れさせるような、というかたらし込んでしまうような、人たらしの魅力を持っていたことは容易に推測できます。

その人間的な魅力というのは、何から何まであまりに型破りで破滅的・退廃的な人間のクズでありながら、将棋や女に対してそうであったように、どこか極めて純粋なものも持ち合わせていたところから来ていたように思います。

もっと言えばどちらか片方だけでもだめで、致命的に破綻している人格の中にも一粒の砂金のようにきらりと光る純粋なものがある、むしろそんな暗闇の中の一粒の砂金にこそ、人はどうしようもない美しさや魅力を感じて惹き寄せられてしまうのかもしれません。

この男には不可思議な魅力があった。人間の純粋性と不純性を兼ね合わせていて、つまり、その相対性のなかで彷徨をくり返していた男である。善意と悪意、潔癖と汚濁、大胆と小心、勇気と臆病といった相反するものを総合した人間といえるだろう。徹底して多くの人に嫌われる一方、また、多くの人に徹底して愛された男である。

 (中略)人間としては出来損いであったが、その出来損いにできているところが彼の人間的魅力であった。

団鬼六のような当人自身特異な官能小説家として知られ、異端のSM作家として第一人者の地位にまで登り詰めた人をして、やはり小池重明のような「本物」ほどに振り切れることはできないことに(そしてそれは人間的な破綻と破滅を意味しているに等しいのだからそれで正解なのだけど)、どこか崇拝にも近い憧れと、そしてその裏返しとしてのコンプレックスを抱かずにはいられなかったのだと思います。まただからこそ団鬼六を含む小池重明の支援者たちは何度こっぴどく小池重明に裏切られながらも戻ってきて神妙に謝られるたびに許してしまったのだと思います。

羽生善治も認める小池重明の真剣師としての圧倒的な強さ

しかし人間としてはそうしたある種アンバランスな人間的な魅力や愛嬌について語られることもある小池重明は、同時に「新宿の殺し屋」とか「将棋の化け物」、「プロ殺し」と呼ばれた将棋の真剣師(賭け将棋、将棋賭博を生業とする者。リアルハチワンダイバー)でもあり、真剣師としての小池重明の強さはあまりに破格、無類のもので、いまだにその伝説的な強さは語り草になっています。


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その強さはいまだに一人だけ別次元の世界で将棋を指している感のある現役最強棋士(というか実質的に間違いなく歴代最強、22世紀からタイムトラベルしてきたと思われる天才棋士羽生善治永世タイムトラベラーをして「型破りそのもの」、「どう評価していいのかわからない」、「しかし、とにかく強かったという事を鮮明に憶えている」と言わしめているほど。

小池重明はアマ強豪はおろかプロ棋士を相手取ってすら駒落ちはもちろん平手でも圧倒してしまうのですが、それ以上に『真剣師小池重明』を読んで何に驚いたと言って、およそ彼の幼少期に、後にプロ棋士を打ち破るほどの将棋指しとして大成するような要素を見つけられなかったことです。

普通将棋の世界なんて、趣味として近所の将棋クラブで将棋を指したり詰将棋を解いたりするくらいならともかく、プロ棋士を目指したりプロ棋士と同等の棋力を身に付けるともなれば、できるだけ早いうちから将棋を覚え、熱心に研究する必要があるのはほとんど常識と言ってよいと思うのですが(羽生善治が将棋を覚えたのは小学1年生のとき)、小池重明の場合、なんと将棋を覚えたのは中学生になってから、本格的に将棋を勉強したのは高校に入学してからだといいます。

それどころか彼の幼少期~少年期には将棋がまったく出てこないどころか、父親は傷痍軍人役の物乞い、母親は売春婦という家庭環境の中で、隣近所のやくざ者や遊び人相手に花札、オイチョカブといった賭博やギャンブルを覚え大人顔負けの博打少年だったそうですから、小池重明という男がその人生の中で一時期はプロ棋士を志すも、結局最後まで賭け将棋という世界の勝負師である真剣師でしかいられなかったというのは、ある種運命的な、必然的なものだったのかもしれません。

