恋愛とかセックスについてのいろいろ
恋愛とかセックスについてのいろいろを書くよ。
今日もまとめる気なんて最初から皆無の、わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい、そんな自分自身への愛情に満ちた親心あふれる自由とわがままを履き違えたとっちらかり放題のブログを更新していくよ☆彡
恋愛ってそんな必死になって醜態晒してまでする必要あるの?
恋愛ってみっともなく無様にみじめにしがみついてまでする価値や必要のあるものなのかな?
そんなことをふと最近記事にした岡田斗司夫さん絡みのことを考えていて思った。一応言っとくと当たり前だけど別に岡田斗司夫さんがみっともないとか無様だとかみじめだと言っているわけではないし、個人的にはそんな風にはまったく思わない。
ただ単純に自分が「気持ち悪いままでも恋愛OK!男性のための実践的恋愛講座」とか、「彼氏三人理論」とか、そういう字面を見ただけでなんかもう魂が枯渇して萎れ果ててしまうような、そんな生き物としての生命力やオスとしてのハングリーさに欠けたひ弱な人間なだけだ。
これって単に恋愛観とかセックス観の問題じゃなくて、もっと大きな枠組みの人生観の問題だと思う。より大きな枠組みから見なければ何も見えてこない。ごく単純に言えばせっかく人として生まれてきてそんなものにいつまでもいい歳こいて血道を上げてないでもっと人間にとって価値のある生き方があるだろって考え方と、いくつになっても世の中に恋愛やセックス以上に夢中になるだけの価値のある何があるんだよっていう考え方と。
美的実存と恋愛・セックス
いわゆる美的実存と倫理的実存・宗教的実存。キルケゴールはこれらの実存をある意味で人間の成長段階のように三段階に分け、美的実存から倫理的実存、さらに宗教的実存へと弁証法的に移行していくと考えた。マズローの欲求5段階説とも似てる。
昔はそういう発達段階の問題にしちゃうとどっちがより進んでいるかとか上下関係を無意識に生み出しかねないし、本当は単にその人ごとの遺伝的・生得的要素の強い本質的な個性やタイプの問題なんじゃないかと思ったりもしていた。
個人的にはドン・ファン的な生き方(美的実存的な生き方)が必ずしも悪いものだとか、聖人様や偉人様のあり方に対してより低劣なあり方だとはまったく思わないし、人それぞれの人生とか生き方の比較とか優劣なんてナンセンスの極みだと思ってる。
ドン・ファンはドン・ファンでいいし、ドン・ファンとして生きてドン・ファンとして死んでなにも問題ないし、やがていつかは性的放蕩も「卒業」してより高次の生き方へと進んでいくべきだ、という考え方は信じていない。必ずしもドン・ファンがいつかブッダにならなければいけないわけではないと思う(その昔両極端の間を移動するのではなく拡充してどちらでもあれとするゾルバザブッダという新しい人間のあり方を唱えた神秘家がいたけど)。
ドラクエで遊び人が賢者に転職できる理由
でもまああくまで説明するための一つのモデルとしてはインドにおける四住期(アーシュラマ)やライフステージって考え方はわかりやすいしたしかに原則としてあると思う。
釈迦にしても釈迦族のクシャトリア(王族)の王子として生まれてさんざん不自由なくこの世の快楽と享楽を味わい尽くした果てに結局生老病死という生の現実の認識の前に虚しくなって出家するわけだから、ドラクエ3で遊び人が賢者になるのって案外奥深いものがあるのかも。
男だったらセックスして射精すれば一瞬で賢者に転職できるよ?とか、決してそんなお下品な頓智みたいな話ではないと思う。思いたい。
キルケゴールの哲学を僕がめちゃくちゃ勝手にまとめると「絶望こそが人を成熟させる」ってことに尽きる。
金、女(男)、恋愛、地位、名誉、そういったいわゆるこの世的な享楽の果てには結局何もない。どんな快楽も所詮一時的なものでしかない。刹那のはかないものである。そのことの虚しさの認識に目をそらすことなく至るとき、いかな飲めや歌えやの遊び人とて絶望せざるを得ない。
そのとき遊び人はよりよき友、よりよき家庭人、よりよき社会人、よりよき勇者一行のパーティーメンバーでありたいと強く願う。そのときこそ美的実存に倦み疲れた遊び人は次の倫理的実存段階へと至るとキルケゴールは考えたし、僕はそんなバカ丁寧に段階を踏まなくても一足飛びに神や信仰、救済といった問題を自己の一大事として扱わざるをえない宗教的実存段階に踏み入る人もいると思う。そう、そのとき遊び人は賢者になるのである。
人の生き方や価値観はみんな違ってみんないい
まあそういう人間一般が進んでいくべき、一種のお手本、モデルとしての実存段階や発達段階というのはあっても、それでも人がみな人それぞれ異なっているのは当然のことだし、単純な優劣以前に個性の違いを認めるべきことは金子みすゞも言っていることだ。最後のゞがミス(みす)して申し訳なさそうに頭を掻いてるみたいでかわいいぞ、金子みすゞ!
