横綱が猫騙しを使ったらダメみたいな風潮
大相撲11月場所10日目に、横綱の白鵬が関脇栃煌山に対して猫騙しを2度行って勝利した件がちょっとした話題になっているようです。
その件に関して、まったく個人的に僕が「相撲ってこういうところが嫌いだなあ」と思っていることに関して書いてみます。
横綱白鵬の猫騙しは是か非か?
横綱白鵬が関脇栃煌山に対して猫騙しを2度行って勝利した件が話題、といっても「今のは見事なタイミングだった!」とかあまり肯定的なものではなく、「横綱が猫騙しを使うとはけしからん!」みたいな批判や苦言が多い模様。
藤島審判長からは「まさかという感じ、普通は小兵が奇襲でやるもの」と指摘され、北の湖理事長からも苦言を呈されたとのことで、どうやら相撲界において横綱が格下相手に猫騙しを使うことは極めて異例のことであり、そしてそれがそのまま「けしからん!」という批判や苦言につながっているらしいことがわかります。
ちょっとネットの声を調べてみても、相撲ファンの人なのかわかりませんが、「横綱なのにこれはひどい」とか、「横綱なんだから正々堂々と勝負しろよ」といった否定的・批判的な声が散々に見受けられました。
まあ人がどう思おうとその人の勝手なんですけど、そういう意味では僕がどう思うかも勝手なわけで、僕は個人的に相撲界(というか主に相撲協会)のこういうところがなんか陰湿で気持ち悪くて嫌だなあと常々思っています。ていうか横綱の猫騙しが非だとまで言うならルールで禁じ手にしろよ!
立会いの変化で記憶に残る若乃花‐雅山戦
今回は横綱白鵬が猫騙し、というわりと珍しい技を繰り出したために話題になっているわけですが、相撲では立会いの変化というのも一般に嫌われているようです。
立ち会いの変化、で僕の記憶にいまだに強く残っているのが、今回の白鵬とは無関係な上に僕が子供の頃の話で恐縮なんですけど、当時割りと将来の昇進ぶりを期待されていた雅山と、たしかお相手は最近元奥さんに不倫がバレたとき「お前も不倫すれば?」と言ったとか言わないとかで話題(?)の当時横綱だった若乃花だったかと思うのですが、若乃花に立会いで変化されて、あっさり負けた雅山が激怒して怒りを露わにしていたのがいまだに印象に残っています。
子供だった僕がそのとき感じたのは、とにかく雅山という力士の、というか一人の男としての、一人の人間としての単純にどうしようもないダサさ、死ぬほどのみっともなさみたいなものでした。
それを観ていた観客なり雅山のファンなりの第三者が、「いや、あれは若乃花はずるい!」と言うのは勝手だと思うのですが、負けた当の本人である雅山が、変化についていけなかった自分自身の未熟さという一番の原因は棚に上げて、「横綱に立ち会いに変化されて負けた!卑怯だ!横綱の風上にも置けない!(とまでははっきりは言ってませんが)」と怒り狂い、それを恥じるでもなく、この怒りは当然であるといった傲然としたていでキレまくっていたのが印象的でした。
相手が横綱だろうとなんだろうと、「負けて悔しい」という感情は当然であり、まして一対一の勝負の世界に身をおく人間であればそういう苛烈な気持ちというのはむしろ好ましいものだと思うのですが、その悔しさを自分で飲み込もうとするでもなく、「負けたのは相手が卑怯だったからだ!」と言わんばかりの相手への怒りとして表現してしまうというのは、僕には当然の怒りでも何でもなく、ただのみっともなくて恥ずかしい、未熟な責任転嫁の逆ギレにしか思えませんでした。
相撲の「押さば押せ、引かば押せ」神話
しかし、別にこの記事でもうとっくの昔に引退している雅山の悪口が言いたいわけではなく、まさにこのときの雅山の態度に象徴的なものが、相撲界全体の雰囲気として否定できなくあるよなあ、そういう雰囲気って嫌だなあ、という話です。
まあ相撲の極意(とされているもの)に、「押さば押せ、引かば押せ」なんて言葉があるくらいなので、それが本当に極意かどうかはともかく、「かくあるべき理想の相撲」みたいなものの精神性がだいたいどのようなものだと考えられているのかということはなんとなくわかります。
