まつたけのブログ

世界の片隅で愛を避ける孤独なキノコの魂の叫びを聞け!…聞いてください(◞‸◟)猫とマンガとアニメと嵐をこよなく愛するまつたけによるまつたけのブログ

サイコパスについて考えてみた

サイコパスについて考えてみた。

まずサイコパスについて簡単に説明・・・したりしない不親切なブログでありたい。

というわけで説明はしない。

 

サイコパスのような人がどうして存在するのか?

僕は以前から常々、「サイコパスの人というのはどうして存在するんだろう?」ということを考えていた。考えていたというか、そういうことを考えずにはいられなかっった。

個人的な深い私怨で殺されるとか、あるいは金のため、女(男)のために殺すとか、そういう怨みや欲望絡みで人を殺したり殺されたり、というのは、もちろんすごく悲しいことではあるけど僕にも理解はできる。

でもサイコパスは違う。たとえば敵とみなした相手に苦痛を与えること自体を楽しむ人。たとえば何の関係もない人を殺害すること自体を楽しむ快楽殺人者。

こういう人たちのことは理解できなかった。サイコパスの人を否定してやろうという意味で「理解できない」と言っているのではなく、理解はしたいんだけど単純に自分の頭ではどうしても理解することができないという意味だ。

僕はわりと宗教的な人間なので(無宗教だけど)、「そもそもサイコパスの人がどうして存在するのか?」みたいな問題を、「人の運命ってなんなのか?」みたいな問題とからめて考えてしまうことが多かった。

人生の9割が親で決まるんだったら僕は今すぐ自殺するという記事を書いたことがあるのだけど、まあタイトルの通り「生まれの時点で人生が決まってしまうなんてことは、たとえば毒親を持ったような人にとっては認められるはずがない、認めたくない、僕は認めない!」といった内容だったのだけど、そうは言うものの、ほんとは僕だって「そうはいっても人生って生まれの時点で決まってんだろ」と思ってしまっていたりするのだった。

運命論の話を始めると、頭の悪い人はすぐ「そんなことはない!運命なんてない!自分の意思で選べるんだよ!」みたいな、それこそおかしな新興宗教にハマってる人みたいにキラキラ目を輝かせて熱いノリで言ってきたりもするんだけど、僕に言わせるとその自分の意志とやらで選択しているように見えることも実は必然性の結果でしかないじゃないか、と思うのだった。

少し話がそれたけど、つまりそれくらい人の意志なんてものではままならない、人生の幸不幸や運命というものは何なのだろう?ということがずっと気になってしかたがなかった。

それを考える上で格好のサンプルになるのがサイコパスだった。生まれながらにサイコパスだったり、あるいは仮に後天的にサイコパスになるということがありえると仮定しても、そんなサイコパスになってしまうような生い立ちだとか、人の運命ってなんなのだろう?

あるいは自分が誰の恨みを買ったでもないのに、その日そのとき、たまたまその場所にいたというだけで無差別にサイコパスに殺されてしまう人。むごすぎてなぜなんだろうと考えずにはいられなかった。

でも多分、そういう方向性からいくら考えても人間に出せるような答えってないんだと思う。

で、僕がさっき少し考えて一応現在のところまでで一番しっくりくる考えだったのでそれについての話をする(そう、実はなんとここまでが前書きである)。

(※画像は・・・誰だろう?わかりません。狂気的な笑みが素敵だったため、あくまでイメージ画像であり、本記事は特定の実在の人物・団体等とは一切関係ございません)

いわゆるひとつの進化論的な必然性が生み出したメイクミラクル

唐突だけど上流と下流という概念があるとする。めちゃくちゃわかりやすいように単純化すると、上流を神様、下流をアメーバかなんかだと思ってください。

このとき「運命とはなにか」みたいな問題を、上流の神様側から考えるとめちゃくちゃややこしいことになる。

「こんな残酷な運命はあんまりだ!」とか「どうして戦争や虐殺があるんだ!」とか、僕だって神様に訴えたいことはたくさんある。でももちろんそんなことにはなんの意味もない。

宗教の人はそれに対して「答え」を用意していて(それが「正解」だとは言っていない)、「苦しい人生の中でこそ尊い学びが~」とか、もっと酷いのになると「無差別殺人で殺された人は前世のカルマが~」とか、まあそういう話だ。

それが正解かどうかはともかく(断じてそんなものが正解なんかであってたまるかと思うけど)、突然目の前に光とともに神様が現れて僕にそれを直接教えてくれたことも、あるいは敵対宗教の弾圧をしていたはずなのに突然の啓示的な回心にあって己の罪を悔い改めてサウロという名前をパウロに改名したり、そういった経験を一切持たない僕としてはそんなことをいくら言われても納得できるはずがないのだった。

なので、この上流側、神様側から「どうしてこんな世界を創ったんですか?」と考えるのではなく、下流側、アメーバ側から「どうしてそういうふうになったのか?」と考えるほうが多分よけいな感傷が入らない分わかりやすい。まさかアメーバに向かって本気で世界の理不尽さを訴える人は多分いないと思うからだ。

