自分の弱さに悩むきみへ。中島義道 カインの感想
哲学者中島義道の『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』を読んだ。カインというのはもちろん旧約聖書の弟殺しのカインのことだが、ここではそれはあまり関係ない。カインとは単に地上の人間の圧倒的多数派とは区別される、「孤独を噛みしめてひとりで生き抜くしかない者、みずからの運命に対して(略)『なぜなのだ?』と問いつづけて生きるしかない者」のことを言う。つまりはこの本の副題でもあり、想定される読者であるところの「自分の『弱さ』に悩む」人のことを言うものと思ってよい。
中島義道の『カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ』に胸を打たれた話
中島義道さんと言えば、今巷で「今でしょ!」のセリフが大ブームとなっているあの林修先生も私淑しているとか心の師と仰いでいるとかいないとか。もっとも僕はあまり哲学者にも他人の人生論のたぐいにも興味はないので今まで一冊も読んだことがなかったのだけど、ツイッターのフォロワーさんが僕に中島義道さんの『孤独について―生きるのが困難な人々へ』という本をかなり強くおすすめしてくれたので興味を持って何冊か読んでみたのでした。
林修 イラスト図解 いつやるか? 今でしょ! 今更でしょ!
『孤独について』も、普通に中島義道という哲学者の自伝的な読み物としては面白かったけど、正直個人的には『孤独について』なんて大上段に構えたタイトルからすると肩透かしを食らった印象も受けた。
少なくとも中島義道の定義し推奨すらする孤独と、自分にとって「孤独」という言葉の意味しているものは違う。もっと言えば僕の印象では中島義道は『孤独について』の中で孤独ということの本質に迫り、核心を抉り出そうとすることはせずに、孤独というものの扱いやすいごく表面的な部分だけを切り出して、ごく浅薄な「孤独のススメ」論を開陳しているだけのように思われた。
その点『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』は僕が読んだほんの数冊の中島義道さんの著作の中では個人的に一番感銘を受けた。それどころではない。「個人的に一番感銘を受けた」などと言っておきながら、多分この先の文章ではかなり中島義道さんのことをボロクソに言ってしまう気がするのだけど、それでもこの本の中には僕が今まで読んできた文章の中で最もその美しさと切なさに胸を打たれたものの一つである数ページが含まれている。
もしかしたらそれは多くの他の人にとってはなんてことなく読み飛ばすだけの文章なのかもしれないけど、僕はそこに中島義道という人の一番純粋な部分、正直な気持ちを感じた。
もちろんどの本のどの文章、どの言葉に感銘を受けるかなんてことは人の勝手でいいのだけど、『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』はそのメッセージ性の強いタイトルの通り、自分の弱さに悩んでいる人にとっては、福音になるとまでは僕には思えないけれど、少なくとも示唆に富む一冊にはなるのではないかと思う。
読後の感動の余韻を台無しにする山田詠美の解説は破り捨ててよし
『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』の構成は次のようになっている。
はじめに ぼくはいかにして「強く」なったか
1,どんなことがあっても自殺してはならない
2,親を捨てる
3,なるべくひとの期待に背く
4,怒る技術を体得する
5,ひとに「迷惑をかける」訓練をする
6,自己中心主義を磨きあげる
7,幸福を求めることを断念する
8,自分はいつも「正しくない」ことを自覚する
9,まもなくきみは広大な宇宙のただ中で死ぬ
あとがきに代えて 三十年前の自分へのメッセージ
僕が読んだ文庫版だけかは知らないけど、さらにその後に山田詠美の「人間を形作るものの不思議」という題の解説風の文章が載っているけど、これはまったくの蛇足でしかないので読まなくてよい。むしろ中島義道が少なからず心血を注いで書いたであろうこの『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』という本の価値を、たった3ページのクソみたいに適当な文章でわずかにでも貶めることに成功しているのだから、さすがは山田詠美である(念のため言っておけば山田詠美の小説は大好きとのこと)。
中島義道は巧妙に生きてる小器用でずるい老獪なおっさんというイメージ
僕がこの『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』や、人からおすすめしてもらった『孤独について』を読んで中島義道という哲学者に感じた印象は、そのほとんどが「ずるい」という一言に集約される。
それについてはあまりに面倒なのでいちいち説明する気もしないのだけど、いろんな意味で「巧妙に生きてるオッサンだな」という印象を強く受けた。
もちろんそれはいわゆる「世渡り上手」とか「処世術に長けている」といった意味ではないし、中島義道のこれらの著作を一冊でも読んだことがある人ならみな知っているであろう通り、むしろそうした処世術や世渡りのうまさみたいなものとはおよそ正反対の生き方をしてきたのが中島義道という人間である、というのが少なくとも中島義道本人の主張であり弁明である。
僕も決して中島義道がそういう表面的な意味で世渡りや処世術に長けたいわゆる器用な人だとは思わない。本人がいい歳をして恥ずかしげもなく「ぼくはたいへん不幸な少年・青年時代を送ってきて、ほとんど死ぬ瀬戸際をさまよっていた」云々、などと大げさなくらい強調しているように、実際大いに悩み、迷い、苦しみながら生きてきた人なのだろうと思う。
だがその反面、そうした自分の苦悩を武器にして(また売りにして)生きていくだけのふてぶてしさ、たくましさ、図太さ、図々しさ、本人の言葉で言えば「強さ」を持っている人であることも間違いない。ここらへんは中島義道本人も開き直って認めている通りである。
人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。
と、僕が中島義道と同じようなずるさを持っていたと思う太宰治は言っているが、まさに中島義道のプライド、アイデンティティの立脚点にはこれを地で行くものを感じる。
「あれにもこれにも死ぬほど苦しんだことがあるから何だというのだ、そんなことで偉そうに開き直るなバカが」、と僕は個人的には思うのだけど、あまりそういう身もふたもないことは言わないのがやさしさ、またの名を処世術というのであろうから、僕も黙っておくとしよう。
だがいずれにしても中島義道という人はその程度のずるさや小器用さはちゃんと持っている人なのだ。そうした自分のずるさに無自覚な人には僕はまったく興味がないのだけど、中島義道の場合そうした自分のずるさや小器用さに対してすら十分に自覚的である。いや、ある種の人間には容易に見抜き得るであろう自己欺瞞すらそれが自分の内にあることを認める、と開き直っているのだから始末が悪い。実に老獪なおっさんである。
といって、そのことにさらにうじうじと思い悩んだり自己満足でしかない自己嫌悪を自他に対してのポーズとしてして見せる、といった醜悪さの上塗りのようなことも一切しない。むしろとことん開き直って傲岸不遜に構えているところがある。そういうところが嫌いな人にはたまらなく嫌いであろうし、僕はむしろその点に関しては大したおっさんだなと素直に敬意を持てる部分だと思う(それに実を言えばその傲岸さや不遜さもこの人のデリケートさの裏返しでしかないのだろう)。
いずれにしてもずるい。が、「ずるい」ということ自体は罪にはならないと僕は考えている。再び太宰治の言葉を借りるなら、
とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ。
ということになる。むしろそのことに無自覚でありながらのうのうと他人を裁いて生きている奴らの正義面こそ鼻につく。そういった僕のようなねじくれた感性を持つひねくれ者にとっては、中島義道の言葉というのは素直に共感させられるものも多いのではないだろうか。
弱さを守るための鉄壁の理論武装をして果たして本当に強くなったと言えるのか?