しかし、本当に力士たちがみんながみんなバカの一つ覚えみたいに押しの一辺倒になってしまったら、それはそれでさぞかしつまらないことになってしまうと思います。単純な力比べだけになってしまったら、おそらく見ていてもつまらないし、そもそもやはりどうしたって大きくて体重のある力士があまりにも有利過ぎて一方的な展開になってしまい、相撲という競技とか興行自体が立ちゆかなくなりそうな感すらあります。
いや、もちろんそもそもが大きくて体重のある人間が、相対的に小柄で体重のない相手より圧倒的に有利、なんていうのは格闘技における常識というよりは大前提で、だからこそ相撲以外のほとんどの格闘技では、ボクシングやレスリングはもちろん、日本固有の柔術から発展した柔道なんかでも細かく階級を分けて体重別で競技を行うというのが常識なわけです。
もちろんそれはそれで意味のあることだと思いますし、ヘビー級のボクサーがストロー級のボクサーを一方的に殴り殺しているところや、柔道で軽量級の選手が重量級の選手に果敢に背負投を試みるもびくともせず、力任せの裏投げで畳に叩きつけられる、みたいなむごたらしいシーンはあまり見たいとは思えません。
それこそオリンピック競技になるような国際的な競技やスポーツとして行うのであれば、体重によって階級を分けるというのは当然の措置であろうと思われます。
「技」は相撲の醍醐味の一つ
しかし、相撲というのはそういう意味ではたしかにある種特殊な格闘技であることは事実であり、力士間の体重の差には相当の幅があり、またそれが競技への有利不利に如実に影響するにもかかわらず、あえて体重によって階級を分けたりはしていません。
もちろん今後もすることはないでしょう(国際的にスポーツ化することがあればその際は別かもしれないけど、日本で行われている大相撲が体重別になることはないと思います)。
なぜならまさにこの巨漢力士も小兵力士も文字通り一つ土俵の上で戦って勝敗をつけるというのが相撲の醍醐味の一つだからです。普通ボクシングや総合格闘技などでパウンド・フォー・パウンドと言ったら、はっきり言ってほとんど「ぼくのかんがえたさいきょうのガンダム」みたいなバーチャルなシミュレーションでしかありませんが、相撲は本当に優勝力士がその場所のパウンド・フォー・パウンドと言ってもよく、それは相撲の格闘技としての醍醐味の最たるものと言ってよいと思います。
単純に重いほうが常に勝つようなことではつまらないわけで、そこに「力」や「体」とは別に「技」という要素の必要性が出てくるわけです。
その技次第では格下の小兵力士や曲者力士が、圧倒的に体重差のある格上を相手に勝ったり横綱相手に金星をあげたり、そういうことがあるから相撲は面白いんではないだろうかと思います。
前置きが長くなっちまいましたが、ここでようやく今回の横綱白鵬が関脇栃煌山に対して猫騙しを2度行って勝利した件がなぜ批判されるのかという話に戻ります。
藤島審判長からも「普通は小兵が奇襲でやるもの」と指摘されている通り、猫騙しという技は、まさに本来「力」や「体(重)」という容易には覆し得ない要素をそれでもひっくり返すための「技」なわけです(猫騙し自体はあくまで相手の虚を突くための「技術」であり、決まり手には当然なりません)。
だから例えば僕なんかが子供の頃だと、舞の海って力士が代表的な技で勝負するタイプの小兵力士で、大きな体重差のある相手に立ち会いの瞬間すごい跳躍(八艘飛び)をして戦力差を覆して勝ってしまったり、そりゃもう翌日の新聞のスポーツ欄のネタも決まりだなってくらいファンも湧いていたし、やっぱり小兵でも華麗に技で魅せてくれるタイプの力士がいると、間違いなく相撲人気にとってもプラスだったと思いますし、少なくとも舞の海に対して「相撲で八艘飛びとはけしからん!」という声は聞かなかったように思います。
