まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

正解のない時代の歩き方

正解のない時代の歩き方について書いてみました。

正解のない時代をどう生きるか

最近増殖する悪意とか嫌われる覚悟のある人間は強いと言った自分の中では関連性の深い記事を立て続けに書いています。というのもあまり歓迎できない個人的な悲しい事情から人間の悪意、特にネット社会における悪意のあり方みたいなことについて考えずにはいられなかったからです。

 

「正解のない時代の歩き方」という大げさなタイトルはまったく要領を得ていないのでなんじゃらほいと思っている方がいるかと思いますが、要はそんな面白うてやがてかなしきインターネッツの中で、自分はどんな風に生きていけばいいのか、もちろん「ネットなんてただのツールでその中で生きるもんじゃねえよバーカ」って方は正しいと思うのですが、そんな正解通りに生きていけない自分は、ネットの中でどうあればいいんだろうということを考えてみた文章です。

ですのでこれは僕自身はこういう態度で生きていこう、というただの態度表明、ある種の決意とか自戒みたいなものであって、間違ってもこれが唯一の正解だとかあなたもこんなふうに生きなさいみたいな話ではありませんのでご安心を(?)。

悪意への対処法を身につけておくことは悪意の避け方以上に重要

ネットを利用している人なら自分が直接的になんらかの被害に遭ったかどうかはともかく、ネットの世界では特殊な形で悪意が増殖しやすく、匿名を笠にきて悪口や誹謗中傷を垂れ流すような人たちがいることについてまったく知らない人はいないと思います。デマや流言飛語もあっという間に広まってしまいます。

また炎上や誰かを叩くというのも多くの人たちの大好物です。仮に「正解」などというものがあるとして、その正解を選べば叩かれないのかというと、下手をしたら今度は「正解を選びやがって」ということで叩いてくる人だっているかもしれません。冗談のような話ですが僕はそういうことも実際にあると思っています。

結局どんなふうに生きたところで悪意を100%避けて生きていくことはできません。だとするなら本当にそれが唯一の「正解」であるなんて言えるものが果たしてあるんでしょうか?

僕はそんなものがあるとは思いませんが、それでも自分なりに答えを出すことはできますし、また答えを出していかなくてはなりません。それならそれが正解だろうと不正解だろうと、自分自身が納得できる答えを出して、納得できる生き方がしたいと思うのです。

もちろんそもそも論として「いかにして悪意を避けて通るか」ということも大切なことですが、悪意への対処の仕方を身につけておくことはいかに悪意を向けられないようにするかということ以上に重要なことだと思います。なぜならどんなに悪意をおそれて気をつけて生きていても、不慮の事故のような形で悪意の標的にされてしまうことは残念なことに往々にしてあるからです。

「出る杭は打たれる」と嘯きながら嬉々として出る杭を打つ人たち

また、そうしたことを考えていると必ず、自分は大した悪意も向けられない安全な場所に身を置きながら、「そんなことを気にする奴は最初から向いてない、やめちまえ」みたいな知った口を偉そうに叩いてくる人もいるのですが、僕はそんなずるい人たちの言うことをまともに聞く必要はないと思います。

「メンタル弱いならやめちまえ」というのはたしかに乱暴ではあってもある意味で正論なのかもしれませんが、はじめから大して本気でなかった人を怪我する前にあきらめさせてあげる以上の意味はないと思います(それはそれでいいことなのかもしれませんが)。

やる気はある。自分にもなにかできることがあるならやってみたい。でも理不尽な悪意を向けられることはやっぱりこわい。という正常な人間ならあって当たり前の感覚に対して、なぜかそれを言うと「甘ったれている」という趣旨でぼろくそに叩かれさえします。

すでに人の悪意に傷ついている人のことを「お前が弱いだけ、向いてないだけ、それなのにバカが意気がって無謀なことをするからだ、ざまあみろ」と言わんばかりの叩き方をしているのを見ると、死にかけている人を集団リンチしているようで薄ら寒くなります(もちろんそういう人からしたらこういう僕の感覚も女々しいだけなのでしょうが)。

