「正直者は馬鹿を見る」なんて偽善者しか言わない
「正直者は馬鹿を見る」なんて偽善者しか言わないよってお話。
口癖のように「正直者は馬鹿を見る」って言ったりそう思っている人には多分すごく不愉快な内容かもしれないので、もしかしたら読まないほうがいいかもしれません。
僕は正直者なのであらかじめ注意しておきました。ほんとは読んでほしいんですけど(正直者)。
「正直者は馬鹿を見る」なんて薄汚い欺瞞
「正直者は馬鹿を見る」って口癖みたいに言う人がいますが、僕は子供の頃からそういう人のことを憐れむどころか「薄汚い偽善者だなあ・・・」と思って軽蔑していました。
いや、そういう人がいたら本当に申し訳ないのですが、自分の身近にいたのです。
僕は「正直者は馬鹿を見る」というのは嘘だと思っています。薄汚い欺瞞だと思っています。少なくとも、本当に正直者であれば、こんなことは口が裂けても言わないんじゃないかなーというのが僕の考えです。
本当にその人が正直者であれば、自分が正直者であること自体で報われていると思うからです。
「正直者は馬鹿を見る」だなんて本当に正直者だったら絶対に言わない。正直者はただ正直でありたいから正直であるのであって、そのことに見返りなんて求めないから。正直さに見返りを求めるような薄汚い嘘つきだけが、己の自己欺瞞にも気づかずに「正直者は馬鹿を見る」と言って被害者面をするのだろう
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 1月 4
正直者は馬鹿を見ない。馬鹿を見るのは馬鹿者だからだ。
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 1月 4
結局、自分が正直であるかどうかということより、その結果としてどんないいことがあるのか、どんな得をするのか、どんな見返りがあるのかという、いかにも小市民的な俗物根性があるから、「私は正直者なのにその結果損ばかりしている、実際うまく立ちまわってる不正直者のほうがよっぽどいい目を見ている」というような僻み意識でいっぱいになり、「正直者は馬鹿を見る」なんてクソダサい負け惜しみしか言えなくなってしまうのだと思います。
これははっきり言って本当に死ぬほどダサいと思います。その程度のいいことだの得だの見返りだの、そんなものがほしいのなら最初から自分も「うまく立ち回」ればいいのです。そのほうがいっそよっぽど正直者というものです。
そんなものがほしいのなら目先の損得や得失を浅ましくも秤にかけて、自分もこずるく立ち回ればいいのです。それでちっぽけな見返りのために自分の人間性を犠牲にして、得した気になってよろこんでいればいいのです。その方がまだ「正直者は馬鹿を見る」なんてみっともない負け惜しみを言っている人間よりはましだと思います。
ちっぽけな損得のために自分の人間性を損なう人間こそ本当の馬鹿者
でももちろん、僕が考える本当の正直者は、そんなふうにこずるく立ちまわってちっぽけな損得や見返りを浅ましくあさったり、ましてやそういう人間をうらめしそうに、うらやましそうに指を咥えて眺めながら、「正直者は馬鹿を見る」なんてみっともない負け惜しみを吐き捨てるようなクソダサい間抜けではありません。
なぜなら、本当の正直者であれば、自分が正直者であること自体で報われているからです。
その結果人からは笑われるかもしれません。つまらない自尊心を守るために、何が得で何が損かもわからずに損をしている間抜けだとバカにされるかもしれません。
でも、そんなことは気にしません。正直な人は正直な人なりに、何が本当の得で何が本当の損なのかということがわかっているからです。そして、正直者に言わせれば、そんな目先のちっぽけな損得や利害のために、不正や悪事を働いて自分の人間性をみっともなく損なっていく人間こそ本当の大馬鹿者だと知っているからです。
ちっぽけな利害や損得のために浅ましく生きたところでなんになるのでしょう?そんなことをしてこずるく立ちまわっても自分の人間性をみっともなく損なうだけです。正直者はそれが本末転倒でしかないことを知っています。
自分の人間性や尊厳を守るためにちっぽけな利益や得を失うことがバカというなら、堂々とバカを見ればいいのです。それがバカならいくらでもバカを見続ければいい。
そのくらいの覚悟は当たり前にできているのが本当の正直者ではないでしょうか。少なくとも本当の正直者は、自分が正直者であることによって人から認められよう、評価されようなんて浅ましい見返りは期待していないと思います。
正直者は「自分は自分に恥じるようなことはしていない」という自らのあり方それ自体で報われているのであり、そういう自分のあり方以上に大切なことはないと知っているからです。
誰が見ていなくても自分だけは見ているし知っている
よく、誰も見ていなければとか誰にもバレなければと言って、陰でこそこそ人のでたらめな悪口を言いふらしたり陰湿な嫌がらせをする人がいますが、本当は誰も見ていないとか誰にもバレないなんてあるはずがないのです。
見てないようでも人は見ているものだとか、お天道さまが見ているとか、そんなうさんくさい話をしているのではなく、単純な事実の話をしています。お釈迦様だろうとお天道さまだろうと、他の誰が見ていなかろうと、自分は自分がなにをしたのか絶対に見ているし知っています。
そのたびに人間性は損なわれて醜く歪み、汚く汚れていくのです。そしてそんな自分のあり方を素直に見つめて反省するでもなく、心の奥底では逃れようもなく感じている罪悪感をごまかすために、自分は悪くない、悪いのは全部アイツだ、社会だと人のせいにして自分の非は認めず、自己正当化に自己正当化を重ね、歪みに歪みを重ね、どんどん醜悪な人間になっていくのです。
それで他人を貶めて自分はうまいことやっていると得意になっているならおめでたい人です。いつまでそれで調子こいていられるか見ものではありますが、勝手にすればいいし勝手にさせておけばいいのです。
逆に、正直者も誰が見ていようと見ていなかろうと関係ありません。少なくとも自分自身はそれを見ているし知っているからです。他の誰が謂われのない誹謗中傷をしてきたとしても、堂々と立ち向かえばいいのです。
正直者にとって一番大切なことは目先の損得や人からどう思われるかなんてことより、自分自身のあり方に恥じるところがないか、胸を張れるかということです。
なんにしても、人のことは関係ありません。正直であるにしろ不正直を働くにしろ、人が見ていようと見ていなかろうと、自分だけは絶対にそれを見ているし知っているということです。
もう正直者は馬鹿を見るなんて言わないよ絶対~♪
というわけで、正直者は馬鹿を見ないし、「正直者は馬鹿を見る」なんて本当は自分自身のあり方よりも目先の損得や見返りのほうを気にしている偽善者しか言わないんじゃないかなーという僕の考えについて書いてみました。
これを読んでくれた今まで「正直者は馬鹿を見る」と思っていた人が、「やっぱり私はうまいことやって得する方がいい。そうか、正直者のふりなんてしてみっともない偽善者はもうやめた!」とか、「そうか、自分はちっぽけな損得や利害のために自分の人間性を損なうことが嫌で正直者であることを選んだのだから、この期に及んでもう二度とこずるく生きている人間に浅ましく羨望の気持ちや劣等感を抱くのはやめた!」と思ってもらえたら書いたかいがあったかなーと思います。
もちろん個人的には「これからは私も偽善者なんてやめてうまいこと立ちまわってこずるく生きていこう」って思われるより、「これからは堂々とバカを見ればいいんだ。ちっぽけな利害や損得のために自分の人間性を犠牲にするほうがもっとバカなんだから」って思ってもらえた方がうれしいですけど。そう思ってもらえたらいいなー。
というわけで「正直者は馬鹿を見る」なんて偽善者しか言わないというお話でした。おしまい。
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