そうした観点で「サイコパスの人がどうして存在するのか?」ということを考えてみると、ものすごいシンプルにそうあることの必然性みたいなものが見えた気がする。

今現在日本は平和で、少なくともそういうことにされていて、まただからこそたまにサイコパスみたいな人が世間を騒がせたり、あるいはあまりの残酷さに報道規制されるようなむごい事件を起こしたりするとそのむごたらしさが際立つのだけど、戦争とか平和の概念もないアメーバから考え始めて、・・・いや、さすがに長過ぎるので人類まではたどり着いたとして、そのとき、人類のうちの何%か、一定のパーセンテージでサイコパスと言われるような人が発現すること、そのことにはきっと進化論的な必然性とか意味があったんだと思う。

もう人類までたどり着いているので戦争の話をします。戦争です。殺し合いです。なにしろ敵を殺さなくてはいけません。殺さなければ自分が殺されます。妻が殺されます。子供が殺されます。家族が殺されます。部族が皆殺しにされて滅びます。・・・といったことは当然避けなければいけないわけで、そのとき必要になるのは平和を愛する城戸沙織虫も殺せないような人ではなく、淡々と、冷静に、あるいは冷酷に、喜び勇んで、敵対者を殺しまくれる人間だったはずだ。

「一人殺せば犯罪で、百万人殺せば英雄」的な言葉があったと思う。もちろんこれは是非の話なんかではなく、平時と戦時では価値観がまるで逆になってしまうということだ。

今は当たり前みたいに自分たちの今生きている平時であることを前提にサイコパスを考えてしまうから、ひたすら望まざる者、望まれざる者として考えてしまいがちだけど、悠久の時の流れにまでスパンを広げて考えると、なんのことはない、サイコパスにもそれが現れ出る必然性があって発生してきたことがわかる。

世が世なら英雄とされるような人たちにはサイコパスが多いのかも

たとえばの話だけど、僕は織田信長みたいな人もサイコパスなんじゃねえのかなと思う。優れた人だと評価されているし、もちろん優れた人には違いないんだろうけど、酷いことだって散々している。というより、むしろ織田信長の生きたあの時代、親が子を殺し、子が親を殺すことが当たり前にありえた乱世だったからこそ、酷いことでも散々に断行できる織田信長みたいな人がいまだに評価されるほど優れた人たりえたんだと思う。まあもしかして織田信長を尊敬しているとか言って、「ふざけんな!」とか怒り狂う人がいたらこわいなって思うんだけど、別に僕はいいとか悪いとか、好き嫌いの話をしているのではないことくらいはわかってくれればいいなと思う。

「乱世の奸雄」って言葉もあるけど、本当に人の評価というのもその時代時代で変わってくる。もちろんその人が生きた時代自体もあれば、それを評価する僕たちが生きている時代も考慮する必要がある。

今は平和であることが長く当たり前みたいに前提になっているから今まで理解できずにいたサイコパスの存在の意味も、あるいはこれが戦争の時代だったらそういう人こそ讃えられていたのかもしれないと思う。

誰もが人や自分を活かせる方向で自分を発揮できればいいよね(理想論)

というのがだいたいさっき考えたこと。一応念のための補足だけど、僕は残酷な事件や戦争を肯定しているわけじゃない。底のない深い悪意を持った人はこわい。戦争なんてない方がいい。むごい事件なんて起きない方がいいに決まっている。

でもそんな人間の気持ちなんてものとは無関係に、今日もどっかでは戦争してたり、案外身近なところでサイコパスの人が人を殺しているのかもしれない。感情的な気持ちとかの話でなく、サイコパスみたいな人が社会には一定数存在するのだという事実を否定したところでただ目を背けているだけだ。

それと、この記事だと一方的にサイコパスの人を戦争中にしか機能しない平時には迷惑なだけの存在、みたいな書き方をしたけど、きっと実際にはそんなこともなくて、サイコパス度(?)の程度の問題なのかもしれないけど、ごく普通に社会に溶け込み、成功している人も多いと思う。

むしろそういう人ほど社会的に成功している確率が高いみたいな話も聞いたことある気がする。ある意味ではビジネスの場なんかはそれこそある種の戦争なのかもしれないし、そうすると敵対者や競合は徹底して潰し、どこまでも自己中心的に自分の利益だけを追求するというシンプルなマインドセットはたしかに強いと思う。

それこそいちいち名前は出さないけれど、現代の日本でも悪名高いブラックとされる企業の創業者だったり、反面「優秀」と評価され、少なくとも業績という結果を出している起業家や経営者にはサイコパスなんじゃないかという人もちらほら散見されるように思う。

もちろんそれにしても「やり方が汚い」とか「認められない」とかそれぞれに考えはあるだろうけど、しつこいけど僕が言っているのはそんな是々非々のレベルの話ではない。

ただそういう意味ではむしろ僕は、少なくとも縁もゆかりもないような人を無差別に快楽目的で殺したりするよりは、仮にもフェアであるとされているようなビジネスのような場で、競合をぶっ潰したりしながらも社会的に成功して、結果的には社会に貢献することもあるのだとしたら、そっちのほうがいいなあと思う。

というわけでサイコパスについて考えてみた話、おしまい。