まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

嫌われる勇気とは自由を選ぶ勇気のことである

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』を読んだので感想を書いてみます。

著者は岸見一郎さんと古賀史健さん。アドラーといえばもちろんフロイトやユングと並ぶ(日本ではそれほどの知名度はありませんが)心理学者として知られていますが、面白いことに岸見一郎さんの専門は心理学ではなく哲学(プラトン哲学を中心とした西洋古代哲学)で、アドラーの心理学(というか思想)にプラトンに代表される西洋古代哲学に通じるものを感じて精神科医院でカウンセリングなどもしているそうです。

この岸見一郎さん解釈によるアドラー心理学に感銘を受けた古賀史健さんがライティングを担当しているようです。あくまで「岸見一郎解釈によるアドラー心理学」という注釈は必要な気もしますが、変にアドラーが提唱した概念を辞書的に解説するような入門書より、かえって一度一個人のフィルターを通したほうがわかりやすくて飽きずに楽しく読めました。

 

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラーの教え」の感想

実は僕もはてなブログなどというネットにおける場末の酒場のような場所でブログを始めてしまって以来、やたらに誹謗中傷されたりデマを流されたりと悪意を浴びまくるようになってしまったので、『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』という本にはタイトルだけで思わず手にとってしまいたくなるものがありました。

これだけあらゆる情報の電子化されている時代、今どきそんなことを気にするような人は少ないのかもしれませんが、本の装丁とか目次の紙質とか、本全体のデザインセンスもすごいよくできていて1500円でよくがんばったなー、って出版社のダイヤモンド社を誉めてあげたくなりました(何様)

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』は他の「心理学入門」的な本とは体裁が異なり、それこそギリシア哲学の古典的手法である対話篇の形式に落とし込まれているのですが、とにかく読みやすく工夫されていて最後まで飽きずに読めます。

冒頭から引きずり込まれるような臨場感があってワクワクしながら読めました。対話篇というよりは「戯曲か!」とツッコみたくなるようなかなり極端に芝居がかった対話はそういう演出が嫌いとか苦手という人でなければ楽しんで読み進められるように工夫されています。

対話の中で業を煮やした青年が哲人に向かって「ええい、このサディストめ!あなたは悪魔のようなお方だ!」と罵声を浴びせかけるシーンなどはバカバカしすぎて面白くてお腹を抱えて笑ってしまいました(「ええい、このサディストめ!」が僕の中でにわかにいつか会話の中で使ってみたいセリフナンバー1の座に一躍踊り出ました)。

先生、あなたの議論は人間を孤立へと追いやり、対立へと導く、唾棄すべき危険思想だ!不信感と猜疑心をいたずらに掻き立てるだけの、悪魔的教唆だ!

こんな奴いねえよwwwwwwwwwwwいたらめんどくせえよwwwwwwwwwwこんな芝居がかった大げさな対話形式が馴れると面白くてリラックスして爆笑しながら読めてしまいます。

アドラーの唱える共同体感覚≒大乗仏教における慈悲

僕は今まで性欲を中心的な問題として扱ったフロイトの心理学に対して、アドラーは権力の問題を中心に扱っていたらしいくらいの適当なことしか知らなかったので、権力の問題も確かに出てくるんだけど考えていたような文脈ではなかったし、アドラー心理学というのはそんなに単純で平板な思想じゃなくて、思想的に奥深い可能性を感じさせる心理学だなあと思いました(余談ですが10代の頃めちゃくちゃユングにハマってたけど今はフロイトとかユングにはほとんど興味がなく、それよりアドラーもだけどヴィルヘルム・ライヒの業績と偉大さもきちんと評価されてほしいと思ってます)。

面白かったのは「アドラーはトラウマを否定する」とか「アドラー心理学では承認欲求を否定する」とか、いちいち既存の心理学、というかもはやほとんど一般常識みたいになってる概念にいちいちカウンターを狙ってんじゃねえのかってレベルでアンチテーゼをぶっこんでくること。

でもよくよく解説されてみるときちんと納得できるようになっている、というか部分部分だけ見て完全に納得できなくても、アドラーの思想全体の概要をつかめば、それぞれたしかにそこに収まるよな、ってところにジグソーパズルのピースがいっぺんに収まる感じですね。

ただそのための最も中心的な核となるテーマが家庭や職場、地域社会といった枠組みをはるかに超脱して、宇宙全体、過去未来の時間軸や動植物から果ては無生物までをも含む共同体感覚を持つこと、とか言われても、そりゃ「は?なに言ってんだこいつ?」ってなってアドラーから多くの人が離れていったというのも大いにうなずけました。

だってそこまで言っちゃうともうほとんど大乗仏教的な慈悲の概念と区別がつきません(というか僕は大まじめにアドラーの唱える共同体感覚≒大乗仏教における慈悲であると思いました)。

