まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

人はどうすれば変われるか

人はどうすれば変われるか、という話をしてみます。

人はどうすれば変われるのか

さて、人はどうすれば変われるのでしょうか?実は僕は絶対的な答えを知っています。もったいぶるのはやめましょう、今回は特別にその答えを出血大サービスで公開します。どうすれば人は変われるのか?その答えは、「ほっといても勝手に変わる」です。

 

ほっといても勝手に変わるけど

いや、ちょっとマジで痛いんでものを投げつけてくるのはやめてほしいんですけど、これは本当に間違ったことは言ってないんです。むしろこれ以上に正しいことなんて他にないくらいのこの世の真実です。

「ほっといても勝手に変わる」、このことを2500年前に釈迦という人は「諸行無常」という言葉で言い表しました。なんかかっこよさげな四字熟語なんて使っちゃってかっこつけてやがりますが(←失礼)、要するに「すべてのものはほっといても勝手に変わる」ってことしか言ってないんですね。だから僕に石を投げるならまずはお釈迦様に石をぶつけてからにしてください、わかったかこのバチ当たりめ!(姑息な自己防衛)。

さて、とはいうものの、「人はどうすれば変われるか」なんてタイトルでブログを更新しておいて、「ほっといても勝手に変わる」で終わらせる気はありません。むしこれからちゃんと話をするところだったのに、石をぶつけられて完全にやる気がなくなりました。あーあ!しかもちょっと頭から血が出てるじゃねえかよおおおおォォォ!!!・・・みたいなテンションでもないので普通に話を進めます。

劇的な変容は期待してもしょうがない

人がほっといても勝手に変わる、というのは、当然ですけど自分で意図したような変化ではないですよね。人生の荒波に揉まれたり、人との出会いに影響されたり、意図せずして気づいたら変わっていた、という変化です。実はそういう変化こそ深いところで人格に影響を与えている本質的な変化だったりするんじゃないかと思ったりもするんですが、今回のお話の主眼はあくまで意識的に「自分はもっとこんなふうに変わりたい」という意図的な変化についてなので、便宜上このほっといても勝手に変わる変化のことは変容と呼ぶことにします。

ちなみに歴史上最も劇的にして最も知られている変容の例はサウロのものでしょう。かつて、ローマにサウロという名の熱心なユダヤ教徒がいました。なににおいて熱心だったかというと、キリスト教徒を迫害することにおいて熱心でした。そんなサウロですがあるとき突然復活したイエスに話しかけられてびっくりして驚いて馬から落ちて落馬した挙句目が見えなくなって盲目になってしまいます。そこをキリスト教徒の祈りによって目から鱗のようなものが落ち、再び目が見えるようになり(さらにどうでもいい話ですが「目から鱗」の語源も同じようにイエスが盲目の人の目から鱗のようなものを落として目が見えるようにしたことからです)、それ以来彼は熱心なキリスト教徒となり、ユダヤ名のサウロではなくパウロと呼ばれるようになります。新約聖書の手紙で有名なあのパウロですね。

このような人格的な一大転換を伴う変容を一般に回心と言います。もっともこういったレベルの劇的な回心だったり、人生レベルでの大事件が起こって人生観やら死生観が根底から覆ってしまったり、そういうことは実際にまれに起こりえることではあっても狙ってできることではないですよね。

そういう意味では考えたり期待してもしょうがないような話であり、僕たちにできることは「人生にはそういうこともあるらしい」くらいに変容の可能性も希望として頭に入れつつ、なおかつ実際には地に足をつけて自分たちの意思や意図によって可能な変化を追求することしかない気がします。

というわけで、華のある話はここまでで終わりです。いよいよここからが本題なわけですが、ここから先は奇蹟に彩られたキリスト教的な華のあるエピソードなどは一切登場いたしません。むしろひたすら地味で泥臭い話になります。挙句の果てにはババアとか出てきます。そういうのが苦手な方はどうぞここまででページを閉じてください。

起こせる変化は泥水の入ったコップに一滴一滴水を垂らしていくようなもの

さて、それでは泥臭い話ついでに泥を変化の例えに使ってみようと思います。僕は人間に意図的に起こすことができる変化って、泥水の入ったコップにきれいな水を一滴一滴垂らしていくようなことでしかないと思います。

それこそ突然の回心だったり、なんらかの事故やハプニングをきっかけとした自己の人格レベルでの偉大な変容みたいなことがあれば、コップの泥水をそっくりそのままきれいな水に入れ替えるみたいなことがありえるのかもしれませんが、すでに言ったようにそんなのって狙ってできるようなことではなくて、ある種の奇跡みたいなものなのです。

