まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

夜は寝るのがこわい。朝は目覚めるのがこわい。

毎日夜寝るのがこわい。今日も何もないまま1日が終わってしまうことがたまらなく寂しい。

それでいて毎日朝は起きるのがこわい。今日もなにもない1日が始まってしまうことがたまらなくこわい。

 

夜は寝るのがこわい

寝ないで起きていたって特にすることやしたいことがあるわけではないのだ。ただなにもないまま、なにもしないまま、今日も誰とも出会わないまま、無意味に塗りつぶされただけの1日を終わらせてしまうことがこわくて、することもないのにパソコンのモニター画面を見つめながら、眠れるまでぼーっと無意味に起きている。

そんな気持ちで無駄に起きていたっていいことなんてあるはずがない。寂しさや不安や孤独感ばかり膨らんで、よけい眠れなくなって苦しい気持ちにじっと耐えながらひたすら起きている。そのうちこんなにだめな自分と人とを比べ始めてしまったりする。

自分にからっぽでなにもないことがこわい。自分以外の人たちはみんなすごい。才能もある。仲間もいる。才能ある仲間同士で協力しあったり、喜びを分かちあったり、楽しい人生を生きているに違いない。僕は何だ。能力もない、才能もない、仲間もいない、なにもない。「負けたくない」とか思いながらボロボロ泣きだしてしまう自分はどう考えても最初から負け犬でしかないのだった。

もちろんほんとに自分以外の人がみんなすごいかどうかなんて知らない。というか、もちろんしょーもない被害妄想じみた思い込みでしかないのだろう。みんながみんな才能のある人ばかりではないし、中には僕と同じくらい孤独な人もいるんだろう。でもそもそもそういう人は視界に入らない。声をかけてくることもない。僕にしたって誰にも声をかけられない人間だからわかる。だから結局目に映るのは才能のある人や仲間のいる人たち、キラキラと眩しく輝いて見える人たちばかりで、この真夜中になにも持たずに孤独に呻いているのは世界で自分だけのように感じてしまう。

誰かのやさしさや好意にも罪悪感を感じてしまう根底的な自己否定感

ただただ自分の無能さが悔しい。無価値さが悲しい。といって、こんなことを言ってやさしい人たちに「そんなことないよ」とか慰めたり励ましてほしいわけではないのでどうか安心してほしい。仮にそんなこと言ってもらったとしてもどうせ自分にできることは「ありがとうございます。やさしいお気持ちうれしいです!」とか「おかげで元気になりました!」とか、苦しみに顔を歪めたりぼろぼろ泣きながら答えることしかできない間抜けなのだ。やさしい人のやさしい気持ちがうれしかったりありがたかったりするのは本当だけど、自分はそれさえ与えてもらうに値しない無価値な人間だという自己否定感が根底にあるから、涙が出るくらいうれしい反面、申し訳ないような苦しい気持ちになってしまうのだった。

 

こんなことを言うとほんとに身もふたもないのだけど、とにかく自分は人格が土台から腐りすぎていてどうにもならない気がする。やさしい人のやさしさは大好きだし本当にありがたいけど、結局それさえも無条件にしあわせに感じることのできないどうしようもない自分がいる。そんな気持ちを打ち明けることさえ相手を傷つけることになるのではないかと思うとできない。できないと言うくせに、こうして「独白」という体裁で結局吐き出さずにはいられない。卑怯で、甘えている。「それさえも自分はわかってやっているのだ」、というこういう態度も全部含めて。

誰にも自分の気持ちを打ち明けたりぶつけようとすることもなく、精いっぱい外面だけはよくしてみても、孤独感は膨らんでいくばかりでどうにもならない。こんな甘えた「独白」も、所詮一時の気晴らしでしかない。

