まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

人間関係リセットしたい病気の奴の心理

人間関係リセットしたい病気の奴の心理について。と言っても別にそういう人たちの心理について考察するとか代弁するという話ではなく、単に自分自身の心理について書いてみるだけです。普段は快活で人間関係も円滑に行っているのに、ある日突然あらゆる人間関係をリセットしたくなる、みたいな人たちの心理とは多分ほとんど無関係だと思います。

 

不幸な人や生きているのが苦しい人としか安心して一緒にいられない病気

不幸な人ばかり好きになります。いや、もちろん厳密にはどうしたってわかりようのない他人のこと、その人が本当に幸せか不幸せかなんてことはどうしたって所詮思い込みでしかないわけですが、不幸そうな人、薄幸そうな人のことほど好きになってしまいます。

もちろんそんなのはさもしくて卑しいゲスの根性です。要は自分が相も変わらずしあわせがわからない、生きていても苦しいだけ、自分は不幸だ、という意識に取り憑かれているだけ。で、結局そういう同じような人(かどうかは知らないけど、勝手に「この人もそうなんだ」と思い込める人)のことしか安心して愛せない、というだけの話です。

別にことさらにそういう相手に目をつけて、「君も不幸なんだね?わかるよ。僕も生きていても苦しいだけなんだ、しあわせがわからないんだ」なんつって心を開いた本音の語り合い…とは名ばかりのクソゴミ同士の傷の舐め合いに持っていくほど下劣な人間でもないつもりでいますが、たまに相手の方からそういう人がいてもへらへら曖昧に笑って適当にかわすことばかり得意になりました。それなりに痛い目も見てきたような気がします。

でもやっぱり本当はひとりぼっちは耐え難いほど寂しくて、似たような、同じような不幸や苦しみを抱えてそうな人ばかりを視界に置いておきたいと思ってしまいます。

そういう人たち(苦しそうな人たち、不幸そうな人たち)を見ているとはっきり言って安心します。ああ、こんなにも人生がつらくて苦しいのは、不幸なのは自分だけじゃないんだって思えて、安心します。

逆に、別にそれが悪いことだなんて少しも思いませんが、毎日が飲めや歌えやの乱痴気騒ぎ、毎日が楽しくてしかたない、みたいな人たちは、話を聞いているだけでつらくなってしまいます。「パーリーピーポーパーリーピーポー」のレイクのCMとかマジでクソうざいし殺したくなるし、もちろん殺人は犯罪なので、レイクのCMを見てしまうたびにテレビをベランダから夜道にぶん投げていた結果、もう13台と9人が犠牲になりました。

パリピみたいに最初から自分とは縁もゆかりもない世界の人たちじゃなくても、素敵な友達や恋人や家族に囲まれて、充実した毎日をがんばってます☆彡みたいな感じの人たちもキラキラがまぶしすぎて見ているだけで目が潰れそうになってしまいます。

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目が、目が~~~~ッ!!!!!㍋~!!!!

回避的な人間が唯一安らげる同病相憐れむ人間関係

そんなこんなでなんとなく気づいたら、苦しそうな人、生きているのがつらそうな人、薄幸そうな人、不幸そうな人のことばかりいつも好きになってしまいます。われながら卑しいですね。

いや、別にそこまで明確に苦しそうだとか不幸そうだというわけではなくても(というかむしろ自分でそういうことばっかり言ってる人たちは苦手)、なんとなくどこかに重大な弱さや脆さを抱えているような人にほど心を惹かれます。

と言って、さっきも言ったように、別にそういう人たちとあからさまに傷の舐め合いがしたいわけでもなく、むしろそういう傷の舐め合いがしたいだけの人たちとも自分は違うと感じていて、ある意味では傷の舐め合いすらすることのできないような、生きていくことのつらさや苦しみ、不幸を自分一人で不器用に抱え込んでは結局持て余して泣きそうになっている、みたいな人のことばかり好きになるため、そしてそれはつまり自分自身がそういう人間であるため、誰かとつながると言っても、別に下半身的な意味ではないのはもちろん、精神的にもお互いに深く関わって互いの境遇を分かち合って…みたいな話では全然ありません。

ただお互い勝手に「ああ、こいつも苦しそうだなー」とか「生きてるのしんどそうだなー」とか、「こいつも同じ虚無感を抱えていてきっとしあわせがわからないんだろうなー」とか思って、なんとなくそばにいるだけで安心する、という程度の話です。