【技のデパート】 舞の海 好取組集 【 相撲 】 - YouTube
つまり、必ずしも常に単純に立ち会いの変化や今回の件でいえば猫騙しという技自体が否定されるというわけではなく、「小兵力士が使う分には」とか、「格上相手に使う分には」みたいな、ある種の文脈、暗黙の了解みたいなものがあるものと察せられます。
さらに言えば、今回白鵬が批判されている声を見ても、枕詞のように「横綱が~」とか「横綱なのに~」といった文言から始まる点からも、横綱に対してはことさら重い責任だか期待だかが(多分に一方的に)担わされていることがうかがえます。
「暗黙の了解」とかいう不透明で不公正な裏ルール
そこがまさに僕が相撲に感じるなんか嫌だなあと思っているところで、競技なら競技できちんとルールにして明文化するなりすればいいのに、しない。しないならしないであくまでそのルールに則った上でのことは認められて当然のはずなのに、後出しジャンケンのように後から日本の『文化』とか『精神性』みたいな言葉を持ち出してきて、ねちねちと「暗黙の了解」を破ったことに対する非をあげつらうのってどうなんでしょう。
っていうかそもそもそれは非ではないと思うのですが、自分たちの頭の中にある「相撲とはこういうものである」、それもどうやら彼らの中ではものすごくその理想とは崇高で深遠で神聖なものらしいのですが、それにそぐわないとなると途端に「精神性」とか「品格」とかいう主観的で曖昧な言葉を持ちだしてお題目のようにブツブツ言い出す。
そこまで言うんだったら相撲協会はもっと八百長問題をきちんと追及…あ、相撲界が根幹から終わっちゃう、やっぱこの話はやめとこう、すいません、何でもないです…。
とにかくそういう「暗黙の了解」みたいなものって、こと競技として行っているものに関して言えばかえって不透明で不公平、不公正なものだと思うのです。それがきちんと定められたルールでさえあれば、その競技に参加する者であれば誰もが等しく守らなければいけません。これは当然のことですよね。
でも、それがルールとして明文化されていないとどうなるかというと、今回のようなことがあったとき、必ず「けしからん!」と言って目くじらだか青筋だかを立ててお怒りになられる方々が出てきてしまうわけです。
そもそも今回白鵬は、「悪いことをしてやろう」とか「汚い手段や卑怯なことで勝ってやろう」と思って猫騙しを繰り出したわけでは当然ないと思います。少なくとも白鵬の中では「(これはルールの範囲内でのことなんだから当然)OKである」という判断のもとで見事に猫騙しを二度も決めて勝ったのでしょう。
それは勝利を決めた後のいかにも「どうだ、やってやったぜ」という得意げなドヤ顔からもうかがえます(個人的には猫騙し云々は見事だったけど、むしろマナー的なことを言うなら勝った後の懸賞金を掲げてみせたりの不遜な態度のほうが感じが悪くて残念に思いました)。
しかしそれに対してもちろん僕のように「うわー、今の猫騙しは見事だったなー」というふうにわりと好意的・肯定的に見ている人も一定数いる反面、「横綱のくせに許せん!」みたいな人もいるわけです。もっと言えば後者のような否定的・批判的な声というのは、なんとも不思議なことにそもそも相撲になんてろくすっぽ興味ないしそもそも取り組み自体見てないんじゃないか?みたいな人まで噂だけ聞きつけて「なに!それはけしからん!」と言って一緒になって叩き出したりするから摩訶不思議です。誰でもいいからどこかに叩ける相手を見つけたくてしかたないというような、ほとんど集団的な狂気に近いものを感じます。
相撲ファンが個人の好き嫌いであの技は好きだとか嫌いだとか、あの勝ち方は俺は汚いと思うとか、そういう個人の感想のうちは別にいいと思うのですが、「横綱にふさわしくない」とか「横綱としての品格が足りない」とか、そこまで偉そうなお説教に強制力を持たせようとするなら、「暗黙の了解」なんて不透明なものは逆に不公正でしかないと思うのです。
Ah もう 横綱もつらいよね! …ゴ・メン