なのでもしかしたら心理学を科学であると考えている人にとってはアドラーの心理学というのはそもそも心理学として受け入れがたいものがあるのかもしれません。逆に、心理学は哲学の傍流であるくらいに思っている人のほうがとっつきやすいかもしれません(そういう意味ではアドラーの提唱した個人心理学は同じくフロイトの精神分析と並んでウィーン学派三大潮流として挙げられるヴィクトール・フランクルのロゴセラピーに通じるものがあると思いました)。

アドラー心理学は勇気の心理学である

「アドラー心理学は勇気の心理学である」。もちろんいきなりそれだけ聞いてもなんのことやらわからないと思いますが、一度本書を通読した上でもう一度読み返してみれば、

アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ「勇気」が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

の一節に尽きるものがあると思います。結局は徹頭徹尾「幸せになる勇気」を持つためにはどうすればよいのか?それを懇切丁寧に説き起こして「勇気づけ」してあげることが本書の内容であることはもちろん、アドラー心理学の基本的な構造なんであろうと理解しました。

もちろん本書ではアドラー心理学におけるカウンセリングの実際や具体的なテクニックといったものについては一切出てきませんが、案外本書の対話篇のように語り合いを通じてアドラー心理学的な考え方について理解を深めさせていくことが結局一番重要なことなんじゃねえかって気がしました。

根拠もなく「がんばれよ!」とか「元気出せよ!」って言われても、そう言われてそれができるくらいならそもそも誰もへこんだり心を病んだりしないわけですし、そもそもがそういった声掛けの前提にあるのはどうしてもある意味で相手を下に見てしまう縦の関係になってしまいます。

なぜ人は介入してしまうのか?その背後にあるのも、じつは縦の関係なのです。対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。

もちろんここでの介入は、操作に他なりません。子どもに「勉強しなさい」と命令する親などは、まさに典型です。本人としては善意による働きかけのつもりかもしれませんが、結局は土足で踏み込んで、自分の意図する方向に操作しようとしているのですから。

こうして引用していても誰とは言いませんが「そうそう、こういう奴が一番うぜえよな」と思わずにはいられません。僕のようなギザギザハートの持ち主が一番嫌うタイプの人たちですね。

こうした介入(言い換えれば「よけいなお世話」)に対してアドラーが唱えるのは横の関係に基づく援助です。そして横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいるのだそうです。勇気づけ。素敵ですね。

そしてそれは頭ごなしに叱りつけることでないのはもちろん、誉めることでもありません。誉めることもまた結局縦の関係に基づく上下関係でしかないからです。つまりアドラー心理学は賞罰という考え方を明確に否定します

哲人 仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。あるいは「うれしい」と素直な喜びを伝える。「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチです。

青年 それだけ、ですか?

哲人 ええ。いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

なんて素敵なんでしょう。常々思っていることを権威ある心理学者様に言っていただけて、アドラー先生に100回くらいお礼を言いたくなりました。そうして他者を喜ばせることができたり感謝してもらうことができたなら、人は自然と自分が他者に貢献できたことを感じることができ、自分に価値があることを感じることができます

どうすれば人は「勇気」を持つことができるのか?アドラーの見解はこうです。「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」。

世の中人の価値を否定するしか能がないような人がたくさんいますが、相手に価値があることを感じさせる人、伝えられる人、「勇気づけ」ができる人というのは本当に貴重だし、素晴らしい人だと思います。


画像は「愛と勇気だけが友達」と語る意外と孤独なアンパンマン氏

アドラー心理学は目的論的な立場から因果論的なトラウマを否定する

話が前後しますがアドラー心理学は目的論的な立場に立脚して因果論を否定します。今しあわせでない、不幸だとするなら、それは自らがそれを選んでいるだけだというのです。

本書の対話の中でトラウマの例として青年に挙げられるのは社会に出ていけない引きこもりの友人(おいやめろ!)。青年は彼が外に出られないのは両親との関係や学校や職場でのいじめがトラウマになっているのではないか。あるいは過剰に甘やかされて育ったのかもしれないと、因果論的な見解に基づく推測を示します。

しかし哲人はこれを明確に否定します。アドラー心理学では過去の「原因」ではなく今の「目的」を考えるからです。つまり

哲人 ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」とかんがえるのです。

青年 はっ?

