まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

四畳半神話大系とかいう神アニメの感想…と見せかけて人生について

「四畳半神話大系とかいう神アニメの感想」というタイトルで特に四畳半神話大系とかいう神アニメの感想とは直接的にはほぼ無関係に人生について適当に書いてみる。

なぜなら僕は暇だからだッ!!!!!!!!!!!

ひまああああああああああ!!!!!!!!っふうううううううう!!!!

 

四畳半神話大系が神アニメすぎて感動した

僕は独り身なのだけど主に炭水化物を中心とした、っていうか炭水化物しかないご飯を食べている間、することもなく話す相手もなく虚空の一点をじっと見つめたままもはやうまいのかまずいのか味もよくわからなくなった炭水化物をもぐもぐと咀嚼しているうちにふと気づくとぱたぱたと涙がこぼれ落ちているに至ってこのままではまずいのではないか?僕はまさに今現在進行形で壊れつつあるのではないか?ということに思い至った。

そこで打開策として食事の間なにかアニメを見ることにしたのだが、たまたま面白そうなアニメを調べていてタイムリープ物の傑作(正確にはタイムリープではなくいわゆるパラレルワールド、並行世界での話ということだったが)として僕が果てしなく愛してやまないCROSS†CHANNEL(はゲームだけど)などと並んで四畳半神話大系というアニメの名前が挙がっていて、これは絶対面白いに違いないと思って見てみることにしたのである。

生米を貪り喰らうに至ったアニメは四畳半神話大系がはじめて

果たしてこの四畳半神話大系というアニメ、僕にとってはすさまじく面白いアニメであった。あまりに面白すぎて結局ご飯の味を覚えていない。最後の方は炊飯の手間も惜しんで視聴していたのでほとんど生米のままひたすら米をむさぼり食べながら夢中になって見てしまった。火垂るの墓でもあるまいに現代の日本に餓鬼界を現出させるようなアニメを傑作神アニメと言わずしてなんと言おう。まぎれもなく四畳半神話大系は傑作神アニメである。

僕はおよそ小説とか読まない人間なので知らないし読んでないのだが原作は森見登美彦という人の小説らしい。アニメはオリジナル要素もたくさんあるらしいけど、よくこんなすごい話が書けるものだ。僕は小説家にしろマンガ家にしろ物語をつくれる人たちのことは文字通り創世の神々の如く尊敬している。まあ僕に尊敬されたところで1円の価値もないんだけど。力になれなくてごめん。


四畳半神話大系 (角川文庫)

四畳半神話大系の感想…とはぶっちゃけあんまり関係ない話

で、この文章は僕がかくも感銘を受けた四畳半神話大系なる神アニメの感想を詳細に報告するという文章ではない。なんかあんまり直接的には関係のない人生についての無駄話をしたいと思っただけである。いや、タイトルに「四畳半神話大系とかいう神アニメの感想」としておいて四畳半神話大系とかいう神アニメの感想じゃないっていうのもわりとひどい話のような気もしつつ、気にしない(振りをする)ことにする。なぜなら世の中そんなもんだし、それにとにかく僕は暇なのだ。寂しさや虚しさと向き合ったりしないで済むように、余暇を潰すためにはちょっとくらいの横暴や羊頭狗肉的ブログ運営も許されるのは昨今のネット界隈ではもはや常識であろう。

そんなわけなのでこの文章では四畳半神話大系とかいう神アニメについて話の大筋や登場人物について説明したり、それについての感想を挟んでいくみたいなことはしない。めんどくさいからだ。僕はただ無邪気にカジュアルに軽い気持ちでボサノヴァのような軽快なステップで以って暇を潰したいのであって、わざわざあえてめんどくさいことがしたいわけではないのである(ちなみにボサノヴァがどのようなステップからなるダンスなのかはもちろん知らない)。