だから「恋愛ってみっともなく無様にみじめにしがみついてまでする価値や必要のあるものなのかな?」って問いの答えが人それぞれなのは当たり前だ。同じ人の一生の中でも答えは変わってきたりもするんだろう。
それこそ今すぐ射精したくてしょうがない状態の人と、射精し終わって賢者モードの男性とではそのほんの十数秒の間に答えが大きく変わったりすることもあるかもしれない。
だから当たり前だけど別に「恋愛なんかにいつまでもいい歳して老醜さらしてみっともなく執着してる人間って男女問わず気持ち悪いよなー」とかそんな話じゃない。そういうことを言ったり、あるいは逆に「老いてますます盛んとは天晴なり」みたいに賞賛する人もいるけど、どっちも僕にとっては知ったことではないし興味も関係もない。
人の生き方の問題とかその人がその人の一生で何を大切にして生きるかなんて価値観は人それぞれで人の勝手だし、自分の価値観にそぐわないという理由で一方的に他人の価値観を悪く言って貶したり批判したりする人間こそ品性低劣だと思ってしまう。
恋愛やセックスのこわさ。性欲の正体不明さ
まあそんなことも実はどうでもよくて、僕にとっては僕自身はどうなのかってことしか問題じゃないし興味もない。
僕には恋愛もセックスも昔から一貫して正体不明のものに思えてこわい。もちろんその恐怖の本質が恋愛やセックスといった対象に内在しているわけではなくて、恋愛やセックスが自分自身のうちに喚起する感情こそが正体不明でそれに対して恐怖を感じているだけなんだけど。
もっと有り体に言ってしまえば結局性欲の問題になるのだろう。必ずしも性欲が悪いものだとか汚いものだとは思わないけど、色欲が絡むとたちまちいろんな物事が複雑になったりドロドロしてきて、それこそ昼ドラ的なおどろおどろしい恐ろしさを醸し出し始めることは否定できない。
何しろ人間は色恋のためなら簡単に親友を裏切ったり嫉妬に狂って人殺しだってしてしまう生き物なのだ。「無邪気に人を裏切れる程何もかもを欲しがっていた 分かり合えた友の愛した女でさえも」ってミスチルの歌が昔あったけど、桜井和寿さんは実際不倫相手と再婚した。
そういう話題をそもそも醜聞だとは思わないし、それが人間だよなーってことは僕も頭では理解できるのだけど、僕の弱い心はときどきどうしようもなくそういう現実に悲鳴を上げて発狂しそうになってしまうというだけの話だ。
山岡鉄舟のタントラ密教的色情修行
江戸城無血開城の影の立役者として知られる山岡鉄舟でさえ命を捨てる覚悟は20歳頃にはついたが性欲の問題の根本的な解決に至るまでには50歳近くまでかかった節がある。山岡鉄舟がすごいのは女性を遠ざけたり禁欲して悶々としながら観念的に解決を目指すのではなく(とことん馬鹿正直かつ誠実な山岡鉄舟はそんなものは単に臭いものに蓋をするだけだと喝破した)妻帯者でありながらあらゆる意味で破格の色情修行に明け暮れたことだ。アホだ。尊敬する向きもあるが可哀想な奥さんの気持ちを考えるととんでもない人間のクズ、クソ野郎である。
そんなことをする人間は少なくとも禅修行者の中にはいない。禅の難透難解(なんとうなんげ。バカみたいな公案・禅門における問題の中でも極めつけに難しい難問のこと)の中でもおよそ観念的に扱うことが不可能な問題であることがよほど度し難い馬鹿でもない限り明らかであるという意味で最難関とも言える公案に思えるものに、「婆子焼庵」という公案がある。ずばり色欲やセックスを問題に扱っているのだがこの公案について山岡鉄舟が哀れな偉い坊さん共に尋ねてもみな言葉を濁してほうほうの体で逃げてしまったという。さもありなん。
結局色情修行という禅よりはむしろただの破戒僧ほとんどタントラ密教みたいなことを山岡鉄舟は一人でまったく独自にヤりまくっていた。一歩間違えれば真言立川流も真っ青のただの左道密教に堕しかねない。鉄舟の墓の隣にだけは文字通り死んでも入りたくないとまで言った奥さんの気持ちを考えれば本当にクズ中のクズだけどある意味すごいっちゃすごい。
人間の根源的な苦しみから根本的に解放されたい
しかし常識的な善悪は別にしてもそこまで人間として大切な何か(それが建前の部分でしかなかったとしてもその重要性を認められない人間は犬畜生にも劣ると言える)を犠牲にしなければ、色欲の問題(愛欲、性欲、恋愛、セックスの問題)にはおよそ解決なんて到底垣間見えてさえこないあまりにも人間にとって、いや、生き物にとって根源的で根深い問題なのかもしれない。
もちろんだからと言って、個人的には山岡鉄舟ほど正直者のエゴイストにはなれない。無論、醜悪な自己欺瞞に満ちた偽善者であるよりはエゴイストのほうがよほどよい。自分のためにも人のためにも。
