まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

人に正しさを押し付けることは正しくなんてない

「正しさ」とか「正義」みたいな難しくてめんどくさい問題についてまじめに考えてみました。

その結果こんな死ぬほどめんどくさい文章ができました。

読むのも死ぬほどめんどくさいと思うので、死ぬほど暇な人以外読まないでください。

 

真実や正しさは相対的なものでしかありえない

人に正しさを押し付けることはきっと正しくなんてない。

間違っている人を直すのは難しい。人に間違いを認めさせたり改善させるのは難しい。

なぜなら自分から見て相手の「間違い」でも、相手にとってはそれが「正しい」ことなのかもしれないから。その人からしたらその人こそが正しくて、その人を「間違っている」とする自分のほうが「間違っている」のかもしれない。

だから「間違っている人」とか、「間違いを改めさせる」とか、そういう認識自体があまりにも一方的で独善的な、傲慢な認識なのかもしれない。

結論を言ってしまえば、きっとどちらが絶対的に正しいかなんてことは神ならぬ人の身には誰も言えない。それぞれにそれぞれの信じる正しさがあり、言い分がある。

視点や立場が変われば正義と悪とはたやすく入れ替わりさえする。そういう意味では真実だとか正しさというのも相対的なものでしかありえない。

自己正当化のために利用された正しさは暴力でしかない

でもだからと言って安易に「正しさは人それぞれなんだからしかたがない」と言って、自分にはどう考えても間違っているとしか思えない人やその「間違い」を放置するわけにもいかない。

極端な話、殺人や盗みなどの犯罪行為を「それもその人にとっては正しい」と言って放置していたのでは誰も安心して社会生活を営むことなんてできない。そこに社会秩序の維持のための法ということの必要性がある。

でももちろん法律で世の中のあらゆることを定められるわけもなく、世の中には法律といった形で明文化されていないことがいくらでもある。だから人はそれぞれの思惑や信念によって、互いに互いの正しさを主張しながら衝突することになる。

自分が信じる正しさを、常に自分自身が貫き通しているならそれは素晴らしいことだと思う。ただそれを人にまで押し付けようとしたり、人は別の正しさを信じているのだということを一切認めようとしないなら、それはあまりにも独善的だ。

また、単に自分に都合よく、ただ自分を正当化するためにだけ、ある日は白を黒と言い、またあるときは黒を白だと言い、常に自分を正しいとするためだけに自己正当化や自己保身を図ってばかりいる人、言い換えるなら自分を正しさに合わせようとするのではなく、正しさを自分に合わせようとしている人の欺瞞と偽善は醜悪極まりないものがある。

唯一絶対の「正解」なんてどこにもない

世の中にはなかなか絶対的な正しさだと言えるものがない。万人にとって絶対的に正しい、絶対の正しさ、絶対の正義なんてものはどこにもない。仮にそんなものがあったとしても、やっぱりそれを認めない人、それに従わない人も間違いなくいる以上、どうしたって唯一の正しさの名のもとに、万人が一つになってわかりあうなんて幻想は永遠に叶うことはない。

それはしかたのないことだ。でもしかたがないことだと言ってみんながみんなそれをあきらめて受け入れたり、自分から見て「間違っている」としか思えない人や行為を黙って容認できるわけでもない。

もしそういう「人間なんてみんな人それぞれなんだから、人のことには構わず放っておくべきだ」という見方を、単に自分はそう思うからそうするというのではなく、他人にまでそれを押し付けるのであれば、結局それも自分の考える薄っぺらい相対主義を絶対的な正義として人に強制しているだけの浅薄な傲慢でしかない。

それくらい、「正しさ」ということは難しい。考えれば考えるほど難しい。世の中のことは本当に「考え方次第」という側面が極めて大きく、「1+1=2」みたいに絶対に明らかなことなんてほとんどない。

というか、「1+1=2」という一般的な常識や間違いのない事実のように思われていることに対してすら、やはり見方や考え方によってはそれに異を唱えたり反論する人もいるのだから、どうしたって唯一絶対の「正解」なんてものはどこにもないと思っておいたほうがいい。

人に正しさを押し付けることは正しくなんてありえない

その上で、やはり人は自分の信じたり考えている通りの「正しい自分」であろうとして生きていくことしかできない。よくも悪くもそれが人間にできる最善であり限界なのだから、それはそれでいいとして、ただあくまでそれは自分の信じる「正しさ」であって、人によっては違うのだということはくれぐれも頭に入れておく必要があるだろう。

