自分は被害者だと信じて疑わないサイコパスは無敵の人
自分は被害者だと信じて疑わないサイコパスこそは真の無敵の人であるという話をします。
こないだ邪悪な人から身を守る方法という話を「邪悪な人対策」の一般論として書き、その後そういう嫌な人について話すより自分の好きなものについて話していきたいと反省して嫌いなものより好きなものについて話したいという記事を書いたばかりなのですが、ちょっとなんというか、ここまでくるとこわいとかヤバいというのを通り越して、ひょっとしてこの人はすごい人なんじゃないか?って気がしてきたので、今まではひたすら恐怖し厭悪し軽蔑していただけのとあるアンリマユ《この世すべての悪》、ナチュラルボーンサイコパスについて書いてみようと思います。
自分でも書いていてめちゃくちゃしんどくなるような、本当に嫌な話なのですが、残念ながら世の中にはこういう綺麗事じゃない側面もあると思うのでそれを書いてみます。気分が悪くなったり胸クソが悪くなるようなことがあれば急いで読むのを中止してください。よろしくお願いします。
狂気とか邪悪さもここまでくると見事なサイコパスについて
その人が誰であるかとかそういう話は個人的にどうでもいいのでしません。はっきり言って有名人でもなんでもないし、なんの能力も魅力もない、一見ただの平凡以下の人です。
ただひとつ、人を狂気的な(というか狂気そのものだけど)悪意であらゆる嫌がらせと粘着のかぎりを尽くして追い詰め、精神を破壊し、コミュニティーから追いやったり活動不能にする天才的な能力を除いてはですが。
個人的にはその人の悪意は冗談抜きで死人が出てもおかしくないレベルだと思ってるし、実際にその人の近しい人で自殺にまで追い込まれてる人がいてもおかしくないくらいだと思っているのですが、あんまり言っても知らない人には「そこまで邪悪な人間がいるわけない」と思って信じられないと思うので別にいいです。
ていうか、僕がその人になにをされたかとか、その人がいかに邪悪な存在であるかという話はしません。するのがめんどくさいしするのも嫌だからです。
ただ、僕は詳しいことは知りませんが、こうしている今も続々とその人によって精神を破壊され、居場所を失う被害者が続出しているのだろうなーということは容易に想像がつきます。
僕自身、また一部始終を見て心配してくれていた人たちもその人の巧妙なデマや粘着・嫌がらせにはさんざん苦しめられ、悔しい思いをさせられたこともありますが、それについて僕視点で書いてもそれこそ被害者みたいな物言いしかできないし大した意味はありません。
すでにさんざん誤解もされて後の祭りですし、僕は体力がないのでされた誤解を解こうという努力にも興味がありません。嘘を信じるような人は所詮その程度だし、誤解をするような人は所詮その程度なのだとあきらめています(僕より僕のまわりの人がむしろいまだに悔しい思いをして泣いたりしているのでそういう人に対しては僕がこんなことで申し訳ないと思う気持ちはありますが)。
それに今の正直な気持ちを言うと、僕にとってどうでもいいのはむしろそういう悪意のある人間の悪意にも気づけず、ちょっと確かめる気さえあれば可能なのにそれだけの手間もかけず、そのくせそういう人間の流す嘘やデマを鵜呑みにして信じて一緒になって悪く言ったり石を投げてくるような人たちで、その邪悪の権化そのもの、サイコパスの人そのものに対しては、認めたくないのですが今はある種の敬意のようなものさえ感じています。
いや、敬意というのとはもちろん違うのですが、ある種の感心というか、ここまでくると逆にすごいなーっていう、思わずあっぱれと言って笑ってしまいそうになるものを感じています。もちろんどうせ今も現在進行形で苦しめられている人もいるはずなので、そういう人にしてみたらマジで笑い事じゃない気持ちは僕にもよくわかりますが。
(ちなみに以前からその人のやり方の一部始終を見ていた僕のフォロワーさんはその人のことを「名前を呼んではいけないあの人」と呼んでいて、ごく一部の界隈にだけですが恐怖の暗黒時代をもたらしたヴォルデモート卿の例えは言い得て妙すぎて笑ってしまいました)
サイコパスの人を憐れむのはお門違いな傲慢でしかない
