ネットに向いてないのにネットにしか居場所がない
ネットに向いてないのにネットにしか居場所がない。
なんでネットに向いてないのにネットにしか居場所がないのかというと、リアルにはもっと向いてないしもっと居場所がないからだ。つらい。人間やめたい。
そう思ったあたしは8年前首を吊った。ぐえっ。あたしは死んだ。
誰にも発見されなかったあたしの首吊り死体は少しずつ腐乱していった。そしてあたし―かつてあたしだったあたし―の頭からキノコが生えてきた。それが今のあたし。
はじめは自殺に失敗して目を覚ましたのかと思ったけど、腐りかけた体とその腐敗臭の前に、少しずつ事態を認めないわけには行かなかった。
死体の手も動く、足も動く、ものも見える。でもなんだかそれは自分の目や手足ではなくて、ちょうど巨大ロボットの操縦席からロボットを操ってロボットを動かし、操縦席越しに世界を見ているような感じがする。
でもまあこうしてキーボードを打たせて文章を書くくらいのことはできる。そんなわけであたしはかつてあたしだったあたしの腐乱しかけた死体をボディとしてそのまま使っている。最初は少し苦労したけど、今では死後硬直して固まったままの指でのタイピングもずいぶん速くなった。
夏場はちょっと油断すると腐敗が進んで死臭がひどいから、最近涼しくなってきてやっと少し安心したところ。それでもエアコンは欠かせないし、さすがにそろそろ次のボディを探さないといけないかもしれない。
もともと友達も恋人もいなかったし、家族とも不仲だったけど、こうなってからは完全に絶縁した(というか、単に完全に連絡を絶った)。さすがに死体になってしまったら誰とも会うわけにはいかないし。短い時間なら香水を浴びるようにかければ死臭はごまかせるかもしれないけど、生気がない、というより物理的に腐りかけた眼の光まではごまかせるはずもない。
でももともと人間嫌いで誰とも会ったり話したくなんてなかったし、ほとんど引きこもってばかりの生活だからそんなに不便は感じない。
もちろん最初はこんな生活―これが生活と呼べたらの話だけど―すぐに受け入れられたわけじゃない。なにしろもともとあたしは死のうとしていたわけだし。いや、違う、たしかにあたしは一度は死んだのだ。
人としてたしかに一度死んだあたしが、キノコとして生まれ変わって、しばらく(多分半日か一日かそのくらい)茫然とした後、最初にしようとしたことは二度目の自殺だった。
あたしはかつてのあたしだった体を使い、今のあたし、つまりかつてのあたしの死体の頭に生えたキノコをブチッと嫌な音を立てて引っこ抜いた。
かつて人間として自殺したときの感覚が少しよみがえりかけたけど、それはまるで意識が引き裂かれるみたいな感覚だった。でもやっぱりあたしは死ねなかった。正確に言うなら、あたしは再びかつてあたしだった人間の死体の頭に新しく生えてきたのだった。
あたしはあたし自身を使って何度もあたしを殺そうとした、いや、たしかに何度も殺したのだ。
あるときは引き裂き、あるときは思い切り握り潰し、またあるときはグラグラと煮えたぎる熱湯をやかんから自分の頭に―かつて自分だった人間の頭に―生えたキノコにじょぼじょぼ注ぎかけた。
でも死ねなかった。正確に言うなら殺しても殺しても、またあたしは新しく生えてくるのだった。
記憶を失うこともなく、あたしはあたしを殺したあたしとして、自殺したはずのあたしとして、自分の存在を否定し、何度も殺し続けたあたしとして、あたしは死に続け、生まれ続け、死に続け、そしてまた生えてきて、それを数十回、あるいは数百回、ひょっとするともっと数えきれないくらい繰り返した後で、ついに生きることにも死ぬことにも絶望したあたしは、今、単により苦痛の少ない選択の結果として、つまり死ねないことの絶望をこれ以上味わうことの苦痛を避けるために、こうして生きることを選んでいる。
生きる?自分でも笑ってしまった。今のあたしが本当に生きているなんて言えるのだろうか?