ただ、哲学者としてはカントの研究を中心に厳密な仕事をしているらしい中島義道だが(そこら辺のことは僕は興味もない門外漢なのでまったくわからない)、『孤独について』や『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』といった人生論的な著作を数冊読んだだけの印象で言うと、いかにも哲学者らしいというか、思索を以って飯の種にしている人間だけのことはあって、この人が自分自身を守るために異常なくらいガチガチの理論武装をしているのはわかるのだけど、本人がやや自嘲気味にその鉄壁ぶりを誇って見せているほど鉄壁にも僕には見えない。
はるか年長者に対してこんなことを言うのはなんだが、根っこにあまりにも幼稚なものを感じる。そして何より、痛々しいほどに弱い。無論、だからこそ先に言ったような異常なくらいガチガチの理論武装なんて窮屈なもので自分の心を守らずにはいられないのである。もはや自分の身動きにすら不自由するのではないか(そしてもはやそのことに慣れすぎて不自由を感じられなくなっているほどに不自由なのだ)。
だがもちろん、そんなことは赤の他人の大きなお世話というやつで、それが本人の選んだ自身のあり方である以上、たかが昨日今日著作を数冊読んでみただけの一読者風情がどうこういうことではない。それは僕にもわかっているのだけど、そんな窮屈で狭い、いわば穴ぐらのように暗い世界にわざわざ自分から閉じこもってしまっているものだから、必然その思索から何から、多くのものを見落としてしまわずにはいられないのではないか。そんな印象を受ける。
根っこにあるのは実に幼稚で他愛ない感情でしかないのに、それを高度かつアンバランスに発達した知性でもってゴテゴテに理論武装してのろまなゴーレムのようにそびえ立つ姿は、グロテスクでもあり哀れさすら感じてしまう。と、もし仮に中島義道が人から言われたとして、やはり彼は彼が言う通りの鉄面皮、鉄壁の理論武装の絶対防御によって何の痛痒も感じないのだろうか?
もし仮に本当にそうだとして、それは、その彼の言う「強さ」というのは、本当に自分のような、いまだ自分の弱さに悩み、それを克服できずにいる人間の目指すべき「強さ」なのだろうか?
そうではない、とは僕は言わない。掛け値なくそれこそが目指すべき強さである、という人もいるのであろう。好きにすればよい、などと僕ごときに言われずとも、誰であれみなそれぞれに好きなように生きていけばよいのであり、またすでに好きに生きているのである。無論自分が何を目指すかも人の勝手だ。ただ僕自身はその方向には進みたくないし、進まないというだけのことだ。
僕にももちろん人並みの理論武装はあるつもりだけど、僕はそれを以って「強さ」とは思わないし、その方向でいくら理論武装を強化したところで、それが自分の弱さを克服することだとも、強くなることだとも思わない。むしろそれはひたすら自分を本質的に弱いままで生かし続けるだけの臆病であり惰弱であるとさえ思う。
グロテスクなほどいびつに歪んだ醜悪な理論武装なんてものを、武装解除して生身のままで平気に生きていくことができること。しいて言えばそれこそが僕が目指しているものに近い。果たしてそれを「強さ」というのかはわからないし、実を言えば正直そんなことには興味もない。強いとか弱いとかそんなことはどうだっていいのだ、とさえ思っている。
中島義道から感じるみっともなさ
話を中島義道に戻す。今言ったような「ずるさ」に加えて、『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』を読んでいてそれ以上に強く感じたのは、中島義道という人の「みっともなさ」である。
中島義道には弱い人(この人の場合は「かつては弱かった人」、今ではその弱さを克服して自称「強い」人間になったらしいが…)特有の敏感さ、繊細さ、鋭敏さがある反面、その弱さに甘えて免罪符とするようなずるさ、みっともなさも垣間見えて、そこが醜悪で堪らない。
まあもし本人にそう言ったとしても、生きるということはずるく、みっともなくならねばできないのだとか、強い人間はみんなずるく、みっともなく生きているが、われわれ弱いマイノリティ(本書で言うところのカイン)は、奴らのように意地汚く、ずるくもみっともなくもなれないことで苦しんできたのだから、あえて意識的にずるくみっともなくあろうと努力するくらいでなければ、この不条理な社会の中では生き抜いていけないのである云々、などとずるくみっともない言い逃れをするのであろうか?
それはわからないが、とにかく『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』を読んでいて「みっともない」という印象を随所で覚えた。こういうことを言うのは申し訳ないのだけど、いかにも優等生のお坊ちゃんの反抗期的で、それは事実中島義道は優等生のお坊ちゃんだったのだから仕方ないことではあるのだろうけど、もう五十歳も過ぎてお坊ちゃんでもないだろうと思ってしまう。
もちろんそんなものは世間の目でしかなく、本書での主張がまさにそうした世間だの他者だのの目なんて気にするな、ということなのだとしても、やはり個人的には「いや、そこはいい歳してさすがに少しは気にしろよ!」、と思ってしまう。
優等生のお坊ちゃんほど自分の恥ずかしいほどささやかな反抗を「革命」だの「闘争」だのと大仰な言葉で飾り立てたがるものだが、中島義道にもあるそういうところも個人的に苦手だ。
「戦う哲学者」なんて呼び名も本を売るために編集者につけられたのであろうていのいいキャッチフレーズでしかないとは言え、それにしたってあんまりひどい、まともな感性を持つ人間にとってはほとんど侮蔑的・屈辱的ですらある汚名だと思っていたのだけど、もしかして中島義道本人にとってはまんざらでもなかったりするんだろうか?