僕は最初、その人はただの本当に性格が腐って人格のねじ曲がっているだけのひたすら嫌な人なのだと思っていました。単にそうだというだけの、そういう意味では普通の、ただの普通以下の最低の人だと思っていました。
でも今、その認識自体が間違いだったことに思い至りました。少なくとも僕にとってはということですが、その人は明らかに普通の人ではないと思います。こういう言い方はどうかと思うし、抵抗も感じるのですが、まさにサイコパスそのものなのだと思います。
僕はメンヘラやサイコパス、気違いといった言葉を、自分の気に食わない相手や意に沿わぬ相手を単に貶すだけの悪口として使う人や風潮が大嫌いなのですが、そうではなく単純に事実としてサイコパスというのはこういう人だというのを目の当たりにしているのだということに気づきました。
それまで僕はこの人のことをかわいそうな人だと思っていました。
悪意と敵意にまみれて自分の心どころかきっと世界の何もかもが歪んでしまっているんだろうなって人のこと、もちろん迷惑だなとは思うけど、本当はすごく可哀想な人だなって思ってる。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 9月 2
まわりの人じゅうみんな傷つけずにはいられない悪意の塊みたいな人って、もちろんたくさん怨まれもするだろうけど、ほんとに最期にその人のことを殺すのはその人自身の悪意だと思う。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 9月 2
誰からも愛されず、愛してもらえず(そんな人間じゃ当然なんですが)、そんな自らの悪意と敵意の投影でしかない世界に怯え、孤立し、そうしてますますそのことの憎悪と呪詛とを目についた人間に向けて深く傷つけることでのみ自分を慰めている、ひたすら無様な、そしてある意味では哀れな生き物なのだと哀れんでいました。
サイコパスは人間には勝ち目のない無敵の人
しかし、最近その人に関するかぎり僕のその認識はまったくの勘違いなのではないかと思い至りました。その人は、そんな僕なんかが心根を想像できるような「人間」ではなく、人間にはできないようなことを平気でやれてしまう、そういう意味ではもしかしたら人間以上といえるのかもしれない、何か別の生き物なのだと気づきました(昔の人なら単に「化け物」と呼んでいたような)。
だから、人を傷つけたら自分の心も痛むとか、嘘をついたら良心が痛むとか、そんなまともな人間なら持ち合わせているような人の心や感情はもしかしたらそもそも持っていないのかもしれない。いや、持ち合わせていない可能性が極めて高い。これは本当につらいし嫌な話なんですが、そんな悲しくも恐ろしい可能性に気づいてしまい、呆然としているところです。
これはもうなんていうか人間には絶対に勝ち目のない、「無敵の人」だと思います。多分、あまり頭のよくない人には単に「メンタルが強い」人だとみなされているのかもしれませんが、そういう次元とは話がまったく異なっています。
人間の基準に照らし合わせてメンタルが強いとか弱いじゃなくて、そもそもメンタルの構造自体がまったくまともな人間とは異なっていて、世界のすべてをただ一人自分にとって都合のいいように歪めて認知し、解釈するようにできているのです。
いわゆる「認知の歪み」というのとも少し違います。というのも認知の歪みというのはまともな人間から見た場合の「認知の歪み」であって、サイコパスの人にとっては認知の歪みでもなんでもなく、自分こそが絶対の事実、絶対の正しさであり、むしろおとなしくそれに従わない者こそ「歪んで」いて、「邪悪」な存在である、と信じて疑うところが一切ないからです。
それゆえ仮に認知療法などに取り組んだところで改善される見込みはありません。というか、そもそもその人に言わせれば「絶対に正しい」存在である自分がなぜサイコセラピーなどを受けなくてはいけないのか納得するはずもなく、問題の自覚がないのだから少なくとも自ら前向きに心理療法などの「改善」に取り組むこと自体ありえないのですが。
サイコパスは人から責められて自らの非を認めるか?
