まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

自己啓発セミナーに出ても変われない奴は変われない

今までずっと、自分が生きるべきか死ぬべきかの問題にも答えが出せないでいた。

だからどうしても生き方が無軌道になったり刹那的になったり破滅的になってしまうのは仕方がないことのように思われた。明日の身もわからないのに、今日、明日の収穫のために種を蒔いて畑を耕す人間はいない。そういうことだ。

 

自己啓発やセミナーで本当にクズは変わるのか?

でも、最近生きていけたらいいな、生きていきたいなと少しずつ思うようになってきた。特になにがあったというわけではないけど、こんな自分にもやさしくしてくれる人が少しだけどいる。そういう人たちのことをできればあまり裏切りたくはないと思う。

だから僕は変わりたいと思った。このままじゃどうしたってまともに生きていけないから。まともに生きたいとか人並みに幸せになりたいとは言わないけど、せめてやさしくしてくれる人たちにこれ以上心配をかけないようになりたいと思った。

だから僕は勉強することにした。僕はバカだから、自分の頭で自分の人生を切り開いていくような才覚なんてない。だからせめて一生懸命勉強して、人の何倍も何十倍も勉強して、それでなんとか人並み以下にでも僕なりに生きていけるようにしたいと思った。

それで最近、なけなしのお金をはたいていろいろな勉強会だったりセミナーだったりワークショップに参加したりするようになった。

参加する内容は本当にいろいろだ。精神世界やスピリチュアル系の怪しい集まりだったり、心理学やセラピーに大きな影響を与えたサイコソマティック(ボディワーク)の国際的な講師を招いたワークショップだったり、知る人ぞ知る武術の達人の講習会だったり、ときには場違いにも程があると思いながらビジネス系のセミナーにも参加してみたり。

僕はずっと長いこと働かないで借金だけで引きこもりの寝たきり生活をしていて、もともと人がこわいからそういう生活になったんだけど、その間にさらに対人恐怖や社会不適合にも拍車がかかってしまい、もう本当に人と会ったり話したりするのが苦痛。自分でお金まで払ってあちこちに遠出して参加してるのに、ほとんど泣きそうになりながら下手くそなコミュニケーションに命がけで対峙してる。

社会不適合者が自己啓発セミナーに参加した話

こないだも都内で開催されたいかにも意識高い系の自己啓発セミナーに参加してきた。前書きが長くなったけどこの記事はそのときの話がメイン。

その意識高い系の自己啓発セミナーというのは、ネットでいろいろ調べているときにたまたま興味深い人を見つけて、メルマガを購読したりしているうちにこれはと思って無料の相談会に参加したり、それでいよいよ今回少額だけど有料のセミナーに参加してきた(ちなみにこの講師の人は高額のバックエンドを売り込むことに興味がないらしく、僕もお金を落とすのは最初からここまでと決めていた)。

セミナーが始まる前から、僕にとっての悪夢は始まっていた。なぜなら僕にとってはこの世の当たり前のことほとんどすべてが地獄だからだ。大好きな自分のうちを出て行くことも地獄、電車に乗って会場に向かうのも地獄、都会の喧騒や人混みの中に紛れることも地獄、すべてが地獄。だから、ただでさえ方向音痴の僕は、人混みの中で意識朦朧として半分気を失いながら迷子になってしまって、30分ほど遅刻して会場につく頃には汗だくで息も絶え絶えだった。

コミュニケーション地獄

僕が遅刻している間にセミナーでは参加者たちの自己紹介が行われていたようだ。さすが意識高い系の自己啓発セミナーだけあって、たかが参加者の自己紹介ごときに異様に時間をかける。僕は参加者同士の自己紹介に遅刻して馴染めない空気を感じながらも、遅刻してよかったと胸をなでおろした。

でも、やっぱり意識高い系の自己啓発セミナーはどうしたって僕にとっては地獄でしかありえないのだった。というか、そもそもどうして僕はこうなることが薄々わかっていながら、少額とはいえわざわざ自分からお金を払ってこの地獄の中で無様に喘ぐようにして呼吸をしているのだろう?どちらかと言えば自分は性格の屈折したサディストだとばかり思っていたのに、実は潜在的にマゾヒストだったのだろうか?