「一緒にいる」なんて言えるほどお互い近い距離で明確に一緒にいるわけでもなく、なんとなくいつも付かず離れず互いを視界に入れていて、そうすると自分が自分の不幸や苦しさに潰されそうになったとき少しだけ安心できる、くらいのその程度の関係(とも言えない関係)です。僕にあるのは(望めるのは)そういう関係だけです。

だめだこいつ・・・。自己肯定感がなさすぎて人と関わるの絶望的に向いてない・・・。

人間嫌いと表裏一体の人への執着心

しかし、そんな世間一般のまともな人からしたら「?何言ってんだこいつ?」案件でしかないであろう僕のあまりにも希薄過ぎる人間関係ですが、じゃあ相手に対する執着なんてまったくないのかというと話はまるで真逆で、むしろ相手とも呼べないような関係の人たちにも勝手にものすごい執着していて、いつも一人でふとんの上をのたうち回るくらい勝手にもがき苦しんでいたりします。アホです。

幸せになった好きな人たちから見放されて置いて行かれるのがこわい

他人になんて誰にも興味ないような顔して、内心ほんとはめちゃくちゃ依存している人たちの何にそんなに苦しくなってしまうのかというと、早い話がその人たちがしあわせになってしまって自分を見放して置いて行ってしまうことがこわいのです。

自分は好きな人たちのしあわせを本当は願えないし願ってなんていないんじゃないか。ずっと不幸でいてほしいんじゃないか。不幸でいてくれることでかろうじて細い糸みたいな関係でつながっていられる(錯覚でしかなかったとしても)気がしていて、仮に好きな人たちがしあわせになってしまったりしたら、もう僕は必要ないし、むしろ邪魔なだけだし、僕もまた嫉妬だの捨てられたような孤独感だの醜い感情に苦しむことになるし、なんにしてももう一緒になんていられなくなってしまう。それを思うだけですごいこわくなります。

人から見離される前に自分からリセットして逃げる臆病者

じゃあどうするかって言うと、そんなことになってしまう前にいっそ自分からそんな関係は断ち切ってしまおう、っていう合理的なようでいてめちゃくちゃ不合理で本末転倒な心理によって、いわゆるひとつの人間関係リセットボタンをポチッとなしてしまうわけです死にたい。

それくらい内心勝手に依存していた人たちから見離されてしまうのがこわい。典型的な見捨てられ不安。そんな現実に直面するくらいなら、結果は何も変わらなくても、自分から泣きながらいなくなることしかできない。

自己肯定感が皆無だから人間関係のリセット癖がついてしまう

人間関係リセットしたい病気の奴の心理、かどうかはともかく、少なくとも僕自身の人間関係リセットしたい病気の心理としては、人間関係に興味や執着がまるでなくて、ただひたすら煩わしいだけだから消去してしまおうというのではなく、むしろまったく逆に、(人から見たら「人間関係」なんて呼べるほどの強度もない希薄な)人間関係にめちゃくちゃ執着しているからこそ、勝手にいろんなことが苦しくなって、耐え切れなくなって自分から消えてしまう、という感じです。

人間関係のリセットボタンを押して、不要になった相手やうざいだけの相手を消す、という感覚はまったくありません。逆です。相手からすればもう自分なんて不要だろう、邪魔なだけだろうと勝手に判断して、そしてそれが悲しくて苦しすぎて耐え切れなくなって自分が消えるのです。

人間関係の煩わしさを捨てたところには孤独と寂しさしか残らない

もちろんそこにあるのは「相手を思いやって~」なんて綺麗事ではなく、もうそれ以上自分が傷ついたり苦しんだりしたくないだけの幼稚で未熟な醜い我執であることは言うまでもありません。

このどうにもならないもうだめだ感。。。その先には孤独と寂しさ、そしてどうしようもない後悔しか残らないこともわかっています。

好きな人が自分と無関係に泣いたり笑ったりすることが耐えられない病気

それがわかっているくせに、何度でもそれを繰り返すというのは、バカは死んでも治らないというのか、もうそういうふうにしか生きられない心の病気とか人格の障害なんだと思います。

でも普通に考えて、いつまでも自分に合わせてずっと不幸でいてくれる人なんているはずないと思うのです(当たり前ですが)。そもそも誰かがしあわせだったり不幸だったりするのは単にその人自身の事情であって、僕に合わせてくれているわけではありません。みんな勝手にしあわせだったり不幸だったりするだけです。