僕は邪悪な人から身を守る方法の中で、邪神(=サイコパス)に対しては決して戦ってはいけないと書きました。なにがあっても耐えろ、立ち向かうな、悪に対して悪で対抗しようにも、サイコパスならぬ身には決して相手と同じような悪の行使は不可能であるから、ということを書きました。
その点に関しては今でも考えは変わっていません。サイコパス相手に真っ向からやりあって勝とうなどというのは華厳の滝から身を投げる以上に確実に死ねる死亡フラグです。藤村操か自殺志願者にしかおすすめしません。
しかし、邪悪な人から身を守る方法で書いたような、いつか必ず邪神の邪悪さは露呈するし、そうなればまわりの人たちから責められ、あるいは反旗を翻され、最期には滅ぶというごく単純な構図は、わかりやすさを優先した結果少し楽観的に過ぎたかもしれないと思っています。
もともと邪悪な人から身を守る方法はあくまで邪悪から自分自身を守る方法、防衛策として書いたもので、そういう邪悪なサイコパスをいかにして退治するか、滅ぼすかといった内容ではありません。正直、個人的にそういう方向には興味が持てません。
でも、僕が予想していたのは、いつかそういう邪悪さが暴かれたサイコパスは、それを見咎めたまわりの人間たちによって、責められ、糾弾され、排斥され、そしてそれまで自分自身がそうやって人を追いやって滅ぼしてきたように、自らもまた傷つき敗れて消えていくのだと思っていました。
サイコパスには傷ついたり心痛むような良心自体が欠落している
しかしどうやらそれは僕の大きな勘違いでした。僕はまだ、サイコパスという人種の本当のこわさ、というか真のすごさ、最強さ、無敵さに気づいていませんでした。
彼らは、サイコパスの人は(少なくとも僕の知っているその人は)、決して傷ついたりしません。絶対に傷つくことはありません。なぜならどんな卑劣なこと、邪悪なことをして人を傷つけても痛む良心自体を持っていないし、逆にいかにその邪悪さを指摘され、糾弾されたとしても、自分が悪いことをしているなどという自覚や認識自体が最初から欠片もないのですから、因縁をつけられた不快感こそ感じても、後悔したり反省することは絶対にあり得ようもありません。
およそ自己嫌悪などという自己否定の感情は抱いたこともないのがサイコパスの精神構造であり、常になにがあっても絶対に自分が正しいという前提が軸として決してブレることはありません。
むしろ、サイコパスからすればそのように自分のことを責め、糾弾してくる奴らこそ正しさの何たるかを知らない邪悪な存在、歪んだ存在、卑劣な存在だと信じて疑うこともないのでしょう。
だから最期までサイコパスがまわりの人間への攻撃の手を止めることはないし、仮にどうにもならないところにまで追い詰められてコミュニティーを去ることになったり、あるいは洒落にならない凶悪犯罪を犯して死刑台に登ることになったとしても、最期の最期まで自分の非は決して認めず(強がっているのではなくて心底自分は悪くないと思っている)、自分をそんなふうに追い詰めたまわりの人間を「邪悪」と憎み、自分を認めなかった「邪悪な」世界を呪いながら死んでいくのでしょう。
おそろしいことです。かくなる上は祟りなどのないように首塚をつくるなり人里離れた山奥に社を建てて「神(祟り神だけど)」として祀るなりしてそのお怒りを鎮めていただく他ないのかもしれません。邪神よ、今こそ永く昏き封印の眠りにつきて永遠に鎮まりたまえ!(○ `人´ ○)キエエエエ!!!!
サイコパスは普通の人間とは別の存在、別の人種
異常が、じゃなかった、以上が、僕が実際に知っているサイコパスの人に対して認識を改めた点です。今までその人に対してずっと「どうしてこんなひどいことができるんだ?」という悩みもありましたが、どうしてもこうしてもそれは単にその人がそういうことが罪の意識や自覚もなく平気でできる「なにか別の存在」なのだと考えるほかないような気がしています。本当に嫌な話ですが。
ただ、その人に対して今あるのはこれまでのような軽蔑や厭悪、侮蔑の感情ではありません。恐怖がまったくないといえば嘘になりますが、それは腹をすかせたトラやライオンに恐怖を覚えないというのとまったく同じ意味で愚かなことです。でも怨みや憎しみの感情はありません。
はっきり言ってしまえば、要するに同じ人間ではないのです。それこそ例えばトラとかライオンとかヴォルデモートとかミーアキャットとか、なにか人間とは別の生き物、といって問題があるのであれば、まったく自分とは異なった種類の別の人種の人間なんだと思います(※例えです)。
まるで吸血鬼と化したDIOを人間と呼ぶか呼ばないかみたいな話ですが、でもDIO様の「俺は人間をやめるぞ、ジョジョー!」の言葉からは、少なくとも自分が人間をやめて別の存在になるのだという自覚が読み取れます。その意味でDIO様はまだご立派です。
俺は人間をやめるぞ!徐々にーーッ!!
