まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

お寺の1日坐禅会に参禅してきた

先日、お寺の1日坐禅会に参禅してきたのでその話を書きます。

という書き出しで、ちょっとした坐禅体験記を書くだけのつもりが、なぜか気づいたらトランス状態になってしまい、途中とんでもなく救いのない話になったりもしましたが、一身上の都合により(めんどくさいから)記事は分けません。

坐禅に興味のある人か、むしろそれ以上に人生に絶望しきっている人だけ読んでくれたらいいかなと思います。

別にそういう人が読めば明るいニュースが書いてあるというわけではなく、単にそういう人だったらもうこれ以上悪くなることもないから別にいいだろう、というだけの理由です。

坐禅は安楽の法門って大嘘だと思う

まあ普通参禅って言うと老師と密室で一対一の対話(禅問答)である独参のことを指すのかも知れず、こないだ行ってきたのは本当にただの独参なしの1日坐禅会なんですけどね。

それでも小一時間ほど座って終わりのようなそれほど気軽なものでもなく(坐禅する時間を計るのには線香を使い、線香が一本燃え尽きるまでの40~50分を一柱と言って一回の坐禅の座る時間の単位になっている)、途中昼食や経行(坐禅に伴う足の痺れや眠気を取り除くため、坐禅と坐禅の間に行う歩きながらの禅。歩行禅)なども挟みながらかれこれ4時間くらいは座り続けました。

まあ今改めて4時間って書くと、ぜんぜん大したことない長さのような気がするんですが、アインシュタインが相対性理論で示した通り(多分)、ゲームやマンガ、デートなど楽しいことに夢中になっていてあっという間にすぎてしまう4時間と、ひたすら坐禅を組んで半眼で目の前の壁をぼんやりと見つめている4時間とでは時間の長さ、流れ方が違うわけです(ちなみに目の前を壁にして面壁で座るのは基本的に曹洞宗系。臨済宗などは基本壁を背にして座る)。

ダルマさんで有名な達磨さんは少林寺で「面壁九年」したとされていますが(その結果手足が腐れ落ちたという伝説からダルマには手足がない)、こちとらせいぜい半日、実質4時間程度しか座っていないのに、もうほとほと疲れてしまいました。

「もう悟りとかいいから帰って眠らせてくれ」って思った

自分にしても小学生の頃からヨガだの坐禅だの仙道だの、あやしげな本を読みあさってはいろいろかじってきたので、結跏趺坐(両足を腿の上に交差させた座り方。指導してくれたお坊さんが「自分は結跏趺坐できない」と語っていたのが面白かったw)も普通に組めるし、たまに気まぐれに部屋で30分~1時間程度座って瞑想の真似事をすることもあります。

いや、真似事というか、日本で多分一番有名なスピリチュアルブロガー(本人はそう言われることをどう思っているかは知らない)のあの人から、僕の一ヶ月の家賃より高いお金を払ってうさんくさい瞑想法を伝授してもらったりもしましたが、「眠くなったら寝ちゃってもいい」くらいのいい加減なその瞑想法なんかと比べても、「眠ってしまったら意味がない」という空気の中で4時間も座るのは初めてのことだったので疲れました。

そこの指導法というのは、いわゆる和尚が「喝ーッ!」って怒鳴って警策(背中を打つ棒)で修行者の肩をびしーッと打つ、みたいな指導法でないことは知っていたのですが、それでもやはり途中自分もうとうとしかけていたあたりで、居眠りしていた人のことを老師が床を「バンッ!」と叩いて起こしていたのが印象的でした。

悟りは開けませんでした

その老師というのは、おそらく今日本で禅の正師を探しているような人なら名前くらい知っているであろう、見性(悟りと同義でいいんだと思う)している(らしい)高名な老師だったのですが、一通り坐禅が終わった後の提唱(老師が禅の祖録などを修行者に読み解いて聞かせる)も僕にはさっぱりわかりませんでした。

もちろん老師が悪いとか偽物だとかいう話ではなく、その話を聞いている側の僕の資質だったり因縁時節の問題ってことなんだと思いますが(提唱に取り上げられていたのがその宗派ではまさにバイブル、聖典として崇められている超有名な古典なんだけど、自分がそれがめちゃくちゃ苦手なのも少しはあったと思う)。

まあ独参なしのただの1日坐禅会ですし、先日のそれだけをもって禅に完全に絶望したりはしないし、またできれば今年のうちにでも、今度は同じ系統のやっぱり見性を認められてるらしい別の老師のところに接心(一週間ほどの間泊まり詰めで毎日朝から晩までひたすら坐禅し、老師との独参もある)にも行ってこようかとは思っていますが。考えただけでしんどそうで帰りたい・・・。

