いじめを苦に自殺するくらいなら相手を殺せばいいのにとか言う奴
最近たまたま「いじめを苦に自殺するくらいなら学校なんて行かなきゃいいだろ」とか、「それがわからないバカだから自殺なんてするんだろ」などといった意見を目にする機会があり、そういえばこういうことを言う人たちって昔からいるよなーと思ったのでそれについて書いてみます。
いじめを苦に自殺するしかなかった人たちをバカにするやさしくなさ
「いじめを苦に自殺するくらいならいじめた相手を殺せばいいのに」とか、そこまで極端なことは言わなくても「自殺するくらいならやり返せばいいのに」とか「自殺するくらいなら学校なんて行かなきゃいいだけなのにバカじゃねえの」とか言う人っていますよね。
僕は正直そういうことを言う人たちの思考回路自体はよくわかる気でいます。ていうか難しいことなんて何もない単純な思考回路なのでそういうことを言う人がいるよなってこと自体は誰にとっても理解しやすいのではないかと思います。
ただ、それにしてもそういうことを平気で言えてしまう人って単純に頭が悪いしやさしくないなって思います。
自分がそういういじめみたいなひどいことが存在する世の中や現実の残酷さに対して悔しい思いをしていて、その悔しさが負け惜しみみたいにそういう発言につながっているならともかく、基本的にこういうことを言う人って単純にいじめを苦に自殺してしまうような人のことをどうしようもないバカかマヌケみたいに言って見下しているから生きているのがつらくなります。
実際「それがわからないバカだから自殺なんてするんだろ」という言葉を目にしたときは、いじめられた経験を持たない自分の心にも深く突き刺さって心が凍りついたような気持ちになりました。
他人の考えとか気持ちとか関係ないしどうでもいい
はじめにことわっておくと、僕は別にこの記事でいじめを苦に自殺する人の気持ちを肯定したり、逆に「いじめを苦に自殺するくらいなら学校なんて行かなきゃいいだろ(いじめた相手を殺せばいいのに)」といった考えを否定したりするつもりはありません。
もっと言えば、僕自身はいじめを苦にして自殺した人の話などを見聞きすると悔しくてやり切れない気持ちになってしまい、いじめられた本人がそれを苦にして自殺までしたとしても、いじめてた奴らはこれからも同じようなことを繰り返してそれを楽しみながらのうのうと生きていくのかと思うと、バカバカしいからそんなことで死んだりしないでほしいとか、学校なんて行かなくてもいいじゃんとか、最悪いじめてた奴らなんて殺したっていいじゃん、と思ってしまう気持ちが個人的には正直あります。
でも、問題はそんな僕の気持ちだのその他のネットで適当なことを言ってるだけの人たちの考えだのなんてのは死ぬほどどうでもいいゴミみたいなもので、少なくとも実際にいじめを苦にして自殺という結論を選んでしまった人たちにとっては別の論理があり、当事者にしかわからない文字通り死ぬほどの苦しみがあったのだろうということです。
そんな当たり前の前提をまるで無視して、いじめられていた上にそれを苦にして自殺までしてしまった人たちのことを、どうしようもないバカだマヌケだ、どうせ生きてたってろくなことにならない弱者だ、と言って見下したり唾を吐きかけるようなことを平気で言えてしまう人というのは、控えめに言ってもあまりにもやさしくないと思います。
そういうことをさもこれが正しいまっとうな考え、まっとうな意見だという顔をして平気で言えてしまう人たちが普通にのさばっているような世の中だから、そりゃ生きていくことに耐え切れなくなって自殺してしまうような人だっていなくならないよな、とさえ思っています(別にそういう人たちのせいで自殺したんだとまでは思いませんが)。
いじめられっ子を見つけては嬉々として「お前のこういうところが悪いからだ」みたいな説教をしたがる人間のことがいじめっ子と同じくらいに大嫌い。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 9月 12
鈍感さの裏返しでしかない正論なんて暴力と変わらない
僕は「たしかにそれは正論かもしれないけど、仮にそれが人間にとって唯一絶対の正論だったとしても、みんながみんなそんな正論の通りに生きられるわけじゃないのに、そんな当たり前の前提を無視して正論を振りかざす人(なげえよ!)」が嫌いです。
そんな「正論」なんて暴力と変わらないし、そして暴力でしかないような「正論」なんて、もはや正論でもなんでもないと思うのです。
一人の人間が、いろいろあっただろうそれまでの自分の人生も、この先の人生もすべて捨てて、自ら死を選ぶ。そんな自殺なんていう究極的な選択肢を選ばざるを得なかった人の悲しみだとか苦しみだとか、無念さだとか悔しさだとか、全部無視して、というかそもそも見ようともしないで、「自殺なんてするくらいなら◯◯すればよかったのに」なんて平気で言えてしまう人のおめでたさとか鈍感さって、頭が悪いだけにしてもあまりにやさしくないし、ほとんどもはや罪悪にすら思います。
