世の中そんなに悪くない
世の中そんなに悪くないという話。
生きていると、特に創作活動をしている人だったりなんらかの自己表現をしている人、なにも一部のプロだけでなく、こうしてネットでブログを書いたりなんらかの情報発信をしているだけでも、常に他者からの否定や批判の対象にされてしまう可能性は極めて高い。
かつては「男子門を出れば七人の敵有り」などと言われたものだが、今はそういう時代ではない。門を一歩も出なくても、引きこもりでも、男も女もまわりじゅう敵だらけの時代を迎えている。
仮に現在あまり大した情報発信や自己表現をしていないということであればそうしたことを感じることは少ないかもしれない。しかし、少なくともネット上でなんらかの活動を行うということは、理論的には無限の潜在的な敵対者の可能性をはらんでいるのだということはきちんと認識しておく必要がある。
悲しいといえば悲しい話だが、実情そういう殺伐とした世の中である以上最低限の自己防衛は自己責任に基づいて意識しなくてはならない。
はっきり言っておくが、炎上や批判されることをまったく自分とは無関係な対岸の火事だと思っているような、そんな甘い認識でネットを使っている人ほど炎上などのリスクは高いと言える。現に少し前話題になった問題画像をわざわざツイッター等にアップして店を潰したり警察に逮捕されたりしたような人たちは、みな一様に「こんな騒ぎになるとは思っていなかった」人たちである。
さて、こんな話は僕などよりはるかに賢い諸兄姉方におかれては、今更僕のようなバルカン半島の火薬庫のような人間に言われるまでもないことであろう。
今回のテーマは逆で、そんな敵だらけに見える殺伐とした世の中だけどさ、思わずガンダムなんてファーストのオリジナルアニメはもちろん劇場版も興味なくてろくに見てないくせに「寒い時代だと思わんか?」とか言っちゃった過去を思い出して死にたいくらい恥ずかしくなったりもするけどさ、それでも世の中そんなに悪くないかもよ?っつー話をしてみたいと思いまっしゅるーむ。
世の中そんなに悪くない。批判者ほど声がでかいだけ
まずは大前提。批判者ほど声がでかい。これひとつでもネットでなんらかの活動をしているような人たちはきちんとマインドセットに叩き込んでおくだけでだいぶ違うと思う。
そう、批判者ほど声がでかいのが世の常なのである。これはリアルでも変わらないがもしかしたらネットではその傾向というのはより顕著になりやすい側面はあるかも知れない。
ネットにはにわか評論家というのか、頭が悪いくせに一端の評論家ぶってプロやアマを問わずなんらかの活動をしている人をクソミソにけなしてそれで気持ちよくなってしまうという困った人たちがたくさんいる。そういう人たち自身なにかすぐれた創作活動をしていたり有益な情報発信をしている人ならまだ聞く耳の持ちようもあるのだが、ほぼ例外なくそうした人たちというのは自分自身ではなにも価値あるものを生み出したり価値ある情報を発信する能力のおよそない人たちだ。
だがそうした自分自身はなにも生み出す能力がないことへのコンプレックスなのかルサンチマンなのか、そういう人にかぎって辛辣な批評家になる傾向がある。辛辣な上に、最大の問題はそもそもバカだから批判をするにもまるで見当違いだったり的外れなことばかり言ったりすることだ。
だがしかし、あくまでこの人たち自身には自分がバカであるという自覚はない。なぜかというと、バカだからだ。
だから自分たちが的外れで見当違いでしょうもないことを言っているなんて自覚はまるでないままに、そんなものが彼らに少しでもあったならそんな自分自身のネガティブキャンペーンのような真似を大声を張り上げてすることもないと思うのだが、とにかくそういう真似を大声張り上げてしてしまうある意味ではとてもかわいそうな人たちなのである。
さらに、どうしようもない人たちというのはお約束みたいにどうしようもない習性をことごとく持っていて、的外れや見当違いなりに自分の考えを自分一人で主張する程度の気概も美意識もなく、同じような程度のどうしようもない人たちと群れて集団で糾弾するといった生態を持っている。
三人寄れば文殊の知恵、という言葉があるが、これはまともな程度の人間が三人寄ればということであって、先述のようなかわいそうな人たちが三人集まるとどうなるかというと、三人寄れば烏合の衆と言った体たらくになる。