小池重明、「最強の真剣師」から「プロ殺し」へ

しかし、だからといって小池重明という真剣師の将棋の強さが所詮アマチュアの世界でしか通用しない半端なものだったなんてことはなく、歴戦の猛者であるアマ強豪や現役のアマ名人、将棋の神様とまで呼ばれた当時日本一の真剣師、伸び盛りの現役奨励会の三段(いわゆる将棋のプロ棋士というのは奨励会の四段から)、そしてついには現役の五段や六段、そのすぐ後で棋聖のタイトルを獲得する八段のプロ棋士たちを相手に平手で指して勝ってしまうのだからその強さは圧倒的です。その結果ついたあだ名は「プロ殺し」。

むしろ『真剣師小池重明』を読んでいると、初めのうちこそ将棋にのめり込むや否やめきめきと棋力を伸ばし、次々と強敵を打ち破っていく様に痛快なものを感じもしましたが、そのうち彼のその一種異様としか言いようのない強さと、そして何より彼のおよそ棋士として人として品行方正とは言えない放蕩三昧の生活を思うと、それでも軽く相手を圧倒してねじ伏せてしまう様に凄まじいようなこわいものを感じるというか、明らかに二日酔いで最悪のコンディションが見て取れる小池に見るも無惨に敗れて顔色を失っている相手にもはや同情を覚えさえしてしまいました。

小池重明の棋譜から見て取れる将棋の特徴であり魅力でもあるのが終盤の圧倒的な強さにあるようです。小池重明の将棋を知るものがみな一様に言うことは、まず彼に敗れた者さえ指摘するのが序盤のまずさ、甘さ。それも真剣師仲間たちから「序盤作戦はお話しにならないくらいまずい」とか「はっきり筋が悪い」とか「いい加減嫌になるような田舎将棋」とか言われていていくらなんでもそこまで言うか?ってくらい散々に言われていて笑えます。

しかし問題は話はそこで終わらないことで、序盤で散々に形勢不利になるにもかかわらず、中盤から終盤にかけての小池の強さは凄まじく、強力な粘りや死中に活を求めての急所の一撃による数多くの名勝負、大逆転劇を演じています。

以下はそれぞれ史上初のアマ・プロリーグ対抗リーグ戦で小池重明と対局したプロ棋士たちの感想です。

強い。終盤が強すぎる。

序、中盤、形勢有利と見ていたのだが、終盤に至って小池さんの指し回しは見事に尽きると認めざるを得ない。

将棋というものは序、中盤で有利にしようとするものだと考えていた私にとっては小池氏の将棋のような、最初から逆転を狙う、という将棋の存在は正に青天の霹靂であった。一口にいうと小池将棋とは逆転美の将棋である。つまり、終盤が恐ろしいくらいに強い将棋である。

みな一様にその終盤の凄まじいまでの強さに驚愕や衝撃に近いものを感じていることがわかります。ちなみにこの日の小池の戦績は新進気鋭のプロの四段、五段を相手に四勝一敗と大きく勝ち越したにも関わらず、その日の打ち上げでは落とした一敗のミスを本気で悔しがって「プロ相手に全勝する気だったのか」と飲み仲間たちを呆然とさせたそうです。

「ところで小池ちゃん、プロ五人と戦って、どう。彼らの将棋をあんたはどう見るかね」(略)

「どうって、やっぱりプロは強いですよ。あんなに強いとは思わなかったですね」

「そうかい。小池ちゃんでも、そう思うかい」

「だって、五回戦って、四回しか勝てなかったんだもの、俺に五回、勝たせなかった、というところだけでも、やっぱりプロは強いすよ」

ファーwwwwwwwwwww

小池重明と団鬼六の不思議な関係

ちなみに『真剣師小池重明』の著者であり自身アマ六段でもあった愛棋家の団鬼六先生、プロ棋士相手に大駒落ちで対局した経験も相当あるそうで、その戦績は五分五分だったそうですが、小池重明には飛車を落としてもらって彼が死ぬまで百番以上対戦したがついにただの一度も勝てなかったといいます(そしてそのたびに「指導料」の名目で一局三万円なりを払っていたということですから、小池からすれば団鬼六先生ははっきり言っていいカモだったものと思われます)。