意識はある。感情もある。でもあたしの体―つまりかつてあたしだった人間の死体―に感覚なんてあるはずもなく、文字通りの意味において血も涙も流れてはいない。
不意に悲しみだか切なさだか、あるいは寂しさだかに襲われることはあっても、騒いだり痛んだりする胸もなければ、こぼれる涙もない。ただ誰かがドアを叩いて、誰かと思ってドアを開けるとすでにいなくなっているような、それが誰かも、なんの感情だかもわからないような、なんだかそれはまったく快感を伴わないオーガズムのような不思議な感じがした。
もちろん人間の頃のような形での性欲もない、食欲もない、睡眠欲もない。
だからいかなる意味においても性行為はしない。食事はしない。かつて人間だった頃のような睡眠もしない。ただし、睡眠の代わりにまったく人間の睡眠とは異なる意味、異なる質を持った、でもやはり言葉にすれば睡眠としか言えないような状態にはなる。ある意味ではそれが今のあたしにとっての眠りであり、食事であり、性行為ですらあるのかもしれない。
夜。私はふとんがわりの冷蔵庫の中で小さく丸まっている。こうしているとなんだかここがあたしの棺桶みたい。ほんとはもうあたしはやっぱりあのとき死んでいて、今こうしているのはあたしのお墓の下なんじゃないかしら?
でも、そんなふうに考えること自体がどうしようもなくあたしの存在を証明してしまうのだった。我思う。故に我あり《コギト・エルゴ・スム》忌まわしい言葉。デカルトなんて大嫌い。
そんなふうに毒づいて見せながらも、あたしは夜のこの時間が一番好き。こういうのを思惟というのかしら、こんなにも考えることに純粋に没頭し、陶酔することは生きていた頃は―少なくとも人間として生きていた頃は―ついぞなかったことだ。静かで、集中をはじめた意識の背景に遠くから聞こえてくるような、冷蔵庫のブーンという音だけがあたしの死体の鼓膜を震わせ、それはまるで美しいマントラのようにあたしを瞑想的な意識へと導く。
これが今のあたしの眠り。もちろんあたしの肉体はすでに死んでいるのだから眠るというのは体のことではないのだけど、あたしの意識、純粋精神ともいうべきそれは、深い眠りへと落ちていけば落ちていくほど、逆に冴え冴えとした覚醒した感覚へと没入していくのだった。
そしてまるで一瞬とも永遠とも感じられるような時間の後で(というよりその眠りの中にあっては時間というものも自分という感覚さえもないのだけど)、どこか遠くのほうで冷蔵庫のブーンという音が聞こえてきて、あたしは少しずつこの世界とのつながりを思い出して目を覚ます、つまり今やキノコとしてのあたしの自我意識を取り戻すのだ。
それから、子供が起きてもあたたかいふとんからぐずぐずして出られないように、あたしの場合はひんやりと冷たい冷蔵庫の中に―もちろん温度は感じられないのだけど―少しでも長くとどまるべく、今朝もいろいろなことを考えた。
といっても起き抜けに考えることはだいたいいつも同じなのだけど、やっぱりこれは長い夢なんじゃないのかしらってこと。夢の中で夢を見ている夢を見るように、キノコとしてのあたしの夢をいまだどこかで死ねずに生きている人間のあたしが見ているだけなのではないかしら?そう考えて頭に手をやると、やっぱりあたしはキノコで、もし仮にこれが夢の中で見ている夢なのだとしても、少なくともその夢はまだ続くらしいのだった。
いったいぜんたい、神様はどんな目論見、あるいはどんないたずらであたしみたいなキノコの運命を考えたのかしら?それともこれは自殺したことへの罰だとでも言うのかしら?