それゆえこの先の文章はかなり脈絡もなく支離滅裂に適当に文章を書き綴っていきたいとかお断る必要もなくすでにどうしようもなく脈絡もなく支離滅裂な文章を適当に書き散らしてるだけだったので安心してお断るのは省略して内容に入っていく。あ、そのくせまったく無意味に微妙なネタバレを含んだりしているのでネタバレが嫌な人や時間を無駄にしたくない人は今すぐここを立ち去り腐海(もり)へ帰るがよかろう

孤独な四畳半主義者に己を重ねて思わず自分を京大生だと錯覚した夜…

さて、四畳半神話大系の小説のAmazonでのレビューを見ていたり、アニメの四畳半神話大系の感想のまとめみたいなのを読んでいても、つまらないとか最後まで我慢して見ないと面白さがわからないみたいな意見が多くて驚いたんだけど、僕はもう最初から最後までずっとすごい面白くてめちゃくちゃ笑って見てた。全体のストーリーがどうとか構成がどうってこと以前に、ディティールが面白ければもうそれで満足してしまうタイプなので相性もよかったのかもしれない。

最初から最後まで面白かったけど、ラストから1話前の第10話「四畳半主義者」はなんかすごい感動しながら見た。「あ、なんか今すごいもの見てる」と思った。感動して泣くとか、いよいよ伏線が回収されて一気に収束する感じがすごいとかそういうことじゃなくて、四畳半主義者の主人公であるどこまでも果てしなく続く四畳半の宇宙から脱け出せなくなった「私」は僕そのものだと思った。他の誰とも会わない、人生に他の誰も出てこない。自分一人しか存在しない世界

そうであったかもしれない可能性に未練を残したり目移りしてばかりいる。それこそ並行世界を神の目で俯瞰するようなメタな視点から見れば、どうせどの道、どの可能性を選んだところで激しく不満は残るしやり直したいと願ってしまうような代わり映えのしないろくでもない日常でしかないのだとしても。

隣の芝生は青い。そうだとするなら、自分が選ばなかった可能性は青は藍より出でて藍よりも青しといった感のある目が覚めるような紺碧の青色であろう。

あるいは真の青春とは選ばなかった可能性にこそあるのではないか。選んだ現実などというものはそれが選ぶ時点まではどんなに華やかにきらびやかに見えていたとしても、実際に生きてみれば大抵味気なく砂を噛むような灰色か、下手をすれば真っ黒である。少なくとも僕に青春というものがあったのだとすればそれはねっとりと重たいタールのようにどす黒かったと言うほかない。しかしやはりそれでも、そんな日々でも、そんな日々をこそ青春と呼ぶのかもしれない。

だとするなら今僕が生きているこの出口の見えない永久に続く四畳半の無限回廊のごとき日々もいつか振り返れば輝いて見える日が来ないとも限らないのかもしれない。バラ色に輝くなどということは決してあるまいとしても、目を開きさえすれば師匠が語ったように世界は雑多な色をしているのだ。世界は決して灰色一色、あるいは闇の中の黒い馬の如き黒一色に塗りつぶされた世界などではないのである。そしてその、時に噛み合わなかったりちぐはぐなほどに雑多な世界の色や複雑に絡み合いすれ違う面倒な人間模様をこそ「輝いている」と形容するのかもしれない。あ、もちろん適当に書いてるだけなので万が一にも本気にしちゃった人がいたらほんとごめん

終わらない日常を生きろ(終わらない日常なんてないけど)

好機はさながら蛍光灯の紐にぶら下げたモチグマンのように常に目の前にぶら下がっている(一点アニメに難癖をつけるとするなら四畳半主義というか四畳半地獄からの脱出の鍵は常に目の前にぶら下がり続けたモチグマンであるべきであった)。

僕もいつか抜け出せるのだろうか。今や座敷牢のごとく化したこの7畳半(ロフト付き)の地獄から。自らつくり出した四畳半主義という視野狭窄で広大な世界の可能性から眼と心を閉ざし偽りの安寧と平穏を打ち破ることができるのだろうか。

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しかしいまだゴールは見えない。ゴールが見えないどころか返済しても返済しても半分は利息に溶けていく借金地獄の図。こういうのが複数社。あっはっはっ!なんで今急に笑い出したかというとなんかとりあえず笑ってみるくらいしか思いつかなかったからである。あっはっはっ!