「とにかく一局指してみようか。三万円だぞ」

 と、私がいうと、小池は、「ありがとうございます。助かりました」と、いってペコペコ頭を下げると床の間の横にある将棋盤を手に持って私の前に置くのである。

 ありがとうございます、助かりました、とは何だ、こいつ、と私は頭にきた。真剣なんだからこっちが勝てばこっちのほうがありがとうございますになるんだぞ。

「何しろ、二年間、将棋を指しちゃいないんで、駒の並べ方を忘れたみたい」

などといいながら小池は私のほうの駒までせかせかと並べてくれるのだ。

二年間、駒を手にしなかった小池の将棋をふと試してみる気になったのだが、飛車落ち二局指してみて二度とも小池に敗れた。それも以前と同じ、序盤はこちらが絶対に優勢。終盤の大逆転負けである。

この辺りの小池重明の団鬼六を一見立てながらも将棋の上では完全にいいカモとしか見ていない感じのやりとりには何とも言えないユーモラスなものと、実際には綺麗事だけでは済まなかったはずの団鬼六の小池への複雑な愛情も感じられて、実にあたたかみがあって味わい深いのです。

まあそんなあたたかい気持ちも長くは続かず、一瞬で心が凍りつくような冷水を浴びせてくるのが小池重明という男なんですが…。

今は別れたきりになっている娘に一目会って詫びがいいたいと、彼は詠嘆的な溜息をまじらせて私にいった。もう、娘は来年から小学校に入ることになっているという。親として何一つしてやれなかった自分が恨めしいというので、とにかく一度、娘に会って来い、これは娘への小遣いだ、と、酔った私は財布をはたいて五万円を小池に渡した。小池は感泣して私の手を取るように礼をいった。

「何とお礼を申していいやら、必ず、僕は立ち直ります。今後とも、よろしくお願いします」

 いや、今後とも、よろしく、というわけにはいかないが―と私は苦笑した。

「君は飯場で長い期間、働き、人生の哀楽、ただ人の心、一つにある、ということも悟ったはずだ。これからは真人間になって、人生のやり直しを計るんだ、な」

 と、私は酔って調子に乗ってくどくどしい説法をしたが、小池は座り直して、ハイ、ハイと素直に聞き入り、どうにも憎めないところがある。(中略)

 その日の夜、新宿へ戻った小池は「リスボン」に現れ、新宿の博打打ちらとチンチロリン賭博をやり、十万円くらい捲き上げられていたと関は私に説明した。(中略)

娘に会いに行きたい、というので私が渡してやった金もいっしょにして小池はチンチロリン賭博で全部捲き上げられているのである。

もうだめだこいつwwwwwwwwwwwwww

しかし、そんなことがありながらも、腐っていく小池を見かねてせめて将棋で引導を渡してやろうと、小池を倒すべく当時のアマ強豪の名実ともにナンバーワンだったアマ名人を対戦相手に用意してあげたり、もう四十歳になって長年の窮乏生活ですっかり往年の精彩を失った小池に将棋でとどめを刺して引導を渡してやるはずが、例によっていつもの序盤不利からの終盤の逆転によってあっさり二局続けて返り討ちにされたり(このとき団鬼六は勝者に懸けていた懸賞金の十万円を小池にもぎ取られている)、その後も経済的にも精神的にも小池にはさんざん痛い目を見せられつつも、なんだかんだ結果として小池の死に至るまで最期までその縁を切れずに陰に日向に面倒を見てやっていたのですから、やはり団鬼六という人の面倒見のよさというか、官能小説家、それもSM作家の第一人者としての性なのかなんなのか、小池重明に対するほとんど耽溺といえるようなのめり込みぶりには、もはや倒錯的なものすら感じさせます。

もちろんそれはいかなる意味においても性的なものなどではないのですが、精神的な責めのねちっこさをこそそのSMの主要な信念、美学としていた団鬼六だけに、官能小説の大家、巨匠ともあろうものが、まだ彼からすれば若い、悪い男に純粋に精神的にのめり込んでしまった感があります。

もっともそうして手玉に取られて悔しさや屈辱に煩悶するのもまた精神的な大人の男のSMプレイとして楽しんでいたのかもしれません何言ってんだこいつ?…ていうかちょっと完全に将棋関係ないアブない方向に話が暴走を始めちゃってるんで、ここらで団鬼六と小池重明の面白いエピソードの数々について語るのはやめます。続きが気になる人はぜひ団鬼六の『真剣師小池重明』を買うなり借りるなりして読んでみてください。


