ミスチル桜井和寿と尾崎豊の違い
ミスチル桜井和寿と尾崎豊の違いについて。
音楽性はともかく、「弱い自分」、「人生の生きづらさ」といった扱っているテーマや歌詞の表現傾向が似ているということでなにかと比較されたり影響が語られたりするのをよく見かける。
でも僕は二人とも大好きだけどそんなに似ているとは思わんなーっつー話。
ミスチル桜井和寿と尾崎豊の違いについて
好き嫌いや毀誉褒貶はあるにしても尾崎豊みたいなタイプのアーティストは不世出とは言わないけどなかなか出てこない。いや、そういうタイプのアーティストはいくらでもいるんだけど、大衆に広く受け入れられたり世間的な意味で大々的に成功することは難しい。
というか尾崎豊からしてその死後になってから半ば伝説をまといつつ騒がれるようになったほど存命中に売れまくったとか誰もが認めざるをえない成功を収めたとは言えない。
そんな中で同じように「自分」とか「生き方」みたいなものを歌いながらも売れに売れまくって社会現象化するような大成功を収めたアーティストがミスチルであり桜井和寿。
桜井和寿は尾崎豊と同じ文脈で語られるようなこともあるけどやっぱり違う。桜井和寿が尾崎豊をリスペクト、というかある種の憧れのようなものを持っているであろうことは明白だけど、本質的にタイプが違う。もしかしたら桜井和寿は本当は尾崎豊みたいな人が(少なくともアーティストとしてではなく人間としては)大嫌いなんじゃないかってことも感じる。
早い段階で一応言っておけばもちろんそんなのはただ「違う」というだけのことでアーティストとしての優劣なんて話ではまったくない。あるのは人それぞれの好き嫌いだけに決まってる(僕は二人ともすごく好き)。
自己陶酔型の尾崎豊と自分を俯瞰する意識の強い桜井和寿
尾崎豊はものすごく自己陶酔型のアーティスト。自己愛的でナルシスティックですらある。キーワードは理想、依存、弱さ、愚かさ、自由の希求、裏切り、甘え、孤独感、焦燥感、閉塞感、衝動性、破滅性、そして渇愛。アダルトチルドレン(AC)、というよりは絵に描いたような典型的な境界性人格障害のパーソナリティ。
会いたくて会いたくて震えるのが西野カナ 自分の存在が何なのかさえ解らず震えているのが尾崎豊 夜明けに震える心を抱きしめるのがX JAPAN 少しまだ震えてる傷口にそっと触れてみたのがラルク ブレブレブレブレブレまくって震えてるのわかんねぇようにしているのが大槻ケンヂと絶望少女達
— まつたけ (@denpanohikari) 2013, 4月 19
その点ミスチル桜井和寿は同じように自分の弱さや不器用さを歌うにしても「こんな不器用にしか生きられない俺」ってことにナルシスティックに陶酔したりしない。
尾崎豊は不器用にしか生きられない自分の生き様に苦笑いして見せながら本当はそんな自分が大好き。ミスチル桜井和寿はそこまで主観に溺れて陶酔しない。常に自分を俯瞰する意識がある。だからこんな不器用にしか生きられない自分はバカだなあと溜息ついちゃいましたよアピールがうまい。
表現としてどちらが優秀かという話ではなしに、どちらがより多くの他者からの承認を得られやすいかといえばこれは圧倒的に桜井和寿。ただ尾崎豊の表現はドンピシャでハマる人には主観的であるだけにこの上なく深くハマる。ざっくりとそういう違いがある。
尾崎豊を特徴付ける境界性人格障害的パーソナリティ
僕は尾崎豊の歌って本当に好きで、特に十代の頃に残した3枚のアルバムなんてすごい好きなんだけど、正直尾崎豊のライブの完全に自分に陶酔しきったMCのノリは苦手すぎてついていけない。もちろんそれ込みで尾崎豊というアーティストであり熱狂的なファンがいるわけだから、やめてほしいとは言わないけど、そういう意味では自分は所詮尾崎豊は大好きだけど本当に熱狂的な尾崎豊ファンというのとは違うのかもしれない。
世の中にはいわゆる「信者」とか「アンチ」と言われるような二極が存在するのだけど、リスナーがその両極端のいずれかに分かれがちなのが尾崎豊タイプのアーティスト。激しい両極端への二分化なんてリスナーのあり方がすでに境界性人格障害的な(というかそのものの)尾崎豊というアーティストのパーソナリティを反映しているものだと思う。
