まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

ベジータに学ぶ!敵愾心より向上心を燃やそう!

ベジータに学ぶ!敵愾心より向上心を燃やそう!というお話をしてみます。

ベジータに生き様を学ぶ!敵愾心より向上心を燃やそう!

「ベジータに学ぶ!敵愾心より向上心を燃やそう!」なんて大仰なタイトルをつけたわけですけど、基本ベジータを称える内容というか、ベジータ讃歌みたいな感じになってしまうかもしれません。なんでかっていうと、要するに僕がベジータが大好きだからです。許してください。

 

誇り高きサイヤ人の王子、ベジータ

ベジータって人はもちろん傲岸不遜で高慢ちきな人なわけですけど、少なくとも悟空がフリーザを倒して以降は、ものすごく高潔で高邁の精神を持った人だと思います。ある意味でわかりやすくて潔い。無様だったりかっこ悪かったりもするんだけれど、やはり彼の生き様は誇り高くて美しいと思います。僕はベジータのそういうところが大好きです。ご飯どんぶりで8杯いけます。

さすがは誇り高きサイヤ人の王子です。生まれながらにして惑星ベジータの名前を与えられたほどですから、ベジータこそは戦闘力のみならずその精神性をも含めてもっともサイヤ人らしいサイヤ人であると言えると思います。

その意味で言うとカカロット、というか孫悟空は完全にサイヤ人としては不良品なんですよね。地球に来た際にサイヤ人としての記憶や使命を忘れ、地球人のじっちゃん(孫悟飯)に愛情をかけて育てられたせいで、サイヤ人らしい残虐なまでの好戦性は鳴りを潜めてしまっています。

もっとしょうもないメタな視点で言っちゃうと、少年ジャンプの少年ジャンプらしい主人公であるということを最大の理由として、天真爛漫で人を引きつける魅力的な人柄、それでいて戦闘力は(主人公であるという理由で)最強、みたいな存在が悟空です。

で、誇り高きサイヤ人の王子であるベジータにしたら悟空のいい加減な(少なくともベジータからはいい加減に見える)精神性が許せない、しかもそれでいて戦闘力においてこの俺様を上回ってやがるだとォ!?・・・となればそりゃもう絶対許せるはずなどなく、終生悟空に対してライバル心を燃やし続けたわけです。

そういう意味で言うと悟空のようないかにも少年ジャンプの主人公らしい主人公って、ルフィしかりある意味人間離れしすぎていて、共感とか感情移入ってことで言うとやっぱりベジータみたいな脇役の方が人間らしい弱さみたいなものも含めて魅力的だなーと思います。

ちなみに当初ライバルの役を負っていたのがマジュニアこと2代目のピッコロさんなわけですが、正直激しすぎるジャンプマンガの強さのインフレに耐えるには役不足だったこともありますが、ピッコロさんを来たるべきさらに激しい戦いに備えてかつてのライバルであった悟空の息子である悟飯を教育する係にし、悟空のライバルとしては当然悟空に匹敵するだけのポテンシャルを持ちえる同じサイヤ人であるベジータを持ってきたというのは、ドラゴンボールは鳥山明さんの異常に高すぎる画力のみならず、展開も含めてやっぱりめちゃくちゃすごいマンガだなーと思います。

ベジータの本質は敵愾心ではなく向上心

閑話休題。実はこの記事の最大の目的、最大の主張は「ベジータ大好き!」でもなければ「ドラゴンボールは神マンガ!」でもありません。いや、実際僕はベジータ大好きだしドラゴンボールは神マンガだと思ってるんですけど、あくまでこの記事の主張のメインは「敵愾心より向上心を燃やそう」ってことだったり「誇り高く美しく生きよう」ってことだったりします。というわけでここからはそういう話です。

さて、ベジータはカカロットにとんでもないライバル心、いわゆる敵愾心を燃やしているわけですが、僕はこれって実はベジータって人の本質ではないと思います。というのも、ベジータにしてみれば本来であれば敵愾心を燃やすようなことがあってはならないからです。

ベジータにしてみれば彼は誇り高き最強の戦闘民族サイヤ人の、その最も高貴たる血統の王子なわけですから、そもそも敵対しうる存在などいてはならないはずなのです。わかる人にだけわかる例えで言いましょう。彼は世が世なら「敵はすべて下郎!」と見下す聖帝サウザーのような人になっていたはずです。