「いい子」や「優等生」の遅れてきた反抗期的な的外れなみっともなさ
今更ではあるけど『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』という本は、実在か非実在かはわからないが(少なくともかなり具体的なモデルはいるのであろう)T君という悩める若い学生に向けて書かれた手紙という体裁を取っている。
もちろんこのT君こそは「自分の弱さに悩む」人(カイン)の代表であり、おそらくこの本の想定される大多数の読者の代表でもある。
T君はとても「いい子」である。学業成績も今でこそ悩みにかまけて振るわないかもしれないが、少なくともかつては非常に優秀な優等生だったのであろう。
だがその「いい子」ぶり、「(学業的な意味合いだけにとどまらない)優等生」ぶりこそは彼の悩んでいる「弱さ」と表裏一体のものである、というのがごくごく簡単にした中島義道の主張であり、それゆえにT君よ、自分の弱さに悩む若人よ、カインの末裔たちよ、強くなれ!たくましくなれ!「いい子」なんてやめちまえ!「善人」なんてやめちまえ!
…というのが『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』の最も乱暴かつ簡潔な要約であろうかと思う(もちろんここまで要約してしまうと多くの他の貴重な部分が根こそぎ犠牲になってしまうのでやはりできれば実際に一度は読んでほしいけど)。
今の要約ほどに抽象的な格率であれば、それほど反論をしようという気にもならず、むしろ反論しようという気にもならない程度の凡百の(それも下手したらちょい悪オヤジとかいう恥ずかしいレッテルをつけられかねない類の)人生論者たちの語る人生訓と思って聞き流せばいいだけなのだけど、本書のいくつかのテーマである「親を捨てる」とか「なるべくひとの期待にそむく」とか、「怒る技術を体得する」くらいの主張であればともかく、「ひとに『迷惑をかける』訓練する」の具体的な内容として、
例えば、わざと約束の時間に遅れる。わざと借りた金を返さない。わざと禁煙席で煙草を平然と吸う。シルバーシートに大股を開いて座り、目の前に老人が立っていてもけっして譲らない。
云々、といったくだりでは、思わずあきれ果てて呆然としてしまった。一応言っておくとこれはどうやら冗談で言っているのではないらしい。中島義道は真剣に悩んでいるT君に対しどうやら本気で言っているらしいのだ。
高校や大学に入ってから遅れてやってきた優等生のお坊ちゃんの痛々しくも微笑ましい精いっぱいの反抗期エピソード(笑)を、何年かしてから母親が思い出話として結婚の挨拶に来た彼女にして「おい母ちゃん、その話はもうやめてくれよ!!!」と息子が顔を真赤にして叫ぶ、とかって話ならまだ笑い話にもなるのだが、問題はこれを書いているのは少なくとも反抗期のお坊ちゃんというにはあまりにいい歳をしすぎた哲学者のおっさんで、そして笑い話でも恥ずかしい思い出話でもなんでもなく、悩める若人に大真面目にアドバイスとして勧めているということである。
もちろん本のある一部分だけを切り取って「こんなことを言っているぞ!」などというのはネットに跋扈する下衆共と同じなのだけど、本書を通して読んでみても中島義道のこうした極端な(としか僕には思えない)主張には、なにかこの人は重大な勘違いをしているのではないかとしか僕には思えなかった。
同時に、僕は「ああなるほど、これが本物の『いい子』というものか、これが本物の『優等生』というものなのか」というふうに同情半分に納得もしてしまった。
僕がこうした中島義道の主張に眉をひそめずにいられないのは、無論僕がいい子だからでも優等生だからでもない。あるいは中島義道であれば僕がそんなふうに反感を感じること自体が僕が社会からの「いい子であれ、優等生であれ」という圧力に洗脳されているからに他ならない、などというのかもしれないが、もちろんそんなことはない。
むしろまったくの逆で、僕は少なくともかつての中島義道ほどにはいい子でもなければ、あらゆる意味で優等生どころか劣等生であったから、だからこそここで中島義道がT君(あるいは狂信的純粋な読者)に勧めているようなことは、本質とはまったく無関係であることを知っているからだ。
あまりにもいい子すぎた人間、優等生すぎた人間というのは、反抗期が遅れてくると反動形成でこんなにも的外れな勘違いを平気でしてしまうのかということに寒気がした。たまに官僚などがしょうもない問題を起こしてニュースになるが、案外根っこは同じところにあるのだろうか?
しかも本人はまったく的外れな「人や社会に迷惑をかける練習」をクソ真面目な顔して行い、自分としては「これは自己改革である!自分が強い人間に生まれ変わるためには必要な訓練過程なのだ!」などと神妙にも思い込んでいるのである。こんなに質が悪く出来も悪い新興宗教も珍しい。これならまだ「奉仕」だの「親切」だのを説いているような偽善的・処世術的な新興宗教のほうがよほどましではないかとすら思ってしまう。
何にしても馬鹿げている。こんなことをして「俺も人並に他人や社会に平気で迷惑をかけてやったぜ」と満足そうな顔をして、混雑する電車で老人に席も譲らず大股を開いて煙草を吹かして座っている若者がいたら、こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、殺されてもしかたないのではないか、いや、殺されてしまったほうがいいのではないか、むしろ誰か殺してくれないだろうかとさえ思ってしまう。
自分は親や社会からの不当な圧力に苦しんできたのだから復讐する権利があるとか本気で思ってるクソバカ
こういう勘違いバカは死んだほうがよい。いかにそれまで自分が生きることに悩んできたか、苦しんできたか、自分の弱さや繊細さに人知れず涙を飲んできたか、などということは、迷惑をかけられた側の人間にとっては何の興味も関係もなく、何の言い訳にも免罪符にもならない。ただちに排除されるべきだ。
だがそれどころか中島義道はこういった行為を、割りを食ってきた「いい子」、弱者たちの社会への復讐であり、それは正当な権利ですらある、と言っている節すらある。自分は被害者であり、自分をこんな生き苦しい弱い存在に貶めた相手こそがこの社会であり、そしてこの社会の中でのうのうと矛盾を感じることもなく生きている鈍感な奴らなのだ、と言わんばかりである(信じられないかもしれないが読めばわかると思う)。
これではまるでクソみたいな無差別殺人事件を起こすような連中と論理としては変わらないではないか。中島義道によれば、そこまで行かないためにも、こういった相対的に小さな迷惑行為を訓練として行うことが必要なのだ、ということらしいが、到底納得などできようはずがない。
こんな甘ったれていて馬鹿げた話はない。もはや怒りや憤りすら感じられないレベルであり、脱力感しかない。中島義道のこういった主張には、僕にはただただみっともないものにしか感じられない。非難をする気にもならない、ただただみっともないものを見てしまって自分まで脱力してしまうあの感じしかない。
大体がわざわざかぎかっこ付きで「『迷惑をかける』訓練をする」と言ったり、迷惑の具体例に関してもいちいち「わざと」なんて言葉をつけてしまうあたりにも僕はたまらない嫌悪感を覚える。「本当はいい子なんですけどね」、「本当はこんなことしたら悪いってこともわかってるんですけどね(でも訓練としてあえてやってるんですよ)」ということのエクスキューズのつもりなのだろうか?
