まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

人はなぜ不平等なのか?

人はなぜ不平等なのか?

そんなきわめて高度に哲学的かつ宗教的なレベルの問いかけに現代の哲人まつたけが美しくも鮮やかに答えを出す!

出すったら出すんだよ!!!!!出しちゃうよ!!!!!

人はなぜ不平等なのか?その根源的な問いの答えが今明らかになる!

んなわけない。答えなんて出せるはずがない。「そんなの◯◯だからに決まってんだろ」ってさも知った口叩くアホはいくらでもいるんだろうけど、チョットナニイッテルノカワカラナイデース。

人はなぜ不平等なのか?不平等なものだからです。としか答えようがない。もちろんそんな虚しい同語反復になんの意味もあるはずがない。

問題は「なぜ?」ということをいかに問おうとそれにどう答えようと、多分「人は不平等なものである」という事実は1ミリも揺るがないしどうにもできないということだ。でも、それがわかっていても「だからそれはなんでなんだよ!」って問うことをやめられない生産性0のしょーもない人間も世の中にはいるということだ。僕だ

世界や人はなぜ不平等なのか?

まったくの私事だが僕には趣味や生きがいがなさすぎて、働く気どころか生きる気力さえまったくない甲斐性なしの自分のおケツに火をつけるべく、「それならわざわざ生まれてきて無駄死にする前にどこかに寄付でもしてみたらどう?」ってなことを最近考えている。夢を思い出してもうちょっと生きてみようと思った話子供の支援団体に寄付でもしてみるかプロジェクト

当初は候補の団体をいくつか調べて、よさそうなところがあったらそこに残り2ヶ月で完全に飛ぶしかない複数社の借金の限度額を注ぎ込めるだけつぎ込み、自らを背水の陣に追い込めばさすがにいかに怠惰な自分でもやる気を出して必死になってがんばれるのではないか?などと甘い見通しでいたのだけど、調べ始めたらこれがもう目論見外れもいいところ。

むしろ今までめんどくさいから目を向けようともしてこなかった世界のことなんかもいろいろ知ってしまい、「どうして世界はこんなに不平等なんだ?」とか、「この世界の意味は何だ?」とか、「神は存在するのか?」とか、「生きる意味って何だ?」とか、どんどんいくら考えても答えが出るはずがないことでお馴染みの問いかけに取り憑かれてしまい、生きがいをつくってがんばるどころか鬱病を発症しそうなレベルでよけい元気がなくなって落ち込んでいる有り様である(アホ)。

でも試みにあえてこのまま奈落の底まで突っ走ってみるとして、僕がこんなことを考えてしまわずにはいられないポンコツ野郎なことも含めて、人はなぜこんなにも不平等なのだろう?

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国や家庭、生まれた時点で不平等なこの世界

別に「人はみんな平等じゃないとダメだ!運動会の徒競走ではみんなで手をつないで横並びに一緒にゴールしないとダメだ!」なんてことが言いたいわけではない。むしろそういうのって個人的にはアホくさいと思っているし、そんなんじゃなくてもっと単純に純粋な疑問としてそういうことが昔から気になってしまってしかたがない。

たとえばそれこそ運動会の徒競走を例にすると、みんなが努力して努力しただけ足が早くなる世界だったとしたら、その努力の差で足の早さに差が生じることは別に不平等ではないし、むしろきわめて平等公正なことのようにも思える。

でももちろん実際はそんなことないしあるわけがない。詳しく知らないけどハードル走の為末大選手がツイッターで

成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提

とバカ真面目に正論を吐いて、「身も蓋もない」「道は努力で切り開くもの」などと批判が殺到し炎上の憂き目にあったという話もちょっと前に話題になっていた。

これについては「言い方に気をつけないと基本的に正論って嫌われるよね」くらいの感想しかないし、「人には向き不向きがあるんだから、成功したいと思うなら自分の適性にあったスポーツを選ぶなり、あるいは成功なんて考えないで好きなスポーツを選ぶなり、そもそもスポーツには見切りをつけて趣味や勉強といった他の世界で自分の適性を探せばいいだけだよな」ってことくらいは多分わりと一般論に近い感覚として僕も思う。