あくまで僕たちの方で「変わろう」としてできることって、泥水の入ったコップにきれいな水を一滴一滴垂らして、少しずつ少しずつコップの中の水をきれいな水に変えていくことだけだと思うのです。

それも泥なんてコップの底の方に沈殿してしまって、いくらシトシトピッチャンしとぴっちゃん♪と一滴ずつきれいな水を垂らしていっても、完全に泥を排出することはできないのかもしれません。

でもだからって「どうせ根底からは変わらない」とか「どうせ人間は神様みたいに完全にはなれない」とか、最初からそれを言い訳にしてどろっどろのドロヘドロみたいな汚水のままでいるっていうのは僕はなんか違う気がするし、少なくとも個人的にはすごく嫌なのです。

「どうせ」という言葉を正しく使うなら、「どうせ変わることが可能な範囲以上には変われない」、「どうせよりよくなることができる範囲以上にはよくなれない」ではないでしょうか?

だったら僕は自分の意志で変わることが可能な範囲までは変わりたいし、自分の意図でよくなれる範囲まではよくなりたいと思うのです。

というわけで、いつも以上に抽象的すぎること山のごとしな記事になったわけですが、一応プロセスを3段階に分けてまとめてみます。人はどうすれば変われるか。

1.変わりたいと思うこと

バカにしているのかと言われそうですが、大事なことです。1がなければ2も3もありません。「どうせ」ということを言い訳にして最初から変わる気のない人は一生そのまま、というのは嘘なわけですが、人生まかせに自然に変わっていくのを待つしかありません。そのことを悪いことだとは思いませんが、僕は今の自分に100%心底から満足しきっているのでもなければ、できれば自分から率先してよりよく変わっていけたらいいなと思っています。

2.起こせる程度の小さな変化を起こすこと

泥水の入ったコップに一滴一滴きれいな水を垂らしていく過程です。たとえば意地悪ばあさんみたいな人がある日ふと「あー、こんな他人に意地悪するだけの人生になんの意味があったんじゃろ?どうせわしも老い先短くそのうち死ぬじゃろ?このまま人に意地悪して満足するだけのつまらない人生で本当にいいのかのー?死ぬときになって後悔しないんかのー?・・・っていいはずないじゃろ!これからはわし、やさしいババアになるんじゃ~!」と軽快な一人ツッコミも駆使しながら決意したとします。といって、昨日まで嫌われ者の意地悪ばあさんだった人が、「やさしくなりたい」と思ったからといってその日から早速マザー・テレサのようなやさしいババアになれるかと言ったら多分無理だと思うんですよね。

でもたとえばそれまでは近所の子供たちを「うるさい砂利共め!」と睨みつけていたのをやめて、飴ちゃんのひとつもあげるとか、買い物するにも今までは店員さんに文句ばっか垂れてたのをやめてお礼を言ってみるとか、そのくらいのことならがんばればできるかもしれないですよね。

起こせる程度の小さな変化を起こすこと、泥水の入ったコップに一滴一滴きれいな水を垂らしていくというのは例えばそういったことです。

3.少しずつ大きくなっていく起こせる程度の変化を積み重ねていくこと

最後、3番めが少しずつ大きくなっていく起こせる程度の変化を積み重ねていくことです。実際には本人の意識の上では2番めのプロセスの繰り返しみたいなものなのですが、起こせる程度の小さな変化を積み重ねていくうちに、少しずつコップの中の泥水もきれいになっていくので、起こせる変化の大きさも少しずつ変わっていきます。それまでは一滴一滴振り絞るように垂らすしかなかったきれいな水を、ある程度水量を増やすことができるようになるかもしれません。

先ほどの意地悪ババアの様子をもう一度見てみましょう。かつては「うるさい砂利共め!」と睨みつけていた砂利共、もとい近所の子供たちも、それまでクソババアと嫌っていた意地悪ババアが、最近少しやさしくなったのを感じています。正直不気味で気味が悪いのですが、飴ちゃんをくれるのはうれしいので「ありがとう」とお礼を言っちゃったりします。するとこの意地悪ババア、もとい元意地悪ババア、人から感謝されるのなんて久しく忘れていたなってなもんで途端にほんとに子供たちがかわいく見えてきてしまいました。それ以来子供たちと会うたびに笑顔で談笑することができるようになりました。やったねババア!