そういうアンチからすると尾崎豊はキモい。ありとあらゆることに関してぼろくそに貶されるんだけど、要するに一言で言えばキモいということになる。たしかにアンチからすればそうなんだろうなと自分なんかも否定しようもなく思う部分が、それこそライブのMCの際などに見せる自己陶酔的な部分だ。後はそういう部分を受け入れられるか受け入れられないか、あるいはそういう部分も含めて好きか嫌いかという問題になる。
ただ、自己愛的な部分というのは尾崎豊の核心というほどの本質ではないと思う。大前提として尾崎豊は馬鹿ではない。ものすごく知的で頭のいい人だ。だから常日頃から自分のライブのノリで自分に酔って自己陶酔しているわけではない。
ただあれはあくまで自分自身のライブだから、出しても大丈夫、あるいは出すべき自分をそうすべきだという理由で剥き出しにしているだけだと思う。そういう意味ではむしろ演出だとさえ言える。自己演出というほどではなく、疑いなく尾崎豊の中にそういう部分はあるにしても、普段は出していない部分をそれを望むファンのために出している部分もあったと思う。
でも基本は尾崎豊自身が吹っ切りたかったのだと思われる。日常におけるあらゆるしがらみや軋轢、理想と現実との間の葛藤、そういうものに人一倍敏感ですり減らされるような思いを感じていたからこそ、アーティストとしての尾崎豊はそういう煩悶のすべてを置き去りにして吹っ切るべく、そのためにこそそれこそアクセルをべったり踏み込むようにしてどこまでも自己陶酔へと自分を追いやっていたように思う。
俺は走り続ける 叫び続ける求め続けるさ 俺の生きる意味を
という『誕生』の歌詞は、この歌詞自体多分に自己陶酔的だけど実際尾崎豊の中にこういう意識は常に強くあったに違いない。
それを正当化することにもならなければ正当化するつもりもないけど、個人的には尾崎豊が覚醒剤に依存した気持ちはものすごくよくわかる。別に覚せい剤やドラッグにかぎらず、何かへの依存、耽溺、破滅衝動、そして早死は境界性人格障害にとってはものすごく理解しやすい当たり前の感覚だからだ。
常にどこかへどこかへ、駆り立てられるように、自分自身を駆り立てるように、追い詰められるように、自分自身を追い詰めるようにしか生きられない。そういう人間が世の中にはいる。だからどうしても生き方が破滅的になってしまう。
尾崎豊の自己陶酔はそういったたぐいの、半分以上自覚的なものであって、単純にアンチが言うような自分に酔ってるだけのまわりや現実がまるで見えないただのアホの甘ったれ勘違いナルシスト野郎というわけでは決してない(もちろんその上で好き嫌いがあるのは当然のことだ)。
表と裏、光と影、理想と現実、二面性の間の葛藤が尾崎豊の特徴
実際尾崎豊と交流のあったアーティストなどからよく言われるのが、いろいろ言われてるけど実際の尾崎豊はイメージと違ってものすごく気さくで付き合いやすい好青年だった、というものだ。中には尾崎豊はアーティストとしてそれこそ「教祖」と呼ばれるようなキャラを演出していただけで、実像はただの好青年だったと皮肉みたいな言い方をする人もいる。
でもそれってまるきり的外れで、むしろどちらかと言えばそういう「普段は好青年」の部分こそが尾崎豊が演じていた虚像的な仮初めの人格だったということに気づくだけの人間的なセンスがない人なのだろう。
尾崎豊が実際会ってみたらものすごく気さくで笑顔の素敵な好青年だった、なんていうのはものすごくわかりやすい話だし当たり前の話だ。なぜならあえてそういう自分を演じていたからだ。本当は自分がいかにわがままで醜悪な人間かということへの少なくとも潜在的な自覚があったからこそ、その分外面は実に爽やかに取り繕っていただけのことだろう。
だからこそ裏と表、光と影、といった境界性人格障害お決まりの二極の分裂という問題も出てきてしまう。実際そういう尾崎豊と表面上の付き合いしかなかった人間ではなく、もっと深い関係にあった人たちからの証言は非常に愛憎が入り乱れて極めて複雑なものが多い。
付き合いの深くなった人間に酒に酔った際になど見せる目に余るわがままさ、身勝手さ、利己心、愛情を試すこと、罵声、暴力といった醜悪極まりない醜態の数々については容易に理解できる。ある意味ではむしろこっちが素で、普段はそういう自分を抑圧して外面よくしていただけなのだろう。