こんな自分のままで、いったいなにがどうなればしあわせになれるというのか、アホみたいに涙を垂れ流しながら眠れるまでぼーっと起きているのだった。

朝は目覚めるのがこわい

朝は朝で、どうして毎朝起きないといけないのだろう。どうしてなにもいいことなんてない1日を生きるために、わざわざ居心地のいいふとんから抜け出さないといけないのだろう。「生まれてきた赤ん坊が泣いているのは当たり前だ、せっかく安らいでいた母の子宮からこんなにも苦しい世界に生み落とされてしまったんだから」とかそんなことまで朝から考えてしまったりするのだった。

起きたくないのは生きたくないから

でももちろんそんなのは答えは決まっていて、毎朝起きなくてはいけないのは生きるためだ。「働くため」とか「学校に行くため」とか、全部結局生きるためにやっているのだ。

「じゃあどうして生きなきゃいけないのか」なんて、こんな間抜けな問いもないだろう。どうしようもなく自分は今生きてしまっているのに、そのことの意味や理由を問うのは馬鹿げている。それでもそんな馬鹿げたことを気にしてしまうのは、そんな馬鹿げたことにでも逃げてしまいたくなるくらい、生きていることが苦痛でしかたないからだ。

生きていることが苦痛、なんて大げさな言い方をしなくても、要は人生がつまらないのだ。退屈でしかたないのだ。だから苦しくてしかたがないのだ。

人生が無価値でつまらないのは自分が無価値でつまらない人間だから

どうしてこんなにつまらないのだろう。なんでこんなに毎日つまらないのだろう。なんでこんなに人生はつまらないのだろう。

面白い本を読んでもつまらない。面白いマンガを読んでもつまらない。面白い映画を観てもつまらない。面白いアニメを見てもつまらない。結局なにをやっても虚しいだけでつまらない。

でも僕はほんとは答えを知っていて、そんなのは僕がつまらない人間だからに決まっているのだ。

自分が誰かやなにかのコンテンツを消費するばかりで、自分はなにも価値を生み出すことがないからつまらないのかなとか、誰にもなにも貢献することがないからかなとかいろいろ思う。

「それをやるために生きている」、そう思える生きがいがほしい

思えば子供の頃、やりたいゲームがある休日は起きるのがまったく苦痛ではなかった。親さえ先に起きていなければ、いくらでも早起きしてゲームをしていた。

すること、というより、したいことがあれば起きるのは、つまり生きることはまったく退屈なんかではないし、苦痛なんかでもないのだ。僕には今それがないから、子供の頃のゲームのように楽しみに思えるものがないから、生きがいに思えるものがなにもないから、こんなにも目を覚ますことが、そして生きることがこわくてつらくてしかたがないのだろう。

生きがいがほしい。「生きるために(しかたなく)働く」のではなく、「働くために生きている」と思えるような仕事がある人はしあわせだと思う。

自分を使い果たせるものがほしい。それをするために毎朝喜んで飛び起きて、そして夜は心地よい疲労感と充足感に包まれてぐっすりと眠れる、そんななにかがほしい。

今日も寝るのがこわい夜です

とはいえそれは、才能もなく、仲間もなく、才能がないなりに努力をしたり仲間をつくろうと努力するでもなく、才能のなさや仲間がいないことを言いわけになんの努力もしてこなかった自分が、ほしいと言ったからといって向こうから飛び込んでくるようなものではないのだろう。

毎日なにをしていても寂しさと虚しさしか感じない。こんな人生はもう嫌だ。人生の意味のなさ、自分自身の意味のなさ、価値のなさ、生きがいのなさにもう耐えられない。なにをどうすればこの空っぽな感じ、自分の胸にぽっかりと空いた大きな穴を埋められるのかわからない。多分お金でも恋愛でも埋められない気がする。

これはもう一生どうにもならないのかなあ。こんな自分のまま一生生きていかないといけないんだろうか。こんな人生をそれでも生きている意味なんてあるんだろうか。そんなことを考えるたびにくじけそうになってしまう。そして今日も眠れない夜をバカみたいに泣いたりのたうちまわったりするのだろう。ゴミみたいな人間の、ゴミみたいな夜の話。おしまい。