でもそれなら言わせてもらうけど、そもそもかつて人間だったあたしに自殺するほど苦しい運命を与えたのは、ほかならぬ神様だと思うの。
ネットに向いてないのにネットにしか居場所がない。なんでネットに向いてないのにネットにしか居場所がないのかというと、リアルにはもっと向いてないしもっと居場所がないからだ。つらい。人間やめたい。
そう思ったあたしは8年前首を吊った。ぐえっ。あたしは死んだ。
そう、それもこれも、神様のせいといえば神様のせいなのではないかしら。
神様のせいにしたりして不謹慎だなんて言わないでくださいね、もう生きているかも死んでいるかもわからない、といって天国でも地獄でもない、こんなバカげた今のあたしの状況、一言で言えばキノコとしか言えない状況で、あたしはもういい子ぶるのも信心ぶるのもなにもかもやめたの。
守るような体面だってもうないの。だから誰に気を遣う必要もない。それがたとえ神様にであれ。
それにこうなって気づいたことなのだけど、神様は世の中のあらゆる理不尽、不条理の責任を一身に負うべくして存在しているのだから、神様のせいにすることは正しいの。神様はあらゆる物事において、最終的に人のせい―ならぬ神のせい―にされるためにこそ存在するのだから。
存在する、と言っても、それは今目の前にテーブルがあるとか、その上にコップがある、というような意味で存在するわけじゃないの。
在るか無いか、いるかいないかじゃないの。少し説明が難しいのだけど、いてくれなきゃ困る、という感じに近いのかしら。この宇宙の責任を誰かが負わなければならないの。でもそれは人の身には、それが大統領でも天皇陛下でも絶対にできないことなの。
だからこそ責任は神様に負わせるべきだわ。この宇宙のすべての責任を負うために神様はいるし、いるべきなの。
だからほら、早く責任を負いなさい。責任を負わないのならあなたなんてただの役立たず、迷惑なだけのペテン師も同じだわ。
こうしてあたしは毎日神を挑発する。少なくとも神を挑発しているものと信じている。
本当はあたしは待っているのだ。期待しているのだ。一体全体、なにがどうなってあたしは、世界は、宇宙は、こんなことになってしまったのか?こんなことになるなんて、神様がいるのでなければなんだっていうのかしら?
つまらないジョークにももし救いがあるとすれば、それはそのジョークを言った相手に「ずいぶんつまらないジョークね!」って直接言ってやることよ。つまらないジョークだけが存在して、そのジョークを言った人は誰もいないだなんて、それこそ究極につまらないジョークでしかないわ。
だからきっと神様は笑えないジョークを連発するコメディアンかなにかなのだと思う。
さもなくば神様はやっぱりペテン師ならぬ手品師で、いつかその手品の種を明かしてくれるに違いない。そのときにはあたしがこうなったことも含めて、あらゆるすべての謎や疑問が氷解し、あらゆる悪夢からたちまちにして目が覚めるように、過去も未来も一瞬のうちに救われるの。
だってそうでなかったら、こんな不条理があるはずがないもの。あたしが生まれ変わり、死に変わり、こんなことを考えていることの不条理自体が、いつか必ず、あたしが生まれ変わり、死に変わり、こんなことを考えていることの条理をも説明してくれるに違いない。
さあ、神様が現れる日は今日かもしれない。神様はどんな形で現れるかもしれない。もちろん雲の上のひげのおじいさんなんて、きっとそんな現れ方はしないだろう。
ブログだったり、ツイッターだったり、その中の誰かの、なにげない一記事や、なにげない一文、なにげない一言の中に、その秘密を暗号にして隠しているかもしれない。
だから、さあ、もう冷蔵庫を出よう。そしてパソコンをつけよう。ネットにつながろう。
きっと神様はそこにいる。見つけられるのを待っている。あたしに。
だからあたしはネットに向いてはいないけど、今日もネットにつながらないわけにはいかない。あたしの居場所はネットにしかないのだし、なにしろリアルにはもっと向いてないし、もっと居場所がないからだ。居場所がなさすぎてとうとう死んでしまった。でももうつらくはない。人間なんてとっくにあたしはやめたのだから。
本当はネットになんて誰の居場所もないことも知っている。でもだからこそ、そこは神の居場所《Nowhere-NowHere》にふさわしい。今日こそは見つけ出してやろう。そしてすべての疑問を解き晴らし、あらゆる不条理から解き放たれよう。きっとそのときこそはあたしも死ぬことができるだろう。生きることさえできるだろう。
冷蔵庫を開けると外はもううっすらと明るい。朝だ。冷蔵庫から出たばかりの重たい体を引きずって歩く姿はきっとまるでゾンビみたいに見えるだろう。いえ、今のあたしはゾンビそのものね。
真っ暗闇のような起動前のパソコンのモニターには、腐った死体が映っている。・・・あたしだ。一瞬悲しみにも似た感情が意識に生じたけど、それも痛む胸もなければ、こぼれる涙もない私には定かではない。どっちにしろこんな毎日ももう終わりだ。終わりにするのだ。今日で。今日こそは。終わらせてやるのだ。
あたしはゆっくりとあたしの死体の指を持ち上げ、パソコンの電源ボタンを押した。