まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

悩んでる自分にムカついてきて悩むのをやめた話

悩んでる自分にムカついてきて悩むのをやめた話。

悩みに悩んで悩み続けてついにたどり着いたと思える唯一の答えは「悩むな」ということだった。悩んでいる自分にむかついてきた。くだらねえ。そんな眉間にしわ寄せて思い悩むほどのことか。悩んでる内に人生終わってまうわ、アホか。どう生きたって一生。好きなように生きて死ぬだけ。――そんな僕にしては珍しく威勢のいい話をしてみようと思う。

 

物心ついた頃から悩んでいたこれまでの人生=苦悩の歴史

自分くらい悩む人間はいないと思う。あらゆることについて思い悩む。いちいち苦悩する。アホかと思うくらい悩む。そんな自分はアホなんじゃないかとまた悩む。どう考えてもアホである

最近も昨日プロブロガー(通称プロガー)になりましたの記事に書いた通り、あれこれ悩みすぎているうちにすっかり鬱になってしまい、一週間ほど毎晩ふとんに顔を埋めて言葉にならない苦悩を絶叫するというだいぶ危ない感じの夜を過ごし、ついに喉が枯れ切って声が出なくなったあたりで「悩むほどのことかアホが!」ってなぜか若干逆ギレ気味で思ったのでそれについて書く。

幼くして不眠症だった苦悩エリート及び両親の苦悩エリート教育

物心ついたとき、僕はすでに悩んでいた。というか、僕にとって物心つくことと悩むことはほとんど同義だった。幼少の頃、僕は不眠症だった。悩む時間は嫌でもたっぷりとあった。不眠症だから悩んでいたのか、悩んでいたから不眠症になってしまったのかという話だが、あまり不眠症の幼児というのも聞かないから、多分悩んでばっかりいたせいで不眠症になってしまったのだと思う。

お子さんのいらっしゃる親御さんには一応言っておきたいのだけど、子供の寝ている部屋でセックスというのはあまりしないほうがいいのではないかと思う。ガキは隣ですごい声が聞こえてもアホみたいによだれを垂らしてぐっすりと眠りこけているとでも思っているのだろうか?

ましてや一見嫌がっている(ように当時は見えた)母親とかいう女の人が、泣きながら父親とかいう男に犯されている光景とか、いくら年端もいかない小さいガキだからといって、いや、年端もいかない小さいガキだからこそ、なにがあっても見せるものではないと思う。まあ見せようと思ってやってたとまでは思わないし思いたくもないけど。ガキのことを夜中は死んでる木偶人形だとでも思っていたのかは知らないけど、事実としては僕は毎晩ふとんをかぶって泣いていた。僕にとって父親とかいう男は鬼よりもおそろしい存在だったので、やめさせるどころか起きていることがバレたら殺されると思っていたから泣き声を殺すのに必死だった。

あまりあの頃の自分がしていたような思いをほかの小さい子たちがしているなんてことは考えたくもない。そんなキチガイというかケダモノみたいな親御さんは滅多にいないと思うけど、もしいたら死んでほしいそういう思いをする子がいなくなればいいなあと思う。

完全に話がズレたけど(さーせん)、そんなこともあってすっかり幼児にして立派な不眠症患者となり果てた僕は、毎日8時くらいには寝るように言われてふとんの中に押し込められるのだけど、それから時計の針が何周も何周もするのをぼんやり見ながら、毎晩深夜を回るまで眠れずにいろいろなことで思い悩んでいたのだった。

子供は大人が思ってるほどバカじゃないし悩んでる

あまりあの頃どんなことを考えていたかまでは正確に思い出せないのだけど、「死」とか「生きることの意味」、「存在の理由」みたいなことについて子供なりに考えていたのは覚えている。

「子供がそんなことで悩んだりするはずがない」とか言う人は子供を馬鹿にしすぎだと思う。少なくとも僕自身そうだったし、自分もそうだったという人を数人知っている。しかもあの頃はそういったことを考え始めると途端に胸のあたりが苦しいような切ないような、それでいて懐かしいような、不思議な痛みを感じて涙ぐんでいた。簡単には答えの出ない根源的で普遍的な問いとか悩みというのは、年齢も関係ないのだと思うし、むしろあの頃のほうがよほど純粋な感受性で向き合っていたような気もする。ただそれをこうして大人にもわかるような形で言葉にして表現できないだけで、子供は子供である意味大人なんかよりよっぽど真剣に悩んだり考えたり傷ついたりする生き物なんだよ、ってことを少なくとも自分は忘れないで生きていきたい。