しかし幸か不幸かそうはなれなかった。それはなぜかといえばもちろん悟空がいたからです。だからこそベジータは悟空に敵愾心を燃やさざるを得ず、自分が自分であるために超えなければならない壁、ライバルとしてカカロットをみなしたのでした。

さて、ではベジータがカカロットのことを認めていなかったかというと、そんなはずがありません。むしろ誰よりも悟空のことを認めていたからこそ悟空を超えるべき対象、ライバルとして意識していたのがベジータなのです。

実はベジータが許せなかったのは戦闘力において彼を上回るカカロットではないのです。サイヤ人の風上にも置けない軟弱な(とベジータからは見える)精神性をしている孫悟空でもないのです。そんなサイヤ人の風上にも置けない精神性をしているような奴に、よりにもよってこの誇り高きサイヤ人の王子、ベジータ様が戦闘力において劣っているだとォ!・・・ということが許せなかったのです。

つまり、本当にベジータが許せなかったのは悟空ではなく悟空に劣る自分自身なのです。ベジータの依って立つ最大のアイデンティティは一言で言えば「俺様が最強!」ということです。しかし、悟空が存在する以上そのアイデンティティは脅かされることになる。なぜなら残念ながら最後までベジータより悟空のほうが強いからです(まさかその最大にして本当の理由が「ドラゴンボールの主人公がベジータではなく悟空だから」という理不尽な真実などベジータには知る由もありません・・・)。

ではベジータが、「カカロットさえいなければ俺様が最強だ!」などと考え、悟空を誅殺するようなことを一度でも考えたでしょうか?天地が逆さまになってもそんなことはありえないでしょう。なぜならベジータにとってなによりも大切なことはサイヤ人の王子としての誇り、気高さ、高潔さだからです。

悟空を倒し、戦闘力で悟空を上回り超えてこそ、ベジータは胸を張って「俺様が最強!」のアイデンティティを回復することができるのです。誅殺など考えもしないどころか、むしろ他の誰かが悟空のことを誅殺などしようものなら絶対にそいつのことを殺すでしょう。悟空の仇とか復讐ではなく、ベジータ自身が胸を張ってそのプライドとアイデンティティを取り戻す機会を汚い真似で永遠に奪いやがったからです。ベジータというのはそういう人です(※ベジータへの愛着の深さ、思い入れの強さから、一部発言にキモい部分がございますがあらかじめご了承ください)

つまりここから言えるのは、ベジータは実は敵愾心よりも向上心の人だということです。もちろんカカロットという終生のライバルなくしては今日のベジータ(?)もなかったわけですが、それはカカロットが憎い、許せない、殺してやりたいというような敵愾心ではなく、自分が最強でなければいけないのにカカロットに劣っている自分が許せない、カカロットを超えたい、カカロットを超えて自分が真にサイヤ人最強の戦士であることを証明したいという、あくまで内向き、自己求心的な、ほとんど求道心にも似た向上心があったからこそ、彼は超サイヤ人(自称超ベジータ)にまでなれたのです。

かっこわるくても無様でも、誇り高く生きるベジータが好き

僕がベジータのことをかくも愛してやまないのはその生き様が美しいと思うからです。たしかにベジータのことをかっこ悪いと見る向きもあります。どうせ結果的には最後まで悟空に勝てるはずがないのに、主人公である悟空の引き立て役でしかないのに、汗まみれになって努力を続け、他の奴らのピンチにはかっこつけて遅れて登場、優越感もチラつかせながら「フン、こんなザコ共相手にだらしのねえ奴らだ!きさまらは家に帰ってのんびりミルクでも飲んでやがれ!オレのジャマをせんようにな!」みたいな傲慢なセリフを吐き捨て、それでいてなんだかんだ最後には敵のボス相手にボコボコに打ちのめされて血ヘドを吐いて地べたを這いつくばりながら、もちろん最後はそのボスも悟空がやっつけてくれちゃうわけです・・・たしかにかっこ悪いっちゃかっこ悪いんですよね・・・。