中島義道のこういうところには本当に嫌ったらしいみっともなさを感じて嫌悪感しかない。三度太宰治を持ち出せば、走れメロスの着想のきっかけともなった檀一雄との有名なエピソード、てめえで理不尽に待たせていた相手に対して「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」とのたもうたという、あのクズエピソードと通底するものを感じる。
親や過去への「復讐」という妄執、そのみっともなさ
中島義道自身の個人的な「親への復讐」のくだりにも、やはり同じように僕はみっともなさを感じてしまった。こうはなりたくないとも思った。
僕も中島義道同様、自分が生まれ育った家庭に関して少なくともあまり恵まれていたとは思わないが、だからといっていい歳したオッサンにもなって「親への復讐」、それも陰湿というにもあまりに幼稚な類のそれをしたいとは思わないし、ましてやそれを世間におおっぴらに明らかにしてやろう(それが中島義道の場合彼の「復讐」の一環らしいのだけど)とは思わない。むしろ間違っても何十年後かの自分がそんなみっともないおっさんになっていたら、なんて考えただけで自殺したくなる。
無論僕だって聖人面した人間共が偉そうに気安く他人に「親を許しさない」なんて言っているのを聞くとヘドが出るタイプの人間だが、親を許すにしろ許さないにしろ、捨てるにしろ復讐するにしろ、自分で決めることだし、他人に対してああしろこうしろと指図するようなことではないと思う。
もちろんそんなことは百も承知だという上で、一つの提案として受け止めた人間が、自分も実際に親を捨てるなり復讐するなりして楽になったというならそれは結構なことだと思うけど、僕は正直、そこまで極端に走らねば納得出来ないほどの親への執着、過去への執着を哀れに思ってしまう。しかも「納得」といったところで彼らにとってはどこかで綺麗に解決するとか解消するというようなことでもないらしく、一生許さないとか、一生復讐し続けるというものらしい。
一体そんなことに何の意味があるのか?虚しくないのか?バカではないのか?とは他人でしかない僕の勝手な感想で、大きなお世話なのであろう。いずれにせよ誰であれ自分が思うように生きていくしかないのだから、お互いに勝手にすればいいのだろう。
みっともない僕がみっともない中島義道を嫌うみっともない理由
いや、みっともないならみっともないでいいのだ、というより、それはしかたのないことではないか?詭弁がましくはなるが、ある意味では人間なんて大なり小なりみっともないものなのだし。
僕自身の話などしようものなら、僕などはみっともない人間の最たる者だ。みっともなさ大権現である。でも、それでも僕としてはやはり、みっともないならみっともないで、みっともない自分のみっともなさを、みっともなく恥じてほしいと思う。
僕は自分のみっともなさがたまらなく恥ずかしい。恥じている様がまた立派に生きている人たちからしたらたまらなくみっともなく見えて不快に思われるのかも知れない。でも、少なくとも自分のみっともなさに関して開き直ったりしてほしくはない。僕にはそれは最も恥ずべきみっともなさの上塗りだと思われるのだ。
その意味で、中島義道は僕にとっては決して理解や共感、信仰や尊敬の対象となるような人間ではないどころか、しいて言うならむしろ明確に敵である。
みっともない人間の分際で、みっともない自分に開き直っている。そのくせ、ある意味ではもちろんみっともなくなんてない、立派な肩書を持ち、ひとかどの成功者であり、社会的にもひとかどの地位も名誉もあり…というのは、僕のような360度全方位から見てもみっともない、真にみっともない人間からすると、中島義道は他の多くの好意的な読者たちがいうような、慰めだの励ましだのを与えてくれるような存在ではなく、むしろただでさえ傷つき打ちひしがれた心と体に、とどめを刺さんばかりに真っ向から鈍器のようなもので殴りかかってくるボストロールのごとき天敵、そういう存在である。
それゆえ、今更言うことでもないだろうけど、さっきからの僕の中島義道への感想というのが、辛辣と言うにもあまりにも敵対的なものになってしまっているのもしかたのないことなのである。
真の弱者は真の強者を憎まない。偽物の弱者や中途半端な強者を憎む
見るからに器用な人間、華々しい自分の成功や栄華を誇っている人間、そういう人間には真の弱者のルサンチマンは刺激されないものだ。だが、さも自分は不器用であり、いわゆる世間的な成功や栄華には背を向けて生きてきた、ということを売りにして、自分はそういう不器用な弱者代表であると言わんばかりの顔をして、そのことによって世間的にもひとかどの成功を収めてひとかどの人物と目され得たような小器用さを持つ人間、そういう人間こそが、少なくとも僕のような人間からすると最もその卑しいルサンチマンを掻き立てられる対象なのである。
というわけで、さらに『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』を読んでいて思わず反感を覚えた部分について中島義道の悪口を続けよう。
だがさすがにここまで書いた時点でもう僕もすっかり疲れ果ててしまったので(ここまで読んでる人がいたらもう死んでるんじゃないか?大丈夫?まだ息してる?)、ここからは一応とはいえ人様に公開しているブログであるという前提も捨てて、本書を読みながらスマホに書き殴ったメモをそのままコピペして済ませようと思う。・・・すごくない?画期的じゃない?体裁も何もあったもんじゃなくない?自由じゃない?ただめんどくさがりなだけじゃない?はいそれ正解!というわけで以下コピペ。
「敗北の美学」なんて言葉には、美学の欠片も感じない
自分の欠陥や未熟さでしかないものを、よりにもよって美学なんて言葉のもとに正当化せずにはいられない人間の醜さ。「美しい敗者」だの「敗北の美学」だのと抜かす連中の欺瞞、それはむしろ脂ぎった勝利に酔い痴れる勝者の傲慢以上に醜悪なものではないのか?なぜただのクソ馬鹿でもあるまいにそんな自己欺瞞に自ら進んで陥るのか?そんなにもある種のプライドの高い人たち(中島義道のような)にとって、自分の敗北の無様さというものは直視に耐えないものなのだろうか?
