死ねばいいのに
死ねばいいのに。
今日で初めてのはてなブログのPROコース期間1ヶ月が終わり、もう1ヶ月分はてなポイントをいただいていた僕は、まことに涙ぐましくも1ヶ月の意味するところが30日である11月ではなく、31日を意味する12月になったらポイントを遣いもう1ヶ月だけPROコースにしようと思っていた。それまでの2,3日はブログも休んでのんびりと寝て過ごそうと思っていたのである。
だがしかし、先ほどはてなから届いたメールにはPROコースを自動更新したと記載されていた。
僕は思った。死ねばいいのに。
死ねばいいのに
なんて話はもちろん大嘘である。まあ「ばかぁ(☍﹏⁰)」とは思ったけど「ばかぁ(☍﹏⁰)」と「死ねばいいのに」ではだいぶニュアンスが違う。
死ねばいいのにと思ったのは僕ではない。死ねばいいのにと思っているのは僕ではなくて知らない人たちで、「死ねばいいのに」と思われているのが僕だ。
さきほど僕は貧乏すぎてPROコースの期間1ヶ月が31日ではなく30日になってしまったことに自分でも驚くほどの衝撃を受け、すべてにおいてやる気を失い、頬はこけ、目は落ち窪み、食欲もなくして本日2食目の長崎ちゃんぽんをすすりながら死んだ目でモニター画面を見つめていた。
するとツイッターで誰かがまつたけのブログに関して「もう少しオブラートと整理が必要に見えるけど、気持ちはわかる」というまこと簡にして要を得た感想を述べられていた。
そうなのだ、ちゃんとしたブロガーさんの、ちゃんとしたブログなら、もっとオブラートと整理が必要だというのはまったくその通りだと思う。
ただ僕にはもちろんちゃんとしたブロガーなんてアイデン&ティティはショウジョウバエの目ヤニほどもないし、ちゃんとしたブログにしようという意識もゾウリムシの耳クソほどにもなく、そういった仮にもはてなブロガーの風上にも置けないけしからん意識の低さを反映して、文章もまるで支離滅裂、心を病んだ思春期の少女がピアノの鍵盤を叩きつけるように弾く不協和音のような文章しか書けないのだった。
だからだろうか。そのまことごもっともなご指摘をしてくれた人のツイートを読んでみると、「たしかにこの記事は論旨も不明瞭、混じり物だらけの安いドラッグをキメて書かれたかのような酷い酩酊感を伴うゴミではあるが(意訳)」と言った前置き付きで、「だけど、『死ねばいいのに』と言われるほどの内容だとも思わない 残念ながら、はてブは終わったな・・・」と続いていた。
それを読んで、僕は自分がまたしても「死ねばいいのに」と言われていることを知って食べていた長崎ちゃんぽんのイカゲソを喉に詰まらせて危うく本気で死にかけた。
そう、僕がはてブのブコメで「死ねばいいのに」とか、もっと短く「死ね」と言われるのは、別にこれがはじめてのことではないのだった。
死ねとか死ねばいいのにとか、どうしてそんなに殺伐としているの?
これは前々から思っていることだし、何度かブログでも書いたことなんだけど、どうしてみなさんそんなに殺伐とされているのだろう?なにか嫌なことや悲しいことでもあったんだろうか?
こういう人というのは別にはてブにかぎらず、ヤフコメにもニコニコ動画にもいる。2chなんてこわくて見れないけど2chにも多分いる。ツイッターにすらいる。
だってツイッターなんて自分でフォローするのもフォローを外すのも自分の自由で、そんなに嫌いなら読まなければいいし、嫌になったらフォローを外せばいいだけの話だ。それにもかかわらず、そうはしない代わりに「死ねばいいのに」とか「死ね」と相手に悪意を伝えずにはいられない、というのはいったいどうしたわけなのだ?
いったいどうしたって言うんだい?生きているのがつらいのかい?僕は自分が死ぬほど貧乏しているので、お金の面で助けてあげることはできないけど、もしなにかつらい悩みや苦しみがあって、それでつい気に食わない人間を目にすると「死ねばいいのに」とか「死ね」と言ってしまうということなら、僕でよければ話くらいは聞くよ?
死ねばいいのになんて思わなくてもちゃんと死ぬから大丈夫だよ
だが本当に本心から僕のことを「死ねばいいのに」と思ったというのであれば、それは僕もきちんと心して耳を傾ける必要がある。「死ねばいいのに」と言わせてしまうほど不快な気持ちにさせてしまったことに関しては、本当にまったく文字通りの意味で申し訳ないと思っている。
だけど安心してほしい。その「死ねばいいのに」とか「死ね」という君の願いは必ず叶う。だからその点に関しては安心して、少しでも心安らかな気持ちで毎日を過ごしてほしい。
実を言うと、僕はまだ死んだことがない。なので厳密な意味では絶対に確かだと保証できない面もあるのだけど、一般的には、人は誰もが死ぬとされている。その説がもし正しいとすると、君が「死ねばいいのに」と願った僕もちゃんと死ぬし、そして「死ねばいいのに」と僕の死を願った君自身もいつかは死ぬということだ。
人はみないつか死ぬ。なんて美しい言葉だろう。僕は「死ね」とか「死ねばいいのに」という言葉には美しさを感じない(しどちらかと言えば下品な言葉だと思っている)けど、「人はみないつか死ぬ」とか「どうせ最後にはみんな死ぬ」とか、そういう言葉には一瞬達しかけるほど恍惚とするような美しさを感じる。
最後にはみんな死ぬ。君の大嫌いな僕も、君の愛している人も、そして君自身も、最後にはみんな死ぬんだよ。
それなのに、「死ねばいいのに」と言うほど嫌いな人間と関わって時間を無駄にするのはもったいないと思いませんか?
そんなひまがあったら1分でも1秒でも多く好きな人や好きなことと関わったほうがしあわせだし有意義だと思いませんか?
生きとし生けるものがしあわせでありますように
それとも、もしかすると一緒に過ごせるような好きな人や、打ち込めるような好きなことをなにも持っていないのだろうか?また、だから生きているのがつらく悲しくて僕のような人間に「死ね」とか「死ねばいいのに」と言わずにはいられないのだろうか?
もしそうならとても可哀想な人だなって思う。僕も一緒に過ごせる友達もいないし、僕でよければ友達になってもいい。「いや、誰が貴様などと友達になるか!断固徹底抗戦だ!」ということなら僕でよければいくらでも「死ね」って言っていいし「死ねばいいのに」って言っていいよ。
ツイッターだとそういう人はすぐにブロックしちゃうし、コメントでもらったら消しちゃうけど、はてブってよくわかってないから削除とかブロックみたいな機能があるのかもわからないし。
僕も弱い人間だから人の悪意にはすぐに傷ついたり悲しくなってしまう人間だけど、「死ね」とか「死ねばいいのに」って言われて僕よりもっと傷ついたり悲しくなってしまう人もいると思う。
だから「死ね」とか「死ねばいいのに」って言う人が僕にそう言うことで満足し、心が満たされ、他の誰かにはやさしく微笑みかけられるようになるのなら、僕はよろこんで犠牲になるよ。
いくらでも「死ね」とか「死ねばいいのに」って言っていいよ。それで君の気が済みますように。すっきりとした気持ちになって、他の人たちにはやさしくできますように。
父よ、彼らを赦したまえ。 彼らは自分が何をしているのかわからないのです。アーメン。今日も生きとし生けるものがしあわせでありますように(おしまい)。