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 8月 20
サイコパスに加害者の自覚はないどころか自分は被害者だと思ってる
しかし、ナチュラルボーンサイコパスに関してはそんな自覚はありません。サイコパスを100人の正常な人間の中に投げ入れても、自らの異常さを認めることも自覚することもなく、むしろ自分以外の100人の人間の方を異常者であると断定するのがサイコパスという生き物なのでしょう。
一言で言えば、サイコパスには人をデマを言いふらすなどの卑劣な嫌がらせをして傷つけたり陰湿な粘着行為でコミュニティーの離脱や自殺にまで追い詰めても、そもそもそれが卑劣な行為であるという自覚もないし、自分は正しいことをしていると信じて疑っていないから、そもそもが加害者という自覚さえもないのです。
むしろどうして自分はこんなに正しいのに、まわりの人間どもは私の正しさを認めないのだろう、それどころか私に対して逆らうなんて、死んで同然の虫けらだわ!というその人の中では激しい憤りを伴う被害者意識すら感じて、それに基づく「当然の結果」であるとしてそのおそろしい攻撃を開始するのです。
そう、サイコパスからすれば人を攻撃して傷つけ、精神を破壊し、コミュニティーから追いやり、あるいは自殺にまで追い詰めたとしても、単に「悪者退治」でしかないのです。
自分がしていることこそは正義の行使であると信じて疑わない。自分のあり方に疑問や罪の意識を感じることが一切ない。それがサイコパスの強さであり恐ろしさなのです。
普通、仮に相手が間違っていて自分が正しかったとしても、相手を傷つけてしまったら自分も胸が痛んで相手を許しもするものですが、そんな情けもないので容赦しない。徹底的に追い詰める。
まして自分が嘘をついて人を陥れたりすれば普通は罪悪感を感じるものですが、そういった良心や自分を責めるような感情自体が欠落している。そもそも嘘をついている自覚もない。だからむしろ「みんなどうしてそんな嘘をつくのか」とあくまで被害者の立場に身をおいて憤ってみせる。
少なくとも自分に加害者である自覚があれば、どんな人間も振り上げたバットを相手の顔面にフルスイングはできないものです。しかしサイコパスにあるのは自分こそが被害者であるという被害者意識であり、だから私は自分の身を守って正当防衛したまでだ、という理屈なのでしょう。
サイコパスの辞書には過剰防衛という言葉すらありません。自分から肩をぶつけていきながら、相手が舌打ちしたり睨み返したりしようものなら途端に被害者みたいな顔で「きゃー!痴漢よー!」と叫びながら相手の顔面が陥没するまで金属バットでフルスイング。恐怖です。
はっきり言ってそんな人間(以外の存在)に勝てるはずがありません。ある意味ではチートです。人間としての知性や理性、品性といったステータスはすべて0であるにもかかわらず、あらゆる攻撃を完全に無効化すると同時に人の身には叶わぬ攻撃力とあらゆる状態異常を付加する最凶最悪の特殊スキル、「邪悪な心」によってその行くところ天下無敵です。
通った後にはぺんぺん草もキノコも生えません。まさに最強にして最凶にして最恐、無敵です。
だからこそ、そんな相手にまともに怒りだの憎しみだの悔しさだの、否定的にしろ人間的な感情を抱くのは間違いなのです。それは単に地震や台風といった天災と同じように、そういうものなのだと受け入れるしかありません。
サイコパスとそうでない人間との間に区別は必要
非常に差別的な話になってしまっていることは重々承知しているし、こういう物の言い方がそれこそサイコパスのような人間に自分の意に沿わぬ人間を悪と断定したりある種の差別を助長するために悪用されないかという危惧もあります。
また、この文章自体がサイコパスの人間が自分の嫌いな人間を差別して貶めるために書いた文章ではないかと言われても、違うということを証明することは少なくとも僕にはできません。
そういう意味ではこういうことは言わない方がいい、黙っていた方がいい話、文章にして公開してしまえば無駄に損をするだけの話なんだろうなということは重々承知しています。
それでも、国の違いや肌色の違いなんかではなく、根本的な精神構造の次元で、自分や自分のまわりにいる人たちとはまったく違う「人種」の人間が存在するということは、自分の中で明確に区別しておかないと単純に危険であると思っています。
サイコパス相手に「同じ人間なのだから話しあえばわかりあえないはずがない」などという理想に燃えたところで、そのまま燃えカスになるのが落ちです。