立場も違うくせに傲慢にも理解者面なんてすんじゃねえよハゲ
理解者面なんてしないでほしい。いや、中島義道がかつて本当に自分自身も「弱い」人間であったこと、だからそういう「弱い」人間の気持ちは痛いくらいによくわかる気でいること、それはわかる。もっと言えばかつては確かにまったく同じものを感じ得ていたのだろうとさえ思う。でもやっぱりこの人は口が裂けても「わかるよ」なんて安易に言ってはいけないのだ。そしてそのことが結局今の中島義道にはわかっていないのだ。
この人は今現にこうしてひとかどの成功を収めて社会的にもひとかどの地位も名誉も手に入れた哲学者の先生であり、それはやはり自分がまだ何者でもないことに自分を虫けらのように感じて現在進行形で思い悩んでいる人間からしてみれば、少なくとも立場がまるで違う。それはもう断絶としか呼べないくらいに絶対的な隔たりがある。
その断絶をあたかもないような顔をして踏み越えてきて、「僕には君の気持ちがよくわかるよ」となどと言って握手しようと手を差し出されても、素直にその手を握り返せない(握り返したくない)のが額にカインの印を刻まれた弱い人間というものなのだ。
「理解者ぶっている奴らの無理解、その傲慢さ、醜悪さが僕には本当に堪らない!だから僕には君の気持ちが本当によくわかる!」…と理解者面して寄り添ってくる人の手を、やっぱり僕は気持ち悪く感じてその手を跳ね除けて後ずさりしてしまう。
もちろん中島義道はなんのかんのと言っても社会の中でひとかどの成功を収めてひとかどの地位も名誉も築いたのだから裏切り者だ!なんて話ではない。社会的に成功して人から認められることが悪いなんてことはあるはずがない。
それは本当に立派なことなんだけど、そういう小器用に生きられるだけの立派な人から、「いや、君の気持ちはわかる!むしろ君の不器用さこそが真に尊いものなんだ!」なんて理解者面して言われると、いっそ始めから理解する気も共感する気もない大多数の人々の無理解が清々しく感じられるほど気持ちの悪い嫌悪感を感じてしまうのだ。
そんなひねくれて屈折しすぎた人間の気持ちがこの人にはもうわからない。あるいはわかっていてそこまでの屈折は見ようとしない、認めようとしない。
もちろん大多数の人は「そんなひねくれ者の甘ったれた気持ちなどわからないしわかるはずないではないか」と言って笑うか怒るであろう。だが中島義道はおそらくそうは言わない。本当はそういう人間の気持ちがかつての自分自身の気持ちとしてどこかでわかっているからだ。
こんなものは大多数の人間には理解できるはずもないどうしようもない僻み、嫉み、ルサンチマンであり、甘えでしかない。そのことは重々承知しているが、だがその上で「いや、私にはわかる!私もそうだったからわかる!私は決してそれを無下に否定したりなどしない!」というのが中島義道の立場のはずなのだ。
だからそこにはやはり中島義道には見落としているものがある(すべてを拾い切るなんて土台誰にとっても無理な話であることは言うまでもないが)。あるいは本当は見えていて、そこまでの違和感は無視することで相手にも気づかせないようにしている。そういうずるさが中島義道にはあると思う。
花沢健吾 ルサンチマン 全4巻 完結セット 花沢健吾は『ルサンチマン』が一番好き。
わかっていたいおじさん
「かつては自分もそうだったが(今は考えも変わって~)…」という文脈ならまだそこから今はどう変わったと言うのか、多少の関心は持って話を聞けるのだけど、中島義道の場合、「いや、今でも私にはわかる!」と言って理解者面して憚らないから閉口してしまう。
中島義道さんは、圧倒的大多数の人が持たない(し本当ははじめから持ちたいとも思っていない)繊細さ、敏感さ、鋭敏さを持った人であることは確かなのだけど、「私もかつてはそうだったから気持ちはわかる気がするが…」くらいのところまでで踏みとどまってほしい。
「わかってあげたいが、正直今の自分の立場ではわかるなどと言うのはかえって無礼であり鈍感なことであろう」、というくらいのことまで言えるほどには、残念ながら中島義道は鋭敏でも繊細でもないということなのだろう。あるいはかつてはそうだったのかもしれないが、すっかり磨耗したのか、いずれにしても少なくとも今は違うということだ。
「かつては自分も弱者であった。いや、弱者の最たる者であった。だが今ではこんなに立派な強者となった」という自慢話がしたいのであればそれを否定しはしない。むしろそれは大層ご立派なことだと思う。勝手にご立派に生きてくれればよいし、自慢話でも何でも聞く人があれば勝手にすればよい(僕は多分聞かないであろうが)。
ただ「自分もかつてはそうだったからお前の気持ちはわかるぞ」、と前置きしておいてから、だからお前はもっとああしろこうしろ、もっとずるくなれ、人に迷惑をかけろ云々…と愚にもつかない御託を並べだすのは正直聞くに堪えない。
かつて自分もそうだったと言うのなら、なぜそういうやり口が僕のようなひねくれた「弱い」人間からすれば最も堪え難いものであることがわからないのか?いや、かつては中島義道にもわかったはずだ。だが今はわからない。というかそもそも見ようとしない。見ようとしないという時点でいずれにしてもそれはやはり無理解でしかない。いや、理解者面なんてしているだけよけいに罪深く醜悪な無理解ですらある。
ここまで屈折している僕のような人間は確かに少数派かもしれない。またそうであってほしいとも願う。僕は正直自分が少数派であることを(少数派であったとしても)特に何とも思わない。特に恥じているという自覚もないし、ましてやこの人のように少数派であることこそさも自分が真に誠実に生きている正しい人間だからだとでもいうかのように誇るところもない。恥じも誇りもしないけど、単純に僕みたいな人間が世のためにも当人のためにも少しでもいないといいなーということは常々思っている。
ただ僕がそのようないかな極端に屈折してひねくれた少数派であろうと、「いや、自分もかつてはそうだったのであり私には君の気持ちがよくわかる!」というつもりで中島義道はこの本を書いているのだろうから、それに対しては今はもう違うしわからないんだから理解者面なんてしないでほしい、というのが率直な感想。
「俺も昔はそうだったからわかるけど」って言われたときのちっともわかってもらえてない感は異常
— まつたけ (@denpanohikari) 2010, 10月 28
自分のことなんてなにも知らない奴に偉そうに知った口叩かれるのと比べたら、「理解できない」って言われるほうがよっぽどまし。
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 11月 13
「俺の苦労に比べればお前なんてまだまだ」という老醜の極み
そういったおそらくまともな人の感性ではそもそも何を言っているのか理解できないであろう僕のような屈折した「弱い」人間が最も噛みつかずにはいられないのが、迷えるT君に対して得意気に吐き捨てられた
僕の迷いに比べれば君はまだまだ迷いが足りない
という一言である。
老害という言葉を使いたくはないが、これぞ老醜の極みと僕が日頃思っている言葉をついに中島義道はそのまま使ってしまった。僕はこういうことを言う人間は人として最もどうしようもないクソ間抜けの阿呆だけだと思っているので、非常に残念な気がした。どうやら中島義道という人はいい歳したおっさんにもなって、要するに自分が一番不幸で一番可哀想だということが言いたいらしい。