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小池重明の真剣師特有の圧倒的な終盤の勝負強さ

小池の他の追随を許さない中盤以降から終盤にかけての野放図で力強い指し回しと圧倒的な読みの深さは、序盤の定石が完璧化した近代将棋とは一線を画した古典的な江戸期の将棋感覚などに近いと評されます。

そんな小池重明の棋風、近現代のプロにはない特殊な将棋感覚、特に終盤に入ってからの凄さは、名人に香車を引いて勝った鬼才・升田幸三からは「実力十三段」と評され、かの羽生善治永世宇宙人からも歴代最強としてその升田幸三と並んで名前を挙げられる棋聖戦の由来ともなった棋聖・天野宗歩の将棋感覚と似たものを感じるとさえ語るプロもいます(余談ですが明らかに将棋宇宙最強羽生善治永世宇宙人が歴代最強として天野宗歩を挙げるのは単純に自分の名前を挙げるわけにはいかないからかと思われます)。

序盤~中盤はやはりどうしても常にアップデートされ続ける定石の研究がものを言う世界になりやすいですが、もはやカオスと化した終盤になるととにかく何が何でも王の命をもぎ取るような腕力の世界ということなのか、強い真剣師の将棋というのはその能力がずば抜けているようで、小池重明の実力を高く評価していた自身も真剣師出身の花村元司九段もやはり終盤の棋力がずば抜けていたと言われています。

当時の棋士たちには、おとなしい定跡どおりの手を指す棋風の者が多かった。それに対抗するために、花村はしばしば、あえて定跡から大きく外れた難解な力将棋の局面に持ち込むことにより、高い勝率を上げている。頭で将棋を覚えたような若手棋士たちは花村の変則技に対処しきれず苦戦させられ、これが「妖刀」と呼ばれる所以である。

なにやら由緒正しき新陰流や一刀流で目録や免許までいった剣術家を、「剣術を形稽古で習い覚えたような者ほど簡単に斬りやすい」と豪語する辻斬りで腕を磨いた人斬りや実際の修羅場の中で死合の呼吸を会得した新選組隊士らの凄まじさに通じるものを感じるような話です。

コンピューターが飛躍的に進歩したこの小池重明死後の10年20年で将棋もまた小池のような最後の真剣師たちが活躍していた頃とは隔世の感があるほどに劇的に変わりましたが、近代将棋の進歩、進化であるところの数多のプロ棋士たちによって徹底的に研究され尽くしてきた序盤の定石をことごとく蹴散らしてしまうほどの小池の圧倒的な終盤力というのは、いきなり序盤から混沌状態に陥ることも珍しくない現代将棋の世界ではむしろより輝きを放ったのではないかと想像力を掻き立てられるものがあります。


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小池重明、泥酔して暴力事件を起こして逮捕の翌日、大山康晴十五世名人を破る

恐ろしいことに、小池重明のその凄まじいまでの将棋の強さというのは、彼がその放埒と放蕩三昧に溺れ、ほとんど逃亡のような放浪生活に身をやつして将棋から長期間離れていてすら衰えを他人には感じさせなかったといいます。

一時期はさんざん世話になった人たちの信頼を裏切って逃亡生活の果てに二年もの間汚い飯場に入って明けても暮れても将棋とはまったく無縁の苛烈な肉体労働生活を送るも、東京に戻ってきて再び将棋の真剣勝負の相手を見繕ってもらうやいなや相変わらずの図抜けた終盤力でアマ強豪や第一線で戦うプロ棋士をねじ伏せてしまうのだから凄まじいにも程があります。

また、小池重明は先述した元真剣師出身の花村元司九段を終生「所詮素人」と言って寄せ付けなかった大山康晴十五世名人とも角落ちの記念対局ながら指しているのですが、その際のエピソードもいろんな意味で凄まじすぎて信じられないものがあります。

なんと、よりにもよって小池重明は勝ったら自身のプロ入りの懇願をしようとしていた当時の将棋連盟会長である大山康晴十五世名人との対局を翌日に控え、泥酔の挙句暴力事件を起こして警察に逮捕されているのです。

