まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

損得勘定で生きるな。好き嫌いの感情で生きろ

どうも。この道一筋300年。20年間無敗の伝説の雀鬼・桜井章一を崇める会会長のまつたけです。

今日はそんなGJS(グレート・ジャンキー・サクライ)な桜井章一会長の、『感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方』という本を読んだ感想を書いてみたいと思います。

これまでにも桜井章一会長の偉大さ、グレート・ジャンキーぶりに関してはいくつか記事を書いてきたのでここではそれを改めて繰り返すことはしません。興味のある方は過去記事を参照してみてください。20年間無敗の伝説の雀鬼・桜井章一の運が良くなる方法伝説の雀鬼・桜井章一に学ぶ運が良くなる方法②20年間無敗の伝説の雀鬼・桜井章一に学ぶ夫婦とは何か?

桜井章一『感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方』の感想

本記事メインタイトルの「損得勘定で生きるな。好き嫌いの感情で生きろ」というなんとも幼稚な主張ですが、あまりにも幼稚な主張なのでこれまでなかなか人前では口にできなかったものの、僕はまだ4さいなので幼稚な考えを持っていたとしてもなんら恥じることはないではないかという言い訳を思いつきましたことに気づきました。

そして桜井会長の『感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方』の表紙をめくった瞬間、扉のこんな言葉が飛び込んできました。

損得で生きるな、理性を捨てて、好き嫌いで生きろ

理性まで捨てちゃうのかよwwwwwwwwwww僕だってそこまでは言ってねえわwwwwwwwwwwwやっぱり桜井会長はすごすぎます。なにもかもが圧倒的です。無碍自在にして天衣無縫!これくらいぶっ飛んでないと「20年間無敗」なんて頭のおかしい伝説は打ち立てられないに決まってますよね。

損得の「勘定」ではなく、好き嫌いの「感情」で生きろ

桜井章一会長は本書のまえがきで人間から感情が失われてしまっているのではないかという危惧について語っています。自然な感情の発露が失われた代わりに、一応泣いたり笑ったりはしていてもどこか造り物めいた人工物のにおいを感じるというのです。そしてそれについて次のように言っています。

なぜ人工的な感情がこれほどまでに増えたのだろうか。

ダジャレではないが、人工的な感情は「勘定」に似ていると思う。

いや、「ダジャレではないが」って、思いっきりダジャレじゃねえかwwwwwwwwwww

しかし桜井章一会長の主張は昔から一貫していて、そういった経済的な効率主義・合理主義を軸とした損得勘定が優先されるあまり、人として自然な感情の発露が妨げられていると、必ずどこかでその歪み、ひずみがどこかでしわ寄せとして押し寄せてくるぞ、といったことです。

人工的な感情を操れば得はするかもしれないが、それは人生の心地よさということとは関係がない。

しかし、「勘定生活」から「感情生活」へと舵を切れば、人生は損得ということを超えて、間違いなく楽しくて気持ちいいものになっていくはずである。

ここらへんのことが本書の中心的なテーマとなっているようです。しかしこれくらいのことは言うだけならその辺を歩いているイエティにだって言えそうなことです。桜井章一会長の言葉に重みがあるのは、麻雀(それもどでかい金額のかかった裏麻雀の代打ち)などというそれこそ普通に考えれば損得勘定こそが最重要なはずの勝負の世界で、神話レベルの伝説的な強さを証明した男が「損得勘定ではない」と説くところです。

もちろん口では綺麗事を口にしながら裏ではいくらでも汚いことをしている人間というのも世の中にはたくさんいるわけですが、桜井章一会長の尋常ではない超絶的な強さと無敗の記録は、そんな凡百の汚いクズ共ごときに可能なことだとは到底思えません。

桜井章一会長の哲学は麻雀の世界だけでなくスポーツや将棋などのその他の勝負事の世界の超一流と呼ばれるプレイヤーたちも心酔しているところであり、単に麻雀という狭い世界にとどまらない勝負哲学・人生哲学なわけですが、ここは一つ僕も今から麻雀の世界で伝説を築くべく素直に桜井章一会長のお言葉に耳を傾けてみようと思います(麻雀のルールはそれから覚える予定)。