いや、烏合の衆ならまだましなのだが、実際にはこの烏合の衆というのが結構な騒音被害をもたらすのだ。中にはこの騒音だけでノイローゼになってしまったり、鬱症状に陥ってしまう人もいる。
そうなるとついつい人というのはその騒音が世の人たちの声のすべて、頭の悪い嫌な人たちが世の中の人間のすべてだと思ってしまいがちである。だが待ってほしい。世の中そんなに悪くはない。世の中そこまで悪くはないのだ。
世の中そんなに悪くない。理解者ほどシャイなだけ
実際には、案外そういうとき自分が思っている以上にわかっててくれる人というのはいるものなのだ。ただそういう人はあまり声が大きくない。シャイで寡黙な人が多いのだ。
バカほどメス猿を巡って争う猿みたいにキーキーと大騒ぎをするが、道理をわきまえている人ほど基本的に人様によけいな口出しをするような真似を羞恥しているため寡黙になる傾向がある。
また、内心では自分なりになにが正しいかという考えを持ちつつも、猿どもが大騒ぎしているのでビビってしまってその中で反対意見を表明することができない、というような臆病者の腰抜けや、単に自分の考えもなく多数派に従って騒いだり黙ったりしてるだけの日和見主義者も以外なくらいたくさんいるのだ。
くだらないことだとは思うけど、もちろんそんな僕個人の感想なんてものとは別に、今の世の中、特にネットというところでは、何かを面白いと思うとか、素敵だと思うとか、好きだと思うというポジティブな表明をするよりも、くだらないとか、下手くそだとか、死ねだとか、そういうネガティブな表明をするほうがかっこいいと勘違いしているバカがたくさんいる・・・というのは単なる負け惜しみで、現にそうしたネガティブな表明をする奴らのほうが賢いと判断されるみたいな風潮が残念ながらたしかにあると思う。
だがしかし、そんなクソバカバカしい風潮はあるなりに、声こそかけられないかもしれないけど、内心ではあなたのことをわかっていてくれる人というのも潜在的には必ずいるものなのだ。
そこに気づかず、聞こえてくる声だけを聞いて下手に「誰もわかってくれない!」などと絶望して荒れてしまうのはもちろん簡単だが、せいぜい幼児的な虚しい自己満足を一時的に満たすのが関の山で、メリットといえるようなものは皆無だし、むしろそうした態度をとってしまうというのは、言葉には出さないまでもちゃんとわかってくれている人たちに対して失礼なことにもなってしまいかねない。
世の中そんなに悪くないと信じること。もしくは自分を信じること
じゃあどうすればいいかというと、単にバカ共の言うことなんていちいち気にしなければいいだけの話だ。動物園で猿山を見ているのだと考えればいい。繁殖期の猿たちがキーキーうるさいからといって、ノイローゼになったり鬱になったりはしないはずだ。むしろ愛すべき猿たちの生態を観察することに楽しみを覚えるようになればしめたものである。
誰にも認められなくても、的外れだったり納得の行かない批判ばかりされても、そこで嫌になって投げ出してしまったら変な話結局負けだと思う。
そもそもはじめから自分でも大したやる気も情熱もなかったというなら好きにすればいいけど、自分が好きでやっていることだったり、自分で面白いと思うのであれば、そう思う自分を信じて続けたほうがいいと思う。もちろん大きなお世話と言われれば大きなお世話だし、押し付ける気なんてさらさらないから好きにすればいいのだけど、後になって、それも死ぬときになって「どうしてつまらない人間の言うことに負けて自分のしたかったことをあきらめてしまったのだろう」とか思って後悔するようなことになったら人ごとながら目も当てられないし悲惨だなあと思う。
本当にそういう人たちばかりだというわけでもないのに、一部の声ばかりでかいバカとかマヌケの声に嫌になったりうんざりしてしまうのは個人的にはもったいない気がする。多分なにをするにも続けていく上では大変だったりつらいことはたくさんあると思うけど、自分が好きで始めたことのはずなのに、ちょっと人になにか言われて嫌になってしまってやめましたと言うのでは本当に嫌な思いをしただけで終わってしまう。それって悔しくないんだろうか?