泥酔状態のまま留置所に放り込まれたのは覚えているのですが、翌朝は二日酔いでガンガンするような頭痛なんです。今日は何かがあったんじゃないかな、と考えて、ハッとしました。大山名人と角落ちの将棋を指す日であるのに気づき(後略)

「何かがあったんじゃないかな」じゃねえよwwwwwww

結局最終的には以前稽古をつけたことのある議員の名前を持ち出し、身元引受人になってもらうことで何とか留置所を出してもらうのですが、小池はその足と二日酔いで痛む頭のまま大山康晴十五世名人との対局の場である将棋会館に駆けつけます。

今、形勢はどうなっているの、と宮口は職員に聞いた。

「形勢? 全然駄目ですよ」

「そりゃ、そうだろうな。留置所から二日酔いの頭を抱えて出てきたところなんだから」

「いや、全然駄目なのは大山名人のほうなんです」

(中略)午後一時から大山名人後援会の人たちに観戦させる予定であったらしい。ところが小池は大山名人の消費時間、七十四分に対して、二十九分の消費時間でもって十二時前に大山名人を投了に追い込んでしまったのだ。

大山康晴の投了まであっという間の86手、このときの将棋連盟の会長でもあった大山康晴十五世名人を相手にしてのあまりの大差には、かえって周りの人間が顔色を失ってしまうほどだったといいます。

とにかく小池重明という男は、その酒や女や博打にだらしない破滅的な生き様から、今度こそ心を入れ替えたと思わせてからの大恩ある人を再三にわたって裏切る人間のクズっぷりから、そしてその圧倒的なまでの将棋の強さに至るまで、何から何までが破格、滅茶苦茶なのです。

小池重明の中の強すぎた真剣師と、弱すぎた人格

終盤力の強さにおいて江戸期の古典将棋や実力十三段と呼ばれた将棋歴代最強との呼び声も高い天野宗歩の棋風を思わせるものがあったというのも興味深く、そういう意味ではまるで進歩どころか時代に逆行していたとも言えるわけで、普通プロ棋士同士の対局では常識であり当然であるところの対戦相手に合わせての事前の研究や作戦・戦略決定といった準備も特にせず、それどころか対局前日から当日の対局直前に至るまで夜通し飲み通してアルコールと睡眠不足でぼろぼろの頭脳と体でそれでも対局相手(プロ棋士を含む)を圧倒し、ねじ伏せたというのだからもうわけがわかりません。

そりゃ真面目にやってるのにそんな負かされ方をした人間にしてみればたまったもんではなく、事実自分の力の限りを振り絞ったにも関わらず負けて呆然として半ば自己喪失状態に陥ってしまったり疲労困憊と絶望ですっかり青ざめてしまった対局相手の様子が伝えられていることからも、小池重明の理不尽なまでのその将棋の強さは、負けた方にしてみればほとんど不条理にさえ思えるものがあったようです。

しかしある意味でその強さが小池重明自身の首を絞めることになったのもまた事実であり、当時日本一の呼び声高かった真剣師を相手に互角以上の内容で死闘を繰り広げた際には高額の金額の懸かった真剣勝負を小池相手に受ける真剣師がどこにも見つからなくなったり、小池重明自身が最後の真っ当に生きられる可能性と希望を託したプロ入りの話が流れてしまったのも、単に小池重明の日頃の罪業や数々の問題行動のせいばかりではなかったのではないかと思わせるものもあります。

本記事のタイトルを『小池重明 強すぎた真剣師の生涯』なんて「美人すぎる国会議員」みたいに思われかねない頭の悪いタイトルにした意図もそこにあります。小池重明という男はとうとう最後まで自分の将棋の強さと見合うだけのバランスを自分の人生に見つけることができなかった男だと思うからです。