しかし仮に実際それが甘えなんだとしても、そんなことを言える資格のある人が一体どれほどいるんでしょう。自分自身が同じような辛酸を嘗め、それでもがんばって困難を克服する経験をしてきた先輩としてアドバイスをしているならともかく、そのほとんどが自分自身は恐れをなして挑戦もしないししてこなかった人間のやっかみでしかないように思います。

「出る杭は打たれる」というのは残念ながら現実としてそうだとは思いますが、それがさも当たり前だというように暗黙の了解になっていること自体が個人的には異常なことだと思いますし、社会全体・世の中全体が「出る杭は打たれる」というより「出る杭は打つ」という風潮であることになんだか暗澹とした気持ちにさせられてしまいます。


「出る杭」な君の活かしかた

理不尽な世の中でも自分の身は自分で守らなくてはいけない

でもまあそれはただの愚痴です。というのもその感覚が正しいか正しくないかはともかく、現実として世の中はそうなっているからです。異を唱えるのも愚痴をこぼすのも勝手ですが、それで少しでも世の中が変わるなんて無邪気に信じられるほどバカにも脳天気にもなれません。

「戦争なんて絶対におかしい!」といくら戦場で叫んでも、眉間を撃ち抜かれたらそれでおしまいです。戦場でどんなに戦争の理不尽さや異常性を訴えても、現に自分がそういう場所にいる以上、そうすることが自分の身を守ってくれるわけではありません。

そんな世の中は嫌だと思おうと、感情的に納得できなかろうと、それが現実である以上、自分がそんな納得できない環境で撃ち殺されたくないなら自分の身は自分で守らなくてはなりません。

そこで悪意の無菌状態を目指すなら僕は100%確実に失敗するだけだと思います。なぜなら人のいるところにはどこへ行っても悪意がつきまとうからです。どうしたって悪意は避けられないことを受け入れて、悪意を肥やしにするくらいのタフで強靭なメンタルが必要です。

悪意に負けるのは悔しいから傷ついても歯を食いしばって耐えるだけ

とは言っても人のメンタルの強さなんて所詮たかが知れたものです。前にメンタルに強いとか弱いとかないという記事でも書いたのですが、甘ったれた人間がいいわけにしばしば口にする「私はメンタルが弱いから」とか「あなたはメンタルが強いからうらやましい」なんていうのは本当に無価値なたわ言なんじゃないかと思います。

歯を食いしばって悪意に耐えている人間の苦労を見ようともしないで、まるで生まれつきメンタルの強さに大きな個体差があってずるい、みたいな言い方をするのはそれこそ卑怯でずるくて甘えていてどうしようもないと思います。

僕はある面ですごい負けず嫌いなので、昔から理不尽が通って道理を踏みにじったり、間違っていることが正しいことをぶっ潰したり、そういうのが大嫌いで自分のことであれ他人様のことであれ悔しくて泣いてばかりいました(女々しい)。

しかしそれが現実である以上、泣こうと喚こうとなんの意味もありません。でも自分自身のことであれば、自分自身の態度であれば、自分の気持ちひとつでなんとかできます。ついに力尽きて屈してしまうまで意地でも立っていればいいのです。

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※画像は決して膝など地につかぬことで知られる拳王ことラオウ氏。

僕は嫌な奴や悪意には絶対に負けたくないと思います。頭が悪いとか青臭いとかそういうことは自分でも思いますが、頭が悪くて青臭いのが自分という人間なんだから仕方ありません。

でもそれは悪意に対して徹底抗戦するとか、そのためには相手をも上回るさらなる悪意という名の魔闘気を身にまとうとか、そんな北斗琉拳的な喧嘩上等な生き方ではありません。

戦わないことで僕は戦う

僕は極力悪意とは戦わないことにします。戦っても不毛だからです。もちろん悪意を向けられるのが自分だけなら自分が我慢すればいい話ですが、関係ない人まで巻き添えを食らわすように悪意を向けてくる相手に対しては戦わないといけないこともあるかもしれません。でもあくまでその悪意の対象が自分のことだけであるなら、嘘や出鱈目の誹謗中傷であってもできるかぎり黙殺するようにしようと思います。

