永遠の0のラストシーンで宮部久蔵はなぜ笑ったのか
どうも、永遠の無職こと僕です。まさに生ける永遠の0です。
今更ながら暇だったので金曜ロードショーで映画『永遠の0』を観ました。想像してたより面白かったです。面白かったと言っていいような映画なのかは微妙ですが。戦争はもちろんこわいし悲しいし嫌なんですけど、敵機を撃ち落としたときの盛り上がりとかちょっと楽しそうな感じも明らかに覗かせていて、そこが何より戦争ってこわいし悲しいなと個人的には思いました。
永遠の0の最後で岡田准一…じゃなくて宮部久蔵はなぜ笑ったのか
それはともかくラストシーンでなんで宮部久蔵は少し笑ったんでしょうか。あのなんとも言えない微妙な笑みが絶妙すぎて心に残りました(岡田准一さんかっこいいだけじゃなくて役者さんとしてすごいな無敵かよモテモテかよ格闘技まで得意なのかよ何一つ勝ち目ねえのかよクソッタレ、嘘!好き!抱いて!と思いました)。
ちょっと他の人の感想とか見ようと思って調べてみたら、案の定「永遠の0のラストシーン、最後宮部はどうして笑ったんですか?」みたいな直球の質問がすごい数ヤフー知恵袋なんかにも寄せられていて少し笑いました。ふふって。ふふって笑いました。ふふって。
回答もいくつか読んでみたのですが、「家族の元へ帰れるから」説が多いような印象を受けました。たしかにそれだとお話としては綺麗というか、美談っぽい感じがしますよね。中にははっきりと「宮部の特攻を成功させた達成感」説を「それでは美談にならない」という理由で否定しているものもありました。
まあここらへんはまさに観た人の解釈次第だと思うので、そういう理由で否定したり「家族の元へ帰れるから」説でももちろん構わないのですが、個人的にはどちらかと言うとむしろ僕はあの宮部の最後の笑顔は「特攻を成功させた達成感」説に近いものを感じました(僕は原作未読なのでわからないのですが、知恵袋の回答だと原作では爆弾が不発だったとかで結局宮部久蔵の特攻は結果的には不成功に終わったそうです)。
宮部久蔵の「家族の元へ帰るかのような穏やかな顔」は「家族の元へ帰ることを諦めた顔」
永遠の0のラストシーンで宮部久蔵が笑った理由を野暮を承知で強いて言葉にすれば、僕はあれは最期の最期で宮部久蔵の飛行機乗りとしての矜持、というか業が顔を覗かせたということなんじゃないかと思いました。もちろんこれだとたしかに美談でもなんでもなくなってしまうのですが。
たしかに「これで家族の元へ帰れるから」説のほうが話としては綺麗だし座りもいいんですけど、でも現実的な話として無茶な特攻キメて死亡して、それで家族の元へ帰れるなんてことはないわけじゃないですか。悲しい話ではありますけど。
宮部久蔵は凄腕の戦闘機乗りでありながら、仲間たちから腰抜けとか臆病者と馬鹿にされるほど命を惜しみ、生還を希望していた男です。なぜなら愛する家族、妻子のもとになんとしても生きて帰りたかったから。
だからこそ共に戦う仲間たちから卑怯者、臆病者と罵られても無茶な戦闘をせず、そして自分の教え子たちを死地に送って結果的に無駄死に(としか宮部には思えない死に方を)させてしまうことに自責の念や罪の意識を感じ、最後は憔悴しきってしまうところまでいってしまったわけです。
ある意味では、宮部久蔵を苦しめていたのは妻子への思いであり、生還という希望だったとも言えるわけです。
あのヤクザだか右翼だかの親分っぽい感じの人にまで登り詰めていた景浦が、特攻が決まった後の宮部久蔵について、それまでの憔悴が嘘のように、家族の元へ帰れることが決まったような穏やかな顔をしていた、みたいなことを語っていましたが、実はそれはまったく違います。
宮部久蔵のあの穏やかな顔というのは、実は皮肉にもまったく逆に、家族の元へ帰ることを完全に諦めたときの顔だったと思うのです。
だからこそ宮部は本来自分が乗るはずだったエンジントラブルのある新型の零戦を大石と交換し、その中にそれまで宮部にとって最も大切だったはずの最愛の妻子の写真とともにメモを遺して大石に託したのだと思います。
もし、単純に特攻を成功させて死ぬことが「家族の元へ帰ること」になるというのなら、宮部がその今際の際にあって最愛の妻子の写真を手元においていないなどということはありえないと思います。