僕はこういう、意識高い系…というか、単に参加者同士のコミュニケーションを重視するタイプのセミナーやワークショップというものが本当に死ぬほど苦手だ。自己紹介に始まり他己紹介につなげ、やたらとチームセッションや感想のシェアリングの時間を設ける。これがコミュ障にとって地獄でなくてなんだというのか?(逆に人付き合いが好きな人にとっては天国以外の何物でもないのであろう)

肉食獣の檻の中に迷い込んだシマウマの気持ち

そして、なんといっても意識高い系の自己啓発セミナーであるゆえに、参加者も僕以外のほぼ全員がなんらかの意味においてすごい人や優れた人、立派な人や少なくとも一角以上の人たちなのだった。

そんな中にあっていかにも僕の存在は浮いている。服を買うお金もないみすぼらしくて小汚い格好と、自信のなさや不安感の表に表れた不細工な外見と、背中を見ただけで一見してわかる隠しようもなく漂っている負け犬の負のオーラと、ありとあらゆるすべてが僕がその場にふさわしくない、存在する価値のないゴミであることを示しており、僕は誰に軽蔑の眼差しを浴びせられるでもなく、単に完璧な無関心のみを示されているというだけで、勝手に気後れして卑屈になって一秒でも早くその場を立ち去りたいということしか考えられなくなってしまうのだった。

だいたいが「意識高い系」という言葉からして、誉めているようでどこか慇懃無礼にも似て小馬鹿にしているというか、見下している感じのする言葉だと思う。少なくとも僕自身はそんなふうに「意識高い」という言葉を使うことによって、そういう「意識の高い」事実少なくとも僕などよりははるかに立派で素晴らしい人たちのことを見下したような気になることで、クソ以下のつまらないゴミのような自尊心をかろうじて保っているのだという自覚がある。

不幸中の幸いといえたのは考えを出し合うチームを作るのが単純に席順だったことだ。適当に好きな人とチームを組めなどと言われれば僕などは最後の最後まで相手が見つけられずに居心地悪くおろおろしているうちに最後に一番自己犠牲の精神の強い誰かか先生と組むことになるのが僕だからだ。

ご親切にも参加者同士の「交流の時間」をたっぷりと設けてくれた地獄のような休憩時間をなんとか半分死にかけつつ乗り越えると、席替えをして違うメンバーと交流するチャンスをくれるのだと言う。このあたりほとんど口からエクトプラズムが完全に脱魂しかけてしまっていて記憶が実に曖昧である。

知ってた?「何もしてない」日々の中でも歳だけは食ってるんだってこと

幸か不幸かそのまま成仏すること能わず、気がつくと僕は再度新しいチームで自己紹介しあっている意識の高い人々の輪の中にいた。学校をやめて営業の仕事で稼いでいるイケメン(僕が彼くらいイケメンだったら営業の仕事なんて絶対しないでホストか適当な相手を見つけてヒモになって貢がせていると思った)、自分で会社を立ち上げてばんばん売上を上げている女性起業家、わざわざ超遠方からこのセミナーのためだけに参加費をはるかに上回る交通費をかけてやってきた新しいビジネスモデルに挑戦中の起業家とか、完全に住む世界が違う。その中にあっては僕などサイヤ人襲来以降のヤムチャ以下の意味のない虫ケラのような存在でしかない。

それでも、何年か前まではそれでも許されていたはずだった。いや、許されているなどということはないのだけれど、勝手に許されていると甘えるだけの余地が残されていた。年齢である。

でも、気がつくと僕はもう決して胸を張って自分のことを若いとは言えない年齢になっていた。そのことを考えるといまだに本当に恐くなって死にたくなる。実際、チームの自己紹介をしていて一番堪えたのは彼らがいかにも立派な肩書や職歴を持っていたことではなく、そんな彼らが僕より歳下だったということだ。そこで二度目のエクトプラズム脱魂臨死体験を数秒間体験することになった。

だが不幸にもそこでも死に損ねた僕は、僕自身のさえない、というかほぼ完全に無にも等しい職歴についてはそもそも触れることを避けつつ、今回この自己啓発セミナーに参加することに決めた精いっぱい前向きっぽい動機などをこしらえて語るにとどめた。もちろんそんな嘘は僕の死んだ目を見れば誰にだってわかる。彼らはなにも聞かなかった。

ただ年齢を言った際に、みんなから「えっ、もっとすごく若く見えた!」とか「自分と同じくらいか少し下かと思った」などと言われたのが「うっ!つらい、気を遣われた!」、「バカか、年齢のことで女性の方に気を遣わせてどうする」と激しく胸が痛んだことがもう2,3ヶ月はうなされ続けるに足るだけのトラウマとして僕の心に深く刻み込まれた。

空っぽで何もない自分

僕は精いっぱいそんな自分の精神状態を表出しないように努めながら、いかにも快活そうに「いや~、実はまともに社会人を経験したことがないからそういう苦労をしてないんですよ~」と言って笑ってみせるのが関の山だった。だがこれじゃ完全にただのアホである。