あるかどうかもわからない救いや神様を求めていた

僕は物心ついた頃からずーっと生きづらさや生き苦しさ、どうしようもない寂しさや虚しさ、厭世観や無常感に支配され続け、それに人生をしっちゃかめっちゃかにされてきたような人間だったのですが、それだけにずっと救済というものを願いながら生きてきました。

そんなものもしどこかにあるにしても、それこそ宝くじに当たるような、あるいはもっと難しい、奇跡みたいなことだと思っていました。まさにいるかどうかもわからない神様にしか叶えられないような。

でも、ずっと僕が求めていたのはその神様に救ってもらうことでした。神様なんていないならいないで、そのまま救われないまま死んでいくだけです。どうせ最初から絶望しかない救いのない人生なら、いるかどうかもわからない神様やあるかどうかもわからない救いに懸ける以外の生き方は、少なくとも僕にはありませんでした。

宗教、信仰、麻薬、自殺、電流、薬、出家

普通、そういう話をするとどストレートにキリスト教系の信仰や、うさんくさい新興宗教に走ったりするのかもしれませんが、僕の場合、無邪気に偉い人から言われたことを信じてそれで救われたような気になれるほど素直でも業の浅い人間でもなかったので、青春もクソもあったものではない七転八倒の日々を過ごしました。

その果てに、自分がこの先の人生をいかに生きていくか取りうる可能性は4つだけだと思いました。

1つは自殺です。まあいかに生きていくかの可能性というのとは違いますがwwwww子供の頃から自殺念慮にも苦しんできましたから、まあ結局、どう生きたところで最期はこれしかないんじゃないか。その可能性が90%くらいだと思っていました。

2つ目が精神病院で脳に電流を流してもらうとか、それで生まれ変わったように鬱が改善してしあわせな人間になることがあると、完全自殺マニュアルの鶴見済の人格改造マニュアルという本で読んだことがあったのですねwwwwww(本当なんでしょうか。体験した方がいらしたらぜひ教えてほしいです)

まあ電流だったり投薬だったり、所詮僕の苦しみなんてものは医療によって救ってもらえるものなんじゃないかという可能性が1%くらいだと思っていました。

3つ目が、こないだ麻薬や脱法ドラッグについて思うことという記事も書きましたが、麻薬や禁止薬物に溺れて、まあその結果なんらかの深遠な体験をして救われるなんて虫のよすぎる可能性はないにしろ、普通におまわりさんに捕まって人生破滅する可能性。これが4%くらい。

そして最後の4つ目が、出家して求道生活に入る、この可能性が5%くらいで、1つ目の自殺という選択肢が実際には死んでしまっている以上、自分がこの先どう生きるかの可能性としては出家というのが一番大きな可能性でした。

なにをどうやっても救われるとは思えない

でもまあ、その後いろいろ調べたりしているうちに、幻滅したり絶望したり、考えが変わって結局出家しないまま現在に至ります。別にそういう立場でもなければ特に興味もないので、宗教批判みたいなことはしませんが。

とりあえず今思うことは、別に仏法は消滅したとかそういうことではなく、正法なるものが連綿と今に至るまで伝わっていようといまいと、自分が出家して悟ったらしい老師のいる僧堂に入って毎日朝から晩まで坐禅して何十年と修行生活を続けたとしても、自分がそれで救われる気がしないということです。

別に自殺にしろ精神科にしろ麻薬にしろ出家にしろ、それ自体が本来の目的であったわけでもなんでもなく、僕はただ救われたいだけで、その救済の手段、方便としてそれらの可能性が考えられた、というだけのことです。

そして今は、正直それらのいずれの手段にも、自分が救われる可能性、などという甘い幻想を夢見たり期待することはできません。

悟りとか救いとか神様とか、罪深い幻想で、人生は砂漠

ただ、絶望しかありません。未来を思い描くこともできず、自分の生活を立てることすら興味ない自分が、実際あとどの程度保つのかわかりませんが、それまでの数年か、数ヶ月か、ただ死ぬまでの時間を、息を吸って、息を吐いて、ものを喰らい排泄するだけの糞袋のまま、自分の部屋で眠れるまで天井を見つめながら過ごすしかないのだと思います。

あと何回、何万回、もうこの眼を開けることがなければいいのにと思いながら眠りにつくことを繰り返せばいいのかもわかりません。

それでも、最初から絶望の中に産み落とされたような人生ですが、生まれてきてしまった以上、死ぬまで息をしていようと思います。そうするしかないから。

今にして僕が思うのは、そういう僕が言うような救い、救済だとか、悟りだとか、神様だとか、そんな本当にどこかにはあるにしろ無いにしろ、そんな幻想にすがって、踊らされることは苦しみに苦しみを上塗りするだけなのではないかということです。