いや、ある意味では確かにそうで、人は誰も他人の幸も不幸も知りえないし、背負い得ないのだから、誰もが自らの人生において最も不幸である(と同時に最も幸福でもある)というのは一つの真理である。
その意味で他人との比較なんてものはするしない以前にそもそも成立しない。だが中島義道は見事なほど安直にも相談者の若者と自分とを比べた上で、「お前は俺に比べればまだまだ悩みが足りないのだ」などと愚にもつかない自慢(こんなのはアドバイスですらなく、ただの年寄りの寝言以下の自慢でしかない)をしてしまう始末。
お前がどれほど偉いつもりの何様か知らないが、他人の何を知っているというのか?何を知り得るというのか?この辺りはさすがに続きを読む価値もないのではないかと見切りをつけかけてため息が出てしまった。
いい歳して自分が一番不幸だなんてこれっぽっちも思っていないし、自分より過酷な境遇で生きてきた人もいくらだっているし、そういう人達には本当に頭が下がる。でも「自分が一番つらかった」って不幸自慢はともかく「自分に比べればお前らは恵まれてる」とか言う人はただのぬるい甘ったれだと思ってる
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 8月 13
人は誰も多かれ少なかれその人自身の地獄を生きている。比べることに意味などないのに「お前の地獄は私の地獄と違う、私の地獄の苦しみはこんなものではない」という地獄自慢は互いの地獄をより苦しみに満ちたものにするだけ。ともに地獄を生きているのだという理解だけが互いの間でやさしさになりえる
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 8月 25
中島義道がわかっていたがるのは自分が殺してきたかつての自分にコンプレックスがあるから
思うに中島義道には、今のような「強い」自分に変わり果ててしまったことに対する深いコンプレックスがあるのではないだろうか(※読んでいる途中で書いたメモだが、このあたりについては最後に中島義道自身のあとがきの中で触れられている)。
だから過剰に、「いや、私にはその気持ちがよくわかるよ!」と理解者面をしてしまわずにはいられないのではないか。要するに自分もまだそういう青く未熟で、その代わりにある種の繊細さや敏感さ、鋭さを持っていた頃の自分でありたいと願っているのではないか?
そのようなあり方がすでに、彼がわかると思いたがっている「弱い」人間からすれば耐え難いほどにずるく醜悪に見えることがわかるだけの敏感さや鋭さが哀れにももう失われてしまっているのであろう。
そのことは責められない。ただこうした断絶のどこまでも深く、果てしなく遠いことを思うだけだ。
立場が変わってしまえばもうそれだけで迂闊なことは言えなくなる。「いや、今は立場が違うと言っても自分にもかつては若いときがあったのであり、何者でもない自分に苦しんだことがあったのであり、自分の弱さに悩んだことがあったのだから、気持ちはよくわかる!」といくら本人が心の底から思っていたとしても(その気持ち自体は無論僕にもよくわかる気でいる)、それでもやっぱり迂闊なことは言えない、言う資格がない、ということがわからないのは、それはやはり立場が変わればもう「かつての自分」なんて者の気持ちは、少なくともかつてと同じようには理解できなくなっているということの証左でしかないのであろう。
立場の違う人間同士の対話というのは本当に難しい。相手に働きかけるということの人間社会においてはあまりに基本的で当然すぎることの難しさを思うと、僕は思わず眩暈がする。
僕は多分この本が『自分の弱さに悩むきみへ』、というていではなく、中島義道という人のただの独り言、ただの自分語りであったなら、もっと好感を持って、それどころかそれこそ「その気持ちわかる!」とか、むしろ「どうしてそこまで自分の気持ちをわかってくれるのか?(太宰治の『晩年』を子供の頃初めて読んだときのような)」、というような驚きと感動とともに読むことすらできていたかもしれない。
中島義道にとっての哲学とは何か?生きる意味とは何か?
中島義道は「答えのない問いを問い続けることこそ哲学」であり「生きる意味」だという。だが僕には何を言っているのかわからない。これくらいのことならある程度物を考える中学生にだって言える詭弁にしか聞こえない。はっきり言ってこんなのは自分で自分をごまかし、だまくらかす自己催眠の最たる物ではないのか?
いろいろ言っているが要はただ死にたくない、死ぬのが怖い、それだけのことを哲学だ生きる意味だとご大層な言い訳をつけているだけではないのか。
いや、「死ぬのがこわい」、「生きている間に何をしようと、どんな尊いとされることを成し遂げようと、結局最後にはみな死ぬのであり、そして死ねばすべてが灰燼に帰す、それがたまらなくこわい」という感覚は幼稚と言って否定されるべきものではなく、むしろまさにこういった強烈な感覚こそが、生に対して鋭敏な意識を持ちあわせた人間であれば幼年期から考えざるを得ない、人間にとって真に根源的な問題意識であると僕は思う。
だがなぜそれをもっとまっすぐに見据えようとしないのか?ご大層に哲学だカントだと言ったところでそんなものは迂回路でしかないのではないか。なぜ他の世間の大人たちのことは本当のことから目を背けて自分をごまかして生きているというような指摘をしながら、自分自身そんなにも迂遠で悠長なことをしているのか?
いや、哲学もカントも研究したければ勝手にすればよい、だがそれはある人が自分はパズルが趣味であると言ったり、あるいはまた別の人が自分はセックスが好きでたまらないというのとまったく同じである。
趣味や嗜好として酒や煙草があるように、文学でも哲学でも何でも好きにすればよいが、哲学やカントがエロ本やヘロインよりも高尚であるとか、自分の根源的な問題意識の解決により寄与するものである、なんて幻想は僕には信じられない。まあこんなことを言おうものなら頭のあまりよろしくない人たちからまるで的を外した部分に関して噛みつかれるだけなのが目に見えているから言わないでおくが。
だがT君に対する(そして同じような悩みを持っている、またはかつて持っていた人はたくさんいると思うのだけど)君が本当に求めているものは「哲学ではないが哲学にきわめて近い何か」ではないか、という分析は本当に鋭く、素晴らしいと思った。
またそれを哲学者とか哲学教授という立場にありながら言えるのは、中島義道がかつて確かに自分自身迷いと苦悩の中でその「哲学ではないが哲学にきわめて近い何か」を求めてもがき続けていたことの証左であろうと思う。
中島義道ツンデレ説
さて、ここまでかなり散々に中島義道についてぼろくそに書いておいてなんなんだけど、もし中島義道さんが今まで指摘してきたような点に関しては百も承知で、あえて(というくらいのつもりで)、自分の弱さに悩む人へ向けてのメッセージとしてこのようにいろいろ言われることが目に見えているこの本を書いたのだとしたら、その意図が100%成功したとはもちろん思わないにせよ、その勇気みたいなものは尊ぶべきものなのかもしれないと思う。
実は『孤独について』を読んだときからすでに強く感じていたことなのだけど、中島義道という人はいい歳したおっさん、それも哲学者なんていかつい肩書を持ちながら、相当にこじらせてしまっただけのツンデレなのではないだろうか?