でもきっとそれが最も正直な生き方なのだとしても、人を血みどろに傷つけながら己の本懐のためだけに生きていく強さも覚悟も自分にはない。考えただけで心が折れる。
かと言っていつまでも部屋に一人こもってうじうじ悩んでいるのもアホくさすぎてそれくらいなら今すぐ呼吸を止めて死んでしまったほうが地球のためにもよほどエコというものだ。
必要なのは「私はこんなにもこのことで悩んでいるのです、苦悩しているのです」というある種のエクスキューズや免罪符としての苦悩ごっこ、ポーズとしての苦悩ではない。悩む必要も苦しむ必要もない。そんなものは自慰でしかない。必要なのはただシンプルで率直な解決である。
恋愛に夢中になったり溺れることができないのは人間的欠陥なのか
人のそれを否定するつもりなんて毛頭ないが僕には文学趣味も文学を楽しんだり解するだけの人間的な知性や感性もない。何を隠そう僕は夏目漱石の『こころ』を読んでいても前半はそれなりに読めても後半の核心部分は死ぬほどどうでもよくて興味がまったく持てない程度の人非人なのだ。まあキノコだから当たり前なんだけど。
そんな若きウェルテルやKの虚構・フィクション世界の苦悩の話でなくても、現実世界においても片想いや三角関係やどろどろの不倫劇に悩み苦しみ最期には自殺といった劇的で面白い人生を完結させる人は古来後を絶たない。
僕はそういう生き方をうらやましいとも思わないし、肯定も否定もしないし、そもそも自分には縁がないし関係ないものと思って傍観しているのみなのだけど、それでもそこまで色恋や誰かを好きになることや誰かを手に入れたい気持ちや誰かに負けたくない気持ちや昼ドラ的な不倫劇やメロドラマに、文字通り自分の命をかけたり命を捨てたりするほど夢中になれることには率直に言ってすごいなと思ってしまう。
そういう人たちの生き方や死に方を愚かだと言って笑う気持ちは微塵もないし、むしろそういう意味ではそこまで何かに深く自分の全人格を注いだり夢中になったり必死になることもできない自分は賢いわけでも冷めているわけでもなく、単に自分の感情を見て見ぬふりで抑圧したり傷つかないようにブレーキをかけたりしているだけで本当に自分自身や人の気持ちに対して真っ正直に生きていないだけなのではないか?恋愛に夢中になって本気で悩んだり苦しんだりセックスに溺れることができないのは自分の人間的な欠陥を示すポンコツの証明ではないのか?ということを考えて軽く凹んでしまいさえする。
恋愛、セックス、他人から逃げ続けた先に何があるのか何もないのか?
こういう文章を書いていることだってもうきっとそうなのだ、こんな文章を書くことに本当に本質的な意味なんてない。「自分を客観的に眺めてみることで云々」とか「気持ちの整理が云々」とか言うのも全部嘘だ。詭弁だ。意味なんてない。
自分自身の中にある正体不明のそれを自分から切り離して対象化して、いわばそれと分離することで楽になろうとしているだけだ。そんなのは自分が神になることと引き換えにピッコロ大魔王を生み出してしまったあのろくでなしのナメック星人と変わらない。ナメクジクソ野郎が!
もっと下世話なレベルにまで切り込んで話を深めていくこともできるけど収集つかなくなるからとりあえず今回はこれでやめておこう。続きも書かないに越したことはない。
とにかく早く覚めたい。冷めてる人に特に憧れはない。むしろそれよりはそれこそ恋愛に深く思い悩んだ末に自殺したり、愛欲の果てに嫉妬に狂って人を殺したりするような、熱い人間のほうが他人として眺めている分には面白くて魅力的だと思う。しかし自分自身のこととしては極力どちらも勘弁願いたい。
ただ早く覚めたい。こんなどうしようもない悪夢のすべてから。さもなくばこんなどうしようもない悪い冗談で腹の底から笑えるような箸が転んでもおかしい笑いのセンスがほしい。僕は毎日能面貼り付けたみたいな無表情で感情を殺すことで処理して生きていくので精いっぱい。笑うよゆうがない。早く覚めたい。
山岡鉄舟みたいなめちゃくちゃな生き方はたしかにすごいけど常人には真似できないし、常人に真似できないのに常人以下の僕にはそういう生き方には完全に背を向けて、逆にどこまでもとことん回避的に、そして自分一人の世界に閉じこもって暗くうじうじと内省的に自己に取り組むことで解決したい。最悪単なる自己満足や自己完結でしかなくてもいい。早く現実というこの悪夢から覚めたい。おしまい。
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