余談ですが猫騙しという技は相手の虚を突いたり虚を作り出すための技術なので、普通出すとしても立ち会いの瞬間に一発お見舞いするくらいのことが多いので、栃煌山の振り向きざまの二発目というのは、そういう心理的な虚をも見事なタイミングで捉えていて、実際一発目の猫騙しより二発目の猫騙しのほうが効果的で見事だったと思います。
まあだからといって見事な猫騙しを決めて勝利した白鵬は誉められこそすれ云々、とまでは言いませんし思いませんが、少なくともよってたかって批判されたり怒られたりするようなことではないんじゃないか、ていうかそんな怒ったりするくらいなら最初からルールに定めとけよアホがと思ってしまいます。
むしろ個人的にはさすが横綱、というかさすが白鵬、猫騙しみたいな技もこんなに見事に決めて見せて、引き出しの多さを披露してくれて面白いなーと思いました。こういう横綱の技の多彩さみたいなものに盛り上がるんじゃなくて、「がっかりした」とか「けしからん」といった反応のほうが多勢を占めるのだとしたら、どのみち相撲界の未来は暗い気がしてしまいます。
そもそも猫騙しというのはゲームのチートとかハメ技的な、それを使えば単純に相手を圧倒できるというものではありません。藤島審判長の「奇襲みたいなもの」というのはともかく、世間でよく言われるような「不意打ち」なんかではありません。というか、もし猫騙しが不意打ちだというなら、土俵に上がって立ち合ってから不意打ち食らうような隙を作ってじゃねえよマヌケ!という話になってしまいます。
むしろそう簡単には決まらないし出したものの不発に終わってあっけなく負けてしまうこともある(そして普通に負けた以上に恥ずかしい思いをする)からこそたまにしか目にする機会もないわけで、その猫騙しを見事に二発とも決めてみせたわけですから、横綱としての品格云々みたいな話を抜きにして白鵬の技術的なことだけを言えば文句なく見事な一番だったと言えると思います。
勘違いしないでほしいのは、それはあくまで僕の「個人的な」感想だということです。だからそういう意味で自分も一相撲ファンだという人が、「俺は横綱が猫騙しを使うようなことは卑怯だと思うし、そういう相撲が見たいわけじゃない、俺が見たい相撲はデブ二人がバカの一つ覚えみたいに勢いよくバチコーン!と真正面からぶつかり合う相撲だけだ!」と主張されるのだとしたら、自分は共感したり同意はできないなりに、「へー、そうなんですね」と思うだけです。
僕が「こういうところが相撲界の嫌なところだ」と思うというのは、そういう僕自身含めた無責任な相撲ファンやお茶の間の視聴者の単なる好き嫌いの感想ではなく、親方衆だとか相撲協会だとか、そして何よりあのいまいちどういう基準で選ばれてるのか僕には理解できない横綱審議委員会とかいう偉そうな人たちの不思議なくらい上からの御託や人格的なことにまで立ち入ったお説教の数々が、なんか僕は嫌だなあと思うのです。
もちろんその言葉は僕自身には1ミリも関係してないわけですが、特に何の思い入れもない白鵬なり他の横綱なりに対して、「はぁー、また偉そうに上から難癖つけられて可哀想になー」と同情してしまうことが多々あるほどです。
先にも触れた相撲というものの他のスポーツや競技との違い、特殊性という意味で、神道的な文化なのか何なのか、ある種横綱には人ならざる神のごとき存在たることが求められる、という建前はなんとなくわからなくもないのですが、そうは言っても実際白鵬にしても他の歴代の横綱にしても神ならぬ生身の人間なわけですから、長いこと大横綱の名前をほしいままにしていたが実は注射(八百長)の常習犯だったとかならともかく(だ、誰のことを言っているんだッ!?)、ルールに則っていてすら親方衆や相撲協会のご老人はともかく、横綱審議委員会とかいうわけのわからん神ならぬどころかかつて力士であったわけでもない連中に偉そうに「(人格的に)未熟」だの「猛省を促したい」だの言われたら、そら腹も立つよな~ってことは少し思ってしまいます。