でもそれにしても当たり前にスポーツでも趣味でも勉強でも選択の自由がある国や家庭に生まれたことを前提にしているわけで、たとえばこれが生まれたのがめちゃくちゃ貧しい国で、スポーツや勉強どころか子供のうちからキツい労働してたけど結局栄養失調で病気になって死んじゃいましたとか、親が酒とギャンブルに狂ったろくでなしの極貧家庭に生まれ、ろくに食べ物も与えられずにいたところを最後は虐待にあって殺されちゃいましたとか、そういうレベルの話になってくると、もはや疑問ということを通り越して暗澹とした絶望的な気持ちになってしまう。


為末大 諦める力〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉

「ソープに行け」ですべての疑問は解決するのか?

もちろん僕が泣こうと笑おうと世界には1ミリの変化もないし影響も与えられないことくらいは百も承知だけど、やっぱり僕はそういうことを思ってしまわずにはいられない。僕がそういう人間であることもまた「なぜ?」を問うても無意味なことで、単に僕はそういうポンコツに生まれ育ったからとしか言いようがない。

そういうことを考えるにつけ、一体運命ってなんなんだ?それともそもそも運命なんてものはないんだろうか?すべてはただの無意味な偶然の産物でしかないんだろうか?でもじゃあだとするならその偶然はどうして起こり得たのか?必然性もなく生じ得る偶然なんてものがあるんだろうか?

・・・などなど、考えてもしかたがない(とよく言われる)疑問がまるでドミノ倒しのように次から次へと連鎖的に僕の中に沸き上がってくるのだった。

それともこんなことを考えてしまうのも単に僕が世界の現実や、それ以上にそもそも「世界の現実」なんてご大層なものを気にしている場合じゃないはずの自分自身の惨状から少しでももっともらしく気を逸らしたいだけの現実逃避でしかないんだろうか?(多分その可能性は99%くらい)

僕の疑問なんてものは所詮ただの貧乏人の詭弁でしかないのだろうか?あるいはフロイト派の先生だったら抑圧された性欲(承認欲求でも自己実現欲求でもなんでもいい)の代償でしかないなどと診断してくださるのだろうか?

仮に今から僕が与沢翼のように秒速で億を稼ぎまくったり、連日連夜美女たちと大興奮の変態セックスをしまくったり、急にはてブの皆様から「お前天才だな!」とか大絶賛されてチヤホヤされたり、なりたい自己を実現できたと感じたりしたら、それで満足してしまって自分が今まで悩んだり悶えたり考えてしまわずにはいられなかった様々な苦悩や疑問も、「あの頃の俺はバカなことで悩んでたなwwww」とか思ってまったく気にならなくなったりするんだろうか?

結局一言で言うなら僕のこれまで抱いてきた苦悩や疑問のすべては北方謙三に

ソープに行け

とたった一言言われたらそれで鮮やかに切って捨てられてしまうようなものなんだろうか?少なくとも現状僕は風俗に行ったことがないし行くお金もないし行く気もないからわからないのだけど、高級ソープに通い詰めているような人であれば「人はなぜ不平等なのか?」とか「人はなぜ生きるのか?」とかそんな青臭いことはバカバカしくて考えることもないんだろうか?

人は誰もが与沢翼にはなれないし、ならなくていいし、なりたくない

いずれにしてもそこには解決されないままの問題や疑問が残っているわけだけど、そもそもそれは解決しようとして悩んだり考えたりする問題じゃなかったことに気づいて今までの自分を鼻で笑い飛ばしたりするんだろうか?