そしてもっとやっかいなことには、むしろ彼の真剣師としての勝負強さは、彼のその破滅的な生き様や生活と人格の破綻ぶりと表裏一体の関係にあったことです。

事実、対局前日だというのに相手の研究をするでも作戦を練るでもなく、勝った賞金を当て込んで対局直前まで一晩中仲間たちを連れて正体不明になるまで飲みまくり、そのままろくに睡眠も取らないまま二日酔いに痛む頭を抱えて対局に臨み、ときには相手の長考中に横になっていびきをかいて眠りこけ、時間切れ直前になって起こされてからあっさり勝ってしまうようなことを連日続けて連戦連勝してしまうのだからもう滅茶苦茶です(僕が対戦相手だったら将棋やめてます)。

そうかと思えば一緒に逃げた人妻の女との生活を安定させて今度こそ一介の職業人として、また家庭人として腰を落ち着けよう、なんて殊勝な態度で守りに入った途端、間違いなく勝つと思われていた相手に普段の小池ならありえないような悪手を指してあっけなく勝負を落として真剣師仲間を失望させたりもしています。

まさに彼の人生の浮き沈みと同じように、小池重明の指す将棋もまた波があり、そしてその波は明らかに彼の人生が荒み、無軌道であるように見えるときほど好調で、そんな無軌道な生活に疲れて「安定した生活」や「まともな人生」なんてものを夢見た途端に低迷してしまうのだから皮肉としか言いようがありません。

そういう意味でも小池重明はサラリーマン的に対局料を稼ぐプロ棋士にはよくも悪くもふさわしくなく、とにかく勝ってなんぼ、勝利をもぎ取って初めて稼ぎを得る真剣勝負の中でしか戦うこと、将棋を指すことの意味を見出せなかった生粋の真剣師だったということなのでしょう。

彼の真剣師としての将棋の強さは彼の生活の安定とはシーソーのような関係で、最後までちょうどいいバランスを見つけることができなかったことを思うと、やはり小池重明の真剣師としての勝負強さは彼自身の人生にとっては自分の身を滅ぼすような「強すぎた」ものだったのだと思います。

将棋、博打、色恋、すべてが真剣勝負、真剣師でしかいられなかった小池重明

アマ強豪として、真剣師として、将棋指しとして文句のない栄光の頂点を極めたと見るや、飲む打つ買うの欲に溺れ、果ては借金の踏み倒しや寸借詐欺、世話になった人の金を盗んで惚れた人妻とともに逃亡。ほとぼりが冷めたと見るや再び将棋会に戻ってきて、衰えを見せない圧倒的な将棋の強さで再起を図り、再び栄光を掴んだと見るやまったく同じ過ちを繰り返して自ら転落していく。よくも悪くも小池重明のこの愚かさは彼の将棋の強さとは裏表のもので、もはやある種の病気だったのでしょう。

―又、又、又、女に惚れてしまいました。浮気なつもりではないのです。いつも一生懸命でそのときは死んでもいいと思っていました―

女一人惚れるにしても、「一生懸命」という言葉がこれほど文字通りの凄みを持つのはまさに小池の真剣師としての生き様そのもので、たしかに人妻との恋愛にしても「浮気な遊びを楽しむ」というような遊び人風の器用なものではなく、金を盗んで3度それぞれ別の人妻と駆け落ちして遁走、別れるとなれば死ぬの殺すのの大騒ぎ、小池重明という人間の中では将棋にしてもギャンブルにしても色恋にしても、すべてがひりひりするようなぎりぎりのところで自分の命ごと全人格を賭けての、絶体絶命の真剣勝負であったことがうかがえます。

その意味でやはり彼はいくら将棋が強くても決してプロ棋士にはなれず、最後まで真剣師という一匹の勝負師でしかいられなかった人なのでしょう。

小池重明は将棋のプロ棋士が例外なく全員そうであるような意味においての「天才」とはまったく違った意味で「天才」であり、そしてまたそのほとんどデカダンスの芸術家的な意味での破滅的な天才ゆえにこそ、プロ棋士を相手にプロ殺しと呼ばれるほどの強さと実績を誇りながらも最後までプロ棋士にはなれず、自分の才能と破綻した人格とを持て余し、放埒と放蕩三昧の果てに最期はほとんど自殺も同然の形で死んでいきました。

日頃の不品行などを理由に小池重明のプロ入りの話が流れた経緯を読むと、もちろん小池自身の自業自得としか言えない愚かさといった要素も大いに感じる反面、たしかにどこか小池に同情も禁じ得ないような、いろいろな人の様々な思惑も感じてしまいます。