哲人 つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。

もちろん頭ごなしにそんなことを言われたら気分や感情を害する人もいると思いますし、個人的には因果論か目的論かといったことは「どちらがこの世の真理であるか?」といった尺度で考えるようなことではないと思っています。どっちにしてもそんなものは戯論です。

大事なのはどう考えたほうが有意義に生きられるか?ということなんだろうと思います(一時期の苫米地英人さんが方便として盛んに「時間は過去から未来に流れるのではなく、未来から過去に向かって流れる」と言っていたのも目的論的な人生観の可能性を示したかったんだと思います)。

アドラーの個人心理学の概観を理解したのであれば、まず最初に求められる勇気とは今ここにいる自分の責任を自分で引き受けること、幸不幸ですら自らの選択の結果なのだということを謙虚に認めることの勇気なのではないかと思います。そしてその勇気を持つ事こそが最初にして最大の一歩になるように感じました。

 「課題の分離」というとても大切な考え方

アドラー心理学ではすべての悩みは対人関係の悩みであるとしています。もちろんそうではないと思われる悩みについても結局は対人関係の悩みなのだということが噛み砕いて説明されています。

およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと―あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること―によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう

の一節にはめちゃくちゃ頷けるものがありました。たしかに「てめえに関係ねえだろ」って奴に偉そうな面して人の家に土足で入ってこられると顔面にドロップキックの一つもかましてやりたくなってしまうものです。ではそんなクソ野郎あふれる世の中で対人関係の悩みを解消するための具体的な方策はあるのでしょうか?

わたしの提案は、こうです。まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。

そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります

か、かーっこいい!!!!( ♥ᴗ♥人)(ミーハー)こういうのクールでスマートでめっちゃシビれます。まあ現実的にはてめえの課題と向き合いたくなさから人の課題にいちいち首を突っ込んでくる下郎というのはどこにでもいるので、なかなか誰一人として介入させないというのは難しいものがあるのですが、やはりそこはそれくらいの強い気持ちを持たないとだめですね。

自由とは、他者から嫌われることである

「自由とは、他者から嫌われることである」の一文も最高にかっこよくてシビレました(くどいようですがミーハーです)。

自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです

たしかに個人的には自由であることの対価と考えれば、人から嫌われることもしょうがないのかなって思える気がします。ここにおいて明らかになることは、本書のタイトルでもある「嫌われる勇気」とは、実は「自由を選ぶ勇気」に他ならないということです。

それについては本書を読む前に、僕も嫌われる覚悟のある人間は強いという記事に詳しく書いたことがあるので興味のある方は読んでみてください。

普通であることの勇気

他にもアドラー心理学について本を読むのは初めてだったこともあり、『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』には、興味深いキーフレーズや考え方がいくつも宝石のように散りばめられています。

特に興味深かったのが「普通であることの勇気」という言葉です。人は優越性、より本質的には特別であることを望みます。もちろん最初には「特別によくあること」を望むのですが、それが叶わなかったとなると非行や問題行動によって「特別に悪くあること」さえ望んでみせます。これは悲劇です。

特別でもなんでもない、普通の自分、普通であることを受け入れる勇気というのは重要な考え方だと思いました。同時にもちろんこれはアブノーマルであることを否定する考え方ではありません。マイノリティならマイノリティでいいのです。

ノーマルであろうとアブノーマルであろうと、マイノリティであろうとマジョリティであろうと、ただそうであるということを以って自分は誰々より優れた人間であるとか、特別な人間であるとか、そんなふうには考えないということです。

他者貢献こそが導きの星である

長くなったのでこれで最後にしますが、「他者貢献こそが導きの星である」というアドラー心理学の考え方も個人的にはすごくよくわかる気がしました。

そこにあるのはもちろん「相手のために~してあげたい、やってあげたい」ということではないのです。そんなものは所詮縦の関係を無意識に前提にした気持ちの悪い偽善でしかないですから。

そうではなく、横の関係(僕は単純に「仲間」と言い換えていいと思いました)にある同胞に対して、たとえその行為を認められなくても、気付かれなくても、無償であっても、単に自分がそうしたいからそうするということに他人からの承認や賞罰などは不要です。僕はそれはきわめて正しい、あるべき自己満足ではないかと思っています。

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』は、「なるほどー!」と思う部分もたくさんあったと同時に、こんな言い方はあまりにも不遜ですが、「そうそう」とか「それそれ」と言いたくなってしまうことがたくさんあって、まるでスラッシュメタル四天王の一角、SLAYERの歴史的名曲『エンジェル・オブ・デス』を聴いてるのかってくらいぶんぶんヘッドバンギングするかのように頷きながら読んでしまいました。

自己受容、他者貢献の重要性は僕にもよくわかったものの、他者信頼というのは難しいよなーとか個人的な課題も当然残りましたが、それこそがアドラーのいう僕にとっての「人生のタスク」であることは明らかなので、これからの人生を通じて少しずつでも他者信頼ということにも取り組めたらいいな、健全な形で育んでいけたらいいなと思っています。

そんなこんなで『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』の感想でした。おしまい。


嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え