ついでなので買い物シミュレーションもしてみましょう。前は買い物のたびに文句ばかり垂れやがるこのクソババア、早く死んじまえとばかりに感じの悪い対応になってしまっていた店員さんが、ババアの変化を感じます。やはりババアも孤独なのでしょうか?そう思うとなんだか少しかわいそうで、店員さんの方でもババアにやさしく接するようになりました。するとババア、これまで砂利共といい気の利かない店員といい、どいつもこいつも世の中感じの悪い奴ばかりだと思っていたのが、実は自分自身の態度を反映してのものだったことに気づいたようです。それからはより自然に人にやさしくあろうとすることができるようになりました。やったねババア!

まつたけ版クリスマスキャロル

というわけで、以上めちゃくちゃ抽象的な変化の3ステップでした。図らずも途中から完全にババアが主人公みたいになってしまっていましたが、もう12月も半ばなのでまつたけ版のクリスマスキャロルだとでも思ってください。

もちろんこんなわかりやすさのためだけに意図的につくられたおとぎ話のような例えのようにいつもいつもうまくいくわけではありません。ときにはこっちが砂利共にやさしくしてやってるのに「うわ!ババア!毒入りの飴かよ!」などと心ない悪態をつかれて意外とナイーブでデリケートなババアのハートはチュクチュクしちゃうかもしれません。あるいはこっちで店員に「ありがとう」とお礼を言っているのにあろうことか店員の方でババアに挨拶もせず次のお客さんに露骨に接客態度に違いを見せて「いらっしゃやぁせ~!」なんて声を張り上げているかもしれません。

ババアは家に帰って一人寂しく部屋の中に佇み、そして思わず泣いてしまいます。「やさしくなろうなんて思った私がバカだったのか?所詮人間なんてやさしくするになど値しない小狡くて身勝手な連中ばかりではないか?」ここが分岐点です。前と同じかそれ以上の意地悪ばあさんに後戻りすることを選ぶのか、傷つくことはあろうともそれでも変わりたい、もっとましな人間になりたいと思うのかです。

ここにおいて実はババアも登場せずあっさり流した感もある1の「変わりたいと思うこと」という部分がとても重要になってくるのです。要はどれくらい本気で変わりたいと思うのか、その決意の強さです。

ちなみにまつたけ版のクリスマスキャロルではこの業突くババアは見事自分が傷つき苦しむことも厭わずにやさしいババアになることを選択し、最期には「あのとき毒入りの飴だなんて酷いことを言ってごめんよ!」と泣きながら手を握る子供と、「心ない接客をしてしまい申し訳ございませんでした。長らくの当店のご利用、あ、あ、あ、ありがとうござぁあっした~!」と涙に震える声で挨拶する店員に見送られ、満足した笑みを浮かべながらこの世を去ったといいます。享年186歳、高齢化が叫ばれる今日にあっても大往生といえるでしょう。

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ちゃんとした変わるための方法が知りたいならスイッチ!がおすすめ

さて、以上でババアの物語は終わりです。今にして思えば、故ババアの人生は僕たちに「人が変わるとはどういうことか?」、「どうすれば人は変われるか?」を示すために神様が遣わしてくれた太陽のKomachiエンジェルだったのかもしれません・・・。

なんか完全に途中からババアに引き摺られすぎて収拾のつかない事態になってしまった感がありますが、もしあなたが「こんな抽象論が聞きたいんじゃない!俺が知りたいのはもっと豊富な実例に基づくビジネスの現場ですぐにも役立つような変革の方法なんだ!」という方がいらしたら(そんなもん期待して僕のブログ読むなよ・・・と内心思いつつ)こちらのチップ・ハースとダン・ハース兄弟のスイッチ! 「変われない」を変える方法をおすすめします。

 
スイッチ! 〔新版〕― 「変われない」を変える方法 (ハヤカワ・ノンフィクション)

あんまり僕が人にものをおすすめすることってないのですが(責任を持てないので)、もし本当に「こんな抽象論が聞きたいんじゃない!俺が知りたいのはもっと豊富な実例に基づくビジネスの現場ですぐにも役立つような変革の方法なんだ!」という方がいらしたらこれ以上の本は多分ないくらい刺激的で面白い本なので大変お勧めです。

その際にはぜひ図書館で借りるとか楽天で買うとかでなく上記の、いや、こちらのリンクからでも構いませんので、必ずやこちらのリンクから購入されることを強くお薦めいたします。ほら、よそで買うと表紙とタイトルが同じだけで中身は違う本かもしれないですよね。そうした問題を避けるためにも必ずこちらのリンクから購入するようにしましょう。

以上、人はどうすれば変われるか、金だよ!金が人を変えちまうんだよ!というお話でした。おしまい!(=^・^=)