高校生になる頃には白髪だらけになっていました

また話がズレかけたけど(さーせん)、でもまああんまりそんな小さい子供の内からイカれた家庭環境のことから考えてもしょうがないようなことまで悩んでばかりいると、あまり少年の心と体にとっていい影響はないらしく、高校生になる頃には、僕の頭は真っ白だった。いや、フケではない(フケじゃないよ、ほんとだよ!)。あんまりアホみたいに朝から夜まで悩み続けているうち白髪だらけで真っ白になってしまったのだ。あの頃は僕の人生でも自殺念慮がピークに達し始めていた頃で、その後10代後半から20代前半までは毎日が大げさでなく生きるか死ぬかの戦いだった。

膨らみ過ぎた自意識も僕を苛み、学校や街の中を歩いていても自分がどこを見て歩いていればいいのかわからなくて、こわくて不安でしかたがなかった。今日にでもこの後死ななきゃだめだとかそんなことばっかり考えていた。そうするとどうなるかというと、若くして髪の毛が真っ白になります(ちなみに一時期真っ白になった僕の髪の毛はひたすら苦しみに耐えて耐えて生きているうちに次第次第に自意識も自殺念慮も往時ほどの激しさは和らいで、気づいたらぬばたまの黒髪に戻っていました。若白髪で悩んでいる人はそのうち戻ると思うので安心してください)。

それくらい「なぜ生きるのか?」とか「なぜ生まれてきてしまったのか?」とか、「なぜ自分はこの家に生まれてきてしまったのか?」、「運命とはなんなのか?」とか、一介の若造に、というかいくつになっても誰にも絶対の答えなんて出しようもないであろうありとあらゆる問題について、物心ついた頃から悩み続けてきたのだった。

悩んでいいことあるのか、悩むことに意味はあるのか

悩み過ぎることはあまりに犠牲が大きすぎる

で、むしろこっからが本題なんだけど、結論としてそうやって悩むことになんかいいことあったかという話。まあ人によって、それこそ歴史上に名を残してるような偉人とかでも悩むことの価値を肯定してたりする人もいるけど、自分の場合はかなり否定的だ。100%無意味だとか無価値だとは思わないけど、あまりに犠牲が大きすぎると思う。

まあ10代で髪が真っ白になるくらい悩みすぎる人間とかごく一部の例外かなって気はするけど、それにしても苦悩し過ぎることは自分や自分の人生を大きく損なうことだと思う。っていうかこうして振り返ってみると自分の人生悩みすぎて損なわれすぎじゃねえかよバカ野郎wwwwwwwwwwwwってめっちゃ悲しくなってきたくらい、悩むことは人生を損ない、食い潰してしまう。

考えることと悩むことの違い

一応区別しておくと、考えることと悩むことの違いは答え、正解の有無ではないかと思う。考えることには答えがある。だから考えることによって答えを出し、問題が解決する。ものすごくシンプルだ。それに対して悩むことには答え、少なくとも一般的な答えとか正解なんてない問題について考えてしまうことだと思う。だからいくら時間をかけて考えても、何年何十年悩もうと、「これが答えだ」という形で解決策が出てくることは決してない。

まあ「だから悩んでも無駄だ、答えの出ない問題については考えない」とか言ってる人もいたりしてすげえなって思ったりするんだけど、そんなふうに割り切れるくらいなら最初からここまで悩んでしまうような人間になってねえよとも正直思うのだった。

とはいえやはり、僕の幼少からの悩みグセはあまりにも自分を蝕みすぎ、自分の人生を食いつぶしすぎだと思うので、あまり考えてもしかたのないことをいつまでもぐじぐじ引き摺ったりするのはやめようと思う。