悔しくないわけではありません。というか、調子に乗って好き放題言われっぱなしで悔しくないわけがありません。少なくとも僕はいつもすごく悔しいです。でもそこでなにか言い返したり、それは違うと言って自分の正当性を主張したところで、はっきり言ってどうせそんなことにきちんと耳を傾けてくれる人なんてほとんどいません。

むしろそうやって悔しがる様子や、自分自身への不甲斐なさに歯を食いしばって泣くのをこらえている様子を見て楽しそうに笑っているような人たちです。

少なくともそういう悪意を向けてくるような人間や、事実を確かめようともせずに誰かの噂や悪口を聞いて簡単に信じるような人たちが耳を傾けることは絶対にありません。だから言い返すことや自分の言い分を主張することに自己満足以上の意味なんてないんだと思います。

だったら僕は悔しくてもなんともないふりで黙殺します。気にしてても気にしてないふり、傷ついても傷ついてないふりで淡々と自分の道を歩いて行くしかありません。

自分は自分の信じる道を真っ直ぐに歩いていくだけ

でも少数ではあっても絶対にわかってくれている人というのはいますし、こちらの方で相手にしないで黙々と歩いているのにいつまでもしつこく悪意を向けてくるような人に対しては、そのうち「こいつのほうがおかしいんじゃないのか」ってことに気づく人も出てくると思います。

こっちの方で悪意を向けられて悔しいから言い返してやろうなんてしなくても、逆にこちらの方で一切相手にしないで粛々とした態度でいれば、そういう人たちが勝手に自滅して消えていくということもあるかもしれません。

もちろんいつもそんなふうにうまくいくことは期待できませんが、相手の悪意に染められてこちらまで相手と同じレベルに身を落としてしまうというのでは最悪だと思います。

結局世間や他の人のことなんて関係なくて、言いたいように言わせておけばいいのだと思います。なんて言わなくても言いたいように言うのが世間であり他人です。だったらいちいちそこに対して噛み付いてみてもしかたがありません。

結局大事なのは自分自身の態度です。どんな誰であれ他人はコントロール不能ですが、自分の態度を決めるのは他でもない自分です。悪意ある人の挑発に誘い出されて自分まで悪意に染まって言い返すなどしたところで、それで相手もいくらかは嫌な思いをするかもしれませんが、そうなれば相手はさらにこちらに悪意と憎悪を向け返してくるだけでしょうし、第一そんなことをして一番嫌な思いをするのは自分自身に決まっています。

「言いたい奴には好きに言わせておけばいい」くらいの広い心を持つなり、あるいは僕のようにそんな広い度量は持てないなりに歯を食いしばってでも強がるなり、とにかくそういう人たちのことは気にせず、相手にせず、たとえ本当は気にして傷ついているとしても相手にせず、自分自身がありたいような自分であり続けるということ以上に大切なことはないんじゃないかと思います。

結局最後には自分自身のあり方への責任は自分で引き受けるしかなくて、どんな嫌な奴らにだって押し付けることはできないわけですから。親が毒親で~とか、恋人がろくでなしで~とか、それが事実だったとしても自分の人生は1ミリも変わらないですから(悔しいですけど)。

だったら僕は沿道や後ろから様々な悪意や誹謗中傷を投げつけられても、そちらを気にしていちいち立ち止まったり振り返ったりするのではなく、ただ黙々と自分の道を前に向かって歩いていきたいと思うのです。

そういう僕の選んだ僕個人の生き方に対しても、言われっぱなしでダサいとか、なにも言い返さないのは図星だからなにも言い返せないんだろうとか、そういうことを言ってくる人もいるだろうとは思いますが、そういうリアクションも含めて、なるべく雑音は相手にせずに淡々と、自分がそうありたい自分で生きていけたらいいなあと思います。長くなったけどおしまいです!


君たちはどう生きるか (岩波文庫)