いっそそこでもう僕のような虫ケラにはかけらばかりの興味さえ完全に失って、一顧だにせずに彼らだけで意識の高い話し合いを続けてくれればよいものを、下手にやさしい彼らはあくまで粘り強く僕から何かしら誉めてやれるだけの肯定的な要素を引っ張りだすべく興味のある振りで「それでどうやって生活しているのか?」などといった質問をすることをやめないのだった。地獄である。

着る服も満足に買えない程度に生活のすべてを切り詰めに切り詰め、安アパート代とその他の固定費のみ借金から払うことができれば、後は食料などはここ数年もうほとんどまともに買ったことがないこと、ネット上で僕を知っている人がお米やパスタやレトルトカレーなどを贈ってきてくれることなどを、もちろんこのアカウントのことは伏せてぼかしつつごく簡単に話した(結果的にかえって興味、というか単なる好奇心を持たれてしまったことは誤算であった)。

いっそのこと「こういうアカウントで~」ということを説明できれば話が早いのだろうが、もちろん自分のアカウントを初対面の人間に教えられるような清く正しいアカウントの運営はこちとらしていない。だからすべての好奇の目や質問に対して曖昧にお茶を濁すようにしか答えられないのだった。

いかにも立派な肩書や華々しい職歴を持っている彼らに対して、本当に空っぽで何もない自分というものの不確かさと空っぽさを痛感しない訳にはいかなかった。

コミュニケーション能力のないコミュ障にとっては人生は地獄

肝心の講師によるセミナーは文句なく素晴らしい内容だった印象がある。なぜそんな曖昧な言い方をするかといえば、僕はなんてことないごく軽いボール回し程度のコミュニケーションによって精も根も尽き果てて、ほとんど肝心のセミナーの内容が頭に入らなかったからだ。

「両親によって無条件に肯定されて育ったなら、素晴らしい人間になれる」「虐待されて育ったような子供はその意味で大きなハンディキャップを負っている」「彼らは無意識に人に対して恐れを抱くようになるであろう」「しかし親を怨んではいけない、彼らは彼らにできるベストを尽くしたのである」

…それらの言葉を文字通り空疎な気持ちでぼんやりと聞きながら、僕は結局この世はコミュニケーション能力であり、コミュ力のないいわゆる非コミュやコミュ障といった社会不適合者にはどこへ行こうとこの世は果てしない地獄でしかありえないのだ、といった悲観論的なことを考えていた。

そうしてただひたすらに針のむしろのような苦痛な時間を耐えているうちに、無事(ではない)意識高い系の自己啓発セミナーは本編を終了し、その後の懇親会についての説明に移った。

貧しい懐具合を気に病んでもともと不参加を決めていた僕だったけど、良心的にもそこは会費ということもなく自分の飲食した分だけを各自払う方式なのだという。僕は地味に感心しつつ、すでに十分すぎるほどに、12ラウンドフルに最後まで打ち合った噛ませ犬のボクサーのようなグロッキー状態に陥っていたため、謹んで参加は辞退させていただいた。

だがほとんどすべての参加者たちがこの「貴重な機会」をみすみす帰って逃すようなアホは平家にあらず、人にあらずという空気の中で、一人だけ席を立って帰るにも帰れず、再度しばし交流タイムへと雪崩れ込んでしまったのだった。

偏見、卑屈、心の壁、持っていたのは自分のほう

生徒思いにも程がある偉大な講師はまた親切にも「この機会に是非参加者同士でつながりあってほしい」「フェイスブックやLINEを交換してほしい」といって参加者たちを焚き付けていた。僕は今こそ席を立つ、今こそ席を立つと自分に言い聞かせながら蛇に睨まれた蛙のように数分間死んだ目で虚空を見つめて座っていることしかできなかった。

するとそばに女性が寄ってきて話しかけてきた。先ほど同じチームになったイケイケ感漂う女性起業家様であった。事程左様に性格の捻くれた卑屈の極みのような男であるところの僕は、「いやいや、さすが、これほどのお方ともなるとあっしのような下々の者にも率先してご慈悲を賜われてくださるので!」みたいなわれながら性格ねじ曲がり過ぎにも程がある皮肉を内心思いつつ、もちろんそんな気色はおくびにも出さずに襟を正して緊張感あふれる会話を受けて立つことにした。

でも話しているとなんだか様子が違う。僕はずっと、他の参加者の人たちというのはすごい人たちばかりだし、僕のことなんて見下しているか、さもなくば眼中にもない、よくて気を遣ってお相手してくれているだけだ、という、実に陰険に捻くれた卑屈なことを考えていた。