人生深刻になっていいことなんてないし、深刻になるようなこともない

もたもた悩んでないで勢いでやってしまうことも大事

ところでお気づきだろうか?(っていうかそもそもまだ読んでくれているだろうか?)この記事の冒頭のテンションと今のテンションがだいぶ違うということに。冒頭で僕は、

悩みに悩んで悩み続けてついにたどり着いたと思える唯一の答えは「悩むな」ということだった。悩んでる自分にむかついてきた。くだらねえ。そんな眉間にしわ寄せて思い悩むほどのことか。悩んでるうちに人生終わってまうわ、アホか。どう生きたって一生。好きなように生きて死ぬだけ。

そういう話をすると言った。全然そういう話になってない。3000字書いてるうちに完全に冒頭の威勢がなくなっとるwwwwwwww

これもあれだな、あんまりよけいなことをごちゃごちゃ考えたりしてるうちに、かえってシンプルで勢いのあった結論を複雑で難しいものにしてしまい、メッセージのインパクトを殺して台無しにしてしまうという一つの例だ(決して収集がつかなくなった記事の言い訳をするわけではなく)。

悩んでばかりいないためには、勢いとか威勢、テンションみたいなものも大切なんだと思う。慎重であることはけっこうだけど、そこで勢いを殺してしまうと悩むことのドツボにはまってしまう。そうなるともう完全に勢いは死んでしまう。

慎重であれ、深刻になるな

慎重であれ、深刻になるなということかもしれない。深刻になりすぎて身動きが取れなくなってしまい、人生を重苦しい沈鬱なものにしてしまうのはもううんざりだ。それくらいなら軽薄なくらい身軽に、勢いのままに生きたほうが絶対に人生は楽しい。

失敗をおそれて過度に深刻に思い悩み、結局なにもできないような人生は、それ自体最大の失敗なんだと思う。失敗しようとどうだろうと、思い切って好きなようにやってみる人生のほうが、どれほど自分にとって楽しいか知れないし、人にとっても魅力的か知れない。

どう生きたってたかが一生。死ねば終わり。悩んでないでやってみろ

どうせどう生きたってたかが一生ではないか。どう生きたって死ねば終わりだ。悩んでしかめっ面ばかりしていても一生、悩んでばかりでなにもできないまま死んでも一生、思い切ってやってみてうまくいっても一生、思い切ってやってみてうまくいかなくても一生。それなら僕は、うまくいこうといくまいと、悩んでばかりいないで思い切って生きてみた一生のほうが上等だと思う。

「悩むのやーめた!」でその瞬間から完全にぴたっと悩まずにいられるほど器用ではないにしても、悩みながらでもとにかく思い切ってやってみればいいんだと思う。そうすれば案外悩んでいたことの9割までは無駄な悩みだったことに気づくかもしれない。

とにかく大事なのは悩んでることがあったら思い切ってやってみること。悩んで悩んで、結局やらないというのでは最初からなにもやらないのと変わらないし、それこそ悩んだだけ時間と人生の無駄になってしまう。

悩んでないで生きてみることの中にしか答えなんて見つからない

人生には「生きている意味」とか「運命とはなにか」とか、考えてもそう簡単には答えの出ないような問題もある。僕は今でもそれについて悩むことが無駄でしかないとは思わない。むしろきっとそう簡単には答えの出ない問いだからこそ、一生かけてでも悩み続ける価値があるとさえ思う。だからそうした問いにこそ正しく悩むべく、所詮「やるかやらないか」、「うまくいくかどうか」程度の悩みでしかないことなら悩んでないでさっさとやってしまえばいいのだと思う。やってしまえば「やるかやらないか」の悩みは消える。そしてどういう結果になるのであれ「うまくいくかどうか」の悩みも消える。たとえ失敗だったとしても「やるかやらないか」、「うまくいくかどうか」のレベルで延々悩んで身動きとれずにいるよりよっぽどうまくいっている。

というわけで、当初の記事タイトルとは少し違う内容になってしまったりもしたけれど、自分にとってより大切な問題でこそ大いに悩むために、「やるかやらないか」とか「うまくいくかどうか」程度のつまらないことでごちゃごちゃ悩んだりしてないで、そんなことで悩んでるひまがあったらさっさとやってしまおう、という話でござんした。

きっとそんなふうにして生きてみることの中にしか、考えてもわからないような難問の答えも見つけられないんだと思う。だから悩んでないで、思い切って生きてみようと思いましゅ。おしまい。