でも少なくとも今ここにいる僕は、そういうもしかしたらありえるかもしれない未来の僕ではないので、鼻で笑い飛ばされたりしたら少し寂しいと感じてしまう。

いや、別に未来の自分だろうと他の誰だろうと、笑いたい人には笑わせておけばいいんだけど、やっぱり今の自分、今までの自分には切実に思えたような疑問、自分を苦しめてきたはずの悩みが、もしそんなことできれいに雲散霧消してしまうようなものだったなら、悩みが解消したことの歓びより今までの自分の生き方への絶望のほうがでかいだろうなということを思わずにいられない。

それともそのときそこにいる僕はそんな自分に絶望することもなく今こんなことを思っている僕のことを思い出して「ションベン臭い」と鼻で笑い、両隣にきれいなお姉さんをはべらせたりしながらドン・ペリニョンを開けまくり、勝利の美酒と自分に酔いしれて高らかに笑ったりするんだろうか。「やっぱションベンよりシャンパンだよなwwwwwww」とかクソみたいなことをほざいてやがるんだろうか。・・・殴りてえ・・・。

いや、そういう人のことをどうとは思わないし、憧れこそしないもののそれはそれで立派な人だと思うし個人的には尊敬すらする。でもやっぱり自分がそんなふうになれるともなりたいとも思えないし、そんなふうに思ってしまう時点であらゆる意味で自分にそんな資質はないのだろう。

死ぬまで詭弁で現実から逃げ続ける実験

ずいぶん話が飛びまくってしまった(いつものことだけど)。とにかく僕は青臭かろうとションベン臭かろうとただのバカだろうとマヌケだろうと、「どうして世界はこんなに不平等なんだ?」とか、「この世界の意味は何だ?」とか、「神は存在するのか?」とか、「生きる意味って何だ?」とか、そういうことが昔から気になってしかたがない。

それがただの現実逃避でしかないなら、僕は物心ついた頃から今の今までずっと現実逃避をし続けてきたのだろう。それならもういっそ死ぬまで現実逃避し続けるだけの人生も面白いような気がしてきた。これも詭弁でしかないなら、詭弁で死ぬまで逃げ続けてやろう。

ちなみにこの記事は寄付先として検討していた子供の支援団体についていろいろ調べて記事にしようと思っていたのが、とにかくめんどくさいやらいろいろ知るにつけ憂鬱になるやらで、ただただそこから現実逃避したさに書きました。

自分的には検討先を全部調べて個別に記事にして、その上で最終的に自分にはここがよさそうだと思えたところに寄付するというそれなりに長大なシリーズにする予定だったんだけど、このままめんどくさいので国境なき医師団にでもサクッと毎月払いにしてひとまず終わりにしてしまおうかって気がしてきた(そもそもこんなことを考え始めたきっかけが最近ネットで何をしていても表示される国境なき医師団の広告が気になってしかたがないからだったりする)。

むしろ寄付先の選定なんて時間のかかることをしている暇があったら、最低限詐欺団体じゃないってことを確認したらどこでもいいからそこに月払いで寄付できるように設定して(雀の涙でもすぐにやらないで「お金ができてから」とか言ってたらいつまで経ってもできないのはわかっているから)、今は早く自分にできる仕事を見つけて借金を返すとか、1円でも多く税金を払うとか、半年滞納している水道代を払うとか、とにかく最低限度の人並みの暮らしを立て直すべく努力するのが先決な気がしてきた(気づくのが遅すぎる)。がんばろう。。。

最後に念のため書いておくと、「人はなぜ不平等なのか?」というのは単に生まれた時点で豊かさ・貧しさ、親の人間性、容姿や頭脳、運動神経のよさ、様々な才能の有無など、人によって持って生まれた可能性が大きく異なるのはなんででしょうね?っつーほんとにしょうもない問いかけでしかないのであって、「豊かな日本に生まれた僕たちは幸福で、アフリカに生まれた子供は恵まれなくて可哀想だ」とかそういう話ではないしそんなことは思ってもいない。万が一にも変なイチャモンつけられたら嫌だなーと思ったので念のため言っておきました(慎重すぎだしそれでもろくに読まないでそういうこと言ってくる奴は言ってくるので完全に無意味だけど)。

・・・などと言っているうちに今日も現実逃避だけで日が暮れたな・・・。今日はもう疲れたから仕事を探すのは明日からにしよう・・・。おやすみなさい。明日が来ませんように。おしまい。


不平等について―― 経済学と統計が語る26の話