というか、そもそも僕はこんな自己啓発セミナーに参加するような人たちに対し、「どうせそういう人たちというのは…」といったほとんど差別にも近い偏見の意識を強く持っていた。

ましてや実はこの女性起業家様に対しては、口早に自分の会社の活躍ぶりや業績、主催したパーティーの成功事例などについて語る姿に、「けっ、いかにもフェイスブックでイタリアンだのフレンチだのシャンパンだのの画像ばっか載せてそうな(無縁すぎてイメージすら貧困)、いけすかねえ女だぜ」といった偏見を強く持っていたのだった。

そうだ、「どうせあんたらは僕のことなんて偏見でしか見てくれないのでしょう?」といった歪んだ偏見を持っていたのは僕の方だ。なんて卑屈で性格のねじ曲がった偏見であろう。

そうして心の目と耳をとくと開いてよくよく話を聞いてみれば、どう考えてみても「意識高い系のセミナーに参加しちゃうような意識高い人たち(笑)」の彼らというのは、本当に立派で僕のような人間の話にも普通に耳を傾けてくれるだけのやさしい人たちだったではないかということに思い至った。

最初に隣の席に座っていた人も、得たり学んだりすることなど何もないであろう僕のしょうもない貧乏サバイバル生活についての話を、いかにも面白そうに爆笑して見せながら、興味深そうに聞いてくれていた。どう考えてもただのやさしい人である。

心に勝手にいい歳して碇シンジのごとき壁を張り巡らせて、一人だけ卑屈にいじけて偏見に心がねじ曲がり人のことを公正に見れなくなっていたのは自分のほうではないかということに気づいて、「ああ、すべてはただ自己肯定感を持てないことが悪いのだ!」と言って我とわが身を呪いながら、その日だけで101回めの自殺念慮をするはめに陥ったのであった。

口出しなんてしないで黙って話を聞いてればいい

しかし不思議なものでそう思って話を聞いてみると、さっきはいかにも自信満々、得意げな自慢話として聞こえていた例の女性起業家様の話というのも、どこか痛々しささえ感じる苦労話のようにも聞こえてくるのだった。心なしか彼女の表情までもがどこか苦しみを訴えているようにも見えて、彼女の抱えている心苦しさがまるで自分に流れ込んでくるみたいに伝わってきた。

もちろんそれは僕の勝手で病的な思い込みでしかないのかもしれない。それでも僕はその人のことが少しだけ好きになる。錯覚でしかなくても、この人も自分と同じなのだと失礼なことを感じることができたからだ。

それに実際、女性起業家様のほうでも、ある意味では僕だから話しやすいということもないわけではなかったと思う。そりゃまわりの人間がどいつもこいつも一角以上の成功者みたいな人たちばかりの中で、一人だけ明らかに負け犬が混じっていれば弱音を吐けるとすればそのマヌケな犬にだけであろう。

だとすれば、せめて僕にできることは負け犬らしくおとなしく彼女の話に耳を傾けることであろう。わんわん。

でも僕はあくまで話を黙っておとなしく聞いてさえいればそれでいいのであって、何も中身のあるリアクションを返したりはしない。そんなことをしてはいけないに決まっている。

僕のような愚か者でも内心思うことがないわけではないし、誰のどんな話を聞いていても思うだけならそれなりに思うところはあるのは当然のことだ。傲慢なことを言わせてもらえれば、自分なりに誰かや何かの問題に対しての解決策や有効と思われる考えが浮かぶこともある。

でももちろんそれを話したりはしない。そんなのは僕ごときの分際で生意気過ぎるしあまりに失礼だと思ってしまうからだ。だからクズはクズらしく「そうですよねー」とか「たしかに」とか、いかにも考えなしのアホが適当に相槌打ってますって空気を演出するのが精いっぱいなのだった。

互いを利用しあうだけの「人脈」と、利用価値さえない自分

そんな僕のクズ心を知ってか知らずか、例の女性起業家氏、なにを思ったか(ただの挨拶だが)講師の言葉通りに僕とフェイスブックで繋がろうと提案をしてくる。もちろん僕はフェイスブックはやっていないと言って断る(やってないこともないけどこんなクソアカウントバレたくないし、そんなふうに人に気を遣われるのも本当に苦手なのだ)。