しかし、そういった彼にとっての「不幸」とか「不運」みたいなものも含めて、結局最後まで小池重明はおよそプロ棋士という職業とは無縁だった、よくも悪くも、小池重明はどこまで行ってもプロ棋士ではなく真剣師だったということなのだと思います。

破滅、放蕩、堕落、転落、頽廃。ダメ人間の神、人間のクズの鑑

膨れ上がる借金の踏み倒しや寸借詐欺事件の果てに将棋会を追放されて蒸発した際のエピソードも象徴的で、ドヤ街の大衆酒場で競馬で人生の逆転を夢見たかと思えば、本当に神がかったひらめきによってオッズも見ないで有り金を注ぎこんだ大穴を当て大金をつかむも、早速その日のうちに飲む打つ買うの一夜の贅沢を満喫した後、翌日にはお約束のように負け続けて血が上った頭で自棄になって有り金を失ってスッカラカンになるという具合で、はっきり言って小池の破滅ぶりとだらしない性格の破綻ぶりはどうにもなりません。

「お前な、可愛い娘のことを思って、これからはチンチロリンなんかには手を出すなよ」

 と、私が思わず声をつまらせていうと、小池は、

「あれから改心してチンチロリンなんて一回もやっていません。ドボンだけにしています

 と、すすり上げながらいった。

「ドボンて、何だ」と聞くと、「ちょっと、チンチロリンに似た面白いバクチなんです」というので私は受話器を耳に当てながら尻餅をつきそうになった。バカの番付ができればお前は大関、間違いなしだ、と怒鳴って私は電話を切った。

ここまで来るともはや人生を張ったギャグとしか思えませんwwwwwwwwww

そういう破滅的な天才タイプの人間やある種の人格破綻者の類には人一倍興味も愛着も持っている僕から見ても、小池重明くらいそのだらしない生き方やクズっぷりが病気のように人格や血液や骨身にまで染み付いているという意味で、およそ美化したり擁護したりできる部分が見つからない、その意味でもはや逆にあっぱれとしか言いようのないダメ人間、人間のクズを他に知りません。

もちろん僕にとってそれはただの事実であって軽蔑や嫌悪といった感情の交じるものではなく、そんな破滅的にしか生きられなかった小池重明という男の一生は、単純に是非善悪や好悪の感情で片付けられるものではなく、少なくともダメ人間という点では小池と同じ人種である僕からすると、あらゆる意味で感慨深いものがあります(そしてもちろん僕には小池重明のような将棋の才能も何もありません)。

「坂道を転げ落ちるように」とはまさに小池重明のような破滅的で転落的な生き方を表す言葉ですが、一抹の虚しさと同時に、小池重明という人は文字通り引力に引かれるように「そういうふうにしか生きられなかった」のであろうというような必然性をも感じてしまい、少なくとも僕には多くのご立派な人がそうするであろうように彼を「愚か者」の一語のもとに切り捨て、唾棄するようなことはできません。

破綻した性格と裏表の人間的な如才なさはともかく、その将棋の実力は数多のアマ強豪やプロ棋士をもねじ伏せるほどのものであったにも関わらず、ついに最後まで棋士としてや家庭人としてはおろか、ただ一人自分自身の身を立てることも叶わないまま、自業自得としか言いようのないこれまでの放蕩三昧のツケによる病に倒れ、自分を捨てた女への未練と執着の中で半分狂気と譫妄状態の中で七転八倒して最期はほとんど自殺も同然に死んでいく。

よくも悪くもこんなに体当たりな生き方があるだろうか?もちろんその結果としてぼろぼろに傷つき、そしておそらくはそれ以上に人を傷つけ、恨みも買い、因果応報とか自業自得という名の運命にさんざん打ちのめされ、痛い思いをしたにも関わらず、およそ怯むというか学習するという気配すらなく、 何度でも同じ過ちを繰り返しては何度でも前以上に痛い思いを繰り返し経験する。

たしかにそれはご立派な人たちからすれば「愚か者」の一言で切り捨てられ、唾棄されるものでしかないのかもしれませんが、それでもやはり僕にはある意味でとてつもなくまっすぐで純粋なものに思われてしまうのです。