差別主義者だといった反論やお怒りもたくさんあるだろうとは思いますが、「もしかしたら本当にそういう人間もいるのかもしれない」くらいに話半分にでも聞いて気をつけてくれる人が少しでもいてくれればいいなと思って書いています。
わかり合うだの共存だの不可能。いかに棲み分けるかのみが焦点
もちろんこの文章自体、僕から見てサイコパスの人から見れば「なにをブーメランを投げて自分の首を刈り取るような真似をしているのか」と言われるだけなのでしょう。
実際僕には最初から相手を説得しようなどというおこがましい気持ちは一切ありません。仮にそんなことをしようとしたところでどこまで行っても平行線なのはわかっていますし、またそうでなくては困ります。どこまで行っても平行線であってほしいし、決して交わったりしたくないと思っています。
もちろん僕も自分では人から悪く言われれば傷つく心もあれば、自分の愚かさや過ちで人を傷つけてしまったときには死にたくなるほど後悔したり自己嫌悪するような心もあるし、自分には嘘をついて人を貶めよう、陥れようなんてできない良心があると思っていますが、所詮誰にでもできる自己申告でしかなく、その申告自体嘘でないなんて誰にも証明できない以上、信じてもらえなかったとしてもしかたがないと思っています。
だからどうしたって僕という人間のフィルターを通した一方的な物の見方だということは承知の上で、自己判断で「これはたしかにそうなんじゃないか、そういう人もいるんじゃないか」と思ってくれる人だけでも気をつけてくれればいいと思って書いています。
汝、勝ち目のないボス戦(サイコパス退治)に挑むことなかれ
とにかく、僕が伝えたいのはサイコパスの人の無敵感です。邪悪な人から身を守る方法に対して、「いや、それじゃだめだ。自分も相手と同じ方法でやり返すべきだ」とか、「徹底的にやり返してフルボッコにして撃退すべきだ」といった意見も少数ながらあったのですが、もしそんなことが本当にできたのだとしたら、僕に言わせればそれはその人もやはり相手を上回るほどのサイコパスなだけだと思います。
僕は自分では自分や自分のまわりの人たちがサイコパスの側だとは思っていないので、そんなサイコパスの人にしか適用できないサイコパス対策や退治法には興味もなければ現実性もないと思っていますし、僕たちにできることはとにかく(万が一可能であれば)逃げる、そしてくれぐれも戦わないということだけだと思っています。
「気にしないように」なんて寝ぼけた戯言は、自らもさんざん苦汁をなめさせられた人間として僕には絶対言えませんが、とにかく可能なかぎり遠くに離れる、視界に入れないようにする、といった消極的な手段しか取りようがないというのが僕の考えです。
もちろんそうして自分が「見ざる言わざる聞かざる」戦略に徹している間にも、デマや悪評を言いふらされたり、あの手この手で様々な嫌がらせや粘着をされると思いますが、正直これは落雷にでも遭ったと思ってあきらめて耐えるしかないと思います。
サイコパスは努めて気にせず、自分がどうありたいかに専念すべき
最終的に邪悪な人から身を守る方法で書いたほど理想的に事が運んでサイコパスが自滅して消えていくことは正直常に望めることではありません。
ただ、それでももし本当に間違っているのがあなたの方だったということでもないかぎり、必ずわかっててくれる人、ちゃんと見てくれている人はいます。そういう人のことをこれまで以上に心して大切にして生きていけばいい、というか、綺麗ごとでなしに現実的にそうする以外にないのではないかというのが僕の考えです。
生きてるとたまに「なんでこんなにひどいことができるんだろう?」って理解に苦しむくらい、本当に悪意だけを煮詰めたみたいな人がいて悲しくなったりもするけど、最終的にはそういう人がどうあろうと、自分自身がどうあるか、どうありたいかってこととは無関係だってことを思い出すように気をつけてる
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 9月 1
実際、僕の観測に関する限りですが、おかしい人ほどいつも「あの人はおかしい」「私が認められないのはおかしい」と言って不平不満や悪口ばかりを垂れ流して他人を攻撃ばかりしていますが、そういうおかしな人にボロクソに言われている人のほうが、どう考えてもやさしい人や素敵な人たちに囲まれて慕われていると思います。
「みんなが私を悪く言ってる!」って発狂してる人、自分がいつも人になにをしているか一度よく考えてみればいいと思う。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 9月 2