ルールに則ってても怒るくらいなら横綱の立会いの変化や猫騙しは禁じ手にすべき(皮肉です)
僕だって別に「スポーツなんだからどんな手段を使っても勝ちさえすればいいだろうが」なんてことは思いません。ましてや相撲という国技の矜持(そんなものがほんとにあればですが)として、ただ勝てばいいというのではない、内容も問われるし、しかもそれが横綱ともなれば要求も厳しくなる、というのはわかる気でいます。
しかし、その際要求される「正しさ」みたいなものが一体何なのか?ということです、「正々堂々」なんて誰にとっての正々堂々なのかもわからない曖昧な言葉ではなく。だって正々堂々というのなら今回の件でも別に白鵬はルールを破ったり反則を犯したわけではありません。相撲という競技に定められたルールに則って戦って勝っただけです。
もちろんそれでも「いや、猫騙しは正々堂々としていない、卑怯だ!」という人がいるのもわかるのですが、それはあくまで個人の感想ですよね。
そんな主観的で曖昧なもので判断が分かれたりケチをつけたり批判したりするくらいなら、そんな不公正さの原因となる「暗黙の了解」なんて汚い考えは捨てて、「横綱や格上力士が使う場合は猫騙しは禁じ手とする」くらいのルールなりの形で明文化した方がまだましだと思います。
もちろんほんとにそんなルールになってほしいとは思いませんが、「ルールではない暗黙の了解である点にこそ日本の文化なり相撲の精神性なりの真価があるのである云々」といったような、御大層な言葉を大義名分に使っただけの汚い言い訳を盾にいつまでもてめえらの物差し一つで「横綱の品格」だのにケチをつけるような真似は、よほど下品で恥ずべき卑しいことだと思うのです。
そんでもってついでに言えばそういう不透明なこといつまでもしてると相撲自体の衰退にもつながりかねな…あれ???もしかしてもう手おく…げほっ、げほっ!!!!
だいたいが「暗黙の了解」なんてものは厳密に共有された明文化されたルールなわけではなく、所詮多分に個人の勝手な信条や思い込みでしかないため、それぞれに勝手な言い分があるもんだから大変です、いや、人それぞれに相撲内容に対していいとか悪いとかの感想があるのは当然なんですけど、普通他の格闘技やスポーツであればそうは言っても最終的には勝敗という目に見えた結果がすべての世界なわけで、それこそ若乃花に立ち合いを変化されて負けた雅山みたいに、総合格闘技で負けた人間が相手の戦い方について「打撃でやりたかったのに寝技に持ち込まれた!」とか言ってキレたりしてたら完全にただの馬鹿だと思われるのがオチなのですが、これが相撲になると「内容」とかいう多分に個人の主観や考え方によって違いの大きい要素がときに勝敗という結果以上に問題にされてしまうことが多々あり、そのことには昔から何とも言えないもやもやを感じておりました。
立合いの変化に関しても「横綱が格下相手に変化するのはみっともない」くらいの主張なら僕にも十分理解できるのですが、逆に「(格下が)横綱相手に変化するなんて失礼だ」みたいなことを言う人もいたりして、いちいちそういういろんな人たちの勝手な信条でしかないものを「暗黙の了解」だと言って押し付けられても、イチャモンつけられる方はさぞかし息苦しいことであろうと、わたくし他人事ながらご同情申し上げる次第であります。
「ルールには則ってるけどあのやり方は卑怯だ」なんて難癖のつけ方は、それこそ僕にはだったら相撲協会はそんなルール変えろよと言いたくなるような卑怯でずるいものに思われるのですがどうでしょう。
相撲協会や横綱審議委員会の姑体質が気に食わない(唐突)
