ブログを始めることにしました
衝動的にブログを始めてみようと思った。衝動だけで生きてきたのでそれもいいと思う。
「衝動的」というのは「なんとなく」ということと同義だろうか?馬鹿なのでよくわからない。なんとなくそれでいいような気もするが、「衝動的にそれでいいような気がする」というのはおかしいのでやっぱり違うのだろう。
わりと今のは自分でも今日の自分は頭いいと思う。
コミュニケーションはハードル高い。幼稚園児とか神かと思う
ブログを始めてみようと思ったというか、僕は以前にもブログを書いていたことがあるらしい。その証拠に新しく開設するまでもなくこんな場所があったからだ。
それでぼんやりと思い出したのは、僕は前にブログで人とコミュニケーションを取ろうと考えたことがあって、メッセージを募集したところ、想像以上にたくさんのメッセージをもらってしまったのだった。
それも「死にたい(長文の要約)」みたいな内容も多く、「死ね」とも「死ぬな」とも「生きろ」とも言うべき言葉を持たず、しいて言うなら「死にたいですよね」くらいの相槌しか打てない自分には荷が重いと思った。
率直に言って答えきれないと思った。そもそも人とのコミュニケーションが苦手な僕は、リアルでコミュニケーションを取るのは大変だろうからと、半分くらいはある種の自分のための訓練のためにそんな馬鹿なことを企んだのだった。
しかし実際にはリアルだろうとネットだろうと、人と向き合うということを完全に舐めていたといえる。そこにこそむしろ僕の根本的なコミュニケーション不全の原因があるのかもしれない。
それはともかくとして、いちいち律儀にすべてに答えたりせず、答えたいもの、答えられるものにだけ答えて適当にやればよかったのだろうが、あいにくこちとら生まれてこの方「適当」というのがわからずに苦悩してきた侍でござる。
すべてに答えられないのであれば、自分が取るべき選択肢は一つだけで、それは「どれにも答えない」ということだ。昔からやることなすこと両極端なのだ。武士だから。
そんなわけで自分から人にメッセージやコメントを募っておいて、いざもらったらもらったで自分の容量を超えて一方的にパンクしてしまうという結果に終わり、そのブログの更新はおろか、なんとなく申し訳なくて気まずくてそれまで続けていたツイッターからも遠のいてしまっていたのだった。
(長い回想、終わり)
無意味さに慣れる練習
別にコメントやメッセージをくれた人たちだって、回答や返事に何か本気で期待していたものがあったとは思わない。悩みの相談をくれたことすら忘れて楽しく暮らしている、という人のほうが多いくらいかもしれない。
それはわからないが、そういった事実とは一切無関係に、壊れるときは壊れるし潰れるときは潰れるのが人間だと思う。というか少なくとも僕はそうだ。というか大体いつも壊れているし潰れている。へちゃむくれだ。
というわけで半年近くどうやって生きていたのかも記憶が脳みそごと溶けて消失するほどひたすらふとんの中で寝て過ごしていたのだった。
今日突然ブログを始めてみようと思ったのは、もしかしたらそろそろ自分の中の勝手なほとぼりが冷めたということなのかもしれない。
まあいい。そんな話は全部どうでもよくて、これから先も全部どうでもいい話。
僕には適当がわからずに両極端だと書いたが、僕のもう一つの悪癖は意味に囚われ過ぎていること、意味に拘りすぎていることだと思う。
自分の中に「意味のないことは書いてはいけない」みたいなこだわりとか思い込みみたいなものがあったように思う。
でもそんなことを言い出した日にはブログに書くべきことや言うべきことがないのはもちろん、僕の人生のどこを見回したって意味なんてものは一つも見つからないのだった。
「意味がないから」といって潔く死ねる高潔な侍だったら苦労はいらない。腹を切るのがこわくてどうしてもできない臆病者だからいまだに武士の恥を晒して苦労しているのでござる。なんなら武士とか侍とか嘘だし。十代前からずっとお百姓だし。
意味が無いことは百も承知で、それでも死ぬのはこわい、生きていたいと思うのであれば、せいぜい意味の無意味さを笑うとか、無意味に意味を見出すとか、そういう無意味な工夫でもするしかない。「意味のためにある人生は無意味だ」みたいな。