つまり、最期の最期、宮部久蔵はなんとしても無事生還し、家族の元へ帰る、という望みを完全にあきらめ、捨てていた、といってあんまりなら、その望みは大石に託すことで、いずれにせよ最期の最期で、宮部久蔵自身はそれまでずっと大切にしていた生還への希望というある意味でしがらみから解放されたのだと思います。景浦の語った「これで家族の元へ帰れるような顔」というのは実はその顔なのです。
おそらく特攻隊に志願した時点で、宮部久蔵はもう自責の念や罪の意識、この世の不条理のような感覚にすっかり疲れ果て、半分以上壊れかけていたのだと思います。特攻隊員に志願した時点では半ば投げやりというか、もう全部終わりにしてしまいたいという気持ちだったかもしれません。
しかし、本来自分が乗るはずだった零戦に乗ったとき、すぐにエンジントラブルに気づいた宮部は、もはや一度すべて終わりにすることを決めた自分がそれに乗って助かることは考えられずとも、まだ未来ある大石に最後の心残りだった家族のことも託したことで、完全に未練や心残りがなくなったのかもしれません。
永遠の0のラストシーンの宮部久蔵の笑顔は戦闘機乗りとしての業
では、もはや家族の元へ帰る、少なくとも宮部久蔵が自分自身の体で妻子の元に無事帰るということを諦めきってしまった後で最後に残ったものは何か?何が宮部久蔵をして最期の瞬間にあの壮絶な笑顔にしたのか?となると、これはもうほんとに美談でも何でもなくなってしまうのですが、僕はやっぱり腕利きの戦闘機乗りとしての業のようなものだったのかなーと思ってしまいます。
人間というのは、自分に技術や力があれば、それを使いたい、使わずにはいられないという業のようなものが明らかにあると思うのです。「空で死にたい」とまで語っていた景浦などはまさにその業の体現者なわけですが、実はそれは宮部久蔵にも絶対あったはずです。
だからこそかつて景浦からの勝負の誘いにも最終的には乗らずにはいられなかったし、挙句の果て景浦を試して結果的に自分のことを撃たせさえしています(それも見抜いていて避けますが)。
最後ただ生きることに疲れ果てて投げやりなだけの気持ちで死ぬことが目的なら、適当に突っ込んでいって撃ち落とされてお終いでもいいはずです。しかしそうはしなかったのは、最期の最期、宮部久蔵が生還への希望を諦め、最愛の妻子への思いというしがらみさえも断ち切り、本当に自由な存在、ただ一人の宮部久蔵という男になったとき、初めてそれまでただ無事生還するために磨き抜いたはずのその技術の粋を尽くして、「戦う」という行為に純粋に没頭する歓びを感じたからではないでしょうか。
もちろん宮部久蔵の最期のあの笑みがそれだけのもののはずはなく、やり遂げたこと、やり遂げて死ぬこと、これで本当に全部終わりにできることの解放感などももろもろ含まれてのものではあると思いますが、いずれにしても、宮部久蔵が最期の最期で初めて本当に自ら零戦に乗ることを選び、戦い、敵の銃弾を躱し、見事特攻をやり遂げて敵戦艦と刺し違えることの高揚感の中で死んでいく、そういうラストシーンのように僕には映りました。
人生の皮肉を感じさせる面白うてやがて哀しき『永遠の0』
それはもうもちろん単純に美化したり美談にできるようなものでもなく、スカッと爽快なラストシーンというのでももちろんなく、何とも言えないもにょるものを感じさせつつ、でも宮部久蔵のその気持ちがなんかわかるような気がしてしまう、というようなさらに複雑なもにょり感をも感じさせる、いろんな意味で心に残るラストシーンだったと思います。
『永遠の0』は、実はものすごい皮肉の物語なのだと思います。それは単純に生きたかった者が死に、死にたかった者が死に損ねるなどというレベルではなく。明らかに心に修羅を宿して「空で死にたい」とまで夢見ていた景浦は結果的に生還し、その景浦からは認められない存在だったはずの宮部久蔵が最期はめくるめくような死地の中で一世一代の空中戦を演じて見せ、戦闘機乗りとしての達成感やある種の高揚感の中で死んでいく。そういう矛盾というか皮肉というか、人生の一筋縄ではいかない面白うてやがて哀しきペーソスを感じさせられる映画でした。
誰かに聞いてほしくて「あ、そういえば僕昔ブログとかやってたな」と思い出して死ぬほど久しぶりにブログ書いてみたんですけど、意外と書いてみたら言うほどのことだったかな?と思いつつ、とりあえず書いたら満足したし眠れそうな時間になったので寝ます。おやすみなさい。おわり。