でもだからって絶対にあきらめない。「こないだはかっこ悪いとこ見せちゃったから次からはもうちょっと謙虚な登場のしかたにしよう・・・」なんてことも少しも考えない。常にプライドの高い「俺様」なキャラは1ミリたりとも揺るがさず、自身の不名誉は自分がさらに強くなること、さらに向上することで濯げばいいと考えている

僕はそういうベジータのかっこ悪いかもしれないけど、無様かもしれないけど、それでもあくまで「俺様が最強だ」のアイデンティティにすがってそうあるべく向上を続ける生き様はとても美しいと思います。少なくとも個人的にはそういうところが大好きです。


ギガンティックシリーズ  スーパーサイヤ人 
ベジータ

向上心も誇りもない、醜い悪意しか持たない人たち

そんなふうに熱いベジータ愛に燃える僕ですから、僕自身他人を蹴落としてやろうとか貶めてやろうなんて考えることはないし、もっと言えば正直そういうふうにしか考えられない人たちのことがとても醜い生き物に思えてヘドが出るほど嫌いです。

ベジータはザコのことなんて相手にしません。そもそも眼中にもありません。そんなのはクリリンにでもやらせておけばいいと思っています(※要検証。個人の独断と偏見に基づく記述である可能性があります)。自分が敵とみなし得る、ライバルとして認め得る存在がいたとしても、相手を汚い手段で陥れてやろうなんてことは考えもしません。正々堂々、自分自身の力で相手を上回らなければ意味がないと考えているからです。

そこへいくとどうでしょう。当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、残念ながら世の中はベジータのように気高く誇り高い人たちばかりではありません。自分より優れた人間のことを一定の敬意を持って認めることもできず、実力で上回ろうとするでもなく、気に食わないからといって陰口やゴシップで陥れようとすることしかできない、そういう生き様の汚い醜い生き物が悲しいことですがたくさんいるようです。

敵愾心とかライバル心みたいなものですらありません。ただ自分の気に食わない人間に痛い目を見せたいだけ、足を引っ張りたいだけ。だから弱みを探したり陰で悪口を言いふらしたり、醜い悪意ばかりでおよそ向上心のかけらもありません。

精神的に向上心のないものは馬鹿だ。 ―夏目漱石『こころ』

僕には不思議です。そういう人たちというのは自分たちの汚い生き様、醜い有り様が嫌にならないのでしょうか?・・・なんていくら言ったところでしょうがなく、事実そんなことは気にしないどころか気づいてもいないから彼らはそういう醜い生き物なのでしょう。

そういう人たちに対して「どうしてお前らはベジータのようにもっと気高く生きられないのだ!」なんて言ってももちろんなんの意味もないことです。僕自身ベジータほどの好戦性は持ちあわせていないため、たまに目にしてしまっても物申すでもなく、嫌なものを見てしまった・・・と気持ち悪くなったり暗い気持ちになって目を背けることしかできません。

かっこわるくても無様でも、もっと面白い人間になりたい

ただ、僕自身はそういう気持ちの悪い生き物には死んでもなりたくないなあと思います。まあそれでもキモいとか死ねとか言われるんですけど、僕自身はそんなことは気にせず、かっこ悪いと言われても、無様と言われても、自分の信じるもっとましな自分になれるように生きていけたらいいなあと日々思いながら生きています。

内緒にしてようかとも思ったんですが、実は自分にとってのカカロットみたいな人もいたりします(ブログは関係ないですが)。別にその人と戦おうとか超えてやろうというのではありませんが、自分ももっと面白くなりたいとか、もっと素敵になりたいとか、もっと魅力的な人間になりたいということは思います

だからもちろん僕はその人のことを裏で何か画策して陥れてやろうなんて思わないし、むしろ自分にすらいる何とかして足を引っ張ってやろうとか陥れてやろうとこそこそといろいろ画策している気持ちの悪い生き物たちのことは「へっ!きたねえ花火だ!」と吐き捨てるにとどめ、そんな醜い生き物を相手にしている暇があったら少しでも無職という精神と時の部屋に入って自分自身を向上させるための修行をしたいと思っています。

以上、気持ち悪いくらいの熱い思い入れとベジータ愛のほとばしる「ベジータに学ぶ!敵愾心より向上心を燃やそう!」という記事でした。最後はベジータのこのセリフでさようなら!(ノ)`ω'(ヾ)

さらばだブルマ・・・トランクス・・・・・・そして・・・カカロット・・・・・・