そういう無意味なことをたくさん書いてみたいと思った。つまるところ僕は無意味さに慣れる必要があるのだと思う。
純粋さとは無意味であること。純粋でありたい。無意味でありたい
もう少し前向きな感じに言い換えれば、僕は淡々と生きることを学ぶ必要があるのだと思う。ある意味ではそのためのトレーニングの一環として、そしてもちろん本当はそんなのは嘘で一切の意味なんてないのだけど、淡々とブログを書いてみようと思い立ったのだった。
日記を書くみたいに。日記を書くことに意味なんてあるのかと言えば…まあ日記を書いている人たちは意味や意義を見出しているのかもしれないけど、僕にとっては少なくとも今のところ特にない。見つけられない。わからない。
しかし意味なんてないまま、あるいはわからないままに続けていればある日ふとそれと出会ったりわかったりする日が来るかもしれない。やっぱり来ないかもしれない。率直に言って来ない可能性のほうが濃厚だろう。
で、別にそれでいいのだった。最初から意味のために始めるわけではないからだ。
むしろ、「意味があったら意味がない」くらいのつもりで文章を書けたら素敵ではないだろうか、と僕の脳みそにお花畑が広がる。
意味のための文章、意味のための人間関係、意味のための人生、そんなものは全部不純だと思う。
意味なんてなくていいのだ、いや、意味なんてあったらだめだ!純粋さとは意味なんてものを否定し踏み砕き、それをはるかに超越したところにこそあるのだ!…それくらい高潔というか単に大げさなだけの虚仮威しをスローガンにしてブログを書けたらいいなーと思う。
意味があったら意味がない、意味がないから意味がある。そういう無意味なレトリックを溺愛していきたい。
ハンプティダンプティなエンプティでありたい
コミュニケーションは苦手だ。それならそれでいいと思う。いや、よくはないのかもしれないが、苦手なものは苦手なのだからしかたない。得意な人だってたくさんいるのだから、得意な人に任せておけばよかろうなのだ。あえて苦手な人間が「克服するためにがんばってます」なんて痛々しい姿を晒さなくてもよかろうなのだ。24時間テレビじゃあるまいし。愛が地球を救うわけじゃあるまいし。
誰かに語りかけるのは苦手だ。独り言が気楽でいい。誰かを説得しようとする必要もない。そもそも説得しようと語りかけて説得できるわけでもないだろう。あるいはもしかしたら、語りかける必要も説得しようとする必要もなく、勝手に聞いてて「それわかる!」って人もいるかもしれない。
別にそれもどっちでもよかろうなのだ。身もふたもないことを言ってしまえば、他人のことはどうでもよかろうなのだ。
外を向きたくないのだ、今の気分は。人の方を向きたくないのだ、今の気分は。自分の内側へ内側へ、さらに内側に向けて、ひたすらどこまでも潜りまくって引きこもりまくって、モグラのように潜りまくって、最後にはついに潜りすぎて皮膚と内臓がひっくり返るくらいに潜りすぎてしまえばいい。
そうすれば結局内側も外側もないということになる、いや、ならないかもしれないけど、「なる!」って言い切る勢いを大事にしたい。
それに、別に僕ではなくたって、コミュニケーションの達人みたいな人だとしたって、誰かと話したとして、多分話せないことのほうが圧倒的に多いと思うのだ。で、本当に話したいのは話せないことの方だったりするよね…(寂しげな微笑)、みたいな、そういう群衆の中の孤独みたいなものってありがちだと思う。
で、僕にとっては「まあ、それが生きるということだ」とか小粋につぶやきながらストレートウイスキーを一息に飲み干してみせて、今日も都会(まち)の中で生きていく…みたいなハードボイルドな生き様には特に興味もないのだった。
むしろ徹底的にぐずぐずに砕けて飛び散る生卵でありたい。ハンプティダンプティなエンプティでありたい。
つまりこれは、そういうブログです。ということを律儀に再定義したりしながら、ブログを書いたり書かなかったり、始めてみたりまたやめたりしてみようと思う。