まさかここまで書いといて今更言うことじゃないかもしれませんが、そもそも大した興味があるわけでもない大相撲や横綱白鵬に関して、こんなに長い1万字超の記事になってしまうとは思いませんでしたが、「そもそも大した興味があるわけでもない」理由というのが、まさにこの記事で書いたような「文化」とか「精神性」とかいうわけのわからんもんを自分たちに都合いい文脈でだけ後出しジャンケンのように持ち出してきて、外国人力士(に限った話ではないのだろうけど、どうしても現状外国人力士ばかり活躍しているのでなおのことそういう印象になってしまう)にとやかく難癖をつけてお説教をする、という相撲協会の体質が僕にはものすごく陰湿なものにしか思えないからです。
もしそんなものが日本を代表する文化だったり精神性だというのなら、僕はむしろ自分が日本人であることが誇らしいこととは思えず、それどころかその女々しさとか陰湿さみたいなものを恥ずかしくすら思うし、それくらいなら後腐れ無いようにルールにしろよって思います。
まあ先述したように、相撲という競技が歴史や成り立ちからくる特殊性の問題で、一概に他の格闘技やスポーツと一緒くたにして「勝ったほうが正義」的には語れないことは僕も理解しているつもりです。
ただ心技体とは相撲以外の武道やスポーツでもよく言われることではありますが、普通それらは相手に勝つという目的遂行のための手段としてのメンタル(心)だったりテクニック(技)だったりスピードやパワーといったフィジカル(体)のことを指すだけなのに対し、相撲ではこの「心」の部分を「精神性」なる言葉の名のもとに相撲内容に求めようとする風潮が少なくとも無視できない程度にはあるように見受けられます。
しかしその結果がたとえば負けた側の人間の自分の未熟さを棚に上げての「横綱なのに変化しやがったから負けた!」といって恥ずかしげもなく怒り狂うような態度を容認しているのだとしたら、それこそ力士の「心」だの相撲の「精神性」だのって何なのよ?って思ってしまいます。
理想の相撲の体現者としての横綱相撲や、それを期待されている横綱としての責任というのもわかりますが、猫騙しだろうと立会いの変化だろうと、ルールに則った技や技術である以上、それ自体は否定されるものではなく、むしろ「力」や「体」といった要素と並んで相撲という競技・格闘技を支える根幹的要素の一つであり、たとえ横綱であっても多彩な技を見せてもらえたらうれしい僕のような人間も決して少なくはないと思います。それを否定するようなことは相撲という競技自体から力を奪い、魅力を奪い、当然人気も奪い、自分たちの首を絞めて弱体化させるようなことにしかならないのではないでしょうか。
どうも相撲というのは日本人特有のものなのかどうか知りませんが、判官びいき的な体質が強く出ている感もあり、まずは負けた側や不甲斐ない成績しか残せなかった者を戒めるとか檄を飛ばすというのではなく、勝った側の内容を責めたり強い横綱の素行を問題にしたり、あまりにそんなのばっかりな気がしないでもありません。相撲協会や横審のほうがよほど品性下劣だと思います。
強けりゃいいだろとか結果出してるんだから文句言うなということではありませんが、あまりに話題に華がないというか、重箱の隅をつつくように横綱の素行や品格に口を出したり、上から批判的なことを言うばかりで、相撲道だかなんだか知りませんが単に抑圧的なだけで厳しさというものを勘違いしている感があります。そこまで厳しさを口にするならまずは自分たちが八百長問題という闇にきちんとメスを…上から叩くばかりで強い力士が育つような土壌がないようにも感じます。
その結果が今日の外国人力士の台頭と日本人力士の不振につながっているのだ、とまでは言いませんが、こういう「文化」だからとか「精神性」だからとか、なにかこういうことがあったときだけそういう言葉を持ちだしてきて「暗黙の了解を破ってけしからん!」、みたいなことを言うくらいなら、まだいっそ「横綱(あるいは格上力士)は格下相手に猫騙しを使ってはいけない」とルールにして明文化したらいいのではないでしょうか。
もちろんほんとにそうしろとかそうしてほしいって話ではありません、僕の感じる相撲界なるところのすごく変で陰湿でバカバカしく感じられる部分に対する単なる皮肉です。