感情を解放することで人間は自然を回復することができる

ほとんどの人にとっては、理性や知性は感情より重要なものなのであろうが、私はそれとは反対に、感情こそ理性や知性より数段も重要だと思う。

それは、理性や知性よりも、感情のほうが「自然」に近いところにあるものだからだ。

自然が大好き桜井会長、感情の重要性はより「自然」に近いからだといいます。現代社会が抱えている諸問題も、元を正せば人間が理性や知性を暴走させて不自然に走った結果だと指摘します。

しかし現代文明批判くらいのことは批判するだけならそこら辺を歩いているチュパカブラにだってできることです。すでによくも悪くも高度に発達してしまった文明社会の中で生きる僕たちに「文明を捨てて原始に帰れ」というのではあまりにお粗末すぎでしょう。もちろん我らが桜井会長の真意はそんな低レベルなところにはありません。

だが、何の工夫もテクニックも必要とせず、いまからすぐにいくらかでも自然に近づく方法はある。それは。ただ感情を素直に解放することなのだ。

これが一貫して本書の主張です。うつ病や激しすぎる怒りがまねく暴力などのトラブルも、感情の抑圧や人工化・不自然化と深い関連があるといいます。

人工的な感情とはたとえばマクドナルドやデパートの接客店員の作り笑顔などで、それは誰がやっても同じような顔になる、つまりそこには個性がないのだといいます。

自然な感情表現とはわがまま放題な感情の発散ではない

本書を理解する上で非常に重要なところだと思うのですが、「感情で生きろ、感情を解放しろ」というのはわがまま放題感情を発散しろとかそういうことではありません。たとえば家族や友人、恋人などに感情的になって当たり散らしてしまうような人間は感情で生きているのではありません。

むしろそういう人は普段学校や職場での人間関係の中で自分を殺し、感情を抑圧してしまっているから、そのストレスを心を許せる安心できる人たちの前で八つ当たりをするなどして甘えてしまうのです。

もし、自分の内側だけで葛藤や不安や怒りや哀しさや悔しさが渦巻いているようなことがあれば、その人は私のいう意味での感情的な生き方をしているとはいえない。

心の内側で激しく感情が渦巻いているような人は、たしかに理性よりも感情のエネルギーのほうが勝っているかもしれない。だが、それは感情にとらわれ、縛られているだけであって、素直にいきいきとした感情を解放するという健全な感情のあり方からはほど遠いのだ。

桜井会長は感情は本来川のように流れるべきものだといいます。水が流れなければ淀んで腐ってしまうのと同じで、感情も素直に表現せずに抑圧ばかりしていると感情が滞り、心はバランスを崩します。その結果が殺人事件に発展してしまうような怒りや憎しみ、激情にまでなってしまうのであり、それは自然な感情表現とはほど遠い、むしろ不自然な抑圧の結果なのです。

安全な自分の殻に閉じこもっているといろいろなことに気づけない

面白かったのが感情表現が下手だった雀鬼会の道場生に、どうやって素直な感情表現を取り戻させたかという話。桜井章一会長はその道場生に、「お前、不良になってみろ」とアドバイスしたそうです。それも「ガンをつける」とか、「それまでは吸ってなかったのにタバコを吸う」とか、そういうベッタベタなにわか不良デビューをさせたそうな。

すると、最初は不自然だった不良ぶりが堂に入ってきた頃から、それまで苦手だった面白いときには声を上げて笑うとか、悲しいときには泣くとか、そういう自然な感情表現ができるようになったんだそうです。で、面白いのはここから。

変化したのはそれだけではなかった。

それまでは、彼はいろいろなことに気づけない鈍感な子だったのに、いろいろなことに気付くようになったのだ。ここは汚れているなと思ったらさっと掃除をするとか、客人が道場に来たらさっと上着を預かりにいくとか、自分のことしか眼中になかった子が、人のことに気づいて動けるようになったのである。