まわりの人の大変さも筆舌に尽くしがたいものがあっただろうが尾崎豊本人にしてもしんどい人生だったと思う。尾崎豊が大好きなファンとしては早世してしまって残念に思う気持ちもある反面、本当に走り続けるようにして生きて、その結果としてめでたく早死できたのかなと思えば、尾崎豊の本当の死因がなんだったにせよこれでよかったのかなと思ってしまう部分も正直なくもなかったりする。こんなことあんまり大きな声では言えないが。
ミスチル桜井和寿は自嘲してみせるのが絶妙にうまい
それに対してミスチルの桜井和寿は、一言で言えばスマート。メンヘルなんかとは無縁だしバランス感覚がいい。尾崎豊を批判的に「甘えている」と評するなら、フェアに言ってミスチル桜井和寿を特徴付けるパーソナリティは「ずるい、卑怯」ということになるだろう。もちろんこれもファンの人たちには大きな声では言えないが。でも僕は桜井和寿がずるいとか卑怯だというのはちゃんと聴いてれば当たり前にわかる話で、その上でそれでも好きだというのでなければきちんと理解した上でのファンではないのではないかとさえ思っている。・・・あ、やっぱ気に触った人はこの文章見なかったことにしてください。
桜井和寿にしても自己愛的、ナルシスティックな部分というのはかなり大きくあるにも関わらず、尾崎豊みたいにそれを自己陶酔的に表現することはない。あえて自分というものにどこまでも溺れていくように表現した尾崎豊に対して、桜井和寿には常に自分を俯瞰する視点、相対化する意識が強くある。一言で言えば恥とか照れの意識である。
尾崎豊的な表現に桜井和寿自身は一定以上の強い共感やシンパシー、あこがれを感じているにもかかわらず、でもそれをやったらどんな(否定的、批判的な)リアクションがあるだろうなってことをきちんとわかってる。
いや、それは尾崎豊にしてもわかっていて、それでも尾崎豊の場合は「笑いたい奴は笑え!」と本人が思い切り明言しちゃっている通り、そして実際その言葉も含めてアンチからは嘲笑されるわけなのだけど、それでも共感するやつだけついてこい、というスタンスだった。だから尾崎豊は吐き気がするほど嫌いだという強い嫌悪感を持ったアンチもたくさんいる反面、それこそ「信者」と揶揄されるような熱狂的なファンも獲得したわけだ。
桜井和寿の場合はその路線は取らない。というか、取れない。それはちょっと痛いな、恥ずかしいなという本人のメンタルの問題だと思われる。というか、桜井和寿にはそんな路線を取る必要もない。うまいこと絶妙のラインに線を引くだけの極めてすぐれたバランス感覚を持ち合わせているからだ。
だからミスチルの歌はやたらエクスキューズが入る。直接的にではなかったとしても、「俺はちゃんとこんな自分のずるさとか汚さ、情けなさみたいなものについてきちんと自覚もしてるんですよ?」っていうエクスキューズがなにかと入る。
主観に溺れる不器用な尾崎豊と絶妙に俯瞰する小器用な桜井和寿
尾崎豊が愚直なまでに「俺は答えを求めて叫び続ける、走り続ける」と歌えば、ミスチル桜井和寿は「答えなんてどこにもないことはわかってるんだけど、それでもいいから進んでいくよ」ってな具合にいかにも小洒落ていて小癪である。
尾崎豊が純粋なままでなんていられるはずのない自分のことは棚に上げて「本当の愛って何なんだ?どこにあるんだ?そんなものは幻想なのか?」と青くさい苦悩にのたうち回るのを尻目に、ミスチル桜井和寿は「愛という素敵な嘘」、「『愛とはつまり幻想なんだよ』と言い切っちまったほうが楽になれるかも、なんてね」とこれまたご丁寧に語尾に「なんてね」なんぞとさらりと付け加えつつ澄ました顔して歌ってのける。
人の中で傷つき、自分もまた傷つけずにはいられない世界にもがき苦しむ尾崎豊に対し、ミスチル桜井和寿は「人は誰もそんなふうにしてしか生きていけないんだね、それでも僕は進んでいくよ」ってなもんである。もはや合気道の達人の風格さえ漂っているといえよう。
尾崎豊はよくも悪くも純粋な人間だったと思う。それは決して褒め言葉ではない。また一般に思われているような純粋=無垢というのはまったくの誤りであって、醜さ弱さ汚さずるさ、そういった人間の醜悪さに関してもある意味で純粋だったのが尾崎豊だと思う。