何度も言うけど「だから正しさというのは人それぞれなんだから他人が何をしていたって関係ないし構わないし放置するべきだ」ということではない。いや、それが自分の信じる正しさだというのなら、それこそ単に自分はそう考えていればいいだけのことで、そういった相対主義的な物の見方も含めて自分の見方でしかないのだから、人に押し付けるべきことではない

というか、正しさが人それぞれである以上、自分の考える正しさを人に押し付けて押し付け通せるようなものではない。どんなに自分にとって個人的な思惑や損得を度外視して純粋に論理的に導き出した「客観的に公正な」結論だとしても、それでもそれに納得しない人や反論する人はどうしたって存在する。

そういう人のことを「純粋かつ論理的に導き出した客観的で公正な正しさに従わない愚か者、悪人である」として排斥すれば、それはもはや正義の名のもとに行われる独裁や粛清と変わらない。そして本当にそんなことが正しいのかといえば、僕はやはり疑問を感じざるを得ない。

人を正すことよりなぜ自分はそれを許せないのかを考える

ことほど左様に、考えれば考えるほど「正しさ」なんて問題に結論は出ない。いや、自分の中で自分自身にとっての「正しさ」の結論を出すことはできても、それは単に自分自身にのみ適用すべきものであって、それを他人にとっても適用させようとするのは難しい、というか無理だ。

一方的に自分の信じる「正しさ」のみを他人にまで押し付けて強制することは、あまりにも傲慢だし独善的だし、押し付けられた相手からしたら迷惑にしか感じられないだろう。それこそ僕にはそれが正しいことだとは思えないし、そういう態度は間違いに思える。

それに、仮に自分の我、自分のエゴを押し通して、自分の考える通りの「正しさ」に相手の間違いや誤りを改めさせたとしても、そこには自分の我を通して相手を自分の意のままにしてやったということのつまらない自己満足以上の本質的な意味はない。

相手の「間違い」を正そうとする前に、なぜ自分はそれを間違いだと思うのか、なぜ自分はそれが許せないのかを自分自身に問いかけて、人の間違い(だと自分には見えるもの)は自分自身と向き合うための材料にするほうがよほど有意義だ。

というか、それ以外は実際にはただ相手に嫌われたり憎まれたりするだけで、誰にとっても、相手にとってはもちろん自分にとってさえ、ほとんど実際的な意味を持たないだろう。

人は間違っているから争うのではなく、正しくあろうとするから争う

きっと本当は誰が正しいとか誰が間違いだとか、「正しい考え方」とか「間違った生き方」とか、そんなものはありはしない。そんなのはただの幻想だ。

人はみんな同じように「正しい」とか「それは違う」という感覚を持っている。ただ何に対してそう思うかということは、人それぞれにみんな違う。

だから人の世はこんなにも難しい。そしてだから人の世から争いが絶えることはない。人が争うのは誰かが間違っているからではなく、むしろ誰もが正しくあろうとしているからだ。ただその正しさが「自分なりに」でしかありえないところに、尽きることのない争いの火種がある。

人の世の悲しみも、人間の愚かさも、すべてはこの「正しさ」ということをめぐって起こる。

人を正すことはできない。正せるのは自分自身だけ

最終的に、人は結局「自分はどうするのか?」ということしか決めることができない。他人にもそうさせようとしたところで、思い通りになんていかない。仮に力関係や上下関係を利用して無理やり上辺だけ従わせたところで、そのことに本質的な意味などあるはずがない。

僕にできることは、僕は僕自身が正しいと思える自分自身であろうと努めること。そして、無理に人の間違い(だと自分には思えること)を正そうとするのではなく、なぜ自分はそれを嫌だと思うのか、なぜ自分はそれを許せないのかということを考える材料にすること。それだけだ。

人は本当には自分自身にしか働きかけることができないのだということを常に忘れないようにしたい。そしてもし僕が誰か他の人にとっても有益なものをもたらし得るとすれば、それは僕が何かを人に押し付けたときではなく、僕自身に働きかけることによってだけだと思う。

人は正しくあることなんてできない。ただ正しくあろうとすることはできる。そして強いて言うならそれが僕の信じる「正しいあり方」なのだろう。

今日は卵かけご飯に卵を6個入れた。卵かけご飯だけは唯一この世で絶対の正義といえるものだけど、6個は少し入れすぎたかな、ロッキーかよって思った。おしまい。


武田教授の眠れない講義 「正しい」とは何か? 武田邦彦


不安であることの正しさについて 村松恒平


「正しさ」への問い―批判的社会言語学の試み