少なくとも、まだ今の時点ではそう言うことしかできません。

もちろん、信頼できる友達や仲間との絆を深めるとか、本気で恋愛に夢中になるとか、結婚して家庭を築くとか、子供の成長を見守るとか、そういういわゆるまっとうな人間の幸福と思われることは、自分には最初から無理だし手が届かないことがわかっていたからこそ、こういう人生になったわけではありますが。

だから別に後悔なんてものもないのですが、ただどっちにしても救いなんてどこにもなくて、自分のような人間にとっては人生はどこまで行っても果てしない砂漠で、どんなに渇ききっても、どこまで見渡しても、ただひたすら砂を噛むような味気なさと苦しみだけが続いていくのかなー。そんな風に感じています。

人生に意味なんてないし、自分に価値なんてない

「お寺の1日坐禅会に参禅してきた」ということで、ちょっとした坐禅体験記を期待して読んでくれた人には本当に申し訳ないのですが、まさか自分としてもこんな救いのない身も蓋もない絶望的な話になるとは思わず、笑ってしまうのですが、でもまあ、それが僕が綺麗ごと抜きにして本当は思っていることです。

どう生きたって無駄。なにをしても無駄。人生に意味なんてないし、自分に価値なんてない。

人生は地獄で、生まれてきてしまったこと、それ自体が僕の原罪。死ぬまで永遠に苦しむだけ。

そんな感じです。

もちろんそんなのは僕にかぎった話で、普通の人はそんなしょうもないことないと思いますが、ただもし信仰だったり出家だったり崇拝だったり、儀式だったり瞑想だったり戒律だったり、教義だったり坐禅だったり修行だったり、神様だったり仏様だったり教祖様だったり、愛だったり悟りだったり見性だったり、自殺だったり麻薬だったりプロザックだったり、そういうものにただ一筋の救済の可能性を見て、それに自己の全人生を賭けようと思っている人がいるとしたら、もう一度だけ立ち止まって、どこかになにか別の可能性はないか、考えてみてもいいかなとは思います。

せいぜい死ぬまで苦しみ続けるだけ

もちろん本当にそこまで思いつめてしまうような人であれば、どこをどう探したところで可能性と呼べるようなものなど一筋でさえ見出せないとは思いますが。

しかし、ゼロではないはずです。ただ生きていること。これ以上の苦しみもなければ、これ以上の可能性もありません。

キリスト教徒を迫害していたサウロでさえある日突然の啓示にうたれて回心しました。

師より「父母未生以前」というたった一句の公案(問題みたいなもの)を与えられてそれに十八年間参じるも、自分には悟りを開くことはできないとついに修行者であることをあきらめた香厳は、ある日庭の掃き掃除をしていてほうきで払った小石が藪に飛んで竹に当たった音を聴いた瞬間大悟しました。

もちろんそれが本当のことかなんてことはその人の身ならぬ僕にはわからないことですが、そのような話は古今東西枚挙に暇がありません。

ダマスコへの道をたどれば啓示に打たれるわけではありません。庭を掃き掃除して石を竹に当ててその音を聴けば大悟できるわけではありません(試したことはないのでわかりませんが)。

もちろんそんなのはただの契機、きっかけであり、その人にとっての機縁としか言いようがありません。

そしてその唯一の可能性が、ただ生きていることです。それが最低ライン。その代わり、十分に合格ラインでもあるようです。少なくとももう完全にあきらめたり、人を迫害しているような人間でさえ救われた、といううわさ話は今日にまで残っているし、そして今日もどこかで新しいうわさ話は生まれているのでしょう。

すべてのうわさ話を信じるには足りませんが、すべてのうわさ話を否定する根拠もありません。信じることもなく、期待することもなく、夢見ることもなく、絶望することもなく、自殺することもなく、ただ、淡々と待っている。絶望しても、絶望にまみれたままでただ生きている。

迎えに来るのが誰なのか、何なのか、それはわからないけど、いつか何らかの形で迎えが来ることには間違いないのでしょう。それならせいぜい待ちましょう。

もう待てないと飛び出したところで、いつか迎えるであろう結論となにも変わらないですから。

せいぜい、死ぬまで苦しみ続けるだけです。そうと決めてしまえば、それより悪くなることなんてないですから。

ていうか普通にいいことだってあるしね。あまちゃん超面白いし、卵かけご飯超おいしいし。普通に生きているだけで十分です。そんなこんなでおしまいです。


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心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