どうやら四畳半主義とこの正確には7畳半(ロフト付き)の家賃共益費込み4万3千円の安アパート暮らしを脱け出す前にまずは借金地獄からの脱却を図ったほうが賢明なようである。所詮それまでは終わらない日常を生きろと自らに言い聞かせながら返済しても返済しても利息に溶けていくいつかそう遠からず破綻するまでの短い日々をジリ貧のまま送るしかないのかもしれない。

そう、終わらない日常を生きるなどというのは寝ぼけたたわ言なのだ。終わらない日常などという贅沢はどこにもありはしない。それならば今こそ僕は超人にならなくてはならない。「あそこであんな現実味のない夢物語に数百万の大金を投じていなければ…」、「あそこで気楽なアルバイトをやめてきちんと定職について家庭を築くべく準備を整えようなどと考えていなければ…」などと選ばなかった可能性、すなわちありえなかった可能性を夢想して、かくあるべくしてある他でもない自分自身が選んだこの人生を汚したり侮辱するべきではない

今こそ勇猛果敢に獅子吼すべきときである。「そうか、これが人生だったのか!よし、それならばもう一度!」と。そう、超人とは超人的(狂人的)な強がりややせ我慢をできる人間のことを言うのだ。・・・もちろん適当に書いてるだけなので万が一本気にしちゃった人がいたらごめんな

最終回で違う小津氏の顔について(悪魔みたいな顔のほうが好き)

男子たるもの飄々かつ悠然と、堂々として超然と、1年以上にわたって厳しい図書館警察からの返却の催促をのらりくらりとかわし続けた師匠の如き大丈夫たらねばならぬ。

さもなくばその如才ない才知と機微機転、どんな人間にも懐近く取り入ること巧みな話術や人心掌握術を駆使し、かつまた小日向さんのハートを射止める純粋さと大胆不敵さとを持ち合わせた八面六臂の大活躍を見せる小津氏のごとき勇敢な戦士みたいに愛したいな Fu…と桜井和寿でなくても変声期みたいな吐息をまき散らして一曲歌いたくなるような勇士でなくてはならない

はなはだ僭越ながら不肖まつたけ、いわゆるところの外見、当世風に言えばビジュアル、大正浪漫チックに言えばルックスだけであれば、かの勇猛果敢な愛の戦士小津氏に多少似ているのではないかと誠に恐縮ながらも少々自惚れていたりするのである。

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↑野菜嫌いで即席ものばかり食べているからなんだか月の裏から来たような顔をしていてはなはだ不気味なOZこと小津氏。僕もまた野菜を買うお金がなく炭水化物ばかり食べているからなんだか月の裏から来たような顔をしていてわれながらはなはだ不気味である。ちなみにこの小津氏の外見は実は主人公である「私」がたった一人の親友という小津氏の側面に気づかず一方的に悪魔の様なやつだと思っていたことによる「私」の認知の歪み越しに歪められたビジュアルであり、小津氏の本来の顔とは大きく乖離している(ことが最終話でわかる)

まったく無意味にネタバレを挟んでみたが、小津氏であれば決してこの程度の借金苦など苦しむにも値しないとたやすくなんとかしてみせるであろう、そして借金に苦しまないのであれば、いまだ未返済であれそれはもはやただの借金であって借金苦ではないのである。

人は一人では生きていけない(あなたには僕を見守る義務がある)

いずれにしても僕よ、強くなければならない。雄々しかれ!逆境がなんだ!不遇がなんだ!借金がなんだ!無能がなんだ!不幸がなんだ!孤独がなんだ!寂寥がなんだ!虚無感がなんだ!絶望がなんだ!眠れぬ夜がなんだ!そんなものの1つや2つ、3つや4つや100個や1000個、もののついでにこちらから人の分までもらっていくくらいの気概がなければおよそ男子は務まらぬと知るがよい。