孤独について、なんて大上段に構えたタイトルで恥ずかしげもなく本を出しておきながら、それでいて『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』のようなメッセージ性の極めて強い、というかメッセージの塊のような本を出さずにはいられない。それは要するにこの人が、本当は、本当には、孤独なんて状態には耐えられない、その意味で本質的には今も変わらぬ「弱い」人だからであり、それを自他に対して違うというふうに虚勢を張って、というにはあまりにおどろおどろしい理論武装によってごまかしているだけなのではないか。
本当は人並み程度かそれ以上には深い情もある人なのだけど、そのことで人一倍苦労してきたという自覚のもとに、さも自分はもはやそのような情によって振り回される弱い人間ではないぞ、と無頼ぶって、今やすっかり自分は強くふてぶてしい人間に変身した、自らを改造し得た、と思い込んでいるだけ、思い込もうとしているだけなのではないだろうか?
だがおそらく人間の本質的な部分はそう簡単に変わるものではないのだろう。というか、そう簡単に変わるものならはじめからそんなものは本質ではなかったというだけなのであろう。
中島義道という人の本質部分は知性よりもむしろ情にあるのではないか。そもそも普通に生きている人間が親兄弟や妻子と縁を切るだの煩わしいだのと言わない。いや、もちろん大多数の人間にとってもそうした感情はあるにしろ、中島義道ほど極端なことは言わない(もちろん中島義道の言うそれは単純に離婚とかそういうレベルの話ではない)。
極端なことを言うのはなぜかといえば、それは中島義道が人の情を持たない冷血漢だからではなく、むしろ人一倍人の情といったものに振り回されずにはいられない「弱い」人間だからだ(少なくともかつて確実にそうだったからだ)。完全に断ち切らねば、振り回されてしまうのである。
強いからひとりでも大丈夫なんじゃなくて、弱いからひとりぼっちでいるしかないみなさん。
— まつたけ (@denpanohikari) 2015, 7月 10
傷つけたり、傷つけられたりする前にお別れする以外の生き方を知らないみなさん。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 2月 28
毎日がさよならの準備
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 9月 29
いつかお別れが来ても傷つかないように、今のうちに好きな人のこと嫌いになっておこう。
— まつたけ (@denpanohikari) 2014, 3月 28
中島義道は自分ではもはや自分はかつてのように他人の感情によって振り回される弱い人間ではないぞ、と思っている(あるいは思いたい)のかもしれないが、中島義道が『孤独について』で語っているような孤独なんてものは、単にもっと深い、真に核心的な孤独がこわいから、人を避けて人から距離を置いて離れているといった類の、実に薄っぺらい「孤独」でしかない。
そしてそんなものが真に孤独でなどあるはずがない。あえて誇らしげに「孤独のすすめ」だのとなんだのと言ってそれを自覚的に選んでいるなどというのは、僕に言わせれば寝言でしかないし、そんなものが孤独なものかとしか言えない。
要は中島義道には何から何まで(ある程度まで本人も認めている通り)傷つかないための理論武装しかない。中島義道のいう孤独とはつまり、孤独になることを恐れるがゆえに自ら選んだ孤独に安住せよ、といった程度の非常に子供じみた幼稚なものでしかない。
子供じみているからと言って悪いとは思わないし、当人の生き方なのだからそうしたければ勝手にすればいいのだけど、少なくとも誇るようなことではあるまいし、いい歳して自分の幼稚さや未熟さを誇っている大人がいたら、やはり僕はみっともないなと思ってしまう。
だが繰り返しになるが、これだけけちょんけちょんに言っておいて何なのだけど、それくらいのことは中島義道本人も重々承知の上で、それでも我が生き様を若く悩める者らの一助として役立ててほしい、という血の出るような赤心によって突き動かされてこれらの著作を書いているのだとしたら、その気持ちは尊いものだと思うし、事実多くの悩める人たちの慰めとなりえるのだろうし、事実なっているのであろう。やはり中島義道はただのツンデレなのではないか。
※画像はツンデレ疑惑が持たれている容疑者哲学者の中島義道氏
中島義道の三十年前の自分へのメッセージが素晴らしすぎる名文な件
ここまで気になったところばかりを取り上げて、中島義道について散々に言ってきてしまった気がするのだけど、『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』はあとがき(正確には「あとがきに代えて 三十年前の自分へのメッセージ」)が本当に素晴らしい名文なのである。
名言らしいことを言うだけなら簡単だが、名文が書けるというのは本物の才能だと思う。
僕は中島義道という人の本は今回はじめて数冊読んだだけだし、これからもっと読もうという気もないのにこんなことを言うのは不遜なのだけど、この数ページの文章の中に書かれた気持ちが『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』という一冊の本の、いや、中島義道という非常にひねくれた人物の真骨頂なのではないか。
タイトルの『自分の「弱さ」に悩むきみへ』向けて書かれたであろう(体裁としてはT君に宛てられた手紙である)本文中では、かつての自分からは想像もつかないほど変わり果てたという今の中島義道という人の、狡さや小器用さ、醜さ、みっともなさばかりが垂れ流されているように感じられたが、この「あとがきに代えて 三十年前の自分へのメッセージ」には、自分が「強い」人間という名の俗物に変わり果てたことの自覚の率直な告白と、そしてなにより、かつての自分自身の、不器用でしかありえなかった純粋さへの美しい憧憬が切ないほどにあふれている。
それから三十年後の今、本当は中島義道はT君や僕たち(自分の「弱さ」に悩む人、カインの末裔)に対して何を言えばいいのかわからないのではないか?実は彼らに対して語るべき言葉を持っていない、というより何と言っていいかわからないことに一番困惑しているのは中島義道本人なのではないか?
そういう「弱い」人間たちの気持ちはかつての自分がそうだったからこそ痛いほどよくわかる。だがそれがよくわかるからこそ、本当は何と言葉をかけてやればいいのかわからないのではないか?