結局、そういう自分を取り巻く世界こそが偽りようもないその人自身のあり方の鏡なのではないでしょうか。
ですから、もしあなたが頭のおかしいサイコパスに攻撃されても、被害をなくすことは潔くあきらめて被害を最小限に留めるという観点から考え、自分自身は決して相手と同じレベルで争おうなどと無茶をせず、ひたすら無視して自分の世界の大切な人たちを大切にし、思うように傷つけられずに業を煮やしたり調子に乗った相手が一線を踏み越えて明らかに法的に問題があるレベルに達したときのみ動くべきでしょう。
サイコパスは人間がまともに相手をするような存在ではない
もちろんそんなことになる前にあなたを獲物にすることはあきらめ、どこかに行ってくれるのが理想ですが、そうなったらそうなったで今度はまた別の人を獲物に定めるだけなのでしょう。これはもう残念ですがそういうものだと思ってあきらめるしかありません。
「俺がやらなきゃ誰がやる!」なんてどこかの孫悟空みたいな使命感にはやって戦闘力53万を誇るフリーザ様を倒そうなどと思うのはただの無謀、傲慢というものです。なぜなら僕たちは戦いを好む戦闘民族でもなければスーパーサイヤ人でもないからです。
結論としてはまったく煮え切らないし、僕自身本当にやりきれない気持ちになってしまいますが、結局最後は「やり過ごす」ということしかないと思います。とにかく決して戦わないこと、倒そうとなどしないことです。
「それじゃ悔しい」というような気持ちも、結局相手を自分と同じようなまともな人間だと勘違いしているから持ってしまうのです。だから自分も人間的な感情で立ち向かおうとしてしまう。
でもこれが単に「サイコパスとはつまりそういう存在なのだ」という認識がきちんとあれば、エボラウイルスやエイズウイルス相手に医療の知識もない人間が真正面から戦ってやっつけてやろうなどとはしないように、自分にどうにかできることではないと悟って一刻も早くその場から離れようとするはずです。
いつかエボラウイルスもエイズウイルスも医学に情熱を捧げた偉大な人の手によって解決されるかもしれませんが、それはそういう特殊な人に任せましょう。サイコパスというのもまさにそのように考えるべきで、専門家でもない人間が戦って倒そうというのは勇気でもなんでもなく、単に愚かというべきです。
サイコパスを憎むなかれ。しかしてサイコパスに近づくなかれ
大体言いたいことは全部言い尽くしたと思います。とにかく僕は僕の好きな人たちには無事でいてほしい、そういうサイコパスの人たちの餌食にされたりしないでほしいと心から願っています。
自分でも書いていて悲しくなるような差別的でやりきれない話になってしまいましたが、それも信じる信じないは人の勝手として、僕としては別にサイコパスの人を悪く言おうとかではありません(正直そういう人のことはどうでもいい。それが差別だと言われればどうしようもありません)。
少なくともサイコパスは存在すべきじゃないとか神様の失敗作だとは思っていません。強いてその存在に自分なりに合理的な意味を与えるなら、生物学的多様性みたいなものなのでしょう。
たとえば戦争の絶えない乱世や人類全体が破滅の危機に瀕するような特殊な状況下であれば、サイコパスがいることによって種全体の生存確率が高まることなどもきっとあるのでしょう。
しかし幸か不幸か現在の日本は少なくとも戦国時代ではありません。その意味では戦って敵を倒すために生まれてきた自分自身を持て余し、血に飢えて仕方がないサイコパスの人もやはりある意味では可哀想な人なのかもしれません。平和ボケする自分に苛立って自ら戦いの中に身を投じていくベジータみたいなものなのかもしれません(ベジータファンのみなさんごめんなさい)。
ただそうは言っても標的にされる側はたまったものではありません。同情しておとなしく食い物にされてぼろぼろに精神を破壊されたり、自分の居場所を奪われたり、最悪自殺に追い込まれたり、それは他人事でしかないのに大きなお世話でしょうがやはり絶対に避けてほしいと思っています。
そういうサイコパスの人から綺麗事じゃなく自分の身を守るために、サイコパスの人とは戦ってもどうしたって勝ち目なんてないし、そんなことはすべきじゃないんだよってことを知ってほしくて書きました。
役立ててくれる人が一人でもいればと心から願っています。僕からは以上です。
さて・・・やりきれない話のあとは、かわいいぬいぐるの画像でも貼って・・・
ひっ、ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!! ―完―