バカには言い返したってわからない。だから黙るしかない。泣き寝入りするしかない。それは悔しいことかもしれない。でもそこで負けてしまったらもっと悔しくないだろうか?後になって自分があきらめたりくじけたりしてしまったことの言い訳をそういう人たちの声に求めても、本当にただ言い訳しているだけのつまらない人間のたわ言にしかならないと思う。
どんなに納得できない否定や批判の声にさらされても、あきらめたりくじけたりせず自分の信じる通りに続けていれば、(それが本当に正しかったり価値のあるものであれば)やがて必ず好意的な声をかけてくれる人は出てくる。それがどんなに声ばかりでかいバカ共の声と比べて小さくても、そういう声を無視したりきちんとその価値を評価せずに通りすぎてしまうのではなく、大切にしていくなら、次第次第にそういう声も増えていく。
別にそれだけでただちにバカ共が黙るなんてことはないかもしれないけど、はっきり言ってもうそんなことは問題ではない。一度世界はバカばかりではない、ゴミばかりではない、クズばかりではない、嫌な奴ばかりではない、きちんと自分を見てくれている人もいる、評価してくれる人もいる、道理をわかってくれる人がいる、ということがわかれば、それだけで世界はそれまでとは全然違って見えるはずだ。
そうなってもバカ共は相変わらずバカで、嫌な奴は相変わらず嫌な奴かもしれないけど、もうそんなことはどうでもよくなる。せっかく自分が好きだったりやりたいと思って一度始めたことなら、どうせならそう思えるところまではたどり着かなきゃもったいないと思うのだ。
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世の中そんなに悪くない、と思ってみることから楽しくなる
自分で自分がしていることの価値を信じているなら、途中であきらめたり人間に絶望してしまったりしないでほしい。自分を信じてとことん続けてほしい。いつかわかってくれる人も出てくるし、いつか報われる日がきっとくる。
もちろんその「いつか」というのがきっかり「いつ」だとは言えないけど、数カ月先なのか、あるいは数年かかるのか、最悪千年かかるのか、それはわからない。でもまあ千年かかるなら千年やり続けるだけだ。そのときには千年分の苦労が認められるのだから千年分の苦労が報われるわけだ。
もちろんほんとに千年がんばり続けるのは常人にはなかなか厳しいし、がんばりきれなくて途中であきらめたり死んでしまう根性なしもいるかもしれないが、要はそれくらいの覚悟と心づもりで、それくらいの気概を持とうではないかという話だ。
勘違いしないでほしいがこれは「アイドルになりたいんですけどあきらめなければ絶対に夢は叶いますか?」とかそういう話ではない。そんなことは知ったことではない。歌をうたうのが好きなら歌い続ければいいし、踊るのが好きなら踊り続ければいいというだけの話だ。その実力がプロとして通用するものではない、プロになれなきゃ意味がない、と思うのであれば、むしろ最初からプロになんて向いてないんじゃないかという気がしないでもない。だがそんな話はしてないし知らん。
自分がやりたいことをすること、好きなことをするのに、いちいち的外れな批判や否定を気にしてたんじゃ楽しい生き方ができないよという話だ。もちろん中には的外れでない批判や否定もあるかもしれない。その指摘を受けて初めて気づいたというなら、そのときは適宜改めるなり謝るなり、あきらめてやめるなり判断すればいい。
だがたとえば「面白いかどうか」みたいなことは、「プロとして通用するかしないか」みたいな単純な二択問題とは違う。いや、プロ云々の話ももちろん絶対なんてないわけだけど、「面白いかどうか」とか「正しいかどうか」とかそういうことは特に相手次第の面も大きい。面白いでも正しいでも、自分でそういったなんらかの価値を信じているのであれば、仮に人からは認められなくても続ければいいと思う。それが本当に価値があるなら、誰にも理解されないなんてことはない。世の中そんなに悪くない。
負け犬ほど自分の不遇を世の中のせいにする。僻み根性でいっぱいになる。そうなればあっという間にそいつ自身人様の批判しかできないようなゴミクズのできあがりだ。あまりそんなふうにはなってほしくない。
世の中は自分に何の価値もないのにちやほやしてくれるほど甘くはないし、自分に何らかの価値があるのに誰にも認めてもらえないほど悪くもない。自分の価値を磨くことを疎かにして世の中に評価されることばかり期待してもしょうがないけど、世の中に絶望しきってしまっても自分の価値を磨くことにも意味がなくなるわけだから自分を腐らせてしまうだけだ。
これだけ言ってももし、「私は面白いのに誰もわかってくれない」とか、「絶対俺は正しいことを言っているのに誰も聞く耳を持たない」とか、「こんなに自分は才能があるのに誰も自分のことを見てくれない」、とかって人がもしいたら、面白そうなので僕でよければ教えてくれたら見に行きますwwwwwそれでどう思うかはもちろん僕次第だし、リアクションを期待されても困るけど、とりあえず誰でもいいから誰か俺を見てくれ、私を見てくださいという人がいたら、コメントくれたら見るだけならいくらでも見にいきます(宗教の勧誘とかただのアフィリとかだったら殺す)。
まあとにかく、本当に自分のやっていることが正しかったり面白かったりするなら、ほんとに誰もわかってくれないなんてことは絶対にないよ。世の中そんなに悪くないよ、世の中そこまで悪くはないよ、という話。ほんとだよ???(=^・^=)ワタシヲシンジルノダ…(おしまい)