すっかり「俗物」に変わり果ててしまった今の自分が、今もまだ「弱く」、ある意味で純粋なままでいるカインの末裔たちに対して、一体迂闊にもどんな言葉をかけえるというのか?そのことを中島義道という人は実は一番よくわかっているのではないか?
だからこそ三十年後の中島義道は、単に自分はその三十年という歳月をいかにして生きてきたのかということを、その間に身につけた「俗物」としての能力を駆使して、俗悪な人生訓を傲慢にも若者にアドバイスする、などというていでして見せたのではないか。なぜならそうする以外できないから。
中島義道にはかつての自分を見るような青年に対して、「君の場合はもっとこうすればいいよ」なんてことを平気で「アドバイス」できるような無神経さも傲慢さも実はないからこそ、そうしているようなていを取りながらも、実は単に自らも一人のカインであった頃の自分が、その後今の「強い」自分に至るまでいかに生きてきたかということを語ってみせたに過ぎないのではないか。そうすることしかできなかったから。
T君という手紙のやり取りの相手が実在するにしろしないにしろ、このT君というのは僕たち想定されるこの本の読者の代表(心の弱いカインの末裔)であると同時に、ある意味では三十年前の中島義道自身でもあるのではないか。
もちろんT君(および読者)というのは中島義道とは別人なのだけど、『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』という本は、はじめから若く「弱かった」頃の、そしてそれゆえに特別に純粋で鋭敏なセンスを持っていた頃の中島義道自身を相手に書かれたものではないのか。自分がこの三十年という歳月をいかにして生きてきたかということの、かつての自分への報告なのではないか。
そして実は、そんな自分の半生を(世間的に見れば十分以上に成功したといえる立派な半生を)、中島義道本人は特に誇りに思っているわけでもない。彼がT君(および大多数の読者であろうカインたち)に一見勧めているように見える「アドバイス」は、実は単に自分はいかに生きてきたかということのかつての自分への報告であると同時に、自分がかつての「弱い」自分をいかにして殺してきたかの殺害の記録でもあり、どこか贖罪の意識のようなものさえ感じさせる。
はっきりと「後悔」と言えるほど明確なものではないなりに、自分が選ばなかった、言い換えれば自分が殺してきたかつての自分の生き方の先にあったものに対する、漠然とした憧れのようなものさえ感じさせる文章が本当に切なく、胸を打たれるのだ。
少し長いがこの『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』という一冊の本の中で、最も美しく、最も個人的に感動した最後の2ページを引用する。
かつてきみであったぼくが生きてきた人生は、たいそう醜いものであった。そして、ぼくは後悔していない。ぼくはそれを選んだ。きみを殺さずにきみとともに自滅していく人生、それも一つの人生であろう。だが、ぼくはそれを選ばなかった。
ただ、一つの後悔は残っている。それは、きみがいい奴だったということさ。最近、ぼくのまわりには、(T君はじめ)きみのような男の子がたくさん集まってくるのだ。ポーの『黒猫』のように、一度殺した猫にそっくりな猫が次々にぼくのあとをつけてくるようだ。彼らは、かつてのきみのような弱さと美しさでぼくを圧倒するのだ。
きみを殺した罪滅ぼしと思って、ぼくは彼らにまっすぐに向き合っているよ。そして、そういうかつての自分のような男の子たちを見ていると、全身から冷や汗が滲み出るように恥ずかしくなってくる。自分の人生が、自分の社会性が、自分の器用さが、自分の傲慢さが、自分のずるさが、自分の「強さ」が。
彼らは「強くなりたい」と願っている。しかし、ぼくは彼らにぼくのようになってほしくないんだ。といって、彼らをきみと同じように殺したくはない。だが、ほかの生き方をぼくはしてこなかったから、ぼくにはどうしたらいいのかわからない。
いまとなっては、彼らの叫び声はきみの叫び声のように聞こえる。ぼくに殺されて本望だったのだろうか?
やはり、きみのままで、不器用なままで、弱いままで、生き延びる道はあったのではないか? ぼくは、このごろそんなことばかり考えているんだよ。
最後に、ほんとうのことを語ろう。ぼくにもきみのような「弱い」ときがあったことを、いま誇りにしている。それだけが、自分のほとんど唯一の誇りなんだよ。きみはわかってくれるだろうか?
こうして今引用していても、最後の文章の途方もない美しさと切なさには涙がこぼれる。
変な言い方になってしまうが、今の中島義道さんがそんなふうに思っているというだけで、かつての彼は報われたような気がするのではないか?
もちろんここにもずるさがある。欺瞞がある。なんとなれば中島義道自身が「死」について言っているように、殺された「かつての彼」はもうどこにも存在し得ないのだから。
中島義道という人はずるいから、だからこんなずるいことが言えるのだ。こんなことを今更言われたところで、殺されたかつての彼には届くはずもないし、仮に届いたとして、こんなことを言われたら誰だって涙を流して許してしまうに決まっているではないか。
でも、もしかつての彼に、自分を殺した今の自分の言葉が届く、そんな幻想的な時空間がどこかにあるのだとしたら、そんなずるささえも見抜いた上で、やっぱりかつてのカインだった頃の彼は、笑って今の彼を許すのではないだろうか。なぜなら彼はいつまでも弱く、そしてそれゆえに誰よりやさしい人だったであろうから。
僕は弱いままで、あんまり弱すぎていつまで生きていられるかどうかも危ういのだけど、それでももし生きていけるのなら、ある種の弱さは死ぬまで持ち続けたままで、どこまで行けるのかを確かめられたらいいなと思っています。願わくば神様、僕に弱いままで生きていける強さを。
最後に引用した文章に胸を打たれるものがあった人なら、おそらく中島義道さんの本、少なくとも『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』という本は感慨深い一冊になるのではないかと思う。
この本をある種の福音として読むのか、素直に感動して中島義道という人がどう生きてきたかということを自分もまたそう生きていくべき指針とするのか、退屈な人生訓と読むのか、それとも僕のようにさんざん疑問や反感を覚えながら読んで、最後の最後で深い感慨に打たれて生涯忘れ得ないであろう一冊になるか、それはもちろんわからない。わからないし、無論人がある本をどう読もうと(読まなかろうと)人の勝手なのだけど、まあ読書の秋と言いますし、興味を持った人がいれば秋の夜長のお供にクッキーとホットミルクかなにかと一緒にいかがでしょうか。
最後にこれだけ言わせてほしい。おい、この記事2万3千字超ってどういうことだ!見ず知らずのおっさんに2万字を超える偏執的なラブレターを書いてたら日曜がまるまる吹っ飛んだやないか!誰か、僕の日曜日を返してくれ!(おしまい)