それではLINEの交換をしようと言われれば、LINEは本当に諸事情により(主に友達がいない)やっていないためこれまた断らざるをえない。こうなるとなんだか僕が彼女を嫌がって拒否しているような微妙な空気を感じて苦痛極まりなかったため、僕はマヌケにも「メールアドレスなら」などと提案し、その結果彼女の「代表取締役社長」と大きく書かれた貴重なお名刺を頂戴するハメに陥り、「では後ほどこのアドレスにメールしてください」「はい!ありがとうございます!」といった何の意味もない社交辞令に言葉を費やし、そこでようやく意を決した僕は彼女と講師の先生に挨拶をすると逃げるように部屋を出て家路についたのだった。

ちなみにメールはしても相手の時間を無駄にするだけだとは思ったけど、しなきゃしないで失礼だと思ったので簡単に「御縁がありましたらまたお目にかかれるのを楽しみにしております」などといった愚にもつかない文言を、「なにがご縁だよ、そんなもんあるはずねえだろ」と内心毒づきながら書き綴り、きっと読む方だって同じことを思うに違いないであろうと思いながらも送信したのだった。

自己啓発セミナーに出てもダメな奴はダメだから意味ない

セミナーの会場を出ると外は雨だか雪だかが降っていた。暗いし帰り道の方角もわからなかったけど、とにかくまずは一刻も早く、1メートルでも遠くへその場を離れたかった。生憎の空模様にもかかわらず相変わらず人混みがすごかった。

f:id:denpanohikari:20141215000948j:plain見ろ!人がゴミのようだ!

都会は嫌いだ。この人混みの中に僕の居場所なんてない。僕だけが浮いている。僕はここに存在するべきじゃない。ここに僕が存在できる場所はない。・・・昔ほどにはひどくはなくなったにしろ、やっぱりいまだに人混みの中に飲まれると頭の中をグルグルとそれらの言葉が大きな声で鳴り響き、僕は今すぐ死ぬか消えるかしたくなるのだった。

今更ながら僕に必要なのは自己啓発なんかではなく、半年分の抗鬱剤なのではないかと思った。

パニックを起こして悲鳴を上げたくなるのをなんとか堪えているうちに、気がつくと僕は駅のホームのベンチに座っていた。一つ席を空けて若い男が座っているのだけれど、隣の席には派手なかばんがこれ見よがしに置いてある。すいているなら気にもならない。でもベンチは他の席は埋まっていて、荷物を持った女の人が目の前に立って座りたそうにしていた。

それでも若い男は女性の存在には気づいているのかいないのか、まるで知らない様子で足を組んでスマホをいじり続けていた。声をかけられずにいる女性にかわって注意しようにも、僕は僕で「果たしてこのカバンがこの男性のものだという保証はない。もし違くて誰かの置き忘れであったりした場合これは大層申し訳ない…」などと考えているうちに女性が悲しそうな顔でその場を離れそうになったので僕は黙って逃げるようにその席を離れた。

その後も遠くからそっちのほうをチラチラ見ていたのは女性が無事座ったことを確認するためではなく、なんとなくあのカバンの持ち主が誰なのか気になったからである。そこへ電車がやってきた。あ、女性には気づかなかったらしいさっきの男が電車にはすぐ気づいて何食わぬ顔で隣の席に置いてたカバンを持って立ち上がった!死ね!死ね死ね!お前なんか死んでしまえ!

乗り込んだ電車の空き具合は微妙であった。ここから自分のうちの最寄駅までは1時間近くかかる。しかし空いている席の隣が男性やおばさんなら普通に座れるのだけど、まだ若い女の子だったため、僕は自分のような粗大ごみが隣に座るだけで申し訳ない、立っていようと1秒で決めたのだった。

ああもう嫌だこんな世界、こんな自分!いくら変わりたいと願おうと、そのために自分を苦痛の中に追い込んで怪しい勉強会やハイソな連中の社交の場でしかないようなワークショップや意識高い人たちの集まる自己啓発セミナーに参加しようと、このどうしようもない僕はどうしようもないゆえにどうにもならい!なにも変わらない!

僕は顔を覆って泣きたかったけど、混雑する電車の中で号泣するわけにもいかず、目を閉じてなにも考えたり感じたりしないように、ようやく席が空いてから座って眠ることにした。そして目を覚ましたときには自分のうちの最寄駅をはるかに乗り過ごしていた。僕はただ「死にたい」と思った。おわり。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
 あたし、嫌われる勇気より大事なのは愛される勇気だと思うの。。。


「社会のゴミ」と言われたボクだからわかる『人生を変えるコツ』 (自己啓発)
 ゴミはゴミ。


夢をかなえるゾウ 水野敬也
 夢をかなえるゾウは読み物として普通に面白いからおすすめ。


「自己啓発」は私を啓発しない (マイナビ新書)
 僕のことも啓発してくれない。悲しい。