その点ミスチル桜井和寿はよほどの食わせ者である。醜悪な自分を尾崎豊のようにややもすると自己陶酔的な美学に仕立てて歌うような醜悪さの上塗りのような愚かな真似は決してしない。自分の弱さや醜悪さへの自覚を後悔や自己嫌悪とともに吐露することで反感を買いづらく、すんなり人の心に入っていきやすいことをよくわかっている。間違いなく自覚的に、確信犯としてやっている。
「俺は正しくありたい!」と自分の気持ちをバカ正直に主張して「馬鹿野郎!」と石を投げられるのが尾崎豊なら、「人は誰も正しくなんていられないんだね」といかにもスマートに相対主義的な物の見方を示して「たしかにそうだよな、深いわ」といった承認や賞賛を受けるのがうまいのがミスチル桜井和寿という乱暴な図式もあるっちゃある。
ときに青くさい思いをそれを百も承知でありながら直接叩きつけるように言葉にして歌った尾崎豊に対して、桜井和寿はある種一つバッファー(緩衝器)を置いたとも言える。そこの部分でより大衆が安心して聴けるようになっている。いかにも「深い」印象も与えやすい(直接的な表現はそれだけの理由で頭の悪い人間には「浅い」ものだと思われやすい)。
同じ「こんな弱くて汚くて愚かな自分」ということを歌うのでも、ややもすると尾崎豊が「それでもこんな俺を受け止めてくれ、抱きしめてくれ」とアホみたいにドストレートに歌って案の定「甘えるな!」と言われてボコボコにされやすいのに対し、桜井和寿は「こんなことじゃだめだってわかってはいるんだけどね」くらいの感じに自嘲気味にさらりと歌うことで、結果的に「いやいや、お前もよく頑張ってるんだからあんまりそう自分を悪く言うなよ」といった具合に共感的に聴いてもらえるという寸法である。
その点ある意味で甘えは百も承知でそれをそのまま叫ばずにはいられない尾崎豊はいかにも不器用であり、桜井和寿は小器用かつ悪く言えば小癪であり小賢しいとも言える。事実そういう印象を持って桜井和寿やミスチルを嫌っているかなり人間的な嗅覚の鋭い人も少なからずいる。
ずるい桜井和寿も甘ったれてる尾崎豊も大好き
でも人間的なバランス感覚はやっぱり尾崎豊より桜井和寿のほうがうまいこと取れてるよなってことは否定しようもなく思う。そんで桜井和寿はそんな自分のバランス感覚に微妙にコンプレックスも抱いてそう。「でも妙に器用に立ち振る舞う自分はそれ以上に嫌い」みたいな。まあこんなうまいこと言えちゃう人間が不器用なはずないんだからそこはもう贅沢抜かしてないであきらめてほしい。
だからミスチル桜井和寿は尾崎豊みたいな人には一定以上の敬意を持ってるし、比較的最近だと2000年代のBUMP OF CHICKENについての「BUMPのメンバーに加わりたい」「藤原基央の作る楽曲は太宰レベルの芸術」といった藤原基央推しのコメントには単なる痛いファンじゃねえか!と思ってしまいかねないかなり熱狂的なものがあった。今思い出してもちょっとウケる。
あえて青くさい主張を剥き出しにして表現した尾崎豊と、青くささを持ち合わせつつもそれを言葉巧みに小器用に包み込んでおしゃれっぽくデコレーションしてカモフラージュするのが職人的にうまい桜井和寿と(ついでにいえば藤原基央は青くささ剥き出しなんだけどそれをいちいち防衛機制としての知性化によって処理する。だからいわゆる中二的な感性には一般にジャストフィットするし、高二的な感性によって嫌悪されるし、桜井和寿はさらに一周か二周して高く評価しているものと思われる)。
僕は音楽だけじゃなくて小説でも映画でもマンガでも何でもそうなんだけど、何かのコンテンツを楽しむときはそのコンテンツの作者の人間性をまったく気にしないし問題にしないタイプ。むしろ人間的には多少問題があったり好きになれないくらいの人の作ったコンテンツのほうがもしかしたら面白いのかもしれない。
それはともかく、僕はその人間性なんて知ったことではなく、尾崎豊も桜井和寿も、曲も歌詞も声も歌い方も見た目もその音楽のすべてが大好きです(ついでに言えば藤原基央も好き)。いろいろ言ったけど要するにそういうことです。おしまい。