どんな不良だよwwwwwwwwwwwwwwwどんないい子だよwwwwwwwwwwwwwwしつけの行き届いたヤクザの舎弟かよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

もちろん「不良になれ」というのは相手を見た上でのこの彼の場合に与えた指示であって、自然な感情表現を可能にするための万人に通用する処方箋ということではないのでしょうが、自然な感情表現が可能になると同時に人の気持ちにも敏感に気付くようになるというのは非常に面白く、また重要な指摘だと思いました。

私見ですが、自然な感情表現ができないのは心を閉ざしているからだと思うのです。それはなぜかというと、心を開いて無防備になることで自分が傷つくのがこわいからなわけですが、そうやって自分の心を閉ざしてしまうと今度は相手の心まで見えなくなってしまうのですね。

いわば自分の殻に閉じこもってしまって外の世界に対しての感知力が阻害されてしまうのだと思います。おそらく桜井章一会長がこの彼に与えた「不良になってみろ」という指示も、この彼に不良というあり方が一番そぐわなかったからこそで、その真逆である不良になろうとすることで彼は自分の殻から抜け出すことができたということではないでしょうか。

損得勘定からはやさしさは生まれない

感情を抑圧して生きていた不良化する以前の彼のように、理性中心で自分を知性でガチガチに固め、自然な感情表現を抑圧していると、まわりのことに気付くことができません。

たとえば電車にお年寄りや妊婦さんが乗ってきたとき、自然な感情表現ができる人は気づくと同時に体が動いてさっと自然に席を譲ることができます。でも自然な感情表現ができない人というのは、そもそも状況に気づかないか、気づいても「席を譲るべきか?偽善者と思われないか?自分も座ったばかりなのに…」などと頭でごちゃごちゃと損得を考えてしまい、自然に動くことができません。

つまりやさしくないのです。だからやさしさとは頭で考えるものではありません。損得勘定からはやさしさという感情は決して生まれないのです。自分の心が開いていて、感情が自由に流れているからこそ、不自由している人がいればさっと気づいて適切に行動することができます。そしてそれが本当のやさしさです。

損得で生きないこと。でもそれは自分を犠牲にして損をして人を利そうとすることではありません。そんなものは結局頭の中でどう思われるかを考えただけの醜い偽善でしかありません。ただそうしたほうが自分自身が心地いいからそうするのです。やさしさとは決して自己犠牲などではないのです。

桜井会長は損得の「勘定生活」と自然な「感情生活」の違いを次のように言っています。

損得の勘定ばかりしている「勘定生活」は、得はするかもしれないが、断じて人生の心地よさとは無関係である

かたや、天然の感情を素直に出す「感情生活」は、損得を超えて気持ちのいい豊かな人生を導くはずだ。

目先の損得に踊らされたり、損とか得とかいったことに一喜一憂していても、結局そんな自分の生き方に疲れてしまっては生きてても楽しくないですよね。どんなにお金持ちになってもしあわせになれなければ意味がないのと同じですね。

まあこういうことを僕みたいな人間の底辺が言ってもただの負け惜しみにしかならないわけですけど、桜井章一会長みたいな損得や勝負を超えたところで、結局最終的には圧倒的な強さで勝ち続けた人が言ってくれると、すさまじい説得力があってかっこいいなーって思います。

30ページ読んだ感想を書いたら5000字超えたから書評とか向いてない

ぶっちゃけここまで書いた5000文字の感想ってまだ『感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方』を30ページくらいまで読んだ時点での感想だったんですけど、このペースで最後までやってるとよゆうで5万字くらいになってしまいそうなのでここいら辺で切り上げたいと思います。

タイトルは「損得勘定で生きるな。好き嫌いの感情で生きろ」なのに、まったく「好き嫌いの感情で生きろ」の部分にたどり着いてないわけなんですけど、そこには誰にも気づかれないことを祈りつつこれで終わりにしたいと思います。

興味のある人は続きも読んでみてください。僕も感想記事を書き終わったのでやっとここから先はのんびりと読むことができます。それではまた。おしまい。


桜井章一 感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方