明らかにマナーにもとる行為をしたとか、ルールに違反したとかいうことであれば、ましてやそれが他の力士の規範となるべき横綱がそういうことをしたとかいうことであれば、特別厳しく罰せられたり叱責されるというのもわかりますが、たとえば猫騙しという技を見事に決めて勝利を収めたことに対して、相撲協会だの横綱審議委員会の皆様だの、お偉い方々からよってたかって批判だの苦言だのばかりされていたら、それこそ白鵬じゃなくても(もちろん朝青龍じゃなくても)誰だって納得できないし不満に感じたりストレスが溜まったり、かえって反抗的にもなりたくなるんじゃないかなーって思うんですけどどうでしょう。
今回の件で横綱審議委員会のお偉い皆様が横綱白鵬に苦言を呈した、という話はまだ今のところ聞いていないのですが、あいつらのことなのでそのうち横審の誰々が猫騙しの件でまた白鵬に苦言を呈したとかって話がニュースになるような気がしないでもありません。
あくまでこの記事は今回の横綱白鵬の猫騙しをだしに、前々から感じていた相撲協会や横綱審議委員会の奴らの姑体質への気に食わなさを書いてやろうと思った記事です。それがまさかこんな長くなるとは自分でも思わず、正直書いている途中で60回くらい後悔して挫折しかけたんですけど、さすがにここらへんで体力の限界!…気力も無くなり、引退することになりました…以上です。
第58代横綱 千代の富士 貢
暗黙の了解や相撲の問題点についてのまとめ的な追記
「猫騙し一つでよくこんな長文書けるな」って言われました。仰るとおりです、人生の無駄です。大体いつものことなんですが、言いたいことは数百字でまとめられるけど、ブログは時間つぶしで書いているのでこういう有様になります。有様なのに無様です。
「暗黙の了解」ということについて言いたかったことは、こういうとき「暗黙の了解を破った!」と言って怒る人が言うその「暗黙の了解」ってやつは、実際にはその人の中に勝手にあるだけでその人が思っているほど明確に共有されているものではないよな、ってことです。
じゃあどこまでが許容範囲で、どこからが誉められるのかってことになると、結局主観的で個人差があるのに、それは言わずに「暗黙の了解」といえばさもそれは共有されているものだとでも言うかのような「暗黙の了解」がある(そして自分と同じ「暗黙の了解」を共有してない奴は単に頭が悪いだけだと本気で思い込んでいる)。その辺りのもやもやを書こうかと思ったんですけどまとめる気がなかった結果このようなもやもやした記事になりました。
また、相撲の問題点については、記事を読んでくれた人が感想をツイッターで「相撲の問題は、スポーツ競技なのか、興業・見世物なのか、伝統行事なのか、という切り分けが無く混然としているところに根があると思う」と言っていました。
そう!つまりそれが言いたかったんです!(ずるい)
なんかこういう話になると識者みたいな人はすぐ「やれやれ、素人が困ったもんだぜ、そもそも相撲っていうのはスポーツや競技とは違う、神事なんだから云々」とか、「精神性こそが相撲の本質なのに何もわかってねーな」とかってことを言うし、この記事にしても多くの人に読まれたらそういうこと言われるだろうなーって思ってたんですけど、正直僕にはそれってただの建前というか、もっと言えば建前としてもいくらなんでも今時まったく機能していないただの嘘だと思ってます。
でもまあ、そういう嘘をありがたがって大切にする、というのも文化とか伝統というものの、無視できない大切な一側面なんだろうなー、少なくともそう考えるのが大人なんだろうなーということを思いました。
いずれにしても、最終的に12000字近くなりましたが、100字もあれば十分ツイッターで言いたいことを言い尽くせる内容だったことをお詫びいたします。今後も不撓不屈の精神で力士として相撲道に不惜身命を貫く所存でございます。
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