社会の歯車になりたい
社会の歯車になりたい。
社会の歯車にもなれない不良品
社会の歯車になりたい。ここ数年そんなことをよく考える。でもあまりそういうことを言う人はいない気がする。
「社会の歯車になんてなりたくない」ということならよく聞く。もちろんその気持ちはわからないではない。既成のレールの上に乗せられて、はみ出すことも許されず、毎日判で押したような生活を繰り返すだけ。そんなのはまっぴらだということならわかる気がする。
でも「社会の歯車になんてなりたくない」ということが言えるのは、それが社会の歯車となれるだけの人間だけだ。そもそも夢も破れて万事あきらめて社会の歯車になりますと降参したところで、社会のほうで「お前みたいな不良品はいらないよ」と言って弾かれてしまうような歯車失格、社会の歯車にもなれないような社会不適合者が「社会の歯車になんてなんてなりたくない」なんてほざいても滑稽を通り越して悲痛なだけだ。
社会の歯車に憧れる
社会の歯車を嫌悪したり軽蔑したりする意味がよくわからない。この社会がどんなに歪んでても、どんなに問題だらけでも、それでもそれが機能してそこで暮らしていられるのは社会の歯車がきちんと回って社会を動かしてくれているからだ。
別にそのことに感謝なんてことは思わないまでも、社会の歯車としてもまともに機能できない自分を思えば、それはすごく立派なことだと思ってしまう。回る歯車はどんな思いで回っているのか、本当は死ぬ思いで歯を食いしばっているのか、そんなことまで考えたくはないので考えないけど。
自分が世界の中心になって世界を動かしたいとか、自分が操舵手になって世界の行方を決めたいとか、そんなことはもちろんできないし思わない。でも、自分の身の回りのごく小さな世界のでも、歯車になれたらどんなにかいいだろう。
それは世界に自分がたしかに所属している意識と、自分も世界の一部であり世界そのものなんだという感覚を与えてくれるだろう。もう一度言うけどそれが馬車馬やガレー船を動かすための奴隷のような苦しみに満ちたものなんじゃないかとか、そんなことは考えたくないしわからない。
ただ、時計に組み込まれることも許されなかった不良品の歯車は、自分だけが回り続ける世界から置いてけぼりで、自分の存在に何の意味も価値もないことの苦痛を処分されるその瞬間まで味わい続けるのかと思うと、それはそれでかわいそうだと人ごとみたいに思うのだった。