どういうわけか、そんな死ぬほど当たり前のことが、僕には死ぬほど苦しく感じられてしまうことがあるのです。多分、脳みそが腐っているのかポンコツなのか、どっちにしても社会でまともに機能することのできないイレギュラー(不良品)ということなのでしょう。

蜘蛛の糸

もし僕にとって理想的な世界があるとしたら、それは好きな人たちが自分にあわせてずっと不幸でいてくれる世界だと思います。そのくせ僕自身は一刻も早くここから逃れたい、しあわせになりたいと醜くあがいている。そしてもし仮にそんな自分がしあわせになれたとしたら、しかる後「もういいよ」とばかりに後は勝手にみんなにもしあわせになってほしい、でも自分を置いて先に行ってしまうのはやめてほしい。

そんな醜い我執のありさまに、蜘蛛の糸のカンダタを思い出しました。他の人たちのことは地獄にとどめ置いて、我先にと救われたがるその我執の浅ましさゆえに、僕はいつまでも救われないのかもしれません。

「自分を置いて行かないで!」と叫ぶほどの勇気もなく、ただ寂しそうに離れていく人の背中を見つめている。でももし仮にその人たちが自分を哀れんで一緒にいてくれるとしても、僕自身は僕の目の前に蜘蛛の糸が降りてきたら我先にとその蜘蛛の糸にしがみつくことでしょう。

そんな浅ましい自分の業の深さにめまいを覚えながら、今日も蜘蛛の糸を昇っていく人の背中を、羨むでもなく、憎むでもなく、ただ置いて行かれたことが哀しいような寂しいような、そんな気持ちで見送ることしかできません。


蜘蛛の糸 芥川龍之介 (280円文庫)

極楽で退屈を持て余したお釈迦様の残酷な暇つぶしの話

自分の保身ばっかり考えて人のことは平気で傷つけるクズ

アホみたいに過去ツイートを貼りまくってわかったのは、結局人間関係リセットしたい病気の奴、というか他の人のことはともかくとして僕自身にとっての最大の問題は、結局病的な自己肯定感のなさに根っこがあるということです。

自分に自信(自己肯定感)がまったくないから、誰かが自分と一緒にいてくれても不安でしかたがない。この人が自分と一緒にいてくれるのはなんでだ?僕なんかに何の見返りを期待しているんだ?そんな疑心暗鬼で純粋な好意なんて信じられないくせに、嫌われたり見離されてしまうことも病的に怖くて、不安で、それくらいならそんな人間関係ごとなかったことにしたくて自分からリセットしてしまう。

そんな人の気持ちを気にし過ぎるくらい気にしてしまうくせに、ほんとは人のことなんてどうでもよくて、自分がこれ以上傷つかないようにとか、結局自分のことしか考えてなくて、自分が傷ついたり脅かされないで済むなら人の気持ちなんてどうでもいいと思っている、浅ましくて醜いエゴの塊のような我執を再確認する一人SMごっこのようなブログ更新になりました。

天国も地獄も人間関係の中にある

不幸な人としか一緒にいられないくせに、お互いいつまでもそのままでなんていられるはずがなくて、やがていつの間にかしあわせになったりしあわせに向けて歩き出す人たちについていくことができない自分は、それくらいならそんな人間関係最初からなかったみたいにリセットして逃げ出すことしかできないという話でした。

誰かと深くわかりあえたりつながれたような気がしたり、それでもどうせいつか離れていくしかないのなら、いっそ最初からひとりぼっちのほうがいいような気がしたり、やっぱりそれじゃ寂しかったり、人間というのはままならないものだと思います。

僕はもうこんな人生に疲れ果てました。なんかもう、キノコになりたい。生まれ変わったらキノコになりたい。・・・そう思ってたらいつの間にか本当にキノコになっていたのが僕です。

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みなさんも人間であることの悩み苦しみや人間関係の煩わしさから逃げてばかりいると、ある日気がついたらキノコになってしまわないとも限りません。一度きりの人生、人として生まれてきたことの意味をよく考えながら、くれぐれも後悔のないように生きてほしいと思います。

それがもはや人の身であることを捨てて菌糸類にまで堕ちてしまった僕の心からの叫びです。生きることの苦しみや煩わしさばかりでなく、生きることの歓びや楽しみもまた人間関係の中にあるのですから(血文字)。僕からは以上death!  ‐終‐


人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論


女子の人間関係 [ 水島広子 ]


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