それを「尊いものだ」とか「美しいものだ」なんて下らないことを言うつもりもありませんが、少なくとも僕ごときそんなふうにも生きられない半端者がわかったような面をして上から「馬鹿な奴だ」とか「単に愚かなだけだ」と吐いて捨てたり嘲笑ったりできるようなものではないし、もっと言えば僕はそういう人をこそ軽蔑しています。

人の一生の価値や重さはよきにつけ悪しきにつけなかなか他人ごときに安易に計れるものではないと思いますが、僕にとっては小池重明という人は身近において親しく付き合いたいとか関わりたいと思ったり憧れたりするような人間ではないなりに、どこか傷つくことを恐れて自分一人の孤独な世界に閉じ込もっている僕のような人間では到底敵わない凄みのようなものも感じてしまい、畏怖とか畏敬のような気持ちを感じてしまわざるを得ません。

不世出の真剣師小池重明と『3月のライオン』をよろしくお願いします

結局小池重明という男は、男としても、人間としても、そして将棋指しとしても、ついに最後まで自分からも人からも持て余され、自分の居場所や腰を落ち着ける場所を娑婆世界のどこにも見出せないまま死んでいった人のように思います。

しかし、と言って小池重明が孤独だったかというと、およそ小池重明くらい孤独なんてものと無縁だった人間もなく、栄華や絶頂の最中はもちろん、タコ部屋のような飯場に逃げこんだ際にも脛に傷持つ逃亡者や指名手配中の犯罪者たちを相手に生い立ちを語り合って共に泣き共に歌い、どん底まで身を落としてすら常に彼の周りには自然と人の輪ができていたような印象を受けるのだからやはり不思議な男です。

病に倒れ、それでも見苦しく自分を捨てた女への未練と執着に狂った晩年でさえ、団鬼六をはじめとする支援者や有志から生前に香典()を集めてもらって生活を助けてもらうわ、礼状を書けと言われればおとなしく礼状を書くわ、とにかくそういう人懐っこさと憎めなさによって生涯誰からも見放されて完全にひとりぼっちになるということがなかったのも、彼の転落がまたそうであったように彼の運命だったように思います。

生きたまんまで香典を受け取り、礼状を書いた男は前代未聞のような気がするのだが、小池はときどき、私に電話をかけてきて、その月の香典の集まり具合を尋ねたりした。生きている奴が香典先渡しの催促をするというのも他に例を聞いたことがない。

 この香典は当時の小池のパチンコ代となっていた。

パチンコ代にするんかいwwwwwwwwwwwクズもここまで来ると本当にある種の病気だから、もはや彼の周りに残って面倒を見ていた人たちもほとほと呆れ果てながらももう諦めていた感があります。

数年前に亡くなった団鬼六の『真剣師小池重明』をはじめとして、小池重明の伝記や評伝は何冊か出ていますが、小池重明はその破天荒で破滅的、ある意味で純粋な生き様と圧倒的な将棋の強さが読んでいて痛快でもあり、同時にその強さと表裏一体でしかありえなかった人間的な弱さが切なくもあり哀しくもあり、将棋のことは詳しくなくても(何も知らなくても)、およそ人間という存在に興味ある人であれば面白く読めるのではないでしょうか。

そんなわけで、わたくし羽海野チカ先生の『3月のライオン』を自信を持ってみなさんにおすすめする次第です。以上、『3月のライオン』マジ面白いからおすすめ!って話でした。おしまい。


3月のライオン 羽海野チカ 1-10巻セット (ジェッツコミックス)

小池重明のような圧倒的な将棋の強さといった寄る辺を持つでもなく、ただ徒に惨めな破滅を待つのみの僕ですが、だからこそ『3月のライオン』の桐山零や二海堂晴信のようなひたむきな人間の美しさには憧れます。あかりさん好きです結婚したい二階堂くんかわいい。。。

二階堂くんが好きな人には明らかに二階堂くんの実質的なモデルと思われる村山聖さんの伝記『聖の青春』も絶対的におすすめです。


聖の青春 大崎善生(講談社文庫)

「純粋に不純」に生きた小池重明とはおよそ対極にある「純粋に純粋」に生きたプロ棋士の短くも鮮烈な一生の伝記です。