でも皮肉なことに、そういうことが平気で言えてしまう人たちというのはむしろそのおめでたさとかその鈍感さのゆえに、自殺というある種の人間にとってはほとんど生涯を通じて中心的なテーマになってしまうような問題とはまるで無縁に、自殺念慮に悩んだり希死念慮に苛まれることもなく、そういう人たちのことをただの頭の弱いバカか心の弱い出来損ないみたいに言って見下しながら平気で生きていけるのでしょう。
別にそれをうらやましいとは思わないし言いたくありませんが(負け惜しみでしかなかったとしても)、「自殺なんてするくらいなら◯◯すればよかったのに」みたいなことをさも当然の正論のように吐き捨てて、弱い人の気持ちなんてわかろうとすることも想像しようとすることすらなく、唾を吐きかけて踏みにじっている人たちを見るとどうしようもない無念さのようなものが込み上げてきてしまいます。
自殺する人としない人の事情や背景や論理が決定的に違うのは当たり前
僕には貧相な想像をすることしかできませんが、いじめを苦にして自殺してしまった人たちというのは、「自殺するくらいならいじめた相手を殺せばいい」とか、「自殺するくらいなら学校なんて行かなければいい」なんてふうにはそもそも考えられない(少なくとも実行には移せない)人たちだったのではないでしょうか。
アホほど所詮他人事だと思って「自殺するくらいならいじめた相手を殺せばいいのに」とかさもそれが正論みたいな面して吐き捨てやがるわけですが、実際殺したりすればたとえ相手からいじめられていた被害者であっても殺人犯という加害者、犯罪者になってしまうわけですし、そうなれば結局人生を棒に振ってしまうことになるのではないでしょうか。
「自殺するくらいなら学校なんて行かなければいい」という考えに対しても、親から理解を得られず学校には絶対に行かなければいけないと言われていたのかもしれません。あるいは親に心配はかけたくないしかけられないと思ったのかもしれません。
こんなのは所詮すべてが想像です。現実や実際を前にはあまりにも貧相で貧困な想像でしかありません。でもそんなことは問題ではなく、どんな可能性もありえるという話をしているだけです。
少なくとも一人の人間が自殺という結末を選んでしまったからには、その人にはその人なりのやむを得ない事情があった、というより自殺しないで済む方策が(その人にとっては)なかった、ということなのでしょう。そうでなかったら自殺なんてするはずがありません。
そんな当たり前のことも無視して、「自殺なんてするくらいならもっとこうしていれば~」なんていうのは、所詮無関係な外野のクソみたいなやじでしかないにしても、あまりに人として下品だし下劣だと思います。
いじめを苦にして自殺した人に「自殺するくらいならいじめた相手を殺せばよかったのに」って言う人がいるけど、それができる性格なら最初から誰も自殺なんてするはずがないのにバカなのかなって思う。そういう人に限って相手を殺したら「どんな理由があっても殺したらだめ」とか言いそうだし信じてない
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 7月 22
僕自身にはいじめを苦にして自殺を思い悩んだという経験はありませんが、「虐待を苦にして自殺を思い悩むくらいなら親を殺せばいいじゃん」とか、「自殺するくらいならそんな崩壊家庭出て行けばいいだけじゃん」なんてことを苦しかった子供の頃に無責任な他人ごときに言われていたら、まずはお前から蝋人形にしてやろうか殺してやろうか?という気持ちになっていたと思います。
それくらい人というのはみんながそれぞれにそれぞれの事情を背負っていて、その中でそれぞれの考えなり論理なり、感情なり気持ちなりを持って生きているわけで、その前提を最初からまるで無視して「こうすればよかっただけなのにバカな奴だ」なんて言って人の気持ちを土足で踏みにじるような人は、お前こそバカだしお前もギガンテスに物理的に踏みにじられてしまえばいいのにって思います。
プチッとな
以上、人は誰もがそれぞれの事情や背景や思いを抱えて生きているなんてのは死ぬほど当たり前の話だし、そんな当たり前のことも無視して、自殺という(少なくともその人にとっては)最期の手段を取らざるを得なかった人に対して「いじめを苦に自殺するくらいなら学校なんて行かなきゃいい(いじめた相手を殺せばいい)だけなのに、それもわからないバカだから自殺なんてするんだろ」みたいな心ないことを言っていると、漏れなくギガンテスに踏み潰されて汚いトマトジュースになることになるからせいぜい気をつけるんだな!という話でした(「えっ、そうなの!?」って自分でもびっくりしてる)。おしまい。