僕よ、大丈夫たれ!こんな文章をブログに書き綴り、たったひとつ「働いてお金を稼ぐ」という明白にしてシンプルな唯一の答えを思い浮かばないふりで逃げている時点でどうせ僕の人生大丈夫なはずがないのである。人生が大丈夫でないなら己が大丈夫になるしかないではないか。そんなことはもはや三才の童子にも明らかな物の道理というべきであろう。

白居易(白楽天)、道林禅師に問うていわく、「如何なるかこれ仏法の大意」。道林禅師答えていわく「諸悪莫作 衆善奉行(悪いことをするな。善いことをしろ)」。居易いわく、「もし恁麼にてあらんは三歳の孩児も道得ならん」。道林いわく、「三歳の孩児に言い得るといえども八十の老翁にも行不得なり」と。居易すなはち拝謝して去る。

唐突にこれまでの流れとまったく無関係なエピソードをぶち込んでなにが言いたいのかというと、つまり三才の童子にも言い得るが、八十歳の老人にも行い難いこともある、いや、大切なことこそそういうものなのだということである。

ましてや僕のごとき青二才が大丈夫でない人生を自ら大丈夫となって悠々と生きるなどおいそれとできるものではないであろう。それがわかっているなら助けてあげるのが人の情けというものではないか?人は助けあい生きている生き物だ。所詮人は一人では生きていけない。俺は一人で生きている、私は天涯孤独で生きてきたなどというのは言語道断たる驕慢、傲慢であろう。

小さい幼児が外へ出て遊んでいたら大人はどうするか?言うまでもなく幼児が道路へ飛び出したり車に轢かれたりしないように注意深く見守ってあげるはずである。そう、僕が四畳半主義、および7畳半(ロフト付き)家賃共益費込43000円の安アパートを飛び出して曲がりなりにも社会に立ち向かおうというのはつまりそういうことなのだ。いわばあなたには僕を見守る義務があるのだ。

僕たちは何度でもまた巡り会う。友として、恋人として、不倶戴天の敵として

ここにおいて話は因果を一巡し、少々無駄に長くなったきらいもありつつそもそもの最初から徹頭徹尾無駄でしかあろうとしてないんだから長さなんて関係ねえんだよこの低能猿が!と突如として罵倒を交えたりしつつ、この文章もまた円環の理に導かれて今こそここにひとまずの終わりを見るのである。

しかし忘れることなかれ、終わりとは単にまた新しい始まりを意味するのでしかないということを。輪廻の輪は廻り続ける。ピングドラムは輪り続ける。いつかまたわれわれも永遠という時間の中ですれ違い、あるいは不倶戴天の敵となり、あるいは運命の黒い糸で結ばれて何度生まれ変わっても共にフィリピン海溝をどこまでも深く果てしなく沈んでいく悪友となり盟友となり、あるいはまた聴くにも語るにも値しないような愚にもつかないイチャコラの果てに成就した恋愛関係に陥ることもあるであろう

袖振り合うも他生の縁。あなたは昨日の私の母かも知れず、明日の私に食べられる消費期限切れの魚肉ソーセージの原料であるかもしれない。それが人生というものである。

願わくば明るい見通しはおろか自分でもびっくりするくらい仄暗い水の底から浮き上がる素振りも見せない僕を見て見ぬふりをして見殺しにするのではなく、手に手を取ってどこまでも深く果てしなくフィリピン海溝のさらにその底深く二人どこまでも沈んでいこうではないか。有り体に言えば僕の巻き添えを食って共に死のうではないか。・・・と、物語はどこまでも果てしなく続いていくという永遠の前提の上で、この文章はこれにておしまい。読み終わってから後悔してももう遅い。生死は事大にして無常迅速なれば、各々宜しく醒覚して慎んで放逸すること勿れ。珍重珍重。

追記:森見登美彦さん面白くて有頂天家族を見たり小説をおすすめされて読んでみたりしました。

有頂天家族の感想

森見登美彦の走れメロスの感想

森見登美彦の夜は短し歩けよ乙女の感想