断食3日目 つらすぎて悟りを開く
人は誰も愛されたいんだ。僕たちはみんなそこから来たことを本当は知っているから。
だからこんなにも不安になったり寂しくなったりしてしまうんだ。
だけど本当は今だって僕たちはそこにいる。
それに気づいたとき、人は永遠のやすらぎを見つけることができる。
そして他の人を抱きしめて安心させてあげることができるようになる。
僕たちは愛でできている。
だから本当は、僕たちはひとつの同じものなんだよ。
断食3日目にしてついに悟りを開いた話
はっ!?今僕なにかしゃべってましたか???ひょっとして息を吐くように自然に愛とやすらぎに満ちあふれたポエムを綴ったりしてましたか???
正直意識が朦朧として昨日あたりから自分がなにをしゃべっているのか完全に意識がありません。
どうも。断食3日目、完全に白目を剥きながら自動書記状態でブログを書いているまつたけです。
昨日も混濁する意識の中でどうもひっそりと断食2日目 つらぽよという記事を更新していたらしいのですが、自分で記憶がありません。
ついに食料が底を尽き、っていうか炭水化物以外の食料を切らした生活はもう数年単位で送ってるんですけど、いい加減白飯にソースとマヨネーズをかけたり醤油とマヨネーズをぶっかけただけのご飯を食べるのにも飽きたことから衝動的に始めてしまった断食ですが、食べること以外なんの楽しみもない人生を送っている僕にとって、断食というのはほんの数日でも死刑宣告を受けた死刑囚にも等しい苦しみの日々であり、そろそろ精神状態も限界を迎えて発狂寸前、というか先の断食2日目 つらぽよの記事などを読むと、すでに手遅れで発狂しかけている感も多々あるので、本日3日目を以って断食最終日といたしまして、明日のお昼にはあんなに飽き飽きしていたはずのソースマヨネーズぶっかけご飯(通称お好み焼きご飯)をうまいうまい!と食べられることのよろこびと感動に歓喜の涙を流して咽び泣きながら貪り食べていることでありましょう。
断食3日目の心身の変化について
今はただただご飯が恋しい。他に何のおかずもなく、ソースとマヨネーズをぶっかけただけの粗食というにもあまりに貧しい貧乏飯だとしても、たった一口食べられるなら、そのために人一人◯すことくらい今ならわけないのではないか?というくらい食べ物が恋しいです。
今日はだるくて1日中寝ていました。精神的にはそうでもないのですが、体の動きが驚くほど緩慢になり、狭い家なのに部屋からトイレに行くまでに5分くらいかかったような気がします(むしろ時間感覚がやられてるのかも)。
お湯を沸かすにも水をたっぷりと注いだやかんがあまりにも重く感じられて、コンロの上に置くのに満身の力を込めて必死になってやる有り様。
その後はもう全身の力を使い果たしてぐったりとしてひたすらふとんの上で寝そべって本を読んでいました。
ところがこれがまた驚くほど進まない進まない。僕は多分人と比べてそんなに本を読むのがめちゃくちゃ遅い方ではないと思うのですが、いつもなら多い日は10冊くらい読むところほとんどまったく読めませんでした。
っていうかほんの数ページの短いエッセーを1つ読んで時計を見たら1時間が経過していて思わず時計を三度見したりベランダからぶん投げて放り捨てるなどしました(外から悲鳴が聞こえた気もしましたが多分断食で意識が朦朧としていることによる幻聴だと思います)。
えーっとあとは・・・。なんかまだ他にもいろいろ書こうと思っていた気がするのですが、あいにく思考力というものがまったく働きませんで、なにも思い出せません。むしろここはどこ?私は誰?みたいな人間存在に根源的な問いかけに目覚めてしまいそうでこわいのでそろそろおしまいにしようと思います。
3日間にも渡る断食という極限の苦行の果てに悟った真実とは?
とにかく僕が言いたいのはみなさんにもぜひ食べられることのよろこび、食べられることのしあわせを知ってほしい、そしてそのことに感謝してほしいということです。僕たちは誰一人として例外なく、食べることによって生かされているのです。断言しますがそこに気付かずして悟りなど絶対にありえません。
食べられることのしあわせに気づくとき、そのことに対して心の底から感謝が込み上げるとき、人は自ずと生かされている自分を知り、誰も一人では生きられず、お米の生産者やその流通に携わる人からスーパーの店員さん、その他のありとあらゆる人々が、いや、人にかぎらずお米からそれを育む水から大地から、山川草木ありとあらゆるこの森羅万象と天地宇宙とが想像を絶する因果の中で有機的に関わり合い、自分のことを生かしているのだということに気づくのです。
そしてそのときこそ我々は知るでしょう。つまるところ私たちはみな一つだということに。
一にして全、全にして一。私たちの一人ひとりがそれぞれに何十兆個もの細胞が集まってはじめて一個の人間たり得ているように、この宇宙もまた私たちの誰一人として欠けては存在し得ないということを知るでありましょう。
このことを知る者はさいわいです。私の言葉に聞く耳を持つ者はさいわいです。なんとなれば天の御国はその人たちのものだからです。
あなたたちには見えないのですか?光り輝く天の国が。そこでは地上のどんなお金持ちもいまだかつて見たことも食べたこともないような贅を尽くしたご馳走があなたを待っているでしょう。
心ゆくまで食べなさい。あなたのお腹は満たされ、そして心も体も満たされることでしょう。
そしてそのときこそ知るのです。悟りとはただ愛することであったということを。
この地上では誰もがあなたのように恵まれているわけではないのです。心も体も満たされることなく、飢えと渇きに泣いている人がいるのです。その日食べるものにもことかいて泣いている子供がいるのです。あるいはまた、覚めることない悪夢のように延々と続く連日のソースとマヨネーズをぶっかけただけのご飯に飽き飽きしたという人もいるのです。
分かちあおうではありませんか、愛と歓びとしあわせとを。私たちはありあまる富をはじめから持って生まれてきたのです。お金などでは決して買えない、愛という決して尽きることのない富を。
私たちはみな兄弟なのです。そしてつまるところ一つなのです。隣人を助けなさい。それはあなた自身を助けることです。あなたの敵を愛しなさい。それはあなた自身を愛することです。
私はただそれを伝えるためにこそこの地上に遣わされました。私が伝えたいのはそれだけです。
一言で言えばご飯をおごってくださいということです。お寿司か焼き肉がいいです。お寿司は回ってないお寿司屋さんに一度でいいから行ってみたいです。あと焼き肉は叙々苑って行ったことないので行ってみたい。なんでもいいからお肉が食べたい。
悟りとは肉です。肉を食うことです。人間の限界を超えた断食修行の果てに、僕はそのことを悟りました。肉を食らわずして人の心に安寧はありません。私を信じなさい。私にだまされなさい。
入るのだ